老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

豚の福祉・・人の意識の移り変り

 

 アメリカじゃ動物愛護精神は、飼育される家畜のストレスを、福祉的視点で見つめるまでになってきているそうです。

 

1)「豚の福祉」についての時事通信の配信記事(全文)

 「豚の福祉」に波紋 肉販売規制に生産者悲鳴 米 

  (2024/3/23(土) 20:21配 JIJI.COM 時事通信社

【ニューヨーク時事】

 ストレスの少ない環境で家畜を育てる「アニマルウェルフェア(動物福祉)」を巡り、米西部カリフォルニア州の法規制が畜産業界に波紋を広げている。

 飼育方法の基準を満たさない豚肉製品の販売を州内で禁じることが柱で、対応には畜舎の改造費などがかさむため、生産者は悲鳴を上げている。  

 同州が提案した規制法は、2018年の住民投票で承認された。反発した生産者団体が訴訟を起こしたが、連邦最高裁が23年に規制法を支持する判断を下したことを受け、今年1月に完全施行された。  

 規制では生産者に対し、妊娠中の母豚が自由に動き回れるよう1頭当たり少なくとも2.2平方メートルの面積確保を義務付けた

 カリフォルニア州内での豚肉やベーコンの販売には、第三者機関から認証を得て基準を順守している証明が必要となる。全米で人口が最も多い同州は消費する豚肉の9割を州外に依存しているため、サプライチェーン(供給網)全体に大きな影響が及ぶ。  

 全米豚肉生産者協議会(NPPC)の推計によると、基準を順守した場合、1頭当たりの投資コストは2割増の最大4000ドル(約60万円)となる。

 NPPCは「小規模生産者は廃業に追い込まれる」と非難。豚肉製品によっては価格が4割上昇するとの当局試算もある。  

 ビルサック農務長官は先月の下院公聴会で、他州もカリフォルニア州の規制に追随する可能性があることを念頭に、「生産者に深刻な懸念を与える」と危機感を表明。連邦議会が規制の拡大防止を図る立法措置を講じる必要があるとの考えを示した。 

                          (引用以上。下線は追加)

 

2)もはやペットではなく家族

 最近、夕方のニュース番組など(料理する横目で)見ていても、視聴者から届く犬や猫の映像は、番組構成の必須要件になっているんじゃないかと思うほど、ほとんど毎日目にするようになっています。

 かつて『天才!志村どうぶつ園』とかが始まった(2004年)頃は、まだこれほどじゃなかったような気がします(正確なところはわかりませえんが)。最近犬、猫は、もはやペットというようりも家族の一員として接せられている状況だなと、犬、猫飼っていなくてもテレビの映像などみていてそう感じます。

 そういう感覚は「豚の福祉」感性ともう紙一重でせう。

 カリフォルニア州の動きが、アメリカ全土に広まるかどうかは分かりませんが、想像するに、食肉業界とか家畜業界に関係の薄い人たちには、共感は広がり易そうな気がします。そして、その感性は、同じようなかたちで日本にも伝染しそうな気がします。

 

3)福祉という認識レベルへの踏み込み

 ♪ ドナ・ドナ・ドナ ♪ の歌のような、弱い立場の動物への同情とかは昔からあったわけですが、だからといって、そこに福祉という"人権"意識に近いような、「動物がその生を健全に全するための権利意識」のようなものは、誰も思いつかなかったわけです。でも、その意識に目覚めた人が出て来たらしいのが、時代なんだと思います。

 最近、TVer では春の端境期の過去ドラマ・オン・パレード。

 で、「花咲舞がだまっていない」というのを見ました。2014年度の6話で、上司からセクハラを受けた女子行員が反撃を試みるも、セクハラは立証が難しいということで、ほぼ泣き寝入りで終わりになるかと思われたところに・・・。

 みたいな内容だったんですが、今観ると、その状況なら、裁判に訴えるという展開だって十分ありうるんだけど、2014年当時(10年前)は、その発想がなかった(あったとしても極めてハードルが高く、世間相場からはまだ非リアルだった)んだなと、ひしひし感じさせられ、この10年の間に、まあ、ここ数年が特にそうかもしれませんが、その辺の意識変革が、劇的に進んでるんだなあという気がするわけであります。

 

4)「ふてほど」ブーム

 2024年1~3月期のドラマとしてTBSの『不適切にもほどがある』がすごく話題になっています。

 2000年代から始まったコンプライアンス(法令順守)意識の社会への浸透がもたらす悲喜劇を、相対化して描くことのできた初のドラマとして称賛を受けているのかと思います。

 コンプライアンス意識は大事なことなんだけど、反面で人の意識を硬直化させたり、軋轢を生んだりしているという認識もまた、社会に広まっているというわけです。

 コンプライアンスということばの浸透状況については、ネットにある、G-Serch編集部さんのコンプライアンス意識の高まりはいつから?――新聞記事件数からひも解く」2019年7月4日掲載 をみました。

 1997年頃の証券会社の損失隠し事件などのころからニュース記事に登場し、2002年の「牛肉産地偽装」問題で記事数が年間千件を越え、2006年、2007年頃の日本版SOX法(※「金融商品取引法」の一部を言うらしいです<Wiki>)の施行前後に飛躍的に伸びたそうです。

 ほっこりが勤めていた小企業でも2005年にプライバシーマーク、2007年に環境保護のISO14000系を全社挙げて取得したりしましたから、あの頃から、そういう、意識的にも、無意識的にも、法令違反や配慮不足、社会的不正などを、互いに質しあって行こうというような社会機運が醸成されてきていたのですね(そういう認証取得が取引の前提とされるようにもなっていましたから)。基本的には評価、称賛されるべき社会の側面だったんですよね。

 <これは、余談ですが、あのころのISO取得ブームは、商業のグローバル化の中で、それを取得しておかないと、西欧諸国が日本排除の言い訳に使うからで、ISOの有無を振りかざす西欧諸国では、てんで取得なんか進んでいない、みたいな話がよく行われておりました。ほんとかどうか定かではありませんが、そういうことを言っていたなあと思い出したので。>

 

5)分断派には好餌?

 「豚の福祉」については、まだ、人それぞれの立場でさまざまな見方がある段階かと思います。今後どういう方向に進むのでせうか。日本における「ふてほど」ブームもそのあとどういう方向に進むのかです。

 ただ、気になるのは、こういう"意見の異なる事象の発生"が、容易に人々の分断に結びついていく傾向の出て来たことです。

 まあ、きっと、トランプさんなんかは「豚の福祉」を、トランプさんお得意の敵味方の峻別材料に使うでせう。

 

 近代が獲得した「基本的人権」の尊重は、今までそれなりに重みを持ち、為政者たちの振る舞いを抑制してきていたのですが、"トランプ現象"の2017年の頃から世界は、調和よりも分断を志向し始め、そして2022年2月24日からのロシア軍のウクライナ侵攻、そして今現在のイスラエルガザ地区ラファの地上作戦(パレスチナ人掃討作戦)問題と、事態は悪化する一方です。

 大きなことを言うようですが、人類は一体今何を見失ってしまっているのでせうか?

 人の意見や見方がそれぞれの立場で異なるのは当然のことで、だからこそ、人は互いを尊重し、意見調整を行っていかねばならないということが、人権尊重やコンプライアンスの基本にあるかと思うのです。

 しかし、現実的には、今、大国の指導者たちが自国の都合を一方的に主張し合う、品性の無い時代に突入しています。

 なぜなんでせう?

 

 「豚の福祉」という人の意識変化について思いを巡らしたら、やっぱ最近の状況について看過できず、つい話が大ごとになってしまいました。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・追記2024/3/25・・・・・・・・・・・・・・・・

 Wikipedia 他に1960年代からの「動物福祉」についての解説が多々揚がっておりました。

 日本でも、それ以前からの動物愛護の運動が連綿とあって、1970年代に"動物愛護法"が制定され、改正も行われて来ていますが、それは今に至るまでザックリ言ってペットや人間に近い動物たちを対象としたもので、家畜は範疇外のようです。

 「動物福祉」"アニマル・ウェルフェア"は、家畜を範疇に含めて語り、「動物愛護法」とは前提が違っているようです。

 

《 20世紀後半まで動物福祉は普及していなかったが[11]、1964年に工場型の集約畜産の批判本「アニマルマシーン」(ルース・ハリソン英語版著)が発表されたことから大きく発展することとなった[12]。「アニマルマシ―ン」により、家畜の扱いに社会の関心が集まり、イギリスにおいて専門委員会が立ち上げられ家畜の調査・検討が行われた。その結果、集約畜産に虐待の可能性がはらんでいることが、調査報告書(1965年)で指摘された。この時の調査報告書(ブランベル・レポ―ト)が、その後のアニマルウェルフェアの礎となり、ヨーロッパ全体に広がり、「農用動物の保護に関する協約(1976年)」「と畜場での家畜の保護に関する協約(1979年)」などの成立につながった。続いて1979年、イギリス政府によって設立された独立機関である家畜福祉委員会(farm animal welfare council:FAWC)が実例の項に詳述する「5つの自由」を提案し[13]、その後、この基本原則が世界の共通認識となり、2002年の国際獣疫事務局 (OIE:改称WOAH) 総会においてアニマルウェルフェアに関する専門家会合が開かれ「アニマルウェルフェアは動物の健康と密接な関係にあり、その検討の場としてOIEが最適である」と提案され、その基準の検討が行われることが決議された。以降、OIEは、と殺や輸送、畜種ごとのアニマルウェルフェアなど様々な基準を策定している[14][15]

 日本では、1987年に初めて佐藤衆介 農学博士が畜産動物福祉を紹介した[14] 》     Wikipedia から引用)

 

 そして、2010年代、2020年代、そしてここ数年のこの気運の深まり、高まりが Wikiに記されていますが、テレビをよく見て来なかったせいか、新聞の定期購読を止めた(2021)せいか、日本のマスコミがあまり取り上げたがらないからなのか? まったく、気づいておりませんでした。

 2010年代、2020年代といえば最近の事象と言えるのかもしれませんが、このうねりの厚みについては全く理解しておりませんでした。

 ですから、上述の「豚の福祉」への捉え方などには、そういう動きに気づいていなかった人間の表現が多々ありますが、そういう人間がこの問題に接した時に先ず抱く感懐の記録として、そのままにさせて頂きます。 ♪ あの時僕はこう思ってたんだ ♪ の記録です。

 

 

『蜻蛉日記』 道綱母さんが書かなかったこと

 

 『蜻蛉日記』の陰謀論的解釈

 

1)道綱母さんの深慮の続き

 2月29日閏日に、「『蜻蛉日記道綱母の評判」で、道綱母さんが『蜻蛉日記』に、旦那の兼家(かねいえ)の"御岳詣(みたけもうで)〈安和2年5月の話〉"のことと、そのすこし前に起きた「安和の変」で失脚させたれた源高明の後妻・北の方(愛宮あいのみや)との手紙のやり取りのこととを書いたのは、「安和の変」の首謀者探しの嫌疑が、旦那の兼家に及ぶのを逸らそうという意図があったらしい、という説のあることを書きました。それらが、日記的には安和2年7月ころまでの話です。

 続いて8月に入ると(和暦の安和2年8月1日は、西暦では969年9月15日らしいです「ke!+san 和暦から西暦」さんのサイトから)、旦那である兼家(かねえいえ)の父・師輔(もろすけ=既に物故者。藤原忠平二男)の弟(つまり兼家にとっては叔父らの一人)である"小一條の左のおとゞ(大臣)"藤原師尹(もろただ=忠平五男)の50歳の誕生祝いの騒ぎのことや、そして、それに絡み、自分(道綱母さん)が、左衞門の督(かみ) <この方は、国文大観の原文では藤原濟時(なりとき=師尹次男)とされていますが、当今は、この時期にその役職だったことが確実視されている藤原頼忠(よりただ=NHK大河『光る君へ』で橋爪淳さんが演じている)に比定されているようです(※1)>  から、師尹(もろただ)にプレゼントする、屏風の絵に添える和歌を作ってほしいと頼まれた話などが描かれます。

(※1)蜻蛉日記の屏風歌と安和の変」徳原茂美(武庫川女子大学リポジトリのpdf

 ネットググるとすぐに、師尹と兼家の従者の喧嘩と乱闘というようなことがひっかかってきます。そういうことは、道綱母さん自身の従者と時姫(兼家正妻)さんの従者との間でも小競り合いがあったことが『蜻蛉日記』の中に記されていますから、それがために師尹家と兼家家がいつもバチバチの関係にあったとは言えないのかもしれませんが、なにがしか思うところはあったのか?

 しかしまあ、それが"主な"理由なのか、あるいはもっと違う理由なのか(※2)、道綱母さんは、この依頼に乗り気でなく、いやいやながら受けて、9首(絵は8つながら、5番の絵で2首)も作るのですが、最終的に採用された2首の内訳を聞いて、

  「ものし(きにくわない)」

とポツリ。

 そして、そのあと9月、10月については、次のようにチャチャッとひっくるめます。

  「かうなど し ゐたる ほどに、秋は暮れ 冬に なりぬれば、何事にあらねど 事 騷がしき こゝちして ありふる中、しも月(11月)に・・・」

 (こんな風にしていた間に、秋も押し詰まり冬になってしまったら、何がどうということでもないけど、なんだか落ち着かない心持ちで日を過ごして、11月に・・・)

 その11月には、ドカ雪が来て、その降り積もる雪と、兼家がなかなか訪れてくれないまま歳を重ねていくわが身を重ね合わせ、(暗い?)雪景色のなかで鬱屈した気分で年末迎えます。

 ただ、年が明けた(西暦的970年)正月の「賭弓(のりゆみ)」から3月頃の舞の行事にかけて幼い息子・道綱の活躍シーンが描かれ、道綱母さんは日記中でも一番楽しそうな時期を迎えるのではありますが(中巻までを読んでの感想です)。

 

2)あなたは段々怖くなる

 道綱母さんが、チャチャッとひっくるめたその10月に、実は、8月に50の誕生祝いで騒いでいた小一條左大臣藤原師尹が突然亡くなっています。発音障害を伴う病でだったそうです(Wikipedia)。発音障害!!!???。

 道綱母さんは、なぜ、その話を書かなかったんでせうか?

 NHK大河ドラマ『光る君へ』で、兼家(段田安則さん)による? 円融帝への「毒盛り」を、詮子(あきこ=吉田洋さん)が声を荒げて非難するシーンがありました。詮子は、父兼家との決別に近いことばすら発していたかと思います。なんで、あんなシーンが描かれなければならなかったのか。 

 ネットを見ると、円融帝への「毒盛」はこのドラマの創作のようです。史料的には、毒盛の傍証はみつからないということかと思います。

 ただ「安和の変」のころ(「光る君へ」の頃の約10年前)からあとの藤原一門に起こった出来事を Wikipedia 等で虚心に追っかけてみると、このシーンをわざわざ入れて、兼家の性格付け、もしくはこの時代の性格付けをしようとした、脚本家の大石静さんの心中が察せられるような気にもなります。

 要するにまあ、天皇との縁が深まるなどで、なにがどう転んで出世に邪魔になるようなことにもなるかどうかわからない? 兼家の伯・叔父貴連が、奇妙にこの時期に亡くなっています。

 忠平長男の藤原実頼(さねより)は、翌、天禄元年5月18日(970年6月24日)享年71歳で没します。この方は、年齢的に寿命であったのかもしれません。皇室に送り込んだ娘たちに子が出来ず(天皇外戚になれず)、北家長老格といいながら既にヘゲモニーは、甥の(師輔の子)伊尹(これただ)、兼通(かねみち)、兼家らに奪われていたようですから、道綱母さんも書きやすかったんでせうか、『蜻蛉日記』に4月の出来事としてさらっと書いています。

 忠平四男の藤原師氏(もろうじ)は、天禄元年7月14日(970年8月23日)享年58歳の若さで亡くなっています。その死因については特に語られていないようです。師氏は、上巻で、道綱母の「初瀬詣」の帰り道に、宇治川そばの所領で、そこまで迎えに来ていた兼家らともども歓待した按察使大納言その人ですが、師輔のように皇女の降嫁を受けながらも、弟の師尹に出世で遅れをとったらしいので、兼家の邪魔になるような存在ではなかったのか、どうか。亡くなった7月頃の『蜻蛉日記』は、道綱母石山寺詣を記し、師氏の死には一切触れていません。そして翌971年の7月頃に、二度目の初瀬詣を行った際に宇治院に立ち寄り、故人が丹精込めていた邸を眺めて「一周忌なさっただろうに、それから間もなかろうに、もう荒れている」と心ぼそい気持ちを記します。

 とまれ、没年未詳の忠平三男の師保(もろやす)を除く伯・叔父貴連の全員が、この天徳元年(970年)までに姿を消します。

 伯・叔父貴連それぞれの立ち位置、意味合いとか、あるいは、天皇親政を行いたい天皇に対し、その妻妾に一門の娘らを送り込んで外戚関係で天皇をがんじがらめにしようとする藤原一門といったことまで含め、そういう時代なんだということを、「毒盛」は表現しようとしていたんじゃなかろうかと、そんな妄想を逞しくするのですが・・。

 一種の陰謀論的解釈過多の読み方だとは思うのですが、そんな時代の傍らで「なんだか落ち着かない心持ち」とだけしか書かなかった、道綱母さんの心中も、陰謀論的解釈してしてみるわけであります。

 

(※2)道綱母さんが、屏風絵に添える歌の詠作に乗り気でなかったことについては、蜻蛉日記中巻「屏風歌詠作」の記事をめぐって』宇留田初実聖徳大学の先生J-Stageのpdf)が、歌人の位階というような角度からの専門家の深い考察で、道綱母さんの人となりの理解までかなり深まり、すごーく参考になります。

 また、二松学舎大の先生だったらしい雨海博洋先生の「時姫」(ネットのpdf)も、道綱母さんと『蜻蛉日記』理解の上でとっても参考になりました。

震災をつなぐ知恵

 

 経験は活かされているんでせうか?

 

 また、3.11の日が来て

 TVもそれに合わせた番組が

 放送されているようですけど

 

 神戸大震災(阪神・淡路大震災

 東北大震災

 などの知見は、

 今回の能登半島地震

 どれくらい役立てられているんでせう。

 

 それがすごく気になります。

 

 NHKなどで

 そういう番組があったのかもしれませんが

 能登半島沖地震のニュースなどで

 そういう角度の視点を

 あまり感じないですし

 総理コメントなども

 毎度、新たな事態発生的な

 ニュアンスしか感じられないのは

 こちらの勉強不足も

 もちろんあるでせうが

 

 また、

 

 過去の尺度を越える事象とか

 過去にこだわってもいけない面も

 少なからずあるのでせうが

 

 ただ、

 

 なんとなく、

 都度、右往左往しているような

 気がするのは

 

 やっぱ、こちらの

 勉強不足なんでせうか?

 

 南海トラフ地震への対策とかは、

 そういう知見の積み重ねなんだ

 ということなのかもしれませんが

 

 NHKの昨日の震災発生時間の

 中継番組で、

 NHKの内山記者が言ってたような

 復興に、成功したこと

 失敗したことなどの内訳の情報が

 もっと、

 出回ってもいいように

 思うのですが、

 

 やっぱ、勉強不足

 ですかね。

 

 

・・・すぐ追記・・・

すいません、

2024/3/10(日)放送のNHKスペシャル

『語れなかったあの日 自治体職員の3.11』

を、観ていませんでした。

災害を体験した方々の声を文化人類学的手法で

記録したものを「災害エスノグラフィー」と

いうのだそうです。

 

阪神・淡路大震災でまとめられた

『翔べフェニックス』とか

宮城県がまとめたのか

『みやぎの3.11』などが

映ってました。

 

『みやぎの3.11』を能登半島震災後の

役所の職員さんが参考にされていたのが

印象的でした。

 

「災害エスノグラフィー」から学べることを

NHKさんなどがさらに整理して

その知見が社会一般の知恵として

共有されていけばいいなと、

つくづく思いました。

 

 

ブラタモリ終了

 

 実に残念だけど・・・、

 

1)ブラタモリが終了しました

 

 心底楽しめる

 稀少なTV番組だったけど

 昨夜の放送で一旦終了

 ということらしいです。

 

 ※終了の状況について

 スポニチアネックスさんの記事を

 記憶と記録と記念の意味込めて

 下段に添付させて頂きます。

 

 

2)タモリらしい?

 

 記事にもありますが

 エンディングで野口葵さんが

 花束をもった写真がちらっと

 差し込まれていただけで

 番組終了の挨拶とかも

 一切ありませんでした。

 

 自分が出演した番組は

  「一切見ない」

 と折に触れて公言してきた

 タモリらしい潔い

 終わり方なんでせう。

 

 

3)多くの方がそうかと思いますが

 

 2008年のパイロット版から

 ずっと見て来て

 実に残念至極ですね。

 

 

4)この番組について

 

 これからいろんな方々が

 いろんな分析するんでせうね。

 おおいにやって

 『ブラタモリ』が果たした

 時代的意義とか

 明らかにしておいてほしいです。

 

 

5)ずっと見ていた気がします

 

 2008年ってことは

 たった16年前で、

 こちらは50歳の時なんですが

 なんだか、

 もっとそれ以前

 30代、40代の頃から

 この番組観ていた気がします。

 

 おそらく、

 『タモリ倶楽部』とか

 『今夜は最高!』など、

 いやいや、

 タモリがTVに登場した

 最初からずっとの記憶が

 一つに繋がってしまうんでせう。

 

 タモリ

 自分が面白いって

 思うことにしか興味なく

 

 その面白さにのめり込んで

 それを楽しんだり

 追及したりするのが

 スタイルで

 

 そいれが見ているこちら側にも

 無性に面白かったって

 だけのことなんで

 

 タモリの面白さは

 登場の初めから

 ずーっと一貫していて

 それが

 ある時点、ある時点で

 落とし込まれた形として

 『番組』となり

 『ブラタモリ』も

 その一つだったって

 ことなんでせうね。

 

 

6)引き際

 

 しばらく前からそうですが

 今回の「指宿」でも

 要所で野口葵さんが

 ポンと決めのひとこと言うパタン

 目立ちました。

 

 野口さんの回転の速さの

 凄い「わっぜぇ」さでも

 あるんでせうが

 

 タモリの身体的な

 反射神経の衰えってことも

 いくらかはあるんでせうね。

 

 そんななか

 おそらくはタモリ自身が

 もうそろそろって

 おそらくだいぶ前から?

 言ってたんじゃないすかね。

 

 残念ですけど・・・、

 見事な引き際ですよ。

 

 お疲れさまでした。

 

 

NHKブラタモリ」レギュラー放送“突然”の最終回「3月9日の回をもって、いったん区切り」 2024/3/9(土) 21:14配信 スポニチアネックス

NHKの人気番組「ブラタモリ」(土曜後7・30)のレギュラー放送が9日に最後を迎えた。

 放送終了後に公式サイトは「2015年からお届してきた今のスタイルでの放送は3月9日の回をもって、いったん区切りをつけることになりました。今後、さらに楽しんでもらえるような番組になることを目指して、検討を続けていきます。番組をご覧いただき、誠にありがとうございました」と感謝の言葉を交え報告した。  

 町歩きの達人・タモリが日本各地に足を運び、知られざる街の歴史や魅力、人々の暮らしに迫る看板バラエティー

 2008年にパイロット版から始まり、15年4月に3年ぶりにレギュラー番組(第4シリーズ)として復活した。  

 3月いっぱいでレギュラー放送終了と同局からアナウンスがあった中での“最終回”。

今回の旅のお題は「#263鹿児島・指宿~指宿のわっぜぇ火山は歴史を動かす!?~」。指宿の「わっぜぇ(凄い)」火山が良港を生み、歴史を変えた?秘密を探ったタモリは、砂むし温泉にも入り大満足の様子だった。  

 次週の放送予定に「ブラタモリ」の文字はなし。通常ある次回予告もなく、番組ラストではタモリと花籠を持った野口葵衣アナウンサーの2ショットが映し出されて終了。

 予告なしの“意味深な演出なラストシーン”にSNS上では「えっ、突然のお別れ…?」「野口アナが目が潤んでいたような気がしたけど…」「嘘でしょ、もしかして最後なの」「タモさんらしい」などの声が上がっていた。

 

もえあがれ雪たち

 

 もえあがれ雪たち

 

1)雪は今冬2度め?(所沢)

 

 4時に目覚めて、外をみたら、

 街の灯に照らされた牡丹雪が

 真っ暗な空から

 静かに 頻りに

 舞い降りてました。

 その瞬間 

  ♪ もえあがれ雪たち~ 

    ぼくらの町にふる~ ♪ 

 の歌が

 頭のなかで聞こえました。

 

 NHKの「みんなの歌」の

 サイトによれば、

 1967年12月~1968年1月が

 初登場だったらしいです。

 空論城城主10歳の頃です。

 

 中山千夏さんの歌声が

 大好きでした。

 希望の固まりのような声でした。

 

 この歌の歌詞、

   ♪ 箱庭みたいな雪たち ♪

 とか

  ♪ 南極のクレバスの~ ♪

 とか、

 記憶に残っている部分でも

 それ以外でも、

 今歌詞見ると

 理屈っぽいんですけど

 

 こどもは雪が大好きで

 雪は楽しいものだから

   ♪ もえあがれ雪たち ♪

 の冒頭だけで

 こどもの心わしづかみ

 だったんでせうね

 今思うと。

 

 

2)改めて聞いてみると

 

 上は、歌聞かずに書いたのですが

 改めて YouTube に上っているこの歌

 聞いてみると

 

 社会派というか

 サスペンスな感じもあって

 

 そういう、こども向けらしからぬ

 テイストにも

 魅了されていたのでせうか?

 

 でも、

 記憶としては、

 そういう部分は殆ど

 洗い落されて

 ♪ もえあがれ ♪ っていう

 前向き?な印象だけが

 生き残っていた

 てな、ことなんでせうか。

 

 灰谷健次郎さんのこども観

 のようなものが脳裏過ります。

 

3)勤め人には迷惑な雪?

 

 これから出かける人たちには

 迷惑な雪になりそうです。

 

 今日は3月5日の「啓蟄」から

 3月20日の「春分」に向かう

 15日間(半月)の3日目。

 「立春」(2月4日)から

 「春分」への 約45日間の

 33日目?

 

 西暦の春も

 もう間もなくです。

 

古文難語「おくまへて」「おくまけて」

(奥深く、遠く、先行き長く)

 

 「よし【由】」ことば、追っかけて難語地雷 その3

 

1)「おくまへて」の用例3つ

 また、すいません「万葉百科」さんから写させて頂きます。太字や下線などの加工は空論城城主によるものです。

 

 番  号              巻6-1024

 漢字本文(題詞)   秋八月廿日、宴右大臣橘家歌四首

 漢字本文              長門有奥津借嶋奥真経而吾念君者千歳尒母我毛

 漢字本文(左注)   右一首、長門守巨曽倍對馬朝臣

 読み下し文(題詞) 秋八月二十日に、右大臣橘の家に宴せる歌四首

 読み下し文          長門なる沖つ借島奥まへて我が思ふ君は千歳にもがも

 読み下し文(左注) 右の一首は、長門守巨曽倍対馬朝臣

 訓  み        ながとなるおきつかりしまおくまへてわがおもふきみはちとせにもがも

 現代語訳              長門にある沖合の借島が沖遠いように、心の奧ふかくお慕いするあなたは千歳も無事でいてほしいことだ。

 歌  人              巨曽倍朝臣津島 / こそべのあそみつしま

 

 番  号              巻6-1025

 漢字本文              奥真経而吾乎念流吾背子者千年五百歳有巨勢奴香聞

 漢字本文(左注)   右一首、右大臣和歌。

 読み下し文          奥まへて我を思へる我が背子は千歳五百歳ありこせぬかも

 読み下し文(左注) 右の一首は、右大臣の和へたる歌なり。

 訓  み        おくまへてわれをおもへるわがせこはちとせいほとせありこせぬかも

 現代語訳              心の奧深く私を思ってくれるあなたは、千年も五百年も、ずっと長生きしてほしいことだ。

 歌  人              橘宿禰諸兄 / たちばなのすくねもろえ

 

 番  号              巻11-2728

 漢字本文              淡海之海奥津嶋山奥間経而我念妹之言繁苦

 読み下し文          近江の海沖つ島山奥まへて我が思ふ妹が言の繁けく

 訓  み              あふみのうみおきつしまやまおくまへてわがもふいもがことのしげけく

 現代語訳              淡海の海の沖の島山のように、奥深く心に思う妻に対して、人のうわさがうるさくて。

 歌  人              作者未詳 /

 

2)「おくまけて」用例1つ

 同上。

 番  号              巻11-2439

 漢字本文              淡海奥嶋山奥儲吾念妹事繁

 読み下し文          近江の海沖つ島山奥まけて我が思ふ妹が言の繁けく

 訓  み        あふみのうみおきつしまやまおくまけてあがもふいもがことのしげけく

 現代語訳              淡海の海の沖の島山のように奥――将来にかけて末長くと思う妻の、うわさがうるさいことよ。

 歌  人              柿本朝臣人麻呂之歌集 / かきのもとのあそみひとまろのかしふ

 

3)角川古語辞典の説明

 「おくまへて」「おくまけて」それぞれ独立した一語としての見出しはなく、「おく【奥】」の連語として、「おく【奥】」(上代語の意味合いでは「⑤行く末、将来」がある)の見出しの中で説明されています。それを写すと、

 ●「おくまけて」 意味:末かけて。将来のことを考えて。一説に、心の底から。(用例:万2439)

 ●「おくまへて」 意味:「奥まけて」に同じ。(用例:万2728)

 と、「おくまけて」と「おくまへて」は同じ意味(=将来にかけて?)と説明されています。それが、何故なのかは、わかりませんが、本来は「おくまけて」だったものが「け」の「 k 」音が脱落して?「 h 」音に代わって?「おくまへて」になったとかそういうことなんでせうか?わかりません。

 意味的には、「おくまへて」1024番の歌は「沖遠く」の意味で平面的な遠さ、1025番と2728番は「心の奥」の深さ、「おくまけて」の2439番の歌は、将来・未来(先々)へ伸びる遠さ(深さ)と、それぞれ少しずつ質を異にしながらも、なにがしか「かけ離れる感じ、距離感」「奥=おくゆき感」を言っていることで共通しているようです。

 一方、「おくまへて【奥間(真)経而】」「おくまけて【奥儲】」の内部構造(?)を眺めると、「おくまへて」は「おくま・へて」と区切れるでせうし、「おくまけて」は「おく・まけて」に区切れるでせう。

 だとすれば、それは本来別語ということになるのでせうけど、「け」→「へ」の音便化(?)があったとすれば、元は「おく・まけて」が本来の形で、音便化(?)が起こって「おくまへて」になり、誤解なんだけど「経而」などの漢字が当てられ、その誤解が「おくま・へて」の区切り意識を生み、さらにその誤解が「おく・ま」の誤解も生じさせ、「ま」に「真」や「間」の字などが当てられるようになった!ってことなんでせうか? 

 定かではありませんが、そう考えると、ここでは、なんとなく、丸く収まりそうです。 

 「おく・まけて」の「まけて」は「まけ・て【儲てor設て】」で、「かけまく(心に思うこと、ことばにして言うこと)」とか「春まけて/夏まけて(春、夏がきて)」「裏儲(うらまけて=心にきめて)」とかの「まけ」=「まく【設く】」他カ下二の動詞から派生したことばでいいかと思います。

 角川古語辞典的では、意味:①あらかじめ用意する。設ける。 ②その時期を待ち受ける。待つ。の意味が説明されています。

 何事かの状態の「誂え・セッティング」や「確定」感、季節などの変化の「待ち望み」や「到来の喜び」などの意味合いのベクトル(奥行き感)が、水平な距離感に適用されたり、心の奥底に向かったり、将来へ向かったり、したことばが「おくまへて」「おくまけて」だったと言えそうですが、あくまで、妄想の範囲内の感想文です。

 

古文難語「こせぬかも」

 (・・してほしい)

 

 「よし【由】」ことばを追いかけながら その2 

  昭和99年3月2日

 

1)弓削皇子の歌

 「万葉百科」さんのサイトから巻2-119番の歌をコピーさせていただきます。

 番号       巻2-119

 漢字本文(題詞)   弓削皇子思紀皇女御歌四首

 漢字本文              芳野河逝瀬之早見須臾毛不通事無有巨勢濃香問

 読み下し文(題詞) 弓削皇子の紀皇女を思へる御歌四首

 読み下し文          吉野川行く瀬の早みしましくも淀むことなくありこせぬかも

 訓み       よしのがはゆくせのはやみしましくもよどむことなくありこせぬかも

 現代語訳              吉野川の流れゆく瀬の水が早くてしばらくも淀むことがないように、私たちも滞ることなくありたいものだ。

 《 以上「万葉百科」さんからのコピー 》

 

 ・弓削皇子 ゆげのみこ・・・・天武天皇第9皇子or第6皇子

 ・紀皇女  きのひめみこ・・・天武天皇皇女

 

2)後半の読み方

  どう区切れるのか?

 芳野河   逝瀬之早見   須臾毛   不通  事無   有巨勢濃香問

 よしのがわ ゆくせのはやみ しましくも よどむ ことなく ありこせぬかも 

 最後の「有巨勢濃香問」をどう解釈したら、「・・ありたいものだ」になるのか? はたと困りました。「こせぬかも」で一語が成立していると知りませんでした。

 巻6-125に橘宿禰諸兄(たちばなのすくねもろえ)の歌があります。

 漢文本文「奥真経而吾乎念流吾背子者千年五百歳有巨勢奴香聞

 訓み       おくまへて われをおもへる わがせこは ちとせいほとせ ありこせぬかも

 現代語訳「心の奧深く私を思ってくれるあなたは、千年も五百年も、ずっと長生きしてほしいことだ。」

 ここにも「有巨勢奴香聞」(ありこせぬかも)があり、その意味は、「ずっと長生きしてほしい」「ずっとあり続けてほしい」となっています。なので、こういう風に言いたい時のお決まりのフレーズが「有こせぬかも」らしいと解しました。

 (※難語を追っかけてまた「奥真経而」(おくまへて)という難語地雷を踏んでしまった。これは別途)

 「濃」は、「のう」「の」でなく「ぬ」と読めるのか?と思ったら、巻3-450の大伴旅人の挽歌の〔一伝〕部分に「見毛左可受伎=みもさかずき」とあり「ぬ」と読む例は他にもあるようです。

 それにしても、「ぬ」が打消(の助動詞「ず」の連体形「ぬ」)・否定に聞こえるのに、「ずっとありつづけてほしい」という肯定的な意味になるのがまったく解せないんですが、実は、それでいいみたいです。(『角川古語辞典』以下も)

 このあたりでやっと、「こせぬかも」が一語だと気づきます。

 「こせ」が実は特殊で、他者に誂え望む意を表す上代の助動詞「こす」が元。活用は下二型で、未然形「こせ」、終止形「こす」、命令形「こせ」の三つしかなく、「こせぬかも」の「こせ」は、このうちの未然形「こせ」だそうです。

 これに未然形接続の打消の助動詞「ず」がくっ付いて、あとに連体形接続の終助詞が来るので「ぬ」になり、その終助詞が願望の「かも」で、「こせ+ぬ+かも」(・・してほしいものだ)という一語になっている、ということらしいです。

 「こす」は「ごす【期す】」でもあり、それが「きす【期す】」になっていったようですし、一説には動詞「おこす【起こす】」そのものという見方もあるようです。

 また、「こす」は、「運ぶ」という意味でも使われ、「こす【遣す】」(よこす)ということばに通じ、「こせ」は「よこせ」の形を見ると、要請の意味ということが理解しやすい気がします。

 他者に誂えのぞむ「こせ」に打消「ぬ」がついて、それでも他者に誂え望む意味になるのは、願望の「かも」がくっついて意味強調することで、「おれにいわすな〈こさすな〉よお!」みたいな、反語的な意味になるんでせう、きっと。。

 

3)兄妹の相聞歌?

 ところで、この119番の歌から121番までが題詞にあるとおり、弓削皇子が異母妹の紀皇女に送った相聞歌4首とされ、紀皇女が文武天皇妃であったため、二人の不義密通というようなことが紀皇女のWikipediaにも書かれているんですが、どうなんでせうね。

 題詞は誰が書いたんでせうか? そもそも、弓削皇子の歌だって証拠はあるんですかね? 万葉集編纂者が、古代のおおらかなロマンスを「設定」しただけだったってこじゃないんですかね?

 

4)やっと「かも」へ

 実は、今回の主題は、この歌の末尾にあった「かも」なのです。「かも」について語りたかったのですが、おいしい赤身にからみつく黄白い脂身を落とさないわけにいかないと、手間取ってしまいました。

 でも、すいません大したことを言いたいわけではないんです(脂身の方が滋味栄養価が数段上のようです)。

 「かも」は、古文説明ざっくりいうと、詠嘆、願望、疑問 などを表す終助詞や係助詞のようですが、ほっこりが生まれ育った福岡県南部では、「そうかんも(そうですか、なるほどねぇ)(ええ?ほんなこつねぇ?)」などの言い回し、意味合いで、昭和20年代生まれ世代くらいまでがよく使っていました(最近どうかは数十年離れているので定かでありません。すくなくともほっこり世代内では使いません)。

 「そうかんのも!」などと「かも」と同時に「のも」も疑問を含んだり含まなかったりしながら詠嘆・納得・強意・疑問(?)を伝えて使われていました。その地域の人間がよく「のも」「かも」言うので、「のもかも言うな取ってうち食うぞ」というようなことを言ったもんだと、そういう古い世代の人たちがまた嬉しそうに言っていました(「のも」は、角川古語辞典には見だしとして立っていず由来とりあえず不明ながら)。

 この「そうかんのも!」のニュアンスで、歌の作者云々、歌い贈った相手云々の真偽はともかく、弓削皇子が紀皇女に向かって「有り越せん かんも!」(生きろて言わさんばい!あたりまえやろ!)(生きてろとか言わさん!そうじゃなかね!)などと、呼びかける情景思い浮かべてみると(上代「ん」が無かった云々は置いといて)、意外と無理なく理解できるもんだと、小さな気づきと喜びありました。

 昭和の20年代、30年代の頃までは、地方で万葉語がまだ息づいていたんだなあと(定かではありませんが、そうだろうと)、思ったってことを言いたいのでありました。

 

・・・・・すぐに追記・・・・・・

Wikipedia に「柳川弁」というものがありました。

 それによりますと、「かんも」は、助詞「か」と同じかと推定されていて、古語の「かも」と関連があるのかないのか定かでありません。まあ、もともと定かならぬ机上空論城の妄想の賜物ですので。なので4)はあくまで私的妄想ということで。よしゑやし! 夜露死苦!。

 

・・・・・・・追記2・・・・・・

『君社此間有巨勢濃香問』

ピンク・フロイドの" Wish You Were Here !"

「あなたがここにいてほしい」を、(~してほしい)の「有巨勢濃香問」を使って、万葉表記しようと思ったのですが、上で見たように、「ありこせぬかも」では、「二人でずっとここにいましょうよ」という、そこに居る二人の長寿を祈り合う意味にしかならず、仮定法過去でしたっけ、"were"の 「あなたが今ここにいないことが残念でならない!」という一回屈折の表現になりません。

「万葉百科」さんで探してみましたが、「有益乎」(あらましを)表現で工夫するしかないように思われます。うーん、残念。