老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

『徒然草』第7段(読み納めシリーズ)

1)第7段 要旨

 この世は限りがあると思うからこその趣き「あはれ」が生まれる。老いて「あはれ」を失った姿を晒すくらいなら40歳手前で死ぬほうがましだ。というようなことを兼好は書いています。なかなか強烈な主張です。どういうことなんでせうか。

 

0)前置き

以下の4点を参照しつつ『徒然草』をへたの横好き読解しています。

旺文社文庫『現代語訳対照 徒然草』(安良岡康作訳注/1971初版の1980重版版) 
②ネット検索                                                                                                                    ③『角川古語辞典』(昭和46年改定153版)
中公新書兼好法師』(小川剛生著・2017初版の2018第3版)

 

2)第7段 本文

 あだし野 の 露 消ゆるときなく、鳥部山 の 煙 立ちさらでのみ 住みはつる ならひ ならば、いかに  ものゝあはれも なからむ。

 世は さだめなきこそ いみじ けれ。

 命あるものを 見るに、人ばかり 久しきは なし。かげろふの ゆふべを待ち、夏のせみの 春秋を知らぬ も あるぞ かし。

    つくづくと 一とせ をくらす 程だにも こよなう のどけし や。 あかず をしと おもはゞ、千とせを過すとも 一夜の夢の 心ちこそ せめ。

 すみはてぬ世に、みにくきすがたを 待ちえて 何かはせむ。

 命長ければ 辱おほし。長くとも 四十にたらぬ ほどにて、死なむこそ めやすかるべけ れ。

    そのほど 過ぎ ぬれば かたちを愧づる 心もなく、人に いでまじらはむ  ことを思ひ、夕の陽に 子孫を愛し、さかゆく末を見む までの 命をあらまし、ひたすら世をむさぼる 心のみふかく、物のあはれも 知らず なりゆく なむ あさましき。

 

3)第7段 訳

(京都西方の小倉山の麓の)あだし野の墓地で消えるべき露(命)が消えず、(京都東方の清水寺南側辺りだったらしい)鳥辺山の火葬場の煙が立ち上って消える(人が死ぬ)こともないばかりで、人が(死なずに)住み続けるのがきまりならば、どれほど、ものごとの趣きということがないことだろう。

 この世は、無常(永遠でない)だからこそ素晴らしい。

  【寿命があるから人生は趣き深い】【メメントモリ

 命のあるものをみると人間ほど長生きなものはない。カゲロウは夕方を待って死に、夏の蝉は、春秋とも知らない(で死ぬ)ものもあるのだ。

 深い思いで一年を暮らす間だって、けっこうのんびりだったりする。ずっと(命など)にこだわっていたら、千年を過ごしたって一夜の夢ような心持ちだろう。

 永久に住むことができないこの世に、見苦しい姿がやってくるのを待ってどうするのだ。

  【長生きしてどうする】

 命が長ければ体裁の悪いことも多い。

  【長生きは恥じ】 

 長くたって、40歳に届かないくらいで死ぬことこそ、見見苦しくない。

  【見た目大事】 

 それくらいを過ぎると、容姿を恥じる心もなく、世間と関わることを思い、夕陽のように老い先短い中で子孫をあやし、栄えゆく先々を見届けるまでの余命を予測し、やたら現世に捉われる心ばかり深くなり、物ごとの趣き深さということも理解できなくなっていく。なんとも情けない。

  【老いはあはれ心を失う】

 

4)第7段 解釈的妄想

★兼好は、ただ老醜を忌むだけでなく、ホームドラマ的には、膝の上に孫を載せてあやす老いの微笑ましい光景が「あさまし」「情けない」と受け入れられないのです。

 孫を膝にのせてあやすような「気の抜けた」姿は到底容認できないようなのです。

★これが、鎌倉時代遁世主義者一般の傾向なのかどうか、ネットでいろいろとPDFとかあたってみたのですが、いまいちこれという資料に行き当たりません。

 枯淡な自然の風趣をしみじみ感得するというようなニュアンスを超えて、40前で死ぬくらいが「めやすし」とまで言うように、兼好はやたら「見た目」を強調します。

 第3段で「色好み」の「をのこ」を語った際も、王朝文学的な(一種時代錯誤的な)色好みのあらまほしき姿を並べていたわけですが、そこでも見え方、見られ方にこだわっていました。

 兼好は、今風に言えばヴィジュアルということ、もっと言えば「映える(ばえる)」ことに妙にこだわっていたような気がします。それはもちろん、『枕草子』や『源氏物語』などの平安の王朝文学への憧憬、こだわりに由来していると思われるわけですが、例のごとく定かではありません。

★因みに、同じく出家遁世人として有名な鴨長明は、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の藤原兼子(演者:シルビア・グラブさん)や、慈円(同:山寺宏一さん)と同年の生まれのようで、平安末期~鎌倉前期を生きた「鎌倉殿の13人」世代です。兼好生誕の67年ほど前に長明は没しています。

 その多少なりとも王朝文学(平安中期)に近しかった長明の『方丈記』での「あはれ」の用い方は兼好と比べて実に慎ましやかです。

 『方丈記』前半の自然災害などのルポルタージュ風の内容部分はともかく、後半の「(人の)世を遁れて」暮らす山里での隠遁生活を語る部分で、世(世間)に生きる人の生が、世のしがらみにがんじがらめになっているというような隠者的な分析はするのですが、王朝文学やそれを憧憬する兼好のような「あはれ」観の賛美のようなものはありません。それどころか、自分の隠棲生活に何の問題もないのかと自分に問うて、無口になって、ただ「南無阿弥陀仏」と三遍唱えて終えたという有名な結びとなります。

 ★鴨長明は、純粋に素朴に隠遁生活と自分とに向き合う生活をしみじみと「あはれ」に思っていたと思わせるのですが、兼好の場合は、繰り返しますが、そこにもう一枚、王朝文学への拘りというペダンチシズムみたいなものが挟み込まれていて、それが、兼好に「映える生」に妙な拘わりを持たせている、ような気もします。

 もちろん、定かではありません。

★小川剛生先生の『兼好法師』を読めば、兼好が『徒然草』をまとめ出した41歳(1324年)頃(年齢はめやすです)、和歌二条派の宗匠の二条為世に信頼され、二条家の「証本」(定家が貞応2年(1223年)に書写校訂した貞応本)をもって「古今集」を書写することを許されたそうです。

 つまり、兼好は、この頃から(あるいはそれ以前から?)、歌人としての活動も活発化させていたらしいので、兼好のペダンチシズムがどこらへんに向かっていたかも、おおよそ察しはつくような気がします。

 このことは、もちろん、そんな、「これから」の"野心家"が「出家遁世」「早死にの勧め」を熱く語る、兼好と『徒然草』の一大「疑問」に直結するわけですが、その答えを小川先生は、兼好の「尚古思想」も「遁世」も法師という社会秩序から少しだけ軸足をずらした身分で社会を自由に動き回るための方便だったと分析されているわけです。

 でも、現時点での状況証拠的に、世に出ようとする兼好と、それを『徒然草』で否定して見せる兼好の二面性の、いわば「根暗」(推定)な方に、「方便」という見方だけでは片付かない何かが有りそうな気がして、こだわって、この読み納めを続けているわけであります。

 

5)ことば とか あれこれ

〇あはれ

 「あはれ」は、『枕草子』など古典読むときの最頻出語で、聞きなれていますし、現代語の「哀れ」だけじゃないってことは、まあ、だいたい皆わかっています。ですが、そもそも「あはれ」って語の由来はどうなのか?

★角川古語辞典を見ると、この語は、「ああ」という感動詞からうまれたことばのようです。「ああ・・だ」のいろんな意味が上がってます。

●「あはれ」

  意味:①「いとしい」「なつかしい」の用例

 「尾張(をはり)に直(ただ)に向かへる一つ松あはれ」(書紀・景行紀)。

  ➡これは、いとしい思いが溢れ出て「ああ」と嘆じたり、懐旧の念に打たれて「あぁ」と嘆じたりする「あはれ」。わかります。

  意味:②「かわいそうだ」の用例

 「飯(いひ)に飢(ゑ)て、臥(こや)せるその旅人あはれ」(書紀・推古紀)。

  ➡これも、ほんとうに可哀想な人をみた時などに、ただどうすることもできず、手で口を塞ぎながら呻くように「ああ」と嘆く「あはれ」。これもわかります。

 西洋人なら「オォ」と嘆じるところを、やまとびと(倭人)は、「ああ」「あはれ」と古代から詠嘆してきたということのようです。

★それが、上代から平安中古時代に移る中で、形容動詞(ナリ活用)としても使われ(古文の多くはこの使い方でせう)、また、名詞的にも使われ、また、「あはれがる」(他ラ四)、「あはれぶ」(他バ四)、「あはれむ」(他マ四)などの動詞としても使われるようになった。みたいです。 もちろん定かではないんですが。

★角川古語辞典 

●「あはれ」

 [1]感動詞 うれしいにつけ、悲しいにつけ、しみじみとした深い感動を受けた時に発する語 ああ 

  意味:①ああ(いとしい・なつかしい)(用例:景行紀) 

  意味:②ああ(かわいそうだ)(同:推古紀) 

  意味:③ああ(悲しい)(同:栄花・根合) 

  意味:④ああ(情けない)(同:源・夕顔) 

  意味:⑤ああ(残念だ)(同:徒然167) 

  意味:⑥ああ(うれしい)(同:紫式部) 

  意味:⑦ああ(感心だ・おもしろい)(同:栄花・根合) 

  意味:⑧なるほどまあ (同:徒然194) 

 [2]形動ナリ 

  意味:①しみじみとした情趣がある(用例:枕1) 

  意味:②感に堪えない (同:枕262) 

  意味:③悲しい(同:源・桐壺) 

  意味:④かわいい いとしい (同:源・空蝉) 

  意味:⑤りっぱだ 感心だ (同:源・桐壺) 

 [3] 名詞 「あはれ」と思う感情を名詞的に使う 

  区別:①しみじみとした情趣として (用例:源・花宴) 

  区別:②悲哀として (用例:平家10) 

  区別:③愛情、好意として(用例:源・帚木) 

  区別:④人情として(用例:源・賢木)

 

〇いみじ  

 「あはれ」について触れたなら、「いみじ」も触れざるを得ません。既に、第1、第2、第3段で既出ではあるのですが。

★「いみじ」を角川古語辞典で見ます。 

●「いみじ」形シク 

  意味:①たいへんだ 恐ろしい (用例:源・若葉)  

  意味:②はなはだしい なみなみでない (用例:源・桐壺) 

  意味:③たいへんすぐれている すばらしい (用例:源・桐壺)

 と、用例はどれも「源」=源氏物語、つまり、平安時代中期の作品からの用例ばかりで、上代の用例がありません。

★古事類苑のデータベースで検索すると204ページもヒットして大変ですが、古事記日本書紀の用例はないようです。

★『万葉集』に用例を探してもヒットしません。「いみじ」は、平安期以後使われ出したことばのようです。

★ここから、とんでも論の開始です。

 「いみじ」に近しく思われる上代のことばを探します。

●「妹(いむ)」⦅上代東方方言⦆〔いも〕に同じ。(用例:万4364)

●「忌む・斎む(いむ)」[2]他マ四 慎んで避ける。禁忌とする。憚る(用例:万2441)

●「夢(いめ)」ゆめ(用例:万4284)。

 この中で、やはり「忌む・斎む(いむ)」の「慎み避ける」「忌避する」の意味合の語が、①の「たいへんだ」「おそろしい」に意味が転化しつつ「いみじ」ということばを編み出し、その「いみじ」はさらに②「はなはだしい」「なみなみでない」意味も包含し出し、③「たいへんすぐれている」「すばらしい」の意味合いにまで進んだ、というような「いみじ」の語の生成過程を想像するのですが、もちろん定かではありません。

 

〇めやすし  

角川古語辞典では、

「【目安(易)し】形ク 見苦しくない 無難だ (用例:堤中納言・花桜)〈対義語〉見苦し」 と記されています。

 「堤中納言物語」は平安中期=中古の作品ですから、「めやすし」ということば自体は上代からのことばではないようです。 

 ひらがなで「めやすし」と読むと一瞬何?と思いますが、「目安し」などの漢字を見るとなんとなく了解できます。

★「めやすし」関連の上代語は、この語の周りには見あたりませんが、「安し」形ク、「易し」形クはそれぞれ上代からの語のようです。

●「安し」形ク 意味:心がのどかだ。安泰だ。穏かだ。(用例:万897)
●「易し」形ク 意味:①容易だ。やさしい。(同:万3743)(同:謡・采女)⇦謡は謡曲=近世です。

●意味:②簡単だ。凝っていない。(用例:徒然116)⇦徒然は「徒然草」=中世

 このほかにも、「安寝(やすい)」「安田(やすだ)」「安の河(やすのかわ)」「安の渡り(やすのわたり)」などが上代からのことばで、「安(やす)・・」「安し」の用法は古くから人々が慣れ親しんできた言い回しのようです。「目」を「め」と呼ぶのも、上代からのようです。

★「やすし」に「目」を冠して「目にやさしい」「見た目おだやかな」という言い回しを追加したのが中古の人々だったようです。定かではありませんが。

 

〇あらまし

 これは、「あらます」他動詞サ行四段活用の動の連用形で、前もって計画する 予期する などの意味のようです。用例は『太平記』で室町時代。周辺にある上代語は「あらませば」(用例:3579)のみで、それ以外は、

●「あらまし」名詞 ①予期すること。予想。②概略。(同:太平記9)

●「荒まし」形シク 荒い。荒々しい。(同:源・若菜)

●「有らまほし」形シク そうありたい。のぞましい。(同:徒然1)

 など、すべて中古以後で、「あらまし」「あらます」などの「予期」がらみのことばは、室町時代あたりからの言い回しらしく、我々もよく「概略」の意味で「あらまし」と使いますが、それは、その頃からの用法のようです。 定かではありませんが。

   

〇あさまし

 最近、現代語の「あさましい」ということばは、日常ではあまり使わない気がします。ドラマなんかではまだ聞くような気がします。

 現代語の「あさましい」の意味をネットで探ったらたくさん解説が上がってましたが、Weblio辞書さんの「実用日本語表現辞典」からの引用解説が意を尽くしているように思いました。

 ドンブリ勘定圧縮要約すると、「品性を欠いた人や状況をいうことば」のようです。

 そして、現代語ではそのように悪い意味で使う語だけど、古語では良くも悪くも驚いた時の語が「あさまし」だったと「実用日本語表現辞典」さんは指摘しています。

 「あはれ」が「ああ、あはれ」だったように「あさまし」も「ああ、びっくり」みたいなことだったのでせうか?「ああ、目が覚める」みたいな。

 そこらへんを邪推しようとするのが、この書き込みですが、その前にもう少し、現代語の「あさましい」にこだわります。

★現代語の「あさましい」は「せこい」に置き換わってきてるんじゃなかろうかと思ったのです。

 「せこい」は辞書的には、「悪い、みにくい、下手、けちくさい、ずるい、料簡がみみっちい(goo辞書「デジタル大辞泉」)」というような意味らしく、ケチの意が強い気がしますが、まあ、ほぼ「あさましい」の品性欠落指摘ニュアンスと重なるかと思います。

 「せこい」は、明治期の芸人ことばが一般化したとあります。現代でも、昭和40年代前半くらい(自分の小学校期くらい)までは郷里の福岡南部では「せこい」は使ってなかったと思うのです。

 中学・高校のころ大阪のTV番組の「ヤングオーオー」の明石家さんまなんかの喋り口調に影響され、いつの間にか使っていたように思います。いわゆるブロークンな口語表現なわけです。ですから、今でも真面目なアナウンサーなどは、真面目な話の中で「せこい」を使うことは、ほぼないと思いますが、数十年後くらいにどうなっているか?です。

★本題にもどり、古語の「あさまし」を角川古語辞典で見てみます。

●「あさまし」形シク 驚きの気持ちを表すのが原義で、良い時にも悪い時にも用いる。 

  意味:①意外だ びっくりだするほどだ。(用例:枕7/蜻蛉・中/更級)   

  意味:②あきれてどうしようもない(同:堤中納言/虫めづる) 

  意味:③なげかわしい 情けない(同:枕289/徒然7) 

  意味:④卑しい 貧乏だ(同:浄・扇八景)

 「実用日本語表現辞典」さんご指摘のとおり、平安期の①驚く、②呆れるというびっくりマークな状況、まさに「!」を付つけたい時が「あさまし」だったようですが、徐々に、驚きの中に③の「なげかわしい」思いが交じり込み、近世に至っては④の卑しさへの歎き、ケチ臭さへの歎きも紛れ込んでいった、という風に点と線の読書感想文派は捉えます。

●「あさましげ」形動ナリ 呆れるような(用例:枕7)、

●「あさましがる」自ラ四 驚きあきれる(同:枕289)

 などが、同類語としてありかすが、もちろんどれも平安中古以降のことばです。  

★現代語の「あさましい」の語源説明では、

●「あさむ」

 [1]自動詞マ行四段活用

  意味:びっくりする。驚きあきれる (用例:更級、平家6)、

[2]他動詞マ行四段活用 

  意味:あなどる。卑しめる(同:徒然41)

 が語源だとされているのですが、古語の「あさまし」もそうなんでせうか?

 確かに、上で見たように、意味内容として、「あさむ」の[1]の中古中世の意味合いは「あさまし」の中古の意味に対応し、[2]の中世内容は「あさまし」の近世の意味合いに対応するので、「あさまし」は「あさむ」から出たと言ってもようさそうな気もします。それは、そうだったかもしれません。 

 中古の時代に「あさむ」が編み出され、すぐに「あさまし」と形容詞としても使われるようになった。ありそうです。

★ところで、「あさむ」という語の音では、もう一つ

●「浅む」自マ四 

  意味:浅くなる(用例:万969)

 という上代からのことばがあります。上代ですから、こちらがより古くからあることばです。
  音が同じなので、何か関連があるような気もするのですが、意味的には「おどろいた。びっくりする」と「浅くなる」には相当の距離があり、両者を結びつけるのには無理があるように思われます。

 むしろ「驚く」の「あさむ」は、遣唐使船でやってきた「印欧語族」系の外人が、「オーサム」って驚いていたのが語源だったみたいな完全なトンデモ話のほうが、ウケがいいかもしれません。閑話休題

★「浅む」は、当然「浅い」の「浅(あさ)」が冠ですから、その「浅」の語感から、

●「漁り(あさり)」(水深の浅い所をあさる=海人の釣り船ということばは『万葉集』にあるので、釣りと漁りの違いはあったのでは)、

●「漁る(あさる)」(獲物をもとめて歩き回る=英語のbrowseブラウズ=表層喰いと同義?)、

●歩き回るところの意味が強まり「あざる」(うろうろ歩き回る。さわぎ回る)、

●獲物をもとめて動き回るところから「遊ぶ(あそぶ)」、

●色が浅くなっていく「褪す(あす)」、

●崖の表層の崩れやすい部分「あず(崩岸)」

 などの上代語は生まれたと思うのです。

●「あざむく」も人の信を深く受け止めず、浅い所で捻じ曲げるというような意味なのでせうか(これは全く定かでありません)? 

●「朝」(日がまだ深くない)や、

●「麻」(上代感覚では薄手の衣が作れた?)なども

 「浅さ」の、仲間なんでせうか? 

●「鮮らけし(あざらけし)」(新しい。新鮮だ)という上代語もあったそうですから、中古に登場する「鮮やか」などは、この系譜なんでせう。

●「鯘る(あざる)」(魚肉などが腐る)という仁徳紀に見えることばは、崖がくずれる「あず」のような崩れる感じなんでせうか? 

●「あそそに」という副詞は(うすうすに。ほのかに)という意味なんだそうです。

★こうやって、どこかに、「あさむ」が「浅む」と見た場合の「あさまし」との関係性を見回しているわけですが、みつかりません。となると「あ+覚む」はどうかなと、初めの方で思った「妄想」を思い出すのですが、上代に「覚める」意味の「さむ」はないようです。「寒し」はあるのですが。一縷の望みとしては「さまよふ【吟ふ】」=嘆いて声を上げる。うめく。というのがあるのですが、一縷の望みです。