老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

『徒然草』第4段(読み納めシリーズ)

1)第4段 要旨

 来世を思い、仏心、仏道の心を持つ人物こそ興味湧く人物だ、という考えだけをぼそっと言うように披瀝している段です。

 兼好が法師であることでなんとなく受け止めるのですが・・。よくわかりません。

 

0)前置き
以下の4点を参照しつつ『徒然草』を、下手の横好き読解しています。
旺文社文庫『現代語訳対照 徒然草』(安良岡康作訳注/1971初版の1980重版版) 
②ネット検索 
③『角川古語辞典』(昭和46年改定153版)
中公新書兼好法師』(小川剛生著・2017初版の2018第3版)

 

2)第4段 本文

 後の世 の事 心にわすれず、佛の道 うとから ぬ、心にくし。

 

2)第4段 訳文

 来世のことを心掛けることを怠らず、

  【メメント・モリ】、

 仏道に無関心でないという人が、魅力的な人だ。

  【仏道推奨】

 

 

5)ことば とか あれこれ

〇後の世

★まず、「のち(後)」ですが、角川古語辞典では、名詞 

  意味:①あと、うしろ、次 (用例:大鏡・後一条) 

  意味:②未来、将来 (同:万・4212) 

  意味:③子孫 (同:源・若紫) 

  意味:④死後、没後 (同:徒然・38) 

 となっています。

★万葉時代の意味②は「未来、将来」と、前向きで、おおらかな感じですが、

 中古以降①③は、前方向にも後ろ方向にも意味が生じ、

 中世・鎌倉時代の④に到れば、「死後・没後」の仏教的意味が深化している。

 と、点と線の浅薄思考派はそう見ます。

★角川古語辞典の「のちのよ(後の世)」は、

  意味:①未来、後世、末代 (用例:源・梅枝) 

  意味:②〘仏〙来世、あの世 (同:源・若紫)   と、

 中古以後の語らしく、「のち」の、①③用法と符合して、行く末とその反対の意、そして仏教的「来世、あの世」感を意味することば確定です。

★もちろん、大和心(やまとごころ)の上代が「おおらか」で、中古以降、儒教・仏教の観念流入後そうでなくなった、と見るのは、本居宣長さんら以降の"現代人"のひとつの偏見で、中古、中世のみなさんは、仏教的世界観に浸りきることこそ、人生を明るく照らす道筋だと信じきっていたわけだろうと推察します。

★最近、アニメのCMで「メメントモリ」ということばを使っているのを見かけます。そのアニメでの意味合いがどうなのかわかりませんが、「メメント・モリ」は「死を忘れるな」という西欧に古代からあるラテン語で、とくにキリスト教出現後、死との結びつきが強調されたというようなことが  Wiki に書いてあります。

★読書感想文派に詳しいことはわかりませんが、"死との対比で生を鮮やかに生きる警句"みたいなことを、昔(80年代のニューアカブームの頃)、青土社の『現代思想』とかでよくみかけ、ボンクラの読書感想文派はけっこう魅了されてしまったことばです。

★『徒然草』では、このあとにも「死を思え、忘れるな」という趣旨の段が繰り返し登場します。間違いなく、「死を忘れるな」は、『徒然草』の主要なテーマの一つだと思います。それを「メメント・モリ」という西欧の警句に置き換えていいのか、本来そこを調べるべきでせうが、読書感想文派はしません。似た感じであると見て、どんぶり勘定裁定で行きます。

★安良岡先生の脚注では、「後世(ごせ)」は、仏教信者、ことに浄土教信者にとって重要視されたというようなことが書かれています。「現世を終わった後に二度と六道(ろくどう・りくどう)に輪廻することのない、迷苦を超脱した世界として思念された」と説明されています。

★六道の Wikipedia 説明は、

< 六道(ろくどう、りくどう、梵: ṣsadḍ-gati[表記不正確])とは、仏教において、衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界(あるいは境涯)のこと。六趣、六界ともいう。 gati は「行くこと」「道」が原意で、「道」「趣」と漢訳される。 

 六道には下記の6つがある:

  ①天道(てんどう、天上道天界道とも)

  ②人間道(にんげんどう)

  ③修羅道(しゅらどう)

  ④畜生道(ちくしょうどう)

  ⑤餓鬼道(がきどう)

  ⑥地獄道(じごくどう) 

 このうち、①天道、②人間道、③修羅道を三善趣(三善道)といい、④畜生道、⑤餓鬼道、⑥地獄道三悪趣三悪道)という。ただし修羅道を悪趣に含めて四悪趣(四悪道、四趣)とする場合もある。六道から修羅道を除いて(修羅道地獄道におさめて)五道(五趣)とすることもある。>(Wikipedia)※表記上若干付記しました。

Wikipedia のこのあとの説明省きます(各自ご参照ください)が、この六道は、基本みんな、苦しみの世界のようです。

 「善道」「悪道」に分けると「善道」は良さげな世界に思えますが、苦しみの程度がより軽いだけのようです。つまり①~⑥全部、程度の差はあれ、苦しみの世界なので、この六道のどれかに生まれ変わる「輪廻」から「解脱」することが救いになるというのが、仏教方面の基本的な想念構造らしいのですが、「解脱」は、なかなか哲学的で高尚難儀な方法らしく、それより「極楽浄土」という、死んだあと、そこに向かえば「解脱」できるという方法を示したのが「浄土思想」だったようです。

 が、まあ、あくまでざっくりな理解です。

★時代的な背景や、法師である兼好のこの方面の知識は相当のものだったろうと妄想するのですが、「後の世」「佛の道」の兼好における意味合いというのは、まだよく理解できておりません。

 

〇心にくし

 角川古語辞典の説明、

●「こころにくし」形ク

  意味:①奥ゆかしい すぐれている (用例:源・桐壺) 

  意味:②恐れるべきだ (同:平家6) 

  意味:③いぶかしい (同:歌舞伎・助六) 

 となっていて、

 今日的な「心憎いねどうも」「すごいね!」「(きょとんとする)スゲェ!」とほぼ同じと捉えていいかと思います。

★「奥ゆかしい」というのは、「俄かには理解しがたく、もっと奥深く行って探ってみたい」という意味のようです。

 「心」+否定的な意味の「憎し」で、まあ「腑に落ちない」「心で理解しにくい」のような意味が反語的に働いて、結果称賛の意味になっているのだと思いますが、「心有り」などの「心」の子見出し186語も、「心あくがる」などの「心」を頭にする独立した見出し語70語のなかでも、反語的な用法はおそらく「心にくし」のみ。

★念のため「憎し」も確認しておくと、

 角川古語辞典では、

●「にくし【憎し】」

 [1]形ク 

  意味:①気に入らない いやだ (用例:万21) 

  意味:②醜い (同:宇津保・あて宮) 

  意味:③ぶあいそうだ つれない (同:源・浮舟)

 [2]補助形容詞(動詞の連用形について)

  意味:・・するのがつらい ・・ぐるしい(用例:源・末摘花「聞きにくくもおぼされず」) 

[子見出し]

●「にくからず」

  意味:①感じがよい (用例:源・若菜) 

  意味:②情愛が深い(同:源・夕顔)。 

 これらを見渡すと、[2]の補助形容詞のような働きが「心」という名詞を動詞的な働きに見立てて「腑に落ちない」「理解し難い」のように作用しているのかと思うのですが、今一、「腑に落ち」ません。

★「〇〇にくし」という形のことばは、岩波の逆引き辞典出見ると、

 「さがにくし」「けにくし」「くちにくし」「ひとにくし」「なまにくし」「おもにくし」「あやにくし」「たはぶれにくし「ありにくし」「いろにくし」

 などが挙がってますが、「心にくし」はなぜか入っていません。

★これらを角川古語辞典で見てみると

●「さがにくし」形ク 

  意味:いじが悪い (用例:拾遺・雑) 

●「けにくし【気憎し】」形ク 

  意味:①こにくらしい(用例:源・柏木) 

  意味:②無愛想だ (同:大鏡道長) 

●「ひとにくし【人憎し】」形ク 

  意味:他人から見てにくにくしい 憎らしい (用例:源・東屋)    

●「なまにくし【生憎し】」形ク 

  意味:なんとなく憎らしい (用例:源・横笛) 

●「おもにくし【面憎し】」形ク 

  意味:つら憎い 腹立たしい (用例:紫式部) 

●「あやにくし」

  ※角川古語辞典に見出しなし。「あやに」副詞 「あやにく」形動ナリ はあるが、「あや+にくし」ではない。(この、岩波と角川の見出しの立て方の違いが気になりますが、これは時間解決のトレー置き) 

●「たはぶれにくし【戯ぶれ憎し】」形ク 

  意味:気軽にふざけられない うちとけにくい (用例:源・総角)   

●「ありにくし【在りにくし】」形ク 

  意味:存在しにくい 生きていくのが難しい (用例:方丈) 

●「いろにくし【色憎し】」

  ※角川古語辞典見出しなし。

★以上をざっと眺めると、「戯ぶれ憎し」「在りにくし」などが、「憎し」の補助形容詞で見た用法と同じかと思われ、「心にくし」は、「腑に落ちない」「理解しがたい」ほどだから反語的に「凄いね!」「憎いね!」「もっと知りたいね!」いという意味になっていると見て概ね間違いなさそうだと、思った次第です。