1)第8段 要旨
兼好は、色欲は人の心を惑わすもすものの中でも一番のもの。という率直な性欲認識を、久米仙人の話を引き合いに述べています。
その「色欲」とか「仙人」など、兼好が使ったことばの背景とか、昔からのことばの中に潜む日本人の感性などを追っかけてみたら、もう一つ「脱俗」ということばにも行き当たりました。
0)前置き
以下の4点を参照しつつ『徒然草』を下手の横好き読解しています。
①旺文社文庫『現代語訳対照 徒然草』(安良岡康作訳注/1971初版の1980重版版)
②ネット検索
③『角川古語辞典』(昭和46年改定153版)
④中公新書『兼好法師』(小川剛生著・2017初版の2018第3版)
2)第8段 本文
世の人の 心 まどはす こと 色欲には しかず。人の心は おろかなる もの かな。
にほひ などは かり の もの なるに、しばらく 衣裳に たきものす と 知りながら、えならぬ にほひ には 心ときめき するもの なり。
久米の 仙人の、物洗ふ 女の はぎの 白きを 見て 通を 失ひけむは、まことに 手あし はだへ などの きよらに 肥え あぶらつきたらむ は、外の 色ならねば さも あらむ かし。
3)第8段 訳
世の中の人の心を惑わす事で色欲に及ぶものはない。人の心というものは愚かなものだ。
においなどは、かりそめのものなのに、少しの間衣装に焚き込めるものだと知りながら、なんともいえない匂いに胸がわくわくするものだ。
久米の仙人が、洗濯する女のふくらはぎが白いのを見て、神通力を失ったのは、ほんとうに手足の肌などが美しくふくよかに色っぽいのは、色欲の中でもまさに性欲を刺激するものだから(俗人に戻ってしまって仙人の神通力を失ってしまった)さもありなんと思われる。
【人は色欲に勝てない】
4)ことば とか いろいろ探索
〇久米の仙人
《 久米仙人(くめのせんにん)は、久米寺(奈良県橿原市久米町くめちょう)の開祖と言われる伝説上の人物。
和州久米寺流記』には毛堅仙、『本朝神仙伝』には毛堅仙人と名が記されている。
久米仙人に関する話は、『七大寺巡礼私記』『和州久米寺流記』『元亨釈書』『扶桑略記』などの仏教関係の文献はもとより、『今昔物語集』『徒然草』『発心集』その他の説話・随筆などにも記述がある。 》(Wikipedia)
★Wikipedia や コトバンク などの「久米仙人」解説は、どれも似たようなものです。
大体、欽明期ころ(6C中後半)葛城山の麓一体(奈良盆地の西側)のどこかで生まれ、竜門岳(Googleマップで見ると、奈良盆地の南東側の奥山)で修行し、神通飛翔術を体得。
竜門岳から葛城山(同南西の山)へと、奈良盆地南部上空を跨ぐように飛行することを得意としていた、らしい。
★さらに、Wikipediaを下敷きにしますと、
天平年間(8C前半=てことは200歳くらいの頃?)吉野町(竜門岳の南側の吉野川沿い)の龍門寺の堀に住まいながら、いつものように竜門岳から葛城山目指して飛翔していた時に、久米川(現・曾我川。大和川支流で奈良盆地の南側での真ん中辺り)の川べりで、洗濯する若い女性の白い脹脛(太腿とする文献あり)を見て神通力を失い、墜落。その女性を妻として普通の人間として暮らした。
聖武天皇(在位:724 - 749)の命により東大寺に大仏殿を建立(竣工758年)する際、久米仙人は俗人として夫役につき、材木の運搬に従事していた。
周囲の者が彼を仙人と呼んでいるのを知った担当の役人は、(どこまで本気か不明であるが)「仙人ならば神通力で材木を運べないか」と持ち掛けた。
七日七夜の修行ののち、ついに神通力を回復した彼は8日目の朝、吉野山から切り出した材木を空中に浮揚させて運搬、建設予定地に着地させた。
その甲斐あって大仏殿の建立は速やかに成就したと伝えられている。
聖武天皇は、免田(税の一部が免除される田)30町(1町の定義は時代により異なる。ここではメートル法に換算は行わない)をたまわり、久米仙人はそこに寺を建立した。これが久米寺であるという。すなわち久米寺の縁起である。
その後、弘法大師が久米寺を訪れ『大日経』を感得する。これがもとになって大師は唐に渡り真言を学ぶことになる。
藤原京(高市郡明日香村。遷都:694)または平城京(遷都:710)造営のときの話だとする資料もある。
その後百数十年、久米寺に住んだ。『和州久米寺流記』は、久米仙人と妻はどこかへ飛び去ったという後日談を記す。仙人は十一面観音、妻は大勢至菩薩であるという。
橿原神宮のある畝傍山(うねびやま=標高200m弱=台地?)の南東端。この畝傍山辺りがまあ、奈良盆地 南部の東西真ん中辺りで、曾我川は畝傍山の少し北側のすぐそばです。
ここら辺りに土地勘のある人たちに伝わる伝承らしいのですが、「久米寺」のWikipediaの説明に、
《 創建の正確な事情は不明だが、ヤマト政権で軍事部門を担当していた部民の久米部の氏寺として創建されたとする説が提唱されていた。しかし、境内で出土した瓦と同じ木型で作られた瓦が藤原宮と興福寺から出土していることなどから、興福寺前身寺院の厩坂寺(うまやさかでら)に比定する学説が現在では有力である 》
とあります。
《 興福寺の前身。山城国(京都府)山科(やましな)にあった山階(やましな)寺を天武天皇元年(六七二)大和国(奈良県)飛鳥(あすか)の厩坂(橿原市石川町)に移したもの。さらに平城京遷都で奈良に移り、興福寺と改名。法光寺。(出典 精選版 日本国語大辞典)》
★672年は「壬申の乱」ですね。
山階寺は、天智天皇治下(近江大津宮)、藤原鎌足の病気平癒を願って妻の鏡王女が創建したのでしたね。壬申の乱で、天武天皇が天下を取って、皇都が、飛鳥浄御原宮(藤原京)に移ったので、山科寺も引っ越したのですね。
《…厩坂の近くには,応神天皇の軽島豊明宮が伝承され,また,舒明朝には厩坂宮が営まれている。興福寺の前身である厩坂寺もこの付近にあった。橿原市久米町と石川町の境に所在する小字丈六(じようろく)は、あるいは厩坂寺と関連を有するかもしれない。…※「厩坂寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。(出典:『社平凡社世界大百科事典』 第2版)》(コトバンク)
★現在の「久米寺」は橿原市久米町にあり、Googleマップで見るとその東隣の石川町に、「厩坂寺跡」があります。
そうすると、Wikiの説明の「境内」が「久米寺」の境内なら、話がいまいちよくわかりません。久米寺から厩坂寺跡一帯が、昔は厩坂寺だったということなのか? もうそこらへんは時間解決トレー入れするしかありません。
現在の久米寺が久米寺と呼ばれるようになったのには、また別のさまざまな歴史があったってことかと拝察します。
とまれ、久米町あたりに久米部がいて、久米仙人の伝承を携えていたということが、否定されたわけではないと思います。
★ところで「久米の仙人」を我々は「くめのせんにん」と読むわけですが、「仙人」の字は、実は「ひじり」と読んできた時間のほうがずっと長かったようです(平安以前〈ひじり〉と呼んだか〈ひしり〉と呼んだか不明らしいですのですが)。
角川古語辞典で「仙人」は、
●「せんにん【仙人】」名
意味:人間界を離れて山中に住み、不老・不死・神変自在の法を心得ているという想像上の人。(用例:源。若菜・上)。
➡平安時代からの用例です。
角川古語辞典で「ひじり」は、
●「ひじり【聖】」名〘「日知り」の意という〙
意味:①特の高い人。聖人。(用例:垂仁紀)
意味:②天皇をいう尊敬語 (同:万29)
意味:③一芸にぬきんでた人物 (同:古今・序)
意味:④徳の高い僧。高僧。(同:源・薄雲)
意味:⑤僧。法師。念仏僧。(同:源・橋姫)
意味:⑥仙人。神仙。(同:垂仁紀)
意味:⑦清酒の別名 (同:万339)
「ひじり」という呼び方が、上代から行われていたのがわかります。
《 万339 <酒の名を聖(ひじり)と負(おお)せし古(いにしえ)の大(おお)き聖の言(こと)の宜しさ>
※「酒の名を聖と負せし」 禁酒令の行なわれた魏の時代に、濁り酒を賢者と呼び、清酒を聖人と呼んだ故事による。》
という、「讃岐屋一蔵の古典翻訳ブログ」さんの解説をまんまパクらせて頂きます。すいません。
★手元の『日本書紀』(日本の名著①)で見ると、雄略紀二十二年秋七月の「浦嶋子」の話のところで、「仙衆」ということばに「ひじり」というルビが振ってありました(底本によってはここが「仙境」になっていたりもするみたいですけど)。
なるほど、「せんしゅう」ではなく「ひじり」と読むべきところという意味合いのルビかと思います。
◆この「仙人」を「ひじり」と読む問題については、同志社大学の先生だったらしい松下貞三先生の『「聖(ひじり)」という語の受け入れとその後 : 言葉と思想と事実と』という論考で「ひじり」問題、実に詳しく学べます。(同志社大学学術リポジトリ https://doshisha.repo.nii.ac.jp/records/9958 )
例のごとく、ドンブリ勘定凝縮要約していうと・・
中国大陸から「儒教」「神仙思想」などの先進文化がもたらされる以前、わが国では、「日(太陽)を知る」「ひしり」が、霊力を持つもの、高い能力を持つものなど、高さを持つものの呼称で、天皇も「ひしり(ひじり)」と呼ばれていた。
そこに、大陸の文化が流入、儒教的な「知徳」に優れたものとしての「聖」や、俗を遠ざけ山に棲み、不老不死の術を求めて修行する神仙思想の理想的な道士「仙」などの字ももたらされたが、日本人は、しばらくは尊い者の呼び方はどれも「ひじり」と訓じて読んだ。
やがて、儒教、仏教、道教的神仙思想の知識が、日本の習俗と交じり合いながら浸透していくなかで、平安期頃から、それぞれの違いへの理解も進み、神仙思想の「仙人(ひじり)」は「仙人(せんにん)」と呼ばれるようになっていった、らしいです。
★それぞれの文化受容の進展具合を、日本の古書の記述で具体的にトレースされているので、今まで、漠然と耳にしていた名称などがそういった背景もつものだったんだと、ことばがエンジン持ちだしていく感じがあり大変面白いです。
たとえば、雄略天皇4年春、葛城山での狩のとき、容貌が雄略天皇とそっくりの「長人(たきたかきひと)」と出会い、誰何すると「一事主(ひとことぬし)」だと答えたという話。
旧来は、「太占(ふとまに)」などでしか神の声を聞くことができなかったわが国で、一事主という日本の神が自身の姿を顕現(エピファニー)させ自身でことばを語る不思議。
神仙思想と日本の習俗との融合・折衷がここにあるそうです。そういえば、葛城山といえば、久米仙人の生まれた辺りでもあるなあとか、いろいろとシナプスつながります。
◆そもそも、久米仙人っておおもとのモチーフは何?っていう疑問をお持ちの向きには、甲南女子大のサイトらしい守屋俊彦先生の「久米仙人」のPDFがお勧めです。
暴風雨や雷鳴の中で訪れる神とその神を迎え祭る巫女という日本古来の「神婚神話」こそが「久米仙人」の本来のモチーフと説かれています。
もちろん、大陸の神仙思想そのものの淵源ではなく、流入した大陸文化と融合した、我が国の古層側の神の姿ですね。 ( https://konan-wu.repo.nii.ac.jp/record/389/files/011-35.pdf )
ですから、久米仙人がエッチだったから「落下」したのではなく、日本の神婚神話がおおらかだったから、久米仙人はエッチな役回りにならざるをえなかったらしいのです。久米仙人の汚名は晴らしておかないとですね。
◆また、「道教」とか「神仙思想」って何?と疑問をお持ちの向きには、麗澤大学学術リポジトリにある中島慧先生の「日中における仙人像の差異について」が、分りやすく参考になります。
ドンブリ勘定(かなり飛躍)圧縮でいうと、
まず、太古の「死者」が身近にあった時代があり(このあたり『チベットの死者の書』なんか想起します)、「死者」「屍」を風葬所などに「遷す(うつす)」ことと「「魂」が「僊(うつる)」ことの相似意識がはじまり、さらには、その「魂」の「永生」観念が発生し「僊(せん)」が「不老不死」の「仙」へと結びつていくのが「神仙思想」。
そいった中国の民間信仰と「老子」の思想などさまざまな思念が統合されたものが「道教」らしいです。
「仏教」も「道教」も日本へ伝わりながらも、国教として「道教」を唐から受け入れながらその唐に滅ぼされた高句麗の例から、唐への警戒心を持っていた奈良時代の我が国は「道教」の公伝を抑えた(諸説あるようですが)ため、日本で神仙思想を広めたのは道教的な「道士」ではなく、密教(仏教)僧や日本古来の山岳信仰の修験者らだった。というようなことらしいです(かなり平板な図式にしましたので、ぜひ元の資料で委細ご確認ください。
ただ、後半、推論が渦巻き、文章の途中が末尾に飛んだりもしてますが)。
★「久米仙人」のWikipedia説明で太文字にした、「毛堅仙」「毛堅仙人」という久米仙人の異称については、ネットをググり続けても何にもヒットしません。読み方すらわかりません。「けかたせん」?「もうけんせん」?
小説投稿サイトの「カクヨム」の『仙術の書』という話の中では「けたち」と読まれていました。竪琴の「たて」と見れば、そう読めか、と思いますが、そう読まれる根拠とかは、ググり不足か、定かではありません。
★もう一人の仙人として名の上がる「役小角(えんのおづぬ)」(「えん」が氏名で「おづぬ」が名前)は、また、「役の優婆塞(うばそく・仏教の男性在家信者)」「役の行者(ぎょうじゃ・修行者)」とも呼ばれ、修験道の開祖とも言われています。
舒明朝(7C前半)頃の生まれということなので、欽明朝(6C後半)頃に生まれた久米仙人より一世紀くらいあとの世代ということになりそうですが、役行者が没した(701年)あとの、平城京の造営(710)や、東大寺の創建(758竣工)に久米仙人は活躍したことになっており、久米仙人がはるかに長生きだったということになります(あくまで伝承の話です)。
★「役行者」は複数の書に記載あるようですが、Wikipediaの説明をドンブリ勘定圧縮すると、
『続日本紀』(平安時代初期に編纂された7世紀末から8世紀半ばを扱う勅撰史書。797年完成)の中に記載された数行の「役小角配流」の記事(=葛城山に住み、鬼神を使役する呪術に長けた役小角。彼を妬むものが、699年、文武天皇に「妖惑」のかどで讒言し、配流になったこと)を、奈良・薬師寺の僧・景戒(きょうかい。8C頃の人)が話を膨らませて『日本霊異記』に採録し、9世紀初頭に完成。「久米仙人」話の拡散に貢献多大であったらしいです。
★8世紀中頃の生まれかと思われる景戒は、『続日本紀』では誰と特定されていなかった役小角の讒訴者を「葛城山の神である一言主」と特定して書いたそうです。
かつては仙人的な外来かぶれの振る舞いで雄略天皇と厚誼を交わした「一言主神」も、景戒にとっては、もはや善悪の判断を誤る蒙昧な神でしかなくなっていたようなのです。
上述の中島慧先生は、役小角は道教の道士的な修行者であったために、讒訴されたのだと書いておられます。
★兼好は中世の13世紀終盤から14世紀前半を生きた人ですから、景戒の『日本霊異記』からは450、60年以上の時間が流れています。
兼好にとって久米仙人の話は、もはや中世インテリ及び世間一般の常識的な伝承の一つだったかと妄想しますが、兼好が「さもありなん」とこの話で久米仙人の失敗に同情したのは、色欲に抗えない思いの点もそうなんでせうが、それによって久米仙人が「神通力」を失ったこと、つまり、仙人としての"脱俗性"を失ったことへの同情も大きかったようなのです。
11世紀後半の公卿・大江匡房が書いた『本朝神仙伝』の中に描かれた仙人像では、「脱俗」と「辟穀」(へきこく=穀類をさけること)が、仙人であるための条件とみなされていると、松田智弘という先生が指摘されたと中島慧先生の論考の中にありました。
本人は、本来の神仙思想に依拠しているつもりで、仙人を、隠遁・遁世の理想像とだぶらせて描いてしまった大江匡房は、中古、中世の日本のインテリ層の脱俗熱の強烈さを書き残したんだと思うのですが、そういう思潮の後継者であったらしい兼好がここで久米仙人の"人としての"失敗談を持ちだした動機の中に、仙人が身にまとっていた"脱俗性"、衆人を超える"高さ"を失ったことへの、大江匡房的残念さ加減も、十分あったんじゃないかと妄想する次第です。
〇色欲(しきよく)
第三段は「いろ」でしたが、ここは「しき」の方です。
角川古語辞典では、
●「しきよく【色欲】」名詞
意味:男女間の情欲。色情。(用例:徒然草8)
と、中高生も読む辞書ですからね。あっさりと書いて、用例は、まさに本段が例にあげられています。
漢語、仏教用語ですから大陸では古くからある語だったでせうが、日本へは6世紀、7世紀に仏典、漢籍とともに輸入された多くの語の一つだったわけでせう。
★「色欲」はWikipediaになかったのでコトバンクを検索すると。
《〘名〙① 「仏語。感覚的な欲望。四欲・五欲の一つで、欲界の衆生が男女の美しさなどにとらわれること。また、男女間の性的な欲情。色情。情欲。(用例省略します) ② 色情と利欲。色と欲。(出典 精選版 日本国語大辞典)》
とあります。他のサイトの説明もほぼ同様で、Wikipediaでは、いきなり性欲へ導かれたりします。
★「四欲」はヒットしなかったので「五欲」を検索したら、
《 五欲(ごよく, pañcakāmaguṇa)とは仏教用語で、眼(げん)、耳(に)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)という五つの感官(五根)から得られる五つの刺激(五境)、すなわち 色(しき)、声(しょう)、香(こう)、味(み)、触(そく)に対して執著することによって生じる五つの欲望のこと。
pañca(パンチャ,五つ) + kāma(カーマ,欲) + guṇa (種類) からなる。
異なる用法として、財欲、性欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲という五つの欲望のことを指す場合もある。》
と説明。
◆コトバンクでは、
《 〘名〙 仏語。
① 色・声・香・味・触の五境に対して起こす情欲。五塵。※霊異記(810‐824)下「涅槃経に云はく、五欲の法を知らば、歓楽有ること無し、暫くも停まること得じ」〔大智度論‐一七〕
② 財欲・色欲・飲食欲・名欲・睡眠欲の五つの欲望。※米沢本沙石集(1283)八「皆人の知りがほにしてしらぬは死する事也。誠にしるならば、五欲(ゴヨク)の財利もなににかせむ」〔大明三蔵法数‐二四〕(出典 精選版 日本国語大辞典)》
と説明。
★Wikipedia がいう「異なる用法」、コトバンクがいう②側の「欲望」を分析していったら、①側の感覚論にたどり着いたのか、①側から②側に論が展開されたのかは定かではありませんが、「色」は「見えるもの」「見て感じるもの」で、それによって生じる(発動される)執着や、さらにもっとっていう「欲」が「色欲」ということのようです。(分かり切ったことを書いているかと思いますが)
「色欲」というのは「性欲」とイコールだったわけではなく、「性欲」は「色欲」の一部という意識のことは、押さえておいたほうがいいと思うのです。
近代的な医科学のような理解のなかった時代に、「性欲」は「会い」「見る」ことによって生じると捉えられたようですが、まあ、順当な捉え方だったように思います。
そして、この色欲(中の性欲)は、なかなか厄介なものだと、太古から思われていたんだと思います。
★「性欲」をWikipediaで見ると、
《 性欲は煩悩の一つとされ」とあり、同じくWikiによれば、「煩悩」は、「仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働き(汚れ)を言う」そうです。
そして「仏教では、人の苦の原因を自らの煩悩ととらえ、その縁起を把握・克服する解脱・涅槃への道が求められた。釈迦は、まず煩悩の働きを止めるのは気づき(念)であり、そして根源から絶するものは般若(智慧)であると説いている。》 そうです。
★Wikipediaで「仏教 色」で検索すると、
《 インド哲学における色(しき、〈梵字割愛〉 rūpa)とは、一般に言う物質的存在のこと。原義では色彩(カラー)よりも、容姿、色艶、美貌をさしている。》
という説明があります。カラーじゃなくてデータだよと言いたいんだと思います。
《 色(ルーパ)は、宇宙に存在するすべての形ある物質や現象を意味し、空(シューニャ)は、恒常な実体がないという意味。すなわち、目に見えるもの、形づくられたもの(色)は、実体として存在せずに時々刻々と変化しているものであり、不変なる実体は存在しない(空)。仏教の根本的考えは因果性(縁起)であり、その原因(因果)が失われれば、たちまち現象(色)は消え去る。》
と、よく聞く「色」と「空」との説明が書いてあります。
★何でこういうことを書くかというと、「にほひ」が仮のもので、そんな仮のものに心を動かされる愚かさというような兼好の書き方には、そういった「色(しき)」意識を、どの程度だったかはともかく、踏まえていたからの書き方だろうと思うからです。
★兼好は、後の段でもそうですが、人に性欲のあることは割と率直に書いている気がします。
〇しかず
角川古語辞典の記載。
●「しかず【如(若)かず】」
意味:及ばない(用例:万960)。
★「しかず」は上代からのことばのようです。一語として見出し語の掲示はありますが、品詞は書かれていません。
何に及ばないとかでなく、及ばない運動量とか差異とかを表す、いわば「ベクトルことば」のようなものです。
★「しかず」ということばをさらに品詞分解すいうると、
●「しく【及く/若く/如く】」自カ四
意味:①追いつく。(同:記・下)
意味:②肩を並べる。およぶ。(同:枕37)
の未然形「しか」に、未然形接続の否定の助動詞「ず」がついた形なんでせう。
★「しかず」の近くに
●「しか【然】」副詞
意味:そのように。そのとおり。(用例:万199)
ということばがあります。
これも具体的に何がどうということでなく、あるエネルギーの量とか状態の「ベクトル」ことばです。
★この「しか」(様態)に到るのが「しく」なんじゃないでせうか。水平でも、垂直でも、「ある」到達点もしくは、「ある」レベルが「しか」で、そのレベルに向かうのが「しく」で、ちゃんと達したり、ちゃんとそのレベルまで内容を充足させることを、
●「しかと【確と】」副
意味:①ちゃんと。きちんと。(万892)
をつかって「確とやってる」とか言うんじゃないでせうか。
その通りだったら
●「しかり【然り】」(同:万4111)
と言ってもらいたいもんです。
★そして、さらに飛躍しますが、その「しか」の在り様を理解したり、そこに到るための方策を理解しようと努めることが「しる【知る】」なんじゃないでせうか。それを行うのが「す」? どうでせう。定かではありません。
〇にほひ
角川古語辞典
●「にほひ【匂ひ】」名
意味:①色が美しく映えること。色つや。(用例:枕37、源・宿木)
意味:②かおり。香気。(用例:徒然32)
意味:③趣き。風情。(用例:琴後集)
意味:④光。威光。(同:源・椎本)
意味:⑤染め色。襲(かさね)の色目で濃淡の効果。(同:なし)
意味:⑥「匂ひ緘」の略。(同:なし)
用例で見ると①④が平安期で、あとは中世以降です。上代の用例ありません。なので、名詞「匂ひ」は上代にはまだなかった感覚のようです。
★これに対し、動詞の「にほふ」は上代からのようです。
●「にほふ【匂ふ】」
[1]自ハ四
意味:①色が美しく染まる。照り映える。(用例:万328)
意味:②つやめく。艶麗である。(同:万21)
意味:③かおる。(同:源・花散里)
意味:④(影響が)及ぶ。(同:源・真木柱)
[2]他ハ下二
意味:染付る(用例:万3801)
上代に、名詞がまだなくて、動詞があったということは、
[1]①染まり、照り映え、②つやめき、艶麗になる現象の推移を、
[2]染付る作業の中などで視覚的に感じながらも、
その現象の推移とか、その現象を感じる自分とかに関心が向いて、感じている内容そのものを分析的に見るところまでは行っていなかった。ということになるのでせうか。
★とまれ、上代に気づかれた「匂ふ」動きは、染まっていく、それによって映えてくる(バエてくる)微かな現象を言っているように思います。
強い、明確な動きを言うのではなく、まず、視覚的な、かすかな動き・作用を言おうとしているのが、「匂ふ」の主眼なんだと感じます。
その、微かな、作用を見ているうちに、やがて、微かな現象の細やかな美しさに気付き、そして、細やかさ、ほのかさ、つまり「匂ひ」への意識の集中は、「ほのかな」「香り」を嗅ぎわける気付きをももたらした。そんな感じでせうか。
この8段での「にほひ」は、「炊き込める」ものとして記述されていますから、「香り」の「匂ひ」で間違いなさそうです。
★「匂ひ」の意味の⑥の「匂ひ縅」は、「にほひおどし」(においおどし)と読みます。
戦国時代(近世)の鎧(よろい)の細かいパーツを繋ぎ合わせる縅毛(おどしげ=紐です)の横並びの色を、下の段に向かって少しずつ明るくしていくことで、濃淡のグラデーションを演出する紐使いのことらしいです。
古代の色合いの微かな動き(変化)に反応した「匂ふ」という言葉の本義が、近世までちゃんと伝わっていたことに感動すら覚えます。
◆ところで、「匂ふ」の語源についてネットをググると、佐賀大の竹生政資さんと西晃央さんの『「にほふ」の語源と万葉集3791番歌の「丹穂之為」の訓釈について』というPDFがすぐにヒットします。
これを読むと、
◇丹穂=抜きんでた赤さ ◇丹延ふ/負ふ=赤を帯びる、◇「に」は新しいの義 等々、9つほどの語源説が既にあるのだそうです。そして、竹生さん西さんは、新たに10番目の「荷負う」説を唱えておられます。
★角川古語辞典で、「に」のつく「にことば」、しかも上代の用例が紹介されている「にことば」を、ざっと眺め回し「に」の語感をさぐります。
「に=土(記・中)【少】」
「に=丹=赤(記・中)【多】」
「に=瓊=赤い玉=赤くきらきらしたもの(神代紀)【少】」
「にき・にこ=和やかさ(万1800・万2762)【多】」
「にき・にこ=柔らかさ(万194・記上)【多】」
「にしき=5色の煌びやかさ(万1807)【少】」
「にた=柔らかすぎてどろどろ(出雲風土記)【少】」
「に=似?(万771)【希】」
「に=荷(万100)【希】」
「には=土の面、海の面(万4059・万388)【多】」
「にひ=新しい(万3543)【多】」
「にほ=美しさ、色染め、色づき、照り映え(万3309)【多】」
(※【多】【少】【希】は、ざっくりな見出し語の多寡です。付記してます)
★「に」の「丹(赤)」は、ただ赤いだけでなく「瓊」に通じて、キラキラした感じ、なんか映える(バエル)感があるのではないでせうか?
「匂ふ」は、「丹・瓊延ふ」(にはふ、にほふ)または「丹・瓊負ふ」(にはふ、にほふ)=ほのかに照るような輝くような感じを帯びる? でいいんじゃないでせうか。
そう見れば、竹生さん西さんが指摘されている、白や黒の花や木にも「にほふ」が使われているので、「丹(赤)」の説は相応しくないという点も、特段の問題はなくなるんではないかと思うのですが。
★しかし、読書感想文派は、自分の説が正しいなどと言いたくて書いているわけではありません。読んで感じたことをよく調べもせず口にしてしまう派であるというだけであります。
★竹生先生、西先生の「荷負う」説は、万葉集の歌に出て来る「にほふ」の宛て音字の一つ「丹覆ふ」ということばが、本来「に・おほふ」であり、「覆ふ」は本来「ほふ」とは読めず、「おほふ」が縮約して「ほふ」となって「丹覆ふ」(にほふ)になっているというものです。
なるほどなあと思うのですが。
にしては、角川古語辞典に「に=荷」の用例がとっても少ないのはなぜなんでせうか。そこがどおも気になるのです。
「丹・延ふ」(にはふ・にほふ)=赤み、または艶やかさが、だんだん染み伸びていく感じでは、はだめなんでせうか?
万葉集に登場する多くの「にほふ」の宛て音字がそれを裏付ける字ではなく、「荷・負ふ」説を裏付けている字が使われているんだということなんでせうが、どうも今一、すんなりと首肯できずにおります(理解力不足だとは思っておりますが)。
〇えならぬ匂ひ
「えならぬ」は「えならず」の連体形「えならぬ」で、「えならず」はそれ自体で「言うに言われない。何ともいえない。すばらしい。」という意味をもった語で、形容詞的な働きで「匂ひ」とくっついている。
「えならず」の用例は、源・帚木/明石となっており、このことばは平安時代(中古時代)以降のことばです。
★「えならず」は「えならず」で一語でせうが、「えならず」を、さらに品詞分解すれば、
●「え」は副詞。(角川古語辞典)
〘下に打消の「ず」「じ」「まじ」「で」、反語の「や」などを伴って〙
意味:①・・することができない(用例:竹取、更級、万3152)
意味:②たいして・・しない(同:源・桐壺)(角川古語辞典)」
★これに
「なる【成る】」自ラ四の未然形と、未然形接続の打消の助動詞「ず」が連なっている、と分解できるのではないでせうか?
●「成る」自ラ四は、
意味:①できあがる しあがる 成就する (用例:万174)
意味:②〈形・状態などが〉変わる 変化する(同:万864 / 源・明石)
意味:③望みどおりになる 成功する(同:源・須磨)
意味:④その時刻に達する(同:若紫)
意味:⑤おいでになる おでましになる(同:中務内侍)
意味:⑥できる(同:狂・節分)
意味:⑦及ぶ 匹敵する(同:狂・八句連歌)
「ならず」というのは、上代の意味の否定形で、成就できない、変われない、望みどおりにならない、達せない、できない、及ばないというような意味になると捉えていいかと思うのです。
★「しかず」の時のように「何が」できないのかの具体的な説明はありません。意言外にあるわけですが、それはつまり「しかず」と同じで「えならず」も「ベクトルことば」と言っていいのではないでせうか。
しかし「えならず」は「しかず」と違っていると思うのです。
「しかず」は、ある到達点に到達すること、達せないこと、その可否に意味があるように思いますが、
★「えならず」の「ならず」は、「到達点」に絶対「到達できない」という前提を立てることばのように聞こえます。それなのにそこ(到達できない到達点)を超える「匂ひ」だ、と強調することばのように思うのです。
定かではありませんが。
〇肥え こえ
角川古語辞典で「肥ゆ」を見ます。
●「こゆ【肥ゆ】」自ヤ下二 意味:肥える。太る。(用例:源・宿木)
角川古語辞典の用例は『源氏物語』(平安期)からなんですが、
『万葉集』1460番に、
「戯奴(わけ)がため 我(あ)が手もすまに 春の野に 抜ける茅花(つばな)そ召(め)して肥(こ)えませ」
(そなたのためにわたくしが 手も休めずに春の野で 抜いておいた茅花だよ 食べて太って下さいね)
の歌があります(訳は「讃岐屋一蔵の古典翻訳ブログ」さんから引用)。
★「肥ゆ」は、上代からの用例がちゃんとあります。角川古語辞典が上代の用例を上げていないのがなぜかはよくわかりません。
★とまれ、「肥ゆ」の近辺だけでなく、「こ」にまつわる上代語を列挙してみます。
「こゆ【肥ゆ】」の「こ」が「凝る」「凝り固まる」が、基層のイメージではないかという妄想を持っているのですが、その妥当性を追っかけてみます。すいません、また、ダラダラ長いです。
●「こ【蚕/蠶】」名 意味:カイコ。(用例:2495)同:桑子
➡「こ」=凝り固まり大きくなったものではないかと。
●「こいふす【こい伏す】」自サ四 意味:倒れ寝る。伏す。(用例:万3969)
➡「こい」はあとで出る4「臥ゆ」だと思うのですが、「臥ゆ」は床や寝所で凝り固まった姿かと。「こい」も「ふす」も寝た(凝り固まった)状態。
●「こいまろぶ【こい転ぶ】」自バ泗 意味:転がり回る。倒れころげる。(同:万2274)
➡おなじく「凝り固まったものが」倒れて転がる姿
●「こえへなる【超え隔る】」自ラ四 意味:越えて遠く隔たる(用例:万4006
➡「こえ」は「越ゆ」るもの「こ」=「凝ったもの」を越えゆくのが「越ゆ」かと。
●「こきし」副 意味:たくさん。一説に「扱きし」。(用例:記・中)
●「こきしく【扱き敷く】」他カ四 意味:しごき取って敷きならべる(万4453)
●「こきだ」副 意味:たくさんの意か。(用例:記・中)
●「こきだく【許多】」副 ひどく。 たくさん。(用例:万942)
●「こきばく【幾多・幾許】」副 非常に。たくさん。(用例:万4360)
➡以上の「こ」も「凝り固まった」実、粒のようなものの意識が下敷きかと思います。「許多」は「あまた」とも読み、「たくさん」を意味する漢語です(Weblio日中・中日辞典)。
★「こきだく」ってなんなんなんだろうと思いつつスルーしてきてましたが、漢語を和語の「こきだく」で読んでただけだったんだと氷解、納得です。
◆「こきばく」の「ばく」は、「捗(はか)がいく」の「はか」関連らしいことが 「gogen3000」 さんの「いくばく(幾許)の語源」に書かれてました。言語学系のかたの記述のようですので本稿などとはレベチで、恐縮ながらあやからせて頂きたいと思います。( https://ameblo.jp/gogen3000/entry-12545887637.html )
★「こきだく」の「だく」は、
●「たく/だく」他カ四
意味:①かき上げる。たばね上げる。(用例:万124)
意味:②力を入れて漕ぐ(万1266)
意味:③馬の手綱をあやつる。馬を駆けさせる。(万4154)
➡ということばの①の意味ではないかと思うのです。山ほど腕に抱え込む感じでせうか。あるいは「高」。積み上げたものの高さの語感「だか」の副詞化による変形のようなものではないかと。
●「ここば【幾許】」「ここだ【幾許】」という上代語も同じ意味では。
➡「ここばく」「ここだく」の短縮形?
●「こくは【木鍬】」名 意味:木製のくわ(用例:仁徳紀)
●「こくみ【瘜肉】」名 意味:こぶやいぼなどのような、余ってできた肉(祝詞・大祓)
➡祝詞(のりと)の個々のことばが上代ことばかどうか精査しなければならないのでせうが、この「こ」はまさに「凝り固まった」ものの意識のことばかと思うのですが、どうでせう。
●「こけむしろ【苔筵】」名 「苔の筵」に同じ。
意味:①苔を敷物に見立てていう。②山住みの人の筵。(苔筵の用例:万1120)
➡「苔」一字の上代用例出てないんですが、「苔筵」が上代にあったなら、「苔」も上代からのことばでせう。で、「こけ」の「こ」も地面や岩や木の根のあたりに「凝り集まっている」「こ」のような「毛」のようなものが「こけ」なんじゃ」ないでせうか?
●「こごし」形シク 意味:凝り固まっている。 険しい。(用例:万3329)
➡この語に限っては「こ」が「凝り固まり」であることを疑う余地はありません。
●「こちたし【言痛(甚)し】」形ク
意味:①うるさい。 煩わしい。(用例:万2886)
意味:②ぎょうぎょうしい(同:枕35)
意味:③はなはだしい。たくさんだ。(同:源・若葉・下)
➡「こち」を「ことば」と捉えた当て字がされていますが、「こち」は「凝った」「濃すぎてうるさい」みたいな意味じゃないんでせうか? そう主張するなら、この「こち」が「ことば」でない説明をしなければいけないのでせう。
角川古語辞典では、隣に
●「こちづ【言出】」ということばがあります。自ダ下二で
意味:ことばにだして言う(用例「足柄の み坂かしこみ 曇り夜の あが下ばへを 言でつるかも」:万3371)
●「したばふ」は「したばふ【下延ふ】」自ハ下二
意味:人知れず心の中で思う(用例:万1809)と、密かに思う意味のことばでした。
万葉集の4115でも
「さ百合花 ゆりも逢はむと 下延ふる 心しなくは 今日も経めやも」
(訳:さ百合花のように後には必ず逢おうと心の中に思いつづけずして、今日の一日とて、どうして過ごせよう)(奈良県立万葉館さんから引用)とあって、心の底で思うことで間違いなさそうです。
なので、「こちづ」の「こち」は「ことば」で間違いなく、そこからして「こちたし」の「こち」も「ことば」と見なされているのでせうが、
例えば角川古語辞典の「こちたし」の用例万葉集2886は、
「人言(ひとごと)は まことこちたく なりぬとも そこに障(さは)らむ 我にあらなくに」
【人の噂がほんとうに うるさくなってしまっても そんなことでへこたれる ような私じゃないのにね】
(「讃岐屋一蔵の古典翻訳ブログ」さんから引用)
また、万葉集116は
「人言(ひとごと)を 繁(しげ)み 言痛(こちた)み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川(あさかは)渡る」
【人の噂(うわさ)がひどくて辛くても、(あの人に会うために)生まれて初めて(冷たい水の流れる)朝川を渡るのです。】(「たのしい万葉集」さんから引用)。
この2例の「こちたし」は、どちらも「人のことば(噂)」をまず言い、それが「募り、集まる」状況を言っていると思うのです。それは「うるさかったり」「辛くなったり」することになる状況とイコールなので、「うるさい」「つらい」が通用の意味になっているかと思うわけです。
「こちたし」の「こ」も、本来は「凝り集まる」の「こ」でいいんじゃ無いかと思うんです。が、どうでせう。
★そして、さらにいえば「ことば」の「こ」も「凝り集まる」意味合いが基層にあるんじゃないか、それは「声」の「こ」とも通底しているんじゃないかという気がしているのですが、まだ、よくわかっておりません。
●「こつ【木屑】」名(用例:万3548)
●「こづみ【木積み】」名(用例:2724)
➡これは単に状況描写?
●「こふ【恋ふ】」他ハ上二
意味:①思い慕う。(用例:万111)
意味:②異性を思い慕う(用例:万5
➡思う気持ちの凝縮のこと。
●「こもる【隠る/籠る】」自ラ四
意味:①中に入る。囲まれる。(用例:景行紀)
意味:②中に入って出ない。閉じこもる。(用例:万3326)
意味:③隠れる。潜む。(源・若紫)
意味:④社寺に泊まり込み祈願する。参籠する。(源・若紫)
➡名詞「こもり【隠(籠)り】」のほうが、上代用例いっぱいあるんですが、いっぱいなんで割愛します。
➡広い家に閉じ籠ることもあるでせうが、こもるといえばやはり凝縮されたような狭い空間に居るイメジじゃないでせえうか?
●「こやす【臥やす】」自サ四〘上代語〙
意味:「臥ゆ」の尊敬語。横におなりになる。(用例:万1800)
●「こやる【臥やる】」自ラ四〘上代語〙 意味:横になる(同:記・下)
●「こゆ【臥ゆ】」自ヤ下二〘上代語〙 意味:横になる(同:万3662)
➡掛けるものを被って寝ている姿は、床の上に横たわる固まりに見えると言う意味だと思うのです。
●「こらる【嘖らる】」自ラ下二 意味:しかられる(用例:万3519)
●「ころひ【嘖ろひ】」名 意味:声を大きくして叱り責めること(同:神代紀)
●「ころふ【嘖ふ】=ころぶ」他ハ四 〘上、ころふ〙意味:声を上げてしかる(同:万2527)
➡この「こ」はもちろん「声」の「こ」ですね。「ことば」のこです ね。ガミガミ言うのは、声、ことばを畳かける、凝り固まらせる感じなんですが、どうでせう。「おこられる」と今でも使ってますね。
●「こる【凝る】」自ラ四
意味:①寄り集まる。固まる。(用例:源・葵)
意味:②凍る(用例:万79)
➡「寄り集まる」という認識が追加明瞭になったのが平安時代ということでいいかと思います。「凍る」が万葉時代からあるように「凝り固まる」意識は、上代からのものですから。
●「こる【懲る】」自ラ上二 意味:こりる。こりごりする。(用例:万519)
➡「懲りる」というのは、さんざん「嘖られ」たときの思いとみていいんじゃないでせうか。
●「こる【伐る・樵る】」他ラ四 意味:木を切る。伐採する。(用例:万3232)
➡「こる(伐る)」が、硬い石や氷などには使われず、「木」を切るときにだけしか使われないことを考えると、「伐る」の「こ」は、「木」の「こ」なんでせう。
●「ころも【衣】」名 意味:①着物。衣服。(万1666)
意味:②僧が着る着物。法衣。僧服。(栄花・音楽)
意味:③蛾の羽、また、蚕の繭。(仁徳紀)
➡着物(布)も糸を織り重ねたものですから、「ころも」は、糸が凝縮している感じを言っているのかもしれません。
●「ころろく【嘶く】」自カ四 意味:ごろごろ鳴る。一説に、むぜぶ。(記・上)
➡これも「声」の「こ」かと思います。
●「こをろこをろに」副
意味:液体をかき回し、凝り固まらせるときの擬音語。用例:記・下〈雄略〉
「水こをろこをろに、こしも、あやにかしこし、高光る日御子」
《追記:記・上〈神代七代の顕現と神隠れのあと〉「鹽許袁呂許袁呂邇(塩こをろこをろに)」》
➡角川古語辞典では、上のように、雄略紀の例が上ってますが、追記した、上巻冒頭のイザナギ、イザナミが、天浮橋に立って、天沼矛を下界に指しおろして「海水」をかき回す「こをろこをろ」のほうが、古事記読者にはなじみ深く、より語意がストレートに使われている箇所ではないかと思います。
雄略紀のほうは、歌謡化された馴れた「口調」の用い方のような気がします。
「こをろ こをろ」(固まれ 固まれ)。イザナミとイザナミはそう唱和していたのだと思います。
★かき回すことで出来ていった淤能碁呂島(おのごろじま=自ら凝って成った島?)が、だんだん大きくなることを「肥ゆ」といったんじゃないでせうか?
〇あぶらつき
角川古語辞典で
●「あぶらづく【脂づく】」自カ四
意味:からだに脂肪が多くなって、皮膚につやがでる(用例:徒然8)
と、角川古語辞典は、この8段の意味内容で「あぶらづく」の見出しを立てています。
角川古語辞典で「あぶら」は、
●「あぶら【油・脂】」名
意味:⦅火に油をかけるといっそう盛んに燃えることから⦆おせじ。へつらい。(用例:浄・鎌倉三代記)
と、いきなり油から派生の語の意味説明で、まあ当然ながら「事典」じゃないから油の説明などありません。なので、連語なども、どれも上代以降のものばかりですが、中で「あぶらび【あぶら火】」は、意味:灯火用の油に灯心をひたして灯す火(用例:万4086)と上代から「あぶら」表現があったことを伝える内容です。
★何を言いたいのかと言うと、人肌の「つや」を保つものが「あぶら」「脂」であるという認識は、一般的だったのか? どれらい普及していたのかと思ったわけです。
★古事類苑データベースで「脂」を検索すると、『今昔物語』(第12巻19話 「盲女」の話があります。
盲目のゆえに貧しく食物を得るのも難しい女が幼い娘に手をひかれ、死ぬ前に一度と薬師仏に拜する。女が薬師仏に目を治してほしいと懇願すると、薬師の御胸から桃の「脂」のようなものがしたたり出、それを食べた女の目が見えるようになる。
桃の果肉を「脂」と捉える感覚は、『今昔物語』の中世に、皮膚(肉)内に「血」と別に「脂」があるという認識があったことを伝えているかと思ったのですが、
★『和妙類聚抄』巻第九「果蓏具百廿」の項に、「桃脂 神仙服餌方云桃脂一名桃膠〈毛々乃夜迩〉」(桃脂:神仙のダイエット法にいうところの桃脂ー名称「桃膠」<もものやに>」 という記載があり、桃の脂(汁?)自体が、神仙思想の妙薬的な「もものやに(脂)」という捉え方もされていたらしく、薬師の御胸から「桃の脂」が流れ出て来るのには、即物的な脂が流れ出てきたという意味だけじゃない意味もあったたようなのです。
★「桃」は、日本の神話でも、伊邪那岐が伊邪那美に投げて邪気を払う話がありますから、要注意物で、神話の「桃」が神仙的な食べ物の「桃」だったとしたら、きっとそれについて考察したPDFとかがどっかにあるんじゃないかと思うのですが、ここでは、深追いしません。
★『古事記』上巻の「天地開闢」冒頭にある、「次國稚如浮脂而。久羅下那州多陀用幣琉之時。」(次に国若く漂える脂のごとくして、クラゲなす漂えるの時)は、体の脂ではないでせうが、水に浮かぶ油の認識を示しています。
★このほか、古事類苑データベースで「脂」は、「魚脂」とか「松脂」とかいろいろあり、我々とそう違わない「脂(油)」感覚は古い時代からあったようにも思えるんですが、人肌についての、兼好の「艶」っぽい見方と通じそうなものはなかなか引っかかってきません。
万葉集でも既述の「油火」以外とくに引っかかりません。「脂」が人肌に「つや」を生じさせるというはっきりした意識で記述されたものは、兼好のやはりエッセイストとしての並々ならぬ眼差しのおかげなのかなと思うのですが、全く定かでありません。渉猟不足だとも思います。