老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

『徒然草』第1段 後半(読み納めシリーズ)

1)第1段 後半 要旨

 願わしき、あらまほしき視線を、個々の人々に向けます。容貌・身なりの大切さ、心持ちのよさや愛嬌よきことの好もしさ。身分は固定ながら、心の賢さを求めるのは身分に関わらないと言い、無教養はよくなく、学識・教養を身に着け、宮中の諸事に明かるければ言うまでもないと語り、字が上手で声も良くてノリもよく、(酒を飲むのを)難儀そうにみせつつも下戸で無いような男はいい、などと述べます。

 一読して感じるのは、兼好の眼差しの繊細さ、感性の鋭さです。立派そうに見えた人がそうでもなさそうな素振りに敏感に反応したり、本来はもっと丁寧に扱われるべき人が少し零落れて身分の低い人たちからも蔑ろに扱われている微妙さの表現とか、清少納言らに負け劣らぬエッセイストとしての力量を感じます。

 身分固定的な感覚は、時代的なもので、とやかく言ってもしかたないかと思います。兼好自身は先述の通り、身分社会からちょっと外れて、斜に社会を眺めてはいるのですが。

   

0)前置き
以下の4点を参照しつつ『徒然草』を、下手の横好き読解しています。
旺文社文庫『現代語訳対照 徒然草』(安良岡康作訳注/1971初版の1980重版版) 
②ネット検索 
③『角川古語辞典』(昭和46年改定153版)
中公新書兼好法師』(小川剛生著・2017初版の2018第3版)

 

2)第1段 本文 後半

 人は かたち ありさま の すぐれたらむ こそ あらまほし かる べけれ。もの うちいひたる 聞きにくからず、あいぎやう ありて 詞多からぬ こそあかず  むかはまほし けれ。めでたし と 見る 人の 心おとり せらるゝ、本性 見えむ こそ 口をしかるべけれ。

 しな かたち こそ 生れつき たらめ、心は などか  かしこき より かしこきにも うつさば うつらざらむ。かたち  心ざま よき人も、ざえ なくなりぬれば、しな くだり、顏 にくさげ なる 人にも 立ちまじりて、かけず  けおさるゝこそ ほいなき わざ なれ。

 ありたき ことは、まことしき 文の道、作文、和歌、管絃の道、また 有職に公事 のかた、人の かゞみ ならむ こそ いみじ かるべけれ。手 など つたなからず はしりがき、聲 をかしくて 拍子とり、いたましう するものから、げこならぬ こそ をのこは よけれ。

 

3)第1段 訳文その2

 人は、容貌・容姿が優れているのこそ望ましいものだろう

  【見た目大事】、

 何かを何気に話しても、聞き苦しくなく、情味があって、お喋りでないのが、嫌になることなく向き合ってたいものだ。

  【人柄・愛敬大事】

 立派だと思っている人が、思っていたより劣ると思ってしまう、本来の姿が見えたりすることぐらい、情けないことはない。

  【品格偽装嫌い】 

 家柄や容貌ばかりは生まれつきだろう、

  【家柄身分固定】

 (しかし)知識はどうして、より賢く素晴らしい方に移そうとして移せないことがあるだろうか。

  【人は賢く成れる】

 容貌、気立てのいい人も、学が無いとなると、身分が下の方で、顔も醜くそうな人たちに混じって、問題にもされず圧倒(蔑ろに)されるのは、(本来ここにいるべき人ではないのだがと)残念な次第だ。

  【無学無教養嫌い】 

 (男が)そうありたいと思うことは、正しい学問、漢詩、和歌、楽器演奏、

  【学識教養大事】

 また、朝廷の諸知識、公務の知識、それらが人の鏡くらいになることが立派なことだろう。

  【有職故実情熱】

 字なども下手でなくすらすらと書き、声も美声で拍子とったり、難儀そうにしながらも下戸ではないのが、男としてはいい。

  【下戸はよくない】

 

4)第1段 妄想解釈

 第一段全体は、「自分の考え」を披瀝することによる「自己紹介」の段だと思うのです。

 その自己紹介を誰に向かって行っているかというと、漢籍とか、『枕草子』や『方丈記』などの随筆や皇族・公家らの『日記(にき)』などを読んでいた当時(鎌倉時代)のインテリ層、皇族、公家、上級武士階級、僧侶階級などだったろうと思うのですが、写本の時代ですから、今みたいに発刊したら世の中に出回るような時代ではないので、インテリ一般という意味ではなく、今後、自分が出会うであろうインテリ層です。

 というのは、安良岡先生や小川先生の本を参考にすると、1318年の後宇多法皇院宣によって編纂が開始された勅撰和歌集『続千載集』が1320年完成し、兼好は1首初入集されているのですが、この時期、兼好は、自分の土地を後宇多庇護下の龍翔寺に売却し(記録的には1322年?)、和歌歌壇へのデビューのきっかけをつかんだらしいのです。

 そして確定してはいないらしいのですが、『徒然草』は、1319年頃に書きはじめられた、という見方があるようです。
 諸々つながりが広がり始めた時に、『徒然草』を書き始め、その冒頭に兼好は、そういった人々へのご挨拶のようなかたちで、わたしという人間はこういう考えのものですと、自身の考えを記していった。ありそうな気がします。

  

5)ことば とか あれこれ

〇かたち  

◆「かたち」は、角川古語辞典では、【形・容・貌】の漢字が当てられています。

  意味:①外に現われたさま。形態。(用例:神代紀上代) 

  意味:②人の顔かたち。容貌。(同:源・空蝉) 

  意味:③姿。容姿。(同:竹取)(同:雨月・浅茅が宿) 

  意味:④かおつき。表情。様子。(同:万3796上代

 ①顔の「形」・輪郭的な意味合い、④顔の「表情」・内容的意味合いが、上代から「かたち」に含意されて語られていたことがわかります。つまり、上代から「顔」をあらわすには「かたち」で十分だったように思うのです。  

★じゃあ、「かほ(かお)」はどういうことばか。

◆角川古語辞典で

●「かほ(顔)」名 は、

  意味:①顔面。容貌。(用例:掲示なし) 

  意味:②物のおもて。表面。(同:竹取)とあります。

 『竹取物語』(平安中期)の頃、「ものの表面」意識が「かたち」から分離した、上代にはなかったことばかとおもったのですが、実は、上代に、

●「かほがはな【顔が花】」

  意味:美しい花。(用例:万・3575

●「かほどり【顔鳥】」

  意味:美しい鳥。(同:万1898

●「かほばな【顔花】」

  意味:「かほがはな」と同じで美しい花(同:万1630

 などのことばがあります。「顔」は「美しい」が本義だったようなのです。 

★因みに、角川古語辞典は、「かほ」の漢字表記を「顔」で統一していますが、引用それぞれの原文を Wikisource で見ると、原文の表記は、

●「顔が花」は「可保我波奈」、

●「顔鳥」は「鳥」、

●「顔花」は「花」で

 「顔」表記は、後代のものらしいことがわかります。 

★では「かほ」が「美しい」の意というのは、どういうことなのか? 

 (こっからトンデモ解釈スタートです)、

「か」には「光」のようなキラキラ輝くものの意味が含まれていて、(ex,「かがよふ」「かがり」「かぐつち」「かげ」等)それを

 「ほ」(「祝」「秀」などの意味語)で「ことほいだ」感じかと思うのです(あくまで妄想です)。

★その美称・雅語だった「かほ」が、「かおかたち【顔容】」「花のかんばせ」みたいな使い方されていくうちに「顔」そのものの意味に通用していって、兼好にいたっては「顔にくさげ」などと、人となりの意ある「容(かたち)」に対し、それを除外したような表面的な「顔」そのものとして、記すまでに至った、というような「かほ」ということばの歴史があったなどと妄想するのですが、どうでせう。

 

〇ありたきこと

 最初気づいていなかったのですが、「まことしき文のみち」以下のことは、すべて男子の教養という考え方を前提としているかと思います。安良岡康作先生の現代語訳が、「ありたきことは」を「男として身につけておきたいことは」と訳されているのを見、だいぶたって、はっと気づきました。

Wikipediaの「日本の女性史」とか見、きわめてざっくりな言い方すると、757年の養老令の医疾令の中に、女医育成制度として「官戸の若い女性から頭脳明晰な30名を採用」のような記録が残っているなど、女性の学問が行われていなかったわけではないことが確認できるものの、表面的には、ずっと学問は男についてだけ語られて来たらしいです。この女性が学問の領域でまったく影の部分に入れられてしまったこと、且つ、女性は「菅原孝標女」みたいに、名前すらはっきりさせないでもずーっと平気だったのはなぜなのか? 読書感想文派の手に余り過ぎる問題ですが、母系社会との関連でとっても興味そそられます。

紫式部の漢文素養の話とか、『更級日記』の菅原孝標の女(むすめ)が幼い頃から源氏を読んでいたとか、あげればきりがないのでせうが、もちろん、すべての女性がではなかったでせうが、女性も読み書きを習い、中には紫式部みたいに、高等的な教育を受けた女性もいたし、笛・琴(管弦)に巧みだった女性も沢山いたのに、語られる学問の意識の世界は女性はオミットされ続けて来た。

★(こっから空想ですが)家の仕事と女、外の仕事と男という、最近指弾されている男女の役割分担意識(昭和、平成のころまで、当たり前だとされてきたといわれている)が、実は、数千年来のものだったんだなあと、思うわけです。そういう、今はまだ、得体のしれないとしか言いようのない「当たり前意識」の中で、どうも外と内とを分ける意識作用があって、外のことと捉えれた学問は、男前提の意識のなかで語られ、(家で女が読み書きを習うのも意識にのぼらないくらい当たり前だったから)女の学問なんか、近世(江戸時代)になって、寺子屋教育が語られるようになるまで、ずーっと語られることがなかった。ということ? 定かではありません。

★そう思って、訳文に、(男が)のパーレン補記を入れた次第ですが、もちろんこれも、定かな話というわけではありません。

 

有職  

Wikipediaの説明。有職(ゆうそく、うしき、ゆうしき、ゆうしょく) 

《 ①公家・武家などの行事、儀式、官職等に関係する知識と、それに詳しい者のこと(ゆうそく)。

 ②僧綱に次ぐ地位にある僧侶の職名(僧職)で、已講、内供、阿闍梨の総称のこと(うしき)。

 ③教養、才知などの諸芸や家柄、容貌などに優れていること、また、優れている人のこと(ゆうしき)。

 ④職業を持っていること(ゆうしょく)。 》(Wikipedia) 

★まあ、この段の「有職」は①で、「有職故実」のことでいいでせう。

有職故実(ゆうそくこじつ)とは、

 《 「古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと。また、それらを研究すること。》(Wikipedia)らしい。

★今日でも冠婚葬祭のマナーとか、儀式、作法は人々の体面・世間体を縛ります。皇族と公家、そこに武家が加わって、マウントの取り合いをしていた中古・中世の社会で、有職故実知識の競り合いが異常に発達したようです。

★科学とか〇〇学とか、客観的な認識、物差しを持っていなかった社会は、遡れば天帝の思し召しにでも沿うような「正しい淵源の前例」こそがこの世の物差しとしてもっとも相応しい、価値の高いものとみなされていたようです。

◆以下も長いですがWikipediaからの引用です。

 《 平安時代の中期から先例を伝える知識の体系化が進み、藤原忠平の執政期に儀礼の基本形が確立した。忠平は本康親王・貞保親王を通じて受け継いだ父藤原基経の知識、兄藤原時平の説、勅命や外記日記を参照して合理的な儀礼体系を作り上げた。

 忠平の知識は口伝によって二人の子に受け継がれ、兄実頼の小野宮流、弟師輔の九条流という2大儀礼流派が生まれた。また忠平五男師尹の小一条流も発生し、のちに九条流から御堂流が成立した。

 院政期には源師頼を祖とする土御門流(村上源氏系)と源有仁を祖として縁戚の徳大寺実定・三条実房が完成させた花園流(閑院流系)もあったとされている。

 ・・後に官司請負制が浸透すると、有職故実を家職とする家(徳大寺家(九条流)、大炊御門家(御堂流))も現れた。
 ・・有職故実書の中でも、源高明の『西宮記』、藤原公任の『北山抄』、大江匡房の『江家次第』の三書は「後世の亀鑑」と仰がれ別格扱いであった。

 ・・鎌倉時代以降には専門的な研究が盛んとなり、儀式については順徳天皇の『禁秘抄』、後醍醐天皇の『建武年中行事』、一条兼良の『公事根源』、官職制度については北畠親房の『職原抄』、服飾については源雅亮の『雅亮装束抄』などの有職故実書が著された。 》

★長たらしくて恐縮ですが、また、挙がっている諸書の詳しいところなどは、その手の本や資料に当たって頂くとして、古典に頻出する「有職故実」とその知識の競い合いというものが、それ自体は行事や儀式、生活諸般の決め事の話ながら、実はその裏に、皇族や公家、新たに勃興した武士らの、既述のようにそれは、突き詰めて言えば「食うため」のマウントの取り合いが繰り広げられており、それであるからこそ有職の知識は尊ばれ、兼好が有職への情熱を傾けるモチベーションとなっていた当時の様子がこの長たらしい説明から忍ばれるかと思うわけであります。