老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

『徒然草』第10段 後半(読み納めシリーズ)

1)第10段 後半 要旨

 兼好は、「家の話」繋がりで、豪奢な邸宅に執着する「屋根の上に張った縄」の昔話を持ち出します。それは、兼好自身が一見それと似たような状況に出くわしたことがあったからなんですが、「あの昔話には別の一面があったんじゃないか」と、家造りの話から若干焦点ズレます。

 その昔ばなしに登場した面々(NHK大河「鎌倉殿の13人」世代)を追っかけ、昔ばなしの場面時期を妄想してみたり、兼好がその昔ばなしを思い出した界隈などへも思い馳せます。

 

0)前置き

 以下の4点を参照しつつ『徒然草』を、下手の横好き読解しています。
 ①旺文社文庫『現代語訳対照 徒然草』(安良岡康作訳注/1971初版の1980重版版) 
 ②ネット検索 
 ③『角川古語辞典』(昭和46年改定153版)
 ④中公新書兼好法師』(小川剛生著・2017初版の2018第3版)

 

2)第10段 本文 後半 

 後德大寺大臣 の 寢殿に 鳶 ゐさせじ とて 繩をはられたりけるを、西行が見て、「鳶 のゐたらむ 何かは 苦しかるべき。この殿の 御心 さばかりにこそ」とて その後は 參らざりける と聞き はんべるに、

 綾小路宮 の おはします 小坂殿 の 棟に、いつぞや 繩を ひかれたり しかば、かの ためし 思ひ出でられ 侍りしに、「まことや 鳥のむれゐて、池の蛙を とりければ、御覽じ かなしませ 給ひてなむ」と 人の語りし こそ さては いみじく こそ とおぼえしか。

 德大寺にも いかなるゆゑ か 侍りけむ。

 

3)第10段 後半 訳  

 後徳大寺大臣(ごとくだいじのおとど)の寝殿造りの建物の正殿に、鳶(とび)が止まらないようにと縄を張られたのを、西行(さいぎょう)が見て、「鳶が止まって何が不都合だというのか。この殿のお心持ちはその程度のことか」と、その後は訪問されなかったと聞き及んでいたところ、

  【財産執着の話と理解していた昔話】

 綾小路宮(あやのこうじのみや)が住んでいらっしゃる小坂殿(こさかどの)の屋根の上に、いつだったか綱を張られた時、そのことが思い出されたのだけど、「あそうそう、鳥が群れ止まって、池の蛙(かえる)をたべたので、ご覧になってお悲しみなられたのです」と(小坂殿の)人が語ったのこそ、それはもうたいへん素晴らしいことだと思ったことだった。

 後徳大寺殿のほうにもなにかわけがあったのだろうか。

  【表面的な理解を自分もしていたか】

 

3)ことば とか あれこれ 探索

〇後徳大寺大臣(とくだいじのおとど。藤原実定(さねさだ) 1139-1192) 

 「鎌倉殿の13人」の一人、梶原景時とほぼ同じ頃生まれているので、実定も「鎌倉殿の13人世代」でせう。

 ★Wikipediaの説明など読むと、実定さんラッキーな人です。生まれる前、やがて保元の乱につながる、鳥羽法皇院政下での待賢門院派と美福門院派の対立(説明入れると長くなるので割愛)があって、実定の祖父・実能さねよし。この人が徳大寺大臣と言われたので、実定が後徳大寺と言われた。)は、はじめ待賢門院(たいけんもんいん)派側だったのを、実定17歳頃に、今後優勢になりそうな美福門院(びふくもんいん)派に寝返ります。

 それが直接の要因かどうかはともかく、実定は左近衛権中将(さこんえごんのちゅうじょう)に任ぜられ、以後、26、7歳ころまで昇進を重ねます。

 その26,7歳の頃、昇進ライバル中納言実長卿(ちゅうなごんさねながきょう)に位階先従二位」で先を越され憤慨し駄々こねます。(『古今著聞集』巻1神祇第1ー20)昔の功労話でやっとライバルに互し、それでも満足できず、辞職して、退官功労賞で「正二位」に位されライバル抜きます。世の人「をしみあへり」というのは、「がっかりした」ってことかと思います。

 そこから12年間「散位(位階だけあり官職無し)」を続けたらしいですが、この12年は、実定兄弟らが平清盛から排除されていた期間という見方もあるようです(Wiki)し、『古今著聞集』という本は、西行が、位官昇進を望まない人間は「無下の人(くだらない人)」と考えていた人のように描く本ですから、その辺踏まえて読まないといけないようです。

 ★実定は「鹿ケ谷の陰謀」事件が起こった1177年、その事件の少し前に大納言に還任(官職復帰)します。理由はよくわからないようですが、このあと1179年に清盛のクーデタ「治承三年の乱」(後白河院や鳥羽殿の幽閉)や、平氏が滅亡する「治承・寿永の乱」(1180)へと向かう時期の、様々な思惑の交錯が実定に都合よく働いたってことでせうか。わかりませんがラッキーです。 

 1183年には内大臣に昇進します。そして、清盛の死後、木曽義仲が「法住寺合戦」で一時政権を握った時、実定は喪中で公務から外れていたらしいんですが、清盛から睨まれていた前関白・松殿基房(まつどのもとふさ)が義仲と結んで、自分の息子師家(もろいえ)を内大臣に就かせたりるすも、結局、義仲は敗死、松殿父子は失脚。実定が復帰します。ラッキーです。

 そして、1185年後白河と源義経による"源頼朝追討の宣旨発給"に実定は一旦賛同するのですが、義経はすぐに没。そんな状況の中で、頼朝は、朝政運営にあたる議奏公卿に九条兼実(くじょうかねざね)ら10名を指名しますが、なんとその中に実定も含まれていたのです。超ラッキーです。

 ★頼朝がなぜ実定を選んだのかわかっていないようですが、まあ、そもそも、「徳大寺家」は、大昔の藤原房前に遡る藤原北家の流れで、あの藤原道長のお爺ちゃん藤原師輔の子、つまり道長の叔父さん(道長の父兼家の兄)公李に始まる「閑院流」の流れである「三条家」「西園寺家」「徳大寺家」という三名門の一つです。「閑院流」は、道長ら師輔本流の「九条流摂関家」に次ぐ家格の「精華家」であったそうです。そもそもがセレブ中のセレブですし、あの和歌の藤原俊成(としなり/しゅんぜい)藤原定家(さだいえ/ていか)は、九条流の流れながら、実定の叔父さん従兄弟にあたるそうです。藤原定家も「鎌倉殿の13人」世代です。

 それに、徳大寺家も和歌の家系として有名で、実定ものちに藤原定家百人一首に歌「ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる」が採られるほどの歌人でしたから、あるいはそういったことが幸いしたのかもしれません? わかりませんがセレブは?ラッキーです。 

 ★九条兼実(当然、藤原九条流の人)は、有職故実の権化のような人、つまり、今風に言えば、世間人情のしがらみよりは、しきたり、法律、第一的な人だったような感じですが、その兼実と実定はうまくいったようなので、頼朝は、実定の中にもそういう気質をみていたのかもしれない、などと九条兼実の印象も含め、あくまでも、読書感想文派、上っ面派の妄想的見解です(九条兼実については別途どこかで改めて)。

 ★西行は実定の20歳くらい年長です。また、出家前に実定のおじいちゃん徳大寺実能に武士として仕えていたので、実定(後徳大寺大臣)に対して上から目線は納得します。

 二人とも兼好からは、一世紀半くらい前の人たちです。西行が後徳大寺の大臣の寝殿を訪れた本段の話も『古今著聞集』(巻15宿執着23-14)の中にあります。西行が出家し、諸国巡礼修行して京にもどって来たタイミング、かつ、西行が仕えていた徳大寺実能もその子公能(きんよし)も今はなく実定ら孫世代の頃という時間設定のようです。

 ★西行は、出家後、陸奥高野山、四国、伊勢、亡くなる4,5年前にも、おそらく1185年の文治地震で被害の出た東大寺の修繕勧進のために再度陸奥へ旅したりしています。ずーっと京から離れていたわけではなく、出かけては戻りということだったようです。

 上述の、実能、公能が亡くなったあとで、西行が京に戻るタイミングというのは、四国への旅のあとの1170年の平清盛(きよもり)主催の千僧供養に参加したり、1177年の高野山の蓮華乗院(れんげじょういん)の移築にかかわったりしている西行50代後半、実定は30代後半ころじゃないかなと妄想するわけであります。で、その1177年に徳大寺大臣は官職復帰しているわけです。屋敷のことに執着したりするのは(もちろん現代のマイホームパパ的に、本人が縄張ったりはしないでせうが)暇なときかもしれないなどと妄想を逞しうすると、その官職復帰の前頃までのタイミング、てなことを思ったりするわけであります。

 

西行(さいぎょう。1118-1190) 

 俗名・佐藤義清(⇦これで"のりきよ"。他に憲清、則清、範清などとも書くそうです)。
 言わずと知れた、和歌の有名人。家は代々の武士(俵藤太秀郷たわらとうたひでさと九代の嫡流?。裕福)で、十代半ばで徳大寺実能(さねよし。実定さねさだ祖父)に出仕。おそらくそのころに妻も娶ったと推定されるらしいです。

 保延元年(1135年)下北面武士として鳥羽院にも奉仕。この頃、同時期の北面武士に同い年の平清盛(1118-1181)がいたらしいです(Wiki)。

 実はそこにもう一人NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で活躍した文覚鳥羽院北面の武士の一人としていたらしく、武士から僧形への転身は西行と同じながら、自身の荒法師キャラクターのゆえもあって? 後に歌道で名をなしていく西行には憎しみを抱いていたが、実際に西行と対面した際には西行の資質を見抜き、穏かに対したそうです(『井蛙抄』)。

 ★西行北面の武士を5年ほど務めた後(1140年・保延6年10月)、23歳の若さで出家・遁世。法名円位。遁世後、京都近郊で草庵生活を送ったあと、陸奥高野山、四国、伊勢、再び陸奥、伝説としては九州までという旅や移住を行い、最後は河内国の弘川寺(葛城山の大阪側山裾辺)で、鎌倉時代の幕開けの頃の建久元年に73歳で亡くなっています。

 ★この間、勅撰集で『詞花集』に1首(初出)、『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして、勅撰和歌集(21集)いづれかへの計265首の入撰歌など含め、約2300首の和歌が伝わっているそうです(Wiki)。

 徳大寺家の祖父ちゃん(実能)に仕えたことのある西行が、その孫の実定の振る舞いに、上から目線の言葉を放ったというのも、あり得なくもない話だったようにも思われますし、西行が頼朝と面談したという逸話や、藤原俊成(歌道で西行の先輩)、定家父子との和歌を通じた関係性などから、この段に登場する面々の一定の関係性が兼好によって想定させられていたんでせうね。

 

 ★西行の歌の評価として、Wikipedia の一節を、少し長いですが引用させていただきます。
 《『後鳥羽院御口伝』に「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく 出できがたき かたも ともに あひかねて 見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」とあるごとく、藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。

 歌風は率直質実を旨としながら、強い情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが恋歌や雑歌に優れていた。

 院政前期から流行し始めた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美運子をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。

 また俗語や歌語ならざる語を歌の中に取り入れるなどの自由な詠み口もその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。

 後鳥羽院西行をことに好んだのは、こうした平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風が、彼自身の作風と共通するゆえであったのかも知れない。》

 

★「いつか読むかもしれない」と、むかしむか~し、買い溜めていた西行の『山家集』(佐々木信綱校訂/岩波文庫)を、今回初めて本棚から引っ張り出し、読んでみました。

 歌数が多いので、「春歌」「夏歌」などの15の「題目」ごとに適当に当り、Wiki に書かれている大仰な誉め言葉に相当する証左部分を探すような気持ちだったのですが、読んでみて感じたのは、西行さんは現代人だ」ということでした。

 「春としも なほおもはれぬ 心かな 雨ふる年の ここちのみして」「春歌」冒頭の歌です(佐々木信綱さんの岩波文庫版でない「山家集」では別の歌のようですが)。

 ここで言っている春というのは新春つまり新年で、それは今日の立春のころだったようです。で、歌に添えられた「詞書(ことばがき)」によると、新年になる前頃に春の雨が振り出して、「雨年かよ、春が来たって気になれないじゃないか」ということを歌ってるらしいんです。

 この歌は、『古今集』冒頭の「年のうちに 春は来にけり ひととせを こぞとやいはむ ことしとやいはむ」(在原元方・ありわらのもとかた)を念頭に置いてはいるようなんですが、『古今集』的、元方的問いかけ(それを請けるのが和歌の伝統?)などは無視して、雨に降られた自分の気持ちに焦点を当ててます。

 よく言われる西行の「生活密着」型の「抒情性」っていうのが、こういう21世紀人的な「ありのまま」さ加減なんだなと感じます。

 同時代の歌人たちは、雨といえば「身を知る雨」とか、そういう昔からの雨発想から抜け切れずにいた時代に、見たまま、感じたまま、ありのままっていう物差しで、歌を歌うことが、なぜか西行にはそれがごくごく当たり前だったらしいのです。中世人的 Let it Go! です。

 ですから西行と言えば必ず言われる「寂寥感」というのも、現代人が感じる孤独感のような角度の孤独感を早くも12世紀に感得してそのまま表現しているので、当時の人々にとっては、全く斬新な世界だったようです。 

 いい歌いっぱいあるので、具体的に紹介したいのですが、やりだすときりがないことがわかっているので我慢します。「詞書」の感性もそんな感じなんで、1100年代の現代人のメモを読むような気になったりします。

 

〇綾小路宮(あやのこうじのみや 生没年未詳=性恵法親王(しょうえほっしんのう・ほうしんのう))

 亀山天皇(かめやま90代天皇1249-1305)と宮人三条公親女(さんじょうきんちかむすめ)との皇子(Wiki)。

 生没年は未詳ながら、弘安(こうあん)7年(1284)天台宗妙法院(みょうほういん)で出家、翌年親王となる(※追記。この、出家後に親王宣下を受けた皇子法親王と呼ばれたそうです《 ◆「中世前期の王家と法親王」佐伯智広 》)。のち同院門跡(もんぜき=法流継承の住職の意味合いらしいです)となった。綾小路宮とよばれた(コトバンク)。

 ★この方が仮に亀山天皇20才くらいの時の皇子ならば、兼好より15歳くらい年長ながらも、まあ兼好と同時代の人と言えるでせう。

 そして、この小坂殿(こさかどの)という建物は、「妙法印内に存した院の一つ」と安良岡先生の脚注にあります。妙法院というのは、現在は京都国立博物館の東側です(この話の頃の位置は事項で説明)。

 とまれ、小坂殿に関して、小川先生の『兼好法師』(66p辺)が、妙法院(小坂殿)が存した、京・六波羅一帯の意味合い、そしてその一帯を歩き回る兼好とを面白く説明してくれます。

 それをひとことでいうと、そのころの六波羅は武士と公家、土倉(金融業者)らが蝟集した新興都市だったということです。少し前『ブラタモリ』で見た「逢坂の関」を越えて来て、山科盆地に入り、そしてまた東山を越え、(五条通りに至る道で?)京に入る鴨川の手前一帯が六波羅ですからね、鎌倉や関東方面からの武士らは、まずこのあたりに居ついたってことでせうかね。

 鶯が鳴いた794年ごろから造営された平安京も、はやくも9世紀(800年代)後半には火災の頻発や疫病の流行などで右京側(桂川の氾濫等もあって?)が荒廃、農村化していき、京の機能が左京(東)側に偏っていったらしいです。やがて平安宮(大内裏)すら「内野(うちの)」と呼ばれる状況になっていくというようなことが、小川先生の『兼好法師』にも書かれています。商工業者や新参の武士たちの住まいが、左京、下京の外に広がっていたのは、京の歴史そのものでもあったようです。

 ある日兼好はこの新興都市を闊歩し、小坂殿に差し掛かるとその屋根に張られた縄を発見し、あの昔話を思い出したってことらしいです。

 

妙法院(みょうほういん)  

 皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称する(Wiki)。 

 《 京都市東山区妙法院前側(まえかわ)町にある天台宗門跡(もんぜき)寺で、山門五箇室門跡の一つ。

 もと比叡山西塔(ひえいざんさいとう)妙香院に起源し、1160年(永暦1)法住寺離宮のそばに日吉山王(ひえさんのう)を勧請(かんじょう)したとき、護持僧として招かれた妙法院昌雲(しょううん)の住房として移し、これを新日吉(いまひえ)と称した。

 1164年(長寛2)後白河(ごしらかわ)法皇法住寺殿内に建てた蓮華王院(れんげおういん)と、法住寺とを昌雲が管掌した。後を継いだ実全が1202年(建仁2)天台座主(ざす)となり初めて妙法院の号をたてた。

 高倉(たかくら)天皇第2子尊性法親王(そんしょうほっしんのう)が入寺し、1227年(安貞1)天台座主となり、綾小路(あやのこうじ)小坂に移建され、天台座主三門跡の一となる。

 以来法親王が入り、新日吉門跡、皇門跡、綾小路門跡などと称され、法住寺・蓮華王院の法燈(ほうとう)を嗣(つ)いだ・・・。》

コトバンク[塩入良道]出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)) 

Wikipediaでの妙法院の説明では、

《 天台宗の他の門跡寺院青蓮院三千院など)と同様、妙法院比叡山上にあった坊(小寺院)がその起源とされ、初代門主伝教大師最澄)とされている。その後、西塔宝幢院の恵亮が継承し、その教えを伝えたとされている。その後、平安時代末期(12世紀)、後白河法皇の時代に洛中に移転し、一時は綾小路小坂(現在の京都市東山区八坂神社の南西あたりと推定される)に所在したが、近世初期に現在地である法住寺殿跡地に移転した。 》

《 妙法院門主系譜では最澄を初代として、13代が快修、15代が後白河法皇法名は行真)、16代が昌雲となっている。続く17代門主の実全(昌雲の弟子で甥でもある)も後に天台座主になっている。18代門主として尊性法親王後高倉院皇子)が入寺してからは門跡寺院(綾小路門跡)としての地位が確立し、近世末期に至るまで歴代門主の大部分が法親王(皇族で出家後に親王宣下を受けた者を指す)である。

 鎌倉時代妙法院は「綾小路房」「綾小路御所」「綾小路宮」などと呼ばれたことが記録からわかり、現在の京都市東山区祇園町南側あたりに主要な房舎が存在したと思われるが、方広寺大仏に隣接する現在地への移転の時期などは正確にはわかっていない。 》

 ★ごちゃごちゃしてますが、要するに最初期は、比叡山中に起こり、12世紀後白河のころ洛中に移転し、13世紀(1227年)に、尊性法親王天台座主になったころから綾小路小坂にあると、鎌倉時代も認識されていたが、その後、現在地へ移転したがその時期はあきらかでないということらしいです。

 尊性法親王(1194-1239)は後高倉皇子で、1283年頃といわれる兼好の生誕の半世紀前頃に亡くなっているので、この18代尊性法親王の後の、「近世末期に至るまで歴代門主の大部分が法親王」の中の、兼好の時代の一人が「性恵法親王」だったということになるようです。

 

〇ゆゑ 

 角川古語辞典 説明
●「ゆゑ【故】」

 [1]名
  意味:①物事の起こる理由。原因。(用例:更級) 

  意味:②風情。趣き。(用例:紫式部)  

  意味:③人の品格。身分。由緒。(用例:源・葵) 

  意味:④根拠。出典。(用例:源・常夏) 

  意味:⑤事故。変事。(用例:人・娘節用)

 [2]形式名詞

 (体言や活用語の連体形について)・・のために、・・によって、・・なので、などの意味を表す。(用例:万21 / 源・桐壺)

★これで見ると、上代用例のある「~ゆゑ」「~ゆゑに」っていう形式名詞の用法から、名詞の用法が平安時代以降固定されていったと受け取れるようです。

★「ゆ」は、第1段で見た、「マジカルなパワーの源泉」の「ゆ」かと思います。
★「ゑ」の上代的意味は、角川古語辞典によれば、

  「故」の意味の「ゑ」、

  「飢え」、

  「穢れ」、

  「酔う」、

  「笑む」など。

 「飢え」を除けば、「ゑ」も、何かが内側から湧きでてきて作用を及ぼすような現象を言っているように感じます。「由来の元」というニュアンスが「ゆゑ」ではないかと。定かではありませんが。

 

〇まことや

 角川古語辞典の説明

●「まこと【真実・誠】」
 [1]名詞
  意味:①真実。本当。実際。(用例:源・若菜・上)
  意味:②人に対して道徳適に偽らないこと。誠実。真情。(用例:続紀宣命

 [2]副詞
  意味:ほんとうに。(用例:万245)

 [3]感動詞
  (何か思いついた時の)そうそう。ほんとうに。(用例:宇津保・俊蔭)

●「まことや」※「まこと」の子見出し
  意味:「まこと」[感動詞]におなじ。(用例:源・須磨)

★以上の辞書説明通りに「まことや」は「感動詞」として「あ、そうそう」と何か思い出した風に訳しています。 

★「まこと」の、「ま」は「真っすぐ」、あるいは「真っすぐな神霊」のことじゃなかったんでせうか? 角川古語辞典の「まつきことば」を見渡してそんな気がしてきました。

●「まが【禍】」名 意味:悪いこと。災い。(用例:記・上)
  ➡「ま」(真っすぐ)に「が」(交差する力=バイアス)あるいは「真」の神聖な力を「枯らす力」がかかること?

●「まかい【真櫂】」名 意味:船の両側に取り付けた櫂。(用例:万433)→「まかじ」に同じ。
  ➡古代において、「櫂」は先端技術で、神霊の「ま」を付けて称賛した?

●「まかごゆみ【真鹿児弓】」名 意味:シカやイノシシを射た弓。(神代紀)
  ➡神聖なほどまっすぐな矢(を弓と言った?)だったんでせう。

●「まかたち【侍女・侍婢】」名 意味:貴人に付き添い使える女性。
  ➡これは、よく、わかりません。※別系統の解釈が必要?

●「まがたま【曲玉・勾玉】」名 意味:上代、装身用の曲がった玉。(用例:記・上)
  ➡本来真っすぐなものに(仮想の)交差する力、真っすぐを枯らす力が加わると「曲が」ると考えられていたってことかと。

●「まかなし【真愛し】」形シク 意味:ほんとうにかわいい。とても愛しい。(用例:万3567)
  ➡「かなし」は次項で説明しています。

●「まがひ【紛ひ】」名 意味:①交じり乱れること。(用例:万3963)
  ➡まっすぐなものに交差する力、真っすぐの神聖を枯らす力が加わって、曲がる柔軟性がなければ、乱れる?

★まだまだ、続きますが、きりがないので、以下割愛します。その中で、重要だなと思われることばが「禍る」です。

●「まがる【禍る】」自ラ四 ⦅災難が起こるの意から⦆死ぬ。(記・上)
  ➡この「まがる」は「ま」の霊力が枯れたことを意味しているように感じますが、それは、「罷る」=「目離る」=目から離れる、見えなくなるという意味と二重の意味、いわゆるダブル・ネーミングになっている気がします。

 「罷る(まかる)」系統のことばもたくさんあります。

 で、「禍る」や「罷る」の 大元は「目(ま)」に見えるものこそ真実で、エネルギーも宿っており、その力は純粋、真っすぐなものであり、それが妨げられると災難は起きると考えられていた のではないかと思うのですが、どうでせうか? 

●「ます【坐す・座す】」

 [1]自サ四

 意味:①「あり」「をり」の尊敬語。いらっしゃる。(用例:万172)
  ➡これも、「目」で見もうしあげておりますってことなんですよね。

 意味:②「行く」行くの尊敬語。いらっしゃる=行かれる。(用例:万3996)
  ➡これも、貴人の動きを見守って、動く動作を見ているという意味でもいいと思いますし、「ま」に真っすぐのエネルギーありましたから、貴人のエネルギーの動きを指しているともいえるようです。

 今まで、なんとなく、そこに「いらっしゃる」と、移動して「行かれる」が、おなじ「ます」で表現されることを若干の違和感覚えつつ、漠然と受入れていた気がします。今回、少し見え方が変わり嬉しいです。定かではないんですけどね。

★「感動詞」の「まこと」「まことや」(あ、そうだ)は、用例が平安時代ですので、上古、神聖厳かであった「まことば」も、平安時代にはいると、ずいぶん身近な言い回しになっていたってことかと妄想します。これも定かではないですが。

 

〇かなしむ

  角川古語辞典の「かなしむ」関連列挙します。

 ●「かなしむ【悲(哀)しむ】」他マ四 「悲(哀)しぶ」に同じ。(用例:源・宿木)

 ●「かなしぶ【悲(哀)しぶ】」他バ上二・四 意味:嘆く。悲しく思うこと。(用例:源・手習)

 ●「かなしぶ【愛しぶ】」他バ上二・四 意味:めでる。珍重する。(用例・古今・序)  

 ●「かなし【悲し】」形シク 
    意味:①心に哀切の情が染みる。嘆かわしい。楽しくない。(用例:万793
    意味:②かわいそうだ。きのどくだ。(用例:源・帚木)
    意味:③残念だ。癪だ。(用例:宇治拾遺5)
    意味:④きびしい。(用例:今鏡・藤波・上)
    意味:⑤貧しい。(浮・縅留)

 ●「かなし【愛し】」形シク
    意味:①可愛い。いとおしい。(用例:源・夕顔)
    意味:②興味深い。おもしろい。(新勅撰・旅)

 ●「かなしけく【悲しけく】」〘上代の未然形「かなしけ」+準体詞「く」〙意味:悲しいこと(に)。(用例:万3969

 ●「かなしがる【愛しがる】」他ラ四 意味:可愛いと思う。(用例:枕92)

 ●「かなしけ【愛しけ】」〘上代東国方言〙⦅形容詞「かなし」の連体形「かなしき」の転⦆ 意味:いとしい。恋しい。(用例:万4369) 

 

 ●「かぬ【予ぬ】」他ナ下二 
    意味:①先のことを心にかける。(用例:万3410
    意味:②予想する。(用例:万1047

★「かなしむ」は、上代にあった「かなし」から派生したようです。上代の「かなし」は、ある状況に接して湧いてくる「悲しさ」が大元だったように思いますが、上代東国方言にあったように「いとしい」という意味の用法もあったようです。

 それが、平安時代になってはっきりと「悲しい」思いと、「愛しい」おもいで「かなし」は使われるようになったと妄想します。

 ★で、その「かなし」がどういう根源のベクトルを持つことばかというと、「かぬ」が、①先のことを思う、②予想するという意味のことばであるということから推測すると、自分の思いをある方向にむける・自分の思いがある方向に向かうニュアンスを感じます。

 ★「かぬ」も源はなにか? 例えば、

 「かはす【交わす】」=移す(万4008)。

 「かへる」=もとに戻る(万801)。

 「かよふ」=往来する(万4005)。

 「かる」=離れる(万373)、疎くなる(万3910)

 などのことばから感じられるのは、「か」一音のなかに「動き」が潜んでいるということです。

 ★「かなしむ」というのは、そもそも、思わず感じられる(心がそちらに向いてしまう、動いてしまう)、惻隠の情のような心の動きを言ったが、その、つい心が向かう先の代表格が「悲しみ」と「愛おしさ」だったので、「かなしむ」と言えば、「悲しむ」か「愛しむ」が通り相場になった、ということかと妄想します。もちろん定かではありません。