老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

『蜻蛉日記』 道綱母さんが書かなかったこと

 

 『蜻蛉日記』の陰謀論的解釈

 

1)道綱母さんの深慮の続き

 2月29日閏日に、「『蜻蛉日記道綱母の評判」で、道綱母さんが『蜻蛉日記』に、旦那の兼家(かねいえ)の"御岳詣(みたけもうで)〈安和2年5月の話〉"のことと、そのすこし前に起きた「安和の変」で失脚させたれた源高明の後妻・北の方(愛宮あいのみや)との手紙のやり取りのこととを書いたのは、「安和の変」の首謀者探しの嫌疑が、旦那の兼家に及ぶのを逸らそうという意図があったらしい、という説のあることを書きました。それらが、日記的には安和2年7月ころまでの話です。

 続いて8月に入ると(和暦の安和2年8月1日は、西暦では969年9月15日らしいです「ke!+san 和暦から西暦」さんのサイトから)、旦那である兼家(かねえいえ)の父・師輔(もろすけ=既に物故者。藤原忠平二男)の弟(つまり兼家にとっては叔父らの一人)である"小一條の左のおとゞ(大臣)"藤原師尹(もろただ=忠平五男)の50歳の誕生祝いの騒ぎのことや、そして、それに絡み、自分(道綱母さん)が、左衞門の督(かみ) <この方は、国文大観の原文では藤原濟時(なりとき=師尹次男)とされていますが、当今は、この時期にその役職だったことが確実視されている藤原頼忠(よりただ=NHK大河『光る君へ』で橋爪淳さんが演じている)に比定されているようです(※1)>  から、師尹(もろただ)にプレゼントする、屏風の絵に添える和歌を作ってほしいと頼まれた話などが描かれます。

(※1)蜻蛉日記の屏風歌と安和の変」徳原茂美(武庫川女子大学リポジトリのpdf

 ネットググるとすぐに、師尹と兼家の従者の喧嘩と乱闘というようなことがひっかかってきます。そういうことは、道綱母さん自身の従者と時姫(兼家正妻)さんの従者との間でも小競り合いがあったことが『蜻蛉日記』の中に記されていますから、それがために師尹家と兼家家がいつもバチバチの関係にあったとは言えないのかもしれませんが、なにがしか思うところはあったのか?

 しかしまあ、それが"主な"理由なのか、あるいはもっと違う理由なのか(※2)、道綱母さんは、この依頼に乗り気でなく、いやいやながら受けて、9首(絵は8つながら、5番の絵で2首)も作るのですが、最終的に採用された2首の内訳を聞いて、

  「ものし(きにくわない)」

とポツリ。

 そして、そのあと9月、10月については、次のようにチャチャッとひっくるめます。

  「かうなど し ゐたる ほどに、秋は暮れ 冬に なりぬれば、何事にあらねど 事 騷がしき こゝちして ありふる中、しも月(11月)に・・・」

 (こんな風にしていた間に、秋も押し詰まり冬になってしまったら、何がどうということでもないけど、なんだか落ち着かない心持ちで日を過ごして、11月に・・・)

 その11月には、ドカ雪が来て、その降り積もる雪と、兼家がなかなか訪れてくれないまま歳を重ねていくわが身を重ね合わせ、(暗い?)雪景色のなかで鬱屈した気分で年末迎えます。

 ただ、年が明けた(西暦的970年)正月の「賭弓(のりゆみ)」から3月頃の舞の行事にかけて幼い息子・道綱の活躍シーンが描かれ、道綱母さんは日記中でも一番楽しそうな時期を迎えるのではありますが(中巻までを読んでの感想です)。

 

2)あなたは段々怖くなる

 道綱母さんが、チャチャッとひっくるめたその10月に、実は、8月に50の誕生祝いで騒いでいた小一條左大臣藤原師尹が突然亡くなっています。発音障害を伴う病でだったそうです(Wikipedia)。発音障害!!!???。

 道綱母さんは、なぜ、その話を書かなかったんでせうか?

 NHK大河ドラマ『光る君へ』で、兼家(段田安則さん)による? 円融帝への「毒盛り」を、詮子(あきこ=吉田洋さん)が声を荒げて非難するシーンがありました。詮子は、父兼家との決別に近いことばすら発していたかと思います。なんで、あんなシーンが描かれなければならなかったのか。 

 ネットを見ると、円融帝への「毒盛」はこのドラマの創作のようです。史料的には、毒盛の傍証はみつからないということかと思います。

 ただ「安和の変」のころ(「光る君へ」の頃の約10年前)からあとの藤原一門に起こった出来事を Wikipedia 等で虚心に追っかけてみると、このシーンをわざわざ入れて、兼家の性格付け、もしくはこの時代の性格付けをしようとした、脚本家の大石静さんの心中が察せられるような気にもなります。

 要するにまあ、天皇との縁が深まるなどで、なにがどう転んで出世に邪魔になるようなことにもなるかどうかわからない? 兼家の伯・叔父貴連が、奇妙にこの時期に亡くなっています。

 忠平長男の藤原実頼(さねより)は、翌、天禄元年5月18日(970年6月24日)享年71歳で没します。この方は、年齢的に寿命であったのかもしれません。皇室に送り込んだ娘たちに子が出来ず(天皇外戚になれず)、北家長老格といいながら既にヘゲモニーは、甥の(師輔の子)伊尹(これただ)、兼通(かねみち)、兼家らに奪われていたようですから、道綱母さんも書きやすかったんでせうか、『蜻蛉日記』に4月の出来事としてさらっと書いています。

 忠平四男の藤原師氏(もろうじ)は、天禄元年7月14日(970年8月23日)享年58歳の若さで亡くなっています。その死因については特に語られていないようです。師氏は、上巻で、道綱母の「初瀬詣」の帰り道に、宇治川そばの所領で、そこまで迎えに来ていた兼家らともども歓待した按察使大納言その人ですが、師輔のように皇女の降嫁を受けながらも、弟の師尹に出世で遅れをとったらしいので、兼家の邪魔になるような存在ではなかったのか、どうか。亡くなった7月頃の『蜻蛉日記』は、道綱母石山寺詣を記し、師氏の死には一切触れていません。そして翌971年の7月頃に、二度目の初瀬詣を行った際に宇治院に立ち寄り、故人が丹精込めていた邸を眺めて「一周忌なさっただろうに、それから間もなかろうに、もう荒れている」と心ぼそい気持ちを記します。

 とまれ、没年未詳の忠平三男の師保(もろやす)を除く伯・叔父貴連の全員が、この天徳元年(970年)までに姿を消します。

 伯・叔父貴連それぞれの立ち位置、意味合いとか、あるいは、天皇親政を行いたい天皇に対し、その妻妾に一門の娘らを送り込んで外戚関係で天皇をがんじがらめにしようとする藤原一門といったことまで含め、そういう時代なんだということを、「毒盛」は表現しようとしていたんじゃなかろうかと、そんな妄想を逞しくするのですが・・。

 一種の陰謀論的解釈過多の読み方だとは思うのですが、そんな時代の傍らで「なんだか落ち着かない心持ち」とだけしか書かなかった、道綱母さんの心中も、陰謀論的解釈してしてみるわけであります。

 

(※2)道綱母さんが、屏風絵に添える歌の詠作に乗り気でなかったことについては、蜻蛉日記中巻「屏風歌詠作」の記事をめぐって』宇留田初実聖徳大学の先生J-Stageのpdf)が、歌人の位階というような角度からの専門家の深い考察で、道綱母さんの人となりの理解までかなり深まり、すごーく参考になります。

 また、二松学舎大の先生だったらしい雨海博洋先生の「時姫」(ネットのpdf)も、道綱母さんと『蜻蛉日記』理解の上でとっても参考になりました。