第2段をアップするのを漏らしておりました。
1)第2段 要旨
いにしへの聖の政治と現世の政治を対比し、臣民を蔑ろに贅をつくし、尊大な政治を行う輩に深い思慮はないと非難。
藤原師輔(九条殿)や順徳帝の『禁秘抄』などに見られる質素倹約思想を称揚します。
でも、本段に登場した面々をネットの記事などで追っかけてみると、額面通りでないものがあれこれ見えてきます。
0)前置き
以下の4点を参照しつつ『徒然草』を読んでおります。
①旺文社文庫『現代語訳対照 徒然草』(安良岡康作訳注/1971初版の1980重版版)
②ネット検索 ③『角川古語辞典』(昭和46年改定153版)
④中公新書『兼好法師』(小川剛生著・2017初版の2018第3版)
2)第2段 本文
いにしへ の 聖 の 御代 の まつりごと をも わすれ 、民 の うれへ、國 の そこなはるゝ をも 知らず 、よろづ に きよら をつくし て いみじ と 思ひ、所せき さま したる 人 こそ うたて 思ふ ところ なく 見ゆれ。
「衣冠 より 馬車 に いたる まで、ある にしたがひ て もちゐよ 。美麗 をもとむる こと なかれ 」とぞ 九條殿 の 遺誡 にも はべる 。
順德院 の 禁中 の 事ども 書かせ給へる〈禁秘抄〉 にも「おほやけのたてまつりもの は、おろそか なる を もつて よし とす 」と こそ 侍れ。
3)第2段 訳
昔の聖天子の時代に行われた素晴らしい政治のことも忘れ、
【聖道称賛】
臣民の嘆き悲しみも、国家が衰えることさえも意識せず、
【聖道称賛のための社会批判】
何事においても華美を極めて素晴らしいと思い、
【華美嫌い】
尊大そうな人こそ、さらにひどく、深い心遣いはないと思われる。
【権勢嫌い】
「衣冠をはじめとして馬・車にいたるまで今あるもので応じて使用せよ、華美を追うことはやめよ」と九条殿が残された『遺誡』にも書いてある。
【高貴好み】【質素好み】【宮中知識趣味】
順徳院が宮中のことなどをお書きになられた(禁秘抄の)中にも(服装に関する事項では)「天皇に奉られるもの(服)は粗末なものでよい」とあります。
【皇族崇拝】【有職故実趣味】【質素好み】
4)第2段 ことば とか いろいろ
〇九条殿(藤原師輔 ふじわらのもろすけ 909-960)
2024年NHK大河「光るきみへ」の準主役の藤原道長(演:柄本佑)の父・兼家(同:段田安則)のお父さん。つまり道長のお爺ちゃん。
10世紀・平安時代前中期、いわゆる醍醐・村上天皇による天皇親政「延喜・天暦の治」の時代(とくに天暦期)の人で、Wikipediaによれば、醍醐天皇の第5皇女(勤子いそこ内親王、師輔より4歳年上=源順(みなもとのしたごう)に『和名類聚抄』の編纂を命じた人)に密通し、後に、臣下として史上始めて内親王の降嫁を許された、なかなか豪胆なプレイボーイということになっていますが・・。
かつ、生真面目な兄さん実頼さねよりにくらべ気風のよさで兄に優ると世に知られた人物だったようです。兄さんとは仲たがいしつつも、互いに村上朝の「天暦の治」を実際に推進し、「平将門の乱」と「藤原純友の乱」後の財政ひっ迫の中で推し進めた「質素倹約」は、好んだと言うよりそれを推奨せざるを得なかった情勢だったようですが、九条殿といえば「質素倹約」で知られたのでせう。
そして、勤子内親王が35歳で薨去されると雅子内親王(醍醐第10皇女)、雅子内親王が亡くなると康子内親王(同第14皇女)と、醍醐天皇の内親王3人の降嫁を受け、『宇津保物語』中の主人公の一人で、「限りなき色好み」と言われた右大将・藤原兼雅のモデルとされるなどとWikiには記されているのですが、姻戚関係がヘゲモニー獲得の一番の手段であったこの時代のことを妄想すると、この降嫁執着には艶っぽさより、打算の香りしかしません(いや、わかりません、そういう大前提は百も承知でのロマンスがあったのかもしれません)。
豪胆なプレイボーイの印象は、大分屈折するのですが、婚姻が権利や家督継承の手段ということになんの疑問もなかった時代のようでもありますから、現代人感覚をここで振り回すほうが間違っている、ということが想像する以上にあるのかもしれません。
★文中にある師輔の『遺誡』の「有るに随って用いよ」の言い回しは、『枕草子』49段にも引用されており、ハイブラウ世界では、知れ渡ったことばのようです。
★『遺誡』の原文が、「九条殿遺誡」としてWikisourceに上がっています。11ポイントくらいの文字のおおきさならA4判にびっちり1ページくらいじゃないかと思います。漢文です。
最初のところの陰陽道的な暦のこととか、逐一の洗面の仕方とか、そんなこと本気にしてたのかと思うようなことがあったりもしますが、わからない漢字をいちいちネット検索するのが面倒で、あらかたすっとばし、後段に「始自衣冠及于車馬 隨有用之」の当該文言みっけてあとは読んでいません。
〇順徳院(順徳じゅんとく1197-1242,天皇(84代)1210-1221)
だいぶ時代はくだり、後鳥羽天皇(82代)の第3皇子。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代の人です。役者でいうと尾上松也さんの三男坊ということになります。
おっとり型の兄の土御門(つちみかど)と比べると気性が激しかったようなこと、それがためかどうか後鳥羽上皇のお気に入りだったようなことが、Wikiやそのほかにも書いてあります。
承久の乱では、父の後鳥羽以上に挙兵に積極的だったとも言われているようですし、『増鏡』には、順徳治世は「いと掲焉(けちえん=目立つこと)なること」多かったと書かれているということですから、「質素倹約」からはむしろ遠い人のように思われます。
なのに、ここで、その順徳が書いて質素を勧めた話になっているのは、『禁秘抄』(きんぴ(ひ)しょう)という順徳院がお書きになられた有名な有職故実の書のせいらしいです。
★『禁秘抄』はWikisourceには原文データ上がっておらず、学術的なデータベースに入っていくしかないようですが、読書感想文派はそこまではしません。
ただ、ネット上で、東大の政治史を研究されているらしい kazuto さんが『禁秘抄』についての短文を挙げられており、そこに記された『禁秘抄』の93項目からその内容を類推する次第です。(https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/kinhisyo.htm)
kazutoさんは、順徳は、その才覚から後鳥羽院に愛されつつも、院が治天の君として政治の指揮権を揮う(院政の)下で、実際には、脇役に置かれ、己の才覚を発揮したくてもその場は与えられなかった。そういう「順徳の空間」の中で、また、院の整合性のない執政の質にも影響され、「古代」に縛られ、現実には向き合おうとしない「禁中の秘事」を、承久の乱で佐渡配流になる前までに書き溜めていた。それが『禁秘抄』なんだ、という見立てをされています。血気盛んなだけじゃなかったようです。
★『禁秘抄』が、そういう質のものなら、その中に記されている「朝廷献上の服は粗末なものでいい」というようなフレーズも、おそらくはステレオタイプな現実離れした古代聖道思念のウケウリで、受け止める側も同じようなことだったのかなという推測をしますが、元を見ていないし、調べないし、元々定かでない雑記なので何卒ご了承ください。
★そういうハイブラウ社会のステレオタイプな有職故実熱を、兼好も同時代のインテリの一人として、同じように受け継いでいたといえるのでせうか?。師輔、順徳院の名を上げるところからしてそうでせうし、有職故実にまつわる記事は、以後も頻出します。
〇たてまつりもの(奉り物)
『角川古語辞典』を見ると、「名詞 ①さしあげる品物。献上の品物。みつぎもの。 ②貴人の衣服。お召し物(用例:徒然2)」と、まさに、本二段の「たてまつりもの」を用例とすることで、「貴人の衣服」という意味が②として別建てになっているわけですが、
確かに『徒然草』の文章は、『禁秘抄』のなかの服装に関する事項(kazutoさんの書き出された93項目中の「13、御装束事」?)を基に、もしくは、そこにそう書かれてあるという常識を基に書いたのでしょうから、「たてまつりもの」ということば自体に「衣服」という常識があったわけではないような気がするのですが、どうでせうね。
まあ、これも『禁秘抄』原文に実際当ってから言えや!ってことではあります。
〇おほやけの奉り物はおろそかなるをもってよしとす
安良岡康作先生は、脚注で
「この段では、当時の奢侈に流れた政治家に対する著者の批判的、道義的精神が激しい憤激の声となって現れている。これは、当時新たに政権を握った後宇多法皇を中心とする院政の当事者に対しての、兼好の批判・反発と見られる。また、二つの引用文の後の〔侍り〕は、読者を想定して鄭重に述べているのであり、教養ある貴族階級をめざして書かれたものであると思われる」
と書かれています。
★確かに、既述の通り、兼好が『徒然草』を書き始めたと言われている1319年頃は、持明院統の花園天皇が「文保の和談」に基づき退位し、後宇多法皇(大覚寺統)の第二子・尊治親王が後醍醐天皇として即位(1318年)、それによる後宇多法皇の第2期院政が開始された時期なので、兼好が当代の政治批判を行ったとすれば、それは、後宇多院政批判ということになるわけですが。
しかし、「後宇多 奢侈」などで検索してみても、後宇多院政の英邁さについての政敵花園天皇などのことばはひっかかってきても、後宇多院政の奢侈話は、引っかかってきません。
★Wikipediaによれば、後二条天皇の治世で院政(第1期)を敷いていた後宇多上皇が徳治2(1307)年に寵姫・遊義門院(ゆうぎもんいん=姈子れいし内親王)を亡くしたことをきっかけに仁和寺(真言宗)で 禅助(ぜんじょ)を戒師として落飾(得度)して真言宗に関り、またその際、大覚寺を御所とし入寺。自ら門跡(皇族や公家が住職となること)に就く(これがいわゆるその後「大覚寺統」呼称の淵源らしい)。
そして、翌年の徳治3(1308)年に、後二条天皇が病で急逝。治天の君(院政の統治者)でなくなった後宇多上皇は、より宗教(真言宗)にのめり込み(なにせ治天の君だったのだから? 名を頂いた「宇多天皇」が、仁和寺創建者だったのだから? 自分こそが仁和寺系のヘゲモニー掌握者に相応しい?)、仁和寺の御室門跡の秘儀「密要抄」を禅助から密かに伝授されようとしたりした(仁和寺乗っ取ろうとした?)らしく、歴史評価としては晩節を汚したことになっているらしいです。
★兼好と仁和寺との関り深い話はこのあといくつも出て来きて、仁和寺寄りらしい兼好の後宇多批判と、安良岡先生は言おうとされたのかもと想像してみたのですが。
第1段で既述の通り、小川先生の『兼好法師』77p前後を読むと、兼好は、自分の土地を後宇多庇護下の龍翔寺に売却して和歌歌壇へのデビューのきっかけをつかんだらしいし、1322年には、後宇多法皇が鍾愛する邦良くによし/くになが親王(後二条第一子、後醍醐の甥)御所の歌合に召されたりしているので、兼好が後宇多院政に批判的だったりとか、ましてそれを記して残すとかは、なかなか考えにくい気がします。
★読書感想文派としては、この段を政治批判の段と見るよりは、第1段から続く、兼好の高貴好みとステレオタイプな有職故実熱の余韻で付記したステレオタイプな聖道話のお約束の政批判の段と見た方が自然なような気がするのですが、例のごとく、定かではありません。
〇いにしへ
角川古語辞典で見ると、「いにしへ【古へ】」の用例は、中古以後ですが、「いにしへ人(びと)」ということばは、『万葉集』2614の用例があがっています。
「いに+し」は「いぬ【往ぬ】」自ナ変の連用形+連用形接続の過去の助動詞「き」の連体形「し」でせう。「往ぬ」の②に「時が過ぎ去る」の意味で『万葉集』2539があがっています。上代の用法です。
「いにしへ」は古い頃とか古いあたり(古い方向の端)とかのニュアンスで、万葉時代(上代)から使われていたことばだということが、なんかうれしい気がします。
〇いにしへのひじりの御代
安良岡先生は脚注で「御代」を「平安朝の醍醐・村上二天皇のご治世をさす」と断定されています。いわゆる「延喜・天暦の治」(天皇親政の御代)。
「いにしへのひじりの御代」といえば「延喜・天暦」が相場、らしく、それと対比させた、当代の体制批判という見方は、表面的、額面的にはそうなのかもしれませんが。
この点は、「おほやけの奉り物は、おろそかなるをもってよしとす」の項で付言。
〇うれへ
角川古語辞典では、「うれへ【憂へ・愁へ】」名
●意味:①歎き訴えること。歎願。(用例:竹取)
●意味:②嘆き。わびしさ。(同:万1757)
●意味:③不安。心配。(同:徒然123)
●意味:④病気。(同:神代紀)
●意味:忌中。服喪。(同:天武紀)
と、①の竹取(平安前期)と、③の徒然(中世)以外は上代からの意味合い。
上代から、「嘆き」や「わびしさ」だけでなく、「病気」や「忌中、服喪」などまで、「うれへ」と言ってたのですね。
★第5段で登場する輸入語「不幸」っていう言い回しが浸透しなかったら、「御不幸」のことは、いまでも「御憂い事」とか言っていたかもしれません。
★ところで、「うれへ」ってどんな由来のことばなのか?
ドンブリ勘定圧縮要約して妄想の結論から言うと、「うら=心」(万2968)からの派生語ではないか思うのですが、なかなか判然としません。
角川古語辞典で見ると、「うれへ」のすぐそばに
●「うれしぶ【嬉しぶ】」自バ上二(「うれしむ」におなじ)(万4154)、
●「うれしむ【嬉しむ】」自マ四 嬉しく思う(推古紀)
という、「嘆き」とは真逆のことばがあります。
★上代において、「うら【心】」「うれへ」「うれしむ」の語が並行して使われていたというわけです。そこに、なんらか整理はつけられるのでせうか?
★うらない【占い】も「占(うら)」(万3811)一語で占いのことを言ったそうです。「うら」は浦(万9382)でもあり、その意は、囲い込まれたところ、内側じゃないでせうか。
★「うら」=表裏の「裏(うら)」の意味の用例には『黄表紙・雁取帳』が上げられています。これは18世紀末の作品ですが、古事類苑データベースで「表裏」を検索すると、「延喜式(10C前半)」や「本朝文粋(11C)」の中にもあり、これらが古事類苑データベースで見る古い方の用例で、それが、この意味生成の経歴と符合するとしたら、平安中期くらいに「うら」の「裏(うら)」認識はじまったということになりそうですが、どうでせうか。
●「うらなし【心無し】」形シク ①隔てがない。他意がない。は、
用例が『源氏物語』紅葉賀からですから、平安中期で符合するのかもしれません。
★もちろん漢字の「裏」の字は、万葉集126の歌の左註の「暗裏」とか、古事記雄略伝の引田部赤猪子(ひけたべのあかいこ)の話の「心裏」とか上代でも使われていますが、いずれもその「うち」側、内部の意味のようです。
★少し角度が変わるのが、枝の先も「末(うら)」(万788)といったことで、これはちょっと厄介です。
木が伸びる時にポンポン目立つ若枝(徒長枝)は、樹冠の中から伸び出すもんだという感性かと、1年に満たない植木屋経験で思ってみたりもしますが、これは自分でも全然説得力ありません。
★で、角川古語辞典の「うら」「うれし」「うれへ」近辺の上代語を列記してみます。連関感じられるかどうか?
●「うらがくる【浦隠る】」自ラ四 船が風を避けて入り江に隠れる(万945)
●「うらがす」 他サ四 慰める 楽しませる(出雲風土記)
➡うらだけで動詞化。 その後生き残れなかった語?
●「うらがなし【心悲し】」形シク 心中悲しく思う(万4290)
●「うらぐ」 自ガ下二 愉快になる 浮かれたつ(記・中)
➡うらだけで動詞化。 その後生き残れなかった語?
●「うらぐはし【心妙し】」形シク こころにしみて美しい(万3222)
◎「くはし」は、きっとまたどこかで書くと思います。
●「うらごひし【心恋し】」形シク こころの中で慕わしい(万4010)
●「うらごふ【心恋ふ】」他ハ上二 心の中で恋い慕う(万2015)
●「うらごほし【心恋し】」形シク 「うらごひし」に同じ(記・下)
●「うらさぶ【心荒(寂)ぶ】」自バ上二
①気持ちがすさむ(万33)
②こころがわびしくて晴れ晴れしくなくなる(万4214)
●「うらしほ【浦潮】」名 入り江の潮(万3707)
●「うらす【浦州(洲)】」名 入り江にある洲(万1062)
●「うらすのとり【浦洲の鳥】」名 浦洲にいる水鳥(記・上)
●「うらだつ」自タ四 乱立する? 群がり立つ意か。(万3551)
◎由来、意味も不明。角川古語辞典も?付け。
●「うらどふ【心(裏)問ふ】」自ハ四 ①占いに聞く。占う。(万3812)
●「うらなけす【心嘆けす】」自サ変 心中で嘆く。 忍びなく。(万3978)
●「うらなけをり【心嘆け居り】」連 心中で嘆き悲しんでいる(万20321)
●「うらなふ【占(卜)ふ】」他ハ四 占いを行う(神武紀)
➡「うら」+「なふ」? 「なふ」が気になります。
●「うらなみ【浦波】」名 入り江に打ち寄せる波(万3343)
●「うらは(ば)【末葉】」名 草木の先端の葉(万1288)=うれは。
●「うらはづかし【心恥づかし】」形シク 内心恥ずかしい。(記・上)
●「うらふ【占(卜)ふ】」他ハ下二 「うらなふ」に同じ(万3374)
➡「うら」だけで動詞化?。 これで見ると、「うら」が「心」の意の「うら」だとして、「うら」に「ふ」がつき動詞化されている? 奈良時代には、反復・継続を表す助動詞「ふ」があったらしい。その「ふ」?「うらふ」があるので「うらなふ」は、「うらふ」に「な」が追加になったと捉えていい? 違う?
●「うらぶる」 自ラ下二 悲しみに沈む。しおれる。(万2144)
➡心のしおれと、葉のしおれがシンクロ?
●「うらへ【占(卜)へ】名 占うこと。占い。(万3694)
➡うらだけで動詞化したものの名詞化形? 「へ」は、「くらべ」のような動詞の名詞化のように、上で見た、奈良時代の助動詞「ふ」(下二段活用)が連用形で名詞化した? 定かでないですけど。
●「うらべ【卜部】」名 神祇官に属し「かめのうら」を司った職。また、諸国の神社に属した占い者。
●「うらまつ【心待つ】」自タ四 心待ちに待つ(万4311)
●「うらみ【浦回(廻)】」名 入り江のめぐり。海岸の湾曲したところ。(万946〔同〕うらわ
●「うらもとなし【心許無し】」形ク こころもとない。気がかりだ。(万72495)
◎「もと(許)」は「元・本・原」などの意味のよう。
●「うらやす【うら₌心₌安】」名
意味:①こころの安らかなこと(万3504)
意味:②「浦安の国」と書いてもこころの安らかな国の意らしい。
●「うらわかみ【うら若み】」〘上代語〙形容詞「うらわかし」の連用形。(万1112)
●「うるち【宇流鉤】」名 ⦅「うる」は愚かの意⦆釣り針を悪く言い獲物を取る力を無くす呪いのことばだそう。(記・上) 関係ないけど「うる」が「愚」でもあることが面白い。
●「うるはし【麗(美)し】」形シク ①愛すべきだ。うつくしい。(記・中)
➡※「うら」が「うる」形に変化して派生語作った? 「うら→うる(心)・走し」じゃなかろうかと思うのです。
「うら」が「うる」に? じゃあなぜ「うらはし」じゃなかったのか? 「うらぶる」とか「うら恥づかし」があるのだから、「うらはし」とか「うらはす」でもよかったのでは?
でも、「うらは」音は、「末葉」とか他の意味合いを惹起する語感としてもう確定的だったから、ちがう言い回しじゃないと気持ちが伝わらなかった? 妄想の屋上屋を架す状況です。
●「うるはしむ【愛しむ】」他マ四 愛し、いつくしむ(常陸風土記)
➡※「うら」が「うる」に変化して派生語作った? 上と同じです。
●「うるほふ【潤ほふ】」自ハ四 ①しめる 濡れる (万370)
◎「うら」とは関係なさそす。「うる」が水気であることが面白い。「うるほふ」なんてCM多様のことばが上代語であることに驚く。「うしほ(潮)」とか「うなばら(海原)」とか「う(鵜)」とか、水は「み」系統と「う」系統があった?「わた」は海に限る?
●「うれ【末】」名 草・木の新しく伸びていく末端。こずえ。(万146)
➡やっぱ、内側と末端はさすがに結びつかない。であれば、「うれ」に「若い」「デリケートな」「少し弱い」のような意味合いはなかったか?みたいなことも考えてみるですが・・全く、自信湧きません。
●「うれしけく【嬉しけく】」〘上代語〙うれしいこと(に)(万4094)
➡※「うら」が「うれ」に変化して派生語を作った?「うら(心)」の喜びのほうを言うことば? これも、「うらしけく」ではだめだったのか?いけそうな気がするけど、「浦」とかの語感が、縄張りへの参入を許さなかった?
●「うれしぶ【嬉しぶ】」自バ上二 「うれしむ」に同じ。(万4154)
➡※「うら」が「うれ」に変化して派生語を作った?これも「うらしぶ」ではだめだったのか? 確かに、語感として、「うれし」は嬉しそうだが、「うらし」は嬉しそうではない。ま、それは結果論ってやつですが。
●「うれしむ【嬉しむ】」自マ四 嬉しく思う(推古紀)
➡※「うら」が「うれ」に変化して派生語を作った?「うらしむ」は「うらさびし」に語感が通じる?「うれしむ」ということによって嬉びが湧く? これも結果論ですが。
●「うれへ【憂(愁)へ】」名 ②嘆き。わびしさ。(万1757)
➡「うら」が「うれ」に変化して派生語を作った?「うれ」というとによってしおれた感じも湧く。この辺が妙味。④病気(神代紀) ⑤忌中。服喪。(天武紀)
●「うれむぞ」副 なんとして。どうして。(万2487)(角川古語辞典)。
➡※「うら」が「うれ」に変化して派生語を作った?
《 うれむぞ〘副〙疑問の意を表わす。どうして。なんとして。万葉(8C後)三・三二七「わたつみの沖に持ち行きて放つとも宇礼牟曾(ウレムソ)これがよみがへりなむ」 [補注]「万葉集」だけにしかあらわれない。奈良時代に「いかにぞ」「いかでか」が散文語としてのみ用いられていたことを考え合わせると、「うれむぞ」は特殊な歌語として用いられたものらしい。語源は不明。》 と説明されている。
★「うれ」がもしも「心」のことなら、「うれむ」は、「うれへ」に似て、「心に引っかかる」とかの意だったんでせうか?[補注]がいうように万葉時代一時期一部の言い回しだったんでせうか?
★「うらがす」「うらぐ」など下線を引いたことばは、「うら」自体の変化(へんげ=メタモルフォーゼ)力を感じさせます。
「➡※」の所は、「うら」が「うる」とか「うれ」に、そのメタモルフォーゼ力を発揮して、変化したあとの姿なんじゃないかというのがここでの、読書感想文派の思い込み説です。どうでせう。
〇清らをつくす
角川古語辞典によれば、きよら【清ら】は、
[1]形動ナリ 清浄だ。美しい。(用例:原・桐壺)
[2]名 清らかさ。美しさ(源・横笛)
と、平安中期からの言葉で、上代のきよし【清し】(※上代「きよ」関連はほぼこれのみ)が基になったことばです。
●「きよし【清し】」形ク
意味:①清らかなさま。汚れながない。(用例:平家10)
意味:②明らかなさま。曇りがない。(同:万4453)
意味:③さわやかだ(同:万1005)
意味:④潔い(同:万4095)
意味:⑤残りないさま。すっかり(同:枕10)
★「清らを尽くす」は、「清ら」の連語で、「華美を極める」「贅沢を尽くす」という意味で、明らかとか、さわやさとか、潔さを尽くすのではなく、「清ら」の[2]の「美しさ」に特化した用法のようです。用例が「徒然2」と、この段が上っています。
★「清」関連の、平安以降のことばでも多くは「清浄さ」を軸にしていて、兼好の「清らを尽くす」は、だいぶ傾いた使い方のような気がしますが、定かではありません。
〇うたて
このことばの語源・由来もなかなか厄介な感じです。
角川古語辞典では
●「うたて」副
意味:①ますますひどく。いよいよはなはだしく。(用例:万2464)
意味:②尋常でなく(同:源・橋姫)
意味:③不快なさま。情けなく。いやに。(同:桐壺)
★「うたて」の周辺で、ヒントになりそうな上代語を探します。
●「うたがたも【未必】」副
意味:①かならず。きっと。(同:万3600)
意味:②(下に打消の語を伴い)けっして(同:万3968)
➡さっぱりわかりません。
●「うたき」名 吠えること。怒声。一説に口を開けること。(同:雄略紀)
●「うたく」自カ四 怒ってうなる。吠える。一説に口を開ける。(同:記・下)
●「うだく【抱く】」他カ四 「いだく」に同じ。(万3791)
●「うたげ【宴】」名 酒盛り。酒宴。(天智紀) 参考語:うちあぐ。
●「うたびと【歌人】」名
意味:①雅楽寮に属し、わが国古風の歌を伝え歌った人。(天武紀)
意味:②歌を上手に歌う人。(万3886)
●「うたふ【訴ふ】」他ハ下二 申し立てる。訴訟する。訴える。(万3859)
●「うため【歌女】」名 女性のうたびと。(天武紀)
★以上のように、「うたて」の「どんどん激しくなっていくのをハラハラ心配する」ような語感をバッチシ説明してくれそうな上代語はほかに見当たらないのですが、
「うたき」「うたく」は、人の怒りの爆発状況を言っているということで間違いないなら、「うたて」の「うた」は「うたき」「うたく」の「うた」と何か通底すいるものがあるのかもしれないと妄想します。
★そして、この「うた」(どんどん高まるハラハラ感)は、もしかしたら「うたふ【訴ふ】」の「うた」にも通底しているのかもしれませんし、「訴ふ」でない、声に曲折をつけての「歌ふ」は用例が『土佐日記』や『源氏物語』と平安期なんですが、「歌人(うたびと)」「歌女(うため)」ということばは上代からあるわけですから、上代から「歌は歌われて」いたでせうが、それは、歌のことばを交わし合う、もしくは詠み交わし合うことだったから、声に曲節をつけて歌う歌ぶりのすばらしさを「歌ふ」とことばで表現していったのが、平安時代(中古期)だったのかもしれません。
★ネットをググったら、大阪シンフォニック クァイアさんのHPの「団員の寄稿」蘭に、折口信夫が「歌の語源は訴えるだ」とどこかに書いているらしいことが書いてありました。
★もし、この「どんどん高まるハラハラ感」をいうことばが「うた」の本義であると見做していいなら、「うたて」は、その古い古代人の感覚をよく湛えたことばなんじゃないかという、一つのトンデモ説です。