老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

『徒然草』第3段(読み納めシリーズ)

1)第3段 要旨

 第2段で学問の大切さにを語った兼好は、もうひとつ、あらまほしき男(をのこ)に欠けてはならないこととして色好みを語ります。

 放蕩・淫蕩はよくないが、女性たちから一目置かれるような(『源氏物語』の光源氏のような、『伊勢物語』の主人公のような)プレイボーイたれといいます。

 しかし、この兼好の「色好み」推奨は、このあと「色好み」のことば解説で、ちょっと時代錯誤のものいいをしているらしいことを確認します。

 また、後の段で、兼好の家族観や女性観などを見ていく時、兼好という人のなかなかに独特なインテリ心情と、どう整合性とって受け止めればいいのか悩むことになります。

   

0)前置き
以下の4点を参照しつつ『徒然草』を、下手の横好き読解しています。
旺文社文庫『現代語訳対照 徒然草』(安良岡康作訳注/1971初版の1980重版版) 
②ネット検索 
③『角川古語辞典』(昭和46年改定153版)
中公新書兼好法師』(小川剛生著・2017初版の2018第3版)

 

2)第3段 本文  

 よろづ に いみじく とも、色 このまざらむ 男 は いと さうざうしく、玉のさかづきのそこなき心ち ぞ すべき。

 露霜 に しほたれ て、所 さだめず まどひありき、親 の いさめ、世 の そしりを つゝむ に 心 の いとま なく、あふさきるさに 思ひ 亂れ、さるは 獨ね がちに まどろむ 夜 なき こそ をかし けれ。

 さりとて ひたすら たはれたる 方 には あらで、女に たやすからず 思はれむこそ あらまほし かる べき わざ なれ。

 

3)第3段 訳文

 いろいろなことがすごくても、色好みでない男は、ひどくうすら寒い感じで、「玉の巵(さかづき)の當(そこ)なき心地」っていうようになんか足りない感じだ。

  【色好み推奨】 

 夜霧朝露で衣服を濡らし、あちこち点々とさ迷い歩き、親の諫めや世間の悪評を気にして心の休まる時なく、あれやこれやに思い乱れ、そうではあるが、一人で寝ることが多く、うとうとする夜もないというようなのが興味深いことだ。

  【王朝風色好みへの憧憬】

とはいっても、専ら女色に耽る方ではなく、

  【放蕩はよくない】

女に並々でない相手だと思われるのこそ、

  【立派な色好み推奨】

そうありたい行いなのだ。

 

4)ことば とか あれこれ

〇いろごのみ  

 王朝文学とかあまり関心がない向き、いやあっても、現代人の普通の感覚からすると、この「色好み」って「一体何?」って当惑するかと思うのです。

 学問と同じように「プレーボーイであること」も大事って? 何それって。

Wikipediaによると色好みは、

 《 日本人の心性をあらわす用語・概念の一。近代では折口信夫によってつよく提唱され、その思想体系のなかで重要な位置を占めるものとして扱われた。いろごのみは単なる好色とは異り、複数の優れた女を妻妾とすることのできる男の能力や魅力、またそれにまつわる風流・風雅を指すものであり、「すき(数寄)」「みやび」「やまとごころ」などと同義ととらえることもできる。

 このような考えかたの根底には、優れた女を得ることが、女の巫女としての霊力を得ることと同義であり、男はそうした女の宗教的霊力によって政治的な王たりうる、という古代信仰の名残がある、と折口は述べている。》(Wikipedia

★わかったような、わからないような説明です。後段の、"女の巫女としての霊力を得ること"という辺りは、柳田國男の『妹の力』関連の話かと思いますが、その前までの説明だと、お妾さんを数人持つて、金に飽かして金屏風とか買い込んでいた昭和のはじめころまでの金ぴかおやじとか連想して、ちょっと違うなあという気もします。

★こっからトンデモ記述です。 

Wikipediaの「日本の女性史」や、関連書等の読み齧りでいうと、

 古代日本の「母系社会」ということがまずあって、家(上代から家ということばがあったそうです。第10段で確認します)は、女性を軸に受け継がれて、男性は、「かがひ(歌垣)」とか「よばひ(呼ばひ)」をきっかけに女性と知り合い、やがて夜這う。

 生まれた子は、男性の子(父親とその子)という認識はあるものの、女性の家の子として育てられ(おそらく父親の養育義務意識はほとんどなく)、男性はまた別の女性の家に通うこともあったし、すぐにか、遍歴の末にか一人の女性の家に入り込むこともあった、らしいです。

 そういう社会だったから、今日言う倫理観念(儒教的観念?)のようなものの持ち合わせはなかったようです。それを「おおらか」(大和ごころ的?)であったと捉えていいのかどうかよくわかりませんが。

 もちろん、誰かを好きになってその人に夢中になるという、今言う「恋心」は確かにあって、『万葉集』の中に多くの恋歌、あるいは待つ身の辛さを詠んだ歌がいくつもあるのですが、ただ、恋の「裏切り」をなじる歌と言うのがなかなかみつかりません。ただただ「待つ辛さ」が詠われているように思います(ざっくりの意見です。『万葉集』つぶさに調べてはおりません)。

「たのしい万葉集さんの「「恋の歌」~「逢いたい」」でも、

< とかく待つことが多かったと思われがちですが、万葉の時代にも「待ってなんかいられないわ」と積極的な女性もいたようですね。 >( たのしい万葉集: 逢いたい (art-tags.net) )と、

 待ちきれない思いを歌った女性もいたものの、少数派であったようですし、それを詰る(なじる)歌というような記述はありません。

★とまれ、そういう母系的な社会(?)の恋愛観の世界に、やがて、都会的な、貴族的な、あるいは宮廷的な、プレイボーイ認識の「風流士(みやび)」ということばが生まれていたそうです。

 そこに、大陸からの新文化である漢字の「好色」が被さって、「みやび」が「色好み」へと移っていった。 

 というようなことが、「Japan Knowledge 古典への招待 66『色好みのルーツ』」西鶴研究で有名な方らしい暉峻康隆(てるおかやすたか)先生の文章)にありました。古典への招待 【第66回:「色好み」のルーツ】 (japanknowledge.com)

★「色好み」の祖型ともいえる「みやび」は、男が女の家を訪れる母系制の社会が、中央政府などの成立発展で都会化していく中で生み出されていった、「プレイボーイ」認識を語ることばだったわけですね。それが、漢文化の流入で、「好色」の漢字が「色好み」に訓じられていったと。

★それが、のちに登場した武士階級は「父系原理の家制度」を軸とする勢力であったために、「色好み」の文化・風俗を、急速に転換、終息させていった。

★兼好が「色好み」を謳ったのは、古風礼賛の意味合いだったらしいのです。

 同じ暉峻康隆先生の文章の中にあります。

《 『徒然草』は、「強姦和姦を論ぜず、人妻と懐抱の輩、所領の半分を召され、所帯なき者は遠流(おんる)に処すべきなり」と、好色行為を厳に戒めた武家の法『御成敗式目』制定から80数年も後に書かれている(第137段も)のであり、鎌倉後期の実際の社会感覚からはズレていたと見られ、これを「雅び」を階級的美意識とした王朝文芸の影響下にあった兼好の「動乱期の詩人の美意識にもとづく「色好み」の解釈」 》

 だと分析されています。

★暉峻先生のことは、今回検索するまで全然知らなかったのですが、文章秀逸です。もっと読んでみたく思いました。暉峻先生はあの「女子学生亡国論」の先生だったのですね。こういうことはSNSだとちょっと触れるだけでも最近は炎上するようで、「訪なへるなき幸ひのブログかな」です。

★王朝文学の「色好み」については、中村真一郎先生の『色好みの構造—王朝文化の深層ー』岩波新書1985刊)が、大変参考になります。「色好み」とはなんなのか、どのように発生し、どのような特性で、どのように時代変遷し、どのように廃れていったのか、点と線のトンデモ論などでない本物の知識の豊かさ味わえます。

★そういう正統で豊かな知識の本を斜め再読したうえで、あえて言うトンデモ論ですが

色好みって、今風にいえば『文学』ってことじゃねぇ?」と。

★この時代、記紀風土記採録されたような神話や伝承が(口伝も含め)物語だと思っていた人たちは、かな書きという 新しいスタイル の『竹取物語』で、神話・伝承が現代人(当時の)のドラマに仕立てられたことにまずぶっ飛んだんじゃないかと思うのです。

 かぐや姫をなんとか妻にしたいと食い下がった5人のプレイボーイ達は「色好み」と呼ばれ、色恋の浮いた展開を期待されながら、実はそれぞれ想像を絶するような人生の試練にさらされる。

 「求婚難題譚説話」(wiki)つまり伝承が下敷きとはいいながら、水晶の光のような存在である美少女が、実はファム・ファタル的に男たちを破滅に導くという怖さ。

 その男たちの破滅が当時のリアリズムでじっくり描かれる怖さに古代のインテリたちは痺れたんではないでせうか。

 誰かを好きになることは、誰にでもあって、人は恋によって、深い思いに沈んだり、喜びや悲しみ、深い感動を覚えたりする。恋は人生の一大転機であったりする。そういったことを上古の人々はそれまで「歌」の中で、忍びがちに歌ってきたものでした。そうするものだと思ってました。

 なのに『竹取物語』は、それを散文的に、伝承から脱け出した物語に仕立て上げ成功したのです。

 これを読んで感じた感動をなんと言えばいいのか。「文学」ということばを知らなかった彼らは、この「文学的な感動」を、「色好みの話」としか言いようがなかったのではないでせうか。

 恋に生き恋に苦しむ文学的な生きざま。(兼好が、「独り寝がちだけど、まどろむ(熟睡する)夜のない」と捉えた姿) 母系制の社会で成立していたその風俗感性こそが「色好み」だったと、兼好はノスタルジックに称揚していたのではないでせうか。

 

〇いろ

 いきなり、「いろごのみ」への関心の高さからそちらを先に追いかけましたが、そもそも、漢字の「色(しき)」に当てられた、やまとことばの「いろ」は、どういう淵源のことばなのかです。

◆角川古語辞典を見ると「いろ【色】」名詞 は、①色彩。いろあい。など、13の意味が書いてあるのですが、その用例はどれも平安時代以降のもの(8つが平安時代のものあとの5つは室町、江戸時代)で、上代(万葉時代)のものがありません。  

  意味:①色彩。いろあい。(用例:和泉式部

  意味:②位階によって定まっている染め色。禁色。(※嵐雪=江戸前期)

  意味:③喪服の鈍色(にびいろ=ネズミ色)、また、喪服(源・幻)

  意味:④顔色。表情。(同:源・玉鬘)

  意味:⑤おしろい。化粧。いろどり。(同:※浮・胸算用=江戸中期)

  意味:⑥きざし。気配。(同:謡・田村=※室町初期?)

  意味:⑦種類。たぐい。(同:宇津保・俊蔭)

  意味:⑧情事。女色。色事。(同:源・末摘花)

  意味:⑨華やかなこと。派手なこと。(同:古今・序)

  意味:⑩美しいこと。容色。(同:宇津保・楼上・上)

  意味:⑪恋人。情人。(同:人・娘節用=※人情本は江戸後期)

  意味:⑫遊女の異名。(同:浄・氷朔日=※江戸中期頃?)

  意味:⑬情趣。情愛。情け。(同:新古今・雑)

★でも、「万葉集 色」で検索したら、加藤良平さんの、ヤマトコトバについての学術情報リポリトジ万葉集における「色に出づ」表現について』がヒット。ずらずら~っと24もの「色」を含んだ短歌や相聞歌が紹介されています。

 なぜ、角川古語辞典が、万葉集の用例を掲載しなかったのか不明ですが、ともかく、万葉時代から「いろ【色】」と言うことばはちゃんとありました。

 なかったら、平安時代に上述の「色」8種の意味合いが突如として、出現する奇々怪々な話になります。

★で、この加藤良平さんは、『万葉集における「色に出づ」表現について』において、現代人は、身の回りに「色」や「着色」が溢れかえっているためについ安易に考えてしまいがちだけど、古代人が「色」を得ること、「色」を使うことは難儀なことで、プロフェッショナルの染色工程をトレースしてみても、「色」は、そういった苦労(にじみ出させることを働きかける)中で得られていたもので、「色に出づ」という慣用表現の基底にその意識があり、それがまた「・・に出づ」式の似た慣用表現の元になっているのではないかと指摘されているかと思います。

★加藤さんが紹介された短歌や相聞歌に記された「色に出づ」という表現の多くは、白布に染み出る「色」のように、秘めているはずなのにそれと知られてしまう「恋心」との類似性を示し、上代から「色」と「恋心」は結びつけられてきたことを示しているのかと思います。

★で、その「いろ」が、どういう淵源か、なのですが、それを考えてみるべく「いろ」音関連の上代ことばを列記しようと思ったのですが、次の通り、ほぼ親族への「親愛」の情を示す人称のことばばかりで、それ以外では「鱗(いろこ)」くらいです。

◆角川古語辞典

●「いろえ【兄】」名 

  意味:母を同じくする兄。また、その兄への親しみを含んだ呼びかけ(用例:記・下)

●「いろこ【鱗】」名 

  意味:①うろこ(同:記・上) 

  意味:②魚(用例:不明) 

  意味:③頭のふけ(同:不明)

●「いろせ【兄・弟】」名 

  意味:母を同じくする兄弟。また、その兄弟への親しみ含む呼びかけ(同:記・上)《対:いろも》

●「いろと」名 

  意味:母を同じくする弟妹。また、その弟妹への親しみを示す呼びかけ(同:反正紀)《対:いろね》

●「いろね」名 

  意味:母を同じくする兄姉(同:神代紀)《対:いろと》

●「いろは【母】」名 

  意味:母(同:神代紀)《対:かぞ=父》

●「いろも」名 

  意味:母をおなじくする妹(同:記・上)《対:いろせ》

朝鮮語とかアイヌ語とかググってみましたが、あまりピンときません。とりあえずの時間解決トレー置きです。

 

〇玉のさかづきのそこなき心ち  

 安良岡先生は脚注で、「『文選』の「三都賦序」に、「玉の巵(さかづき)の當(そこ)なきは宝と雖(いえど)も用に非ず」とある。」と記されています。美しくても物の役にたたないことのたとえ(角川古語辞典)らしいです。

 

〇文選(もんぜん) 

 『文選』は、古典には頻出項目なので、Wikipedia みておくと

< 中国南北朝時代南朝梁の昭明太子蕭統によって編纂された詩文集。全30巻。春秋戦国時代から南朝梁までの文学者131名による賦・詩・文章800余りの作品を、37のジャンルに分類して収録する。隋唐以前を代表する文学作品の多くを網羅しており、中国古典文学の研究者にとって必読書とされる >(Wikipedia

南朝梁(AD502-557年)は6C前半にあった国です。

 コトバンクの解説では、

 《・・すでに「十七条憲法」(604)に本書からの引用が指摘されており、また『万葉集』の部立(ぶだて)も本書の体例をモデルにしているといわれる。さらに万葉の歌人をはじめ、奈良平安の文学には、漢詩文のジャンルのみならず、本書所収作品の影響がみられ、愛読されたことが知られる」》(コトバンク日本大百科全書ニッポニカ」成瀬哲夫)。 

南朝梁の滅びた557年からしても十七条憲法の604年は半世紀に満たないわけです。外国の書籍を読んで理解した人たちが、その価値を共有し合う時間や年月といったことを考えると、ほんとに、その50年程度の内にそれらが進んだのかと訝りに近い驚き覚えます。今と違って情報過多な社会ではなかった時代、経典は別として、評判の書物を知識人らがむさぼるように、そして繰り返し、繰り返し読み、たちまち共有知識化されていったということなんでせうか???