「おほほし」っておおらかな響きなんですが・・
1)「おほほし」は「弱さ」をいうことば
「おほほし」ということばのおおもとの意味合いは、空論城主が考える結論を先にいえば「弱さ」にあると思っています。おおらかなことばの響き・印象とはうらはらな意味合いを持ったことばだと思っています。
2)「おほほし」の辞書解説
小学館「デジタル大辞泉」<Weblio古語辞典内>では、「おぼほ・し」と同じことばとして説明されています。
[形シク]《「おほほし」 「おぼぼし」とも》
1 おぼろげである。ぼんやりしている。
「雲間よりさ渡る月の—・しく相見し児らを見むよしもがも」〈万・二四五〇〉
2 心が沈んで晴れない。
「玉桙(たまほこ)の道だに知らず—・しく待ちか恋ふらむ愛(は)しき妻らは」 〈万・二二〇〉
3 愚かである。
「はしきやし翁(おきな)の歌に—・しき九(ここの)の児らや感(かま)けて居らむ」〈万・三七九四〉
[補説] 一説に、「おぼおぼし」の音変化とも。
▶1の「おぼろげである」「ぼんやりしている」という言い方は、どことなくのどかさを感じさせますが、見え方をいう「おほほし」はむしろ「よく見えない」「見え方が弱い」という焦燥感のような思いを含んでいると空論城城主は思っています。
▶2の「心が沈んで晴れない」というのは、心が「弱っている」状況を言っています。「鬱陶しい」とか「鬱々として」などの「鬱々系」の世界です。
▶3の「愚かである」という意味立ては、ちょっと行き過ぎな気がします。3794の歌は前提として「竹取の翁伝説」(「かぐや姫」の竹取翁と類縁なのかもしれませんが、ここでは直接その話ではありません)というものがあり、9人の仙女たちが、山の奥で行っていた儀式に翁が紛れ込む。その時に「うっかり」「注意不足で」紛れ込みを見逃してしまったということを言いたく「おほほしき(大欲寸)」が使われています。
「気遣いが足りない」「気が利かない」くらいがいいのではないでしょうか。
3)角川古語辞典では「おぼぼし」
「角川古語辞典」では「おほほし」の見出しでなく「おぼぼし」の見出しで掲示されています。
「おぼぼ・し」=おほほし 形シク ⦅「おぼおぼし」の約⦆
①おぼろげだ。ぼんやりしている。「ぬばたまの 夜霧の立ちて―・しく」(万・982)」
②気が晴れない。ゆうつだ。「秋萩の散りゆく見れば—・しみ」(万・2150)
▶角川古語辞典も大辞泉と同じ①②の意味立てがありますが3の「愚かである」の意味立てはありません。まあ、それでいいんじゃないかと思います。
それよりも「角川古語辞典」が「おほほし」を従的に扱い、「おぼぼし」を見出しとし「おぼぼし」は「おぼおぼし」の約であると書いている点が気になります。
4)「おぼおぼし」の約なのか
たしかに「おほほし」の大らかな響きに「ぼんやりしている」や「心晴れない」といった語義はしっくりこず、「おぼろ」とか「おぼつかない」などの「おぼ」の響きなら違和感薄れます。
「角川古語辞典」が「おほほし」でなく「おぼぼし」を見出しとして立てたのは、「おぼ」をより古いことばと見做しているからなのかな、などと勝手に妄想したりするのですが、もちろん定かなことではありません。
「おぼ」➡「おぼし?」➡「おぼおぼし」➡「おぼぼし」➡「おぼほし」➡「おほほし」といった流れですが、これも妄想の類です。
「万葉百科」さんで検索すると3巻481番の歌に「朝霧(あさぎりの) 髪髴為乍(おぼになりつつ)」という表現があり、万葉百科訳では「朝霧が、ぼんやりと薄れつつ」岩波文庫訳では「朝霧の姿もぼんやりとかすかになって」などと訳され、「髪髴(おぼ)」が「薄さ」「かすかかさ」で使われているのをしっかり確認するわけであります。
ただ、「おぼ」と「覚ゆ(おぼゆ)」との関係性とか考え出すと、読書感想文派の手に負える話でなくなるし、「おぼ」から「おほほし」への流れも一本の流れなのかどうかとか、全くわかりません。
▶「髪髴」は現代でいう「彷彿(ほうふつ・と)させる」の「ほうふつ」と同義字のようです。古事記などでは「ほのかに」と訓読されるそうです<國學院大學神名データベース「熊野山之荒神(くまののやまのあらぶるかみ)」>。
現代では「脳裏にはっきり浮かぶ」という意味で使いますが、もとは「はっきりしない」意だったようです。
5)当て字のバラツキ
百聞は一見にしかずで、例のごとく万葉百科のデータ・ベースにて「おほほし」「おぼ」「いぶせ」「欝」「凡」を検索。「おほほし」関連のことばがどのように使われているか見てみます。
「いぶせ」というのは「いぶせし」という「鬱々系」の心持ちを言い表す別系統のやまとことばです。下で確認するように「おほほし」に当てるのと同じ漢字を当てたりすので「おほほし」の仲間ことばとして確認しています。
そんな風に「弱さ」を根にもつやまとことば、および関連のやまとことばに、古代人が当てた漢字には交錯があり、その状況をまず見てみようという心です。
歌を全部書き出すと、ずいぶんな量になるのでことばに焦点当てました。
「巻数-歌番号 該当漢字=訓み=現代語訳」の並びです。
現代語訳は、万葉百科訳を=万)~ /岩波文庫訳を=岩)~ と併記しました。
説明を加えたい場合、◆印で歌も記載しました。
02-0175 欝悒=おほほしく= 万)心も晴れず /岩)鬱々として
02-0189 欝悒=おほほしく= 万)鬱陶しく /岩)鬱々として
◆『旦日照(あさひてる) 嶋乃御門尒(しまのみかどに) 欝悒(おほほしく) 人音毛不為者(ひとおともせねば) 真浦悲毛(まうらかなしも)』
▷万葉百科訳:朝日に輝く島の宮の御殿は、うっとうしく人の気配もしないので 心から悲しいことよ。
▷岩波文庫訳:朝日の照っている島の宮なのに、鬱々として人の物音も聞こえないので、心悲しい。
175番の歌とともに、「皇子尊(みこのみこと)の宮の舎人らの慟傷して作りし歌二十三首」という題詞を掲げられた23首の中の2首です。
「皇子尊」は草壁皇子(日並皇子尊)のことで、皇子が没した時に仕えていた舎人たちが作った歌。『万葉集』第2巻の「挽歌」の部立に収められています。
「嶋乃御門(島の宮)」というのは、「飛鳥の石舞台古墳付近の地、島庄にあった」もともと蘇我馬子の邸宅だったところで、その後、歴代天皇の別荘などとして使われたことなどが岩波文庫(「万葉集」)170番の歌で説明されています。持統朝に皇太子草壁皇子が居所として使っていたそうです。
ここで「おほほし」は、辞書の意味立ての②の「気が晴れない」「憂鬱(ゆううつ)」系の意味合いで使われていますが、その現代語訳の「うっとおしく人の気配もしない」も、「鬱々として人の物音も聞こえない」も、日本語として非常に変です。
おそらく「万葉百科」さんも「岩波文庫」さんも歌の背景にとらわれ過ぎているんじゃないでせうか。
皇子が住んでいた「島の宮」が、皇子が亡くなったので、かつて賑やかだった人影が途絶え、森閑としているということを言いたいのだと思うのです。舎人らの気持ちのほうは「まうらかなしも」(心悲しい)とちゃんと歌われているので、「おほほしく」は「ひとおと」のことを言っていると見るほうが自然だと思うのです。
「おほほし」が「弱さ」「薄さ」「疎らさ」「かすかさ」を淵源とすることばであることを改めて思うと、「森閑として」とか「ひっそりと」とかの訳語のほうがいいんじゃないかと思うのですが、どうでせう。
02-0219 於凡尒=おほに= 万)ぼんやりと /岩)何気なしに
◆『天數(あまかぞふ) 凡津子之(おほつのみこが) 相日(あいしひに) 於保尒(おほに) 見敷者(みしくは) 今叙悔(いまぞくやしき)』
▷万葉百科訳:天にまで数えあげる多―大津の乙女が私と逢った日にぼんやりと見たことは、今悔まれることだ。
▷岩波文庫訳:(そら数ふ)大津のおとめが姿をみせた日に、何気なしに見たことが、今となっては悔やまれる。
「あまかぞふ」は「そら数え」。暗算のことだと「岩波文庫」では説明されています。ただここでは、大津の「おほ=多」への掛詞として使われているので、「万葉百科」さんはそこにこだわっているようです。
訳では、「ぼんやり見た」「何気なしに見た」となっていますが、歌意としては、ちゃんと見なかった(相対しなかった? 見方が弱かった)という欠乏感があると思います。それを悔やんでいます。このちゃんと見なかったので悔やむとか、そのあと長く思い続けるとかのパタンが少なくありません。
「ぼんやりと」とか「何気なしに」の現代語訳には少しヒリヒリした思いが足りない気がします。辞書の①の「ぼんやり」「おぼろ」の意味立ては「かすか」「ほのか」に置き換えたほうがいいと思うのです。
02-0220 欝悒久=おほほしく= 万)不安の中に /岩)心塞がる暗い思いで
04-0599 欝=おほに= 万)ぼんやりと /岩)ぼんやりと
◆『朝霧之(あさぎりの) 欝相見之(おほにあいみし) 人故尒(ひとゆへに) 命可死(いのちしぬべく) 恋渡鴨(こひわたるかも)』
▷万葉百科訳:朝霧のようにぼんやりとしかお逢いしていないので、命も絶えそうに恋いつづけますことよ。
▷岩波文庫訳:(朝霧の)ぼんやりと見ただけの人なのに、命も絶えそうなほどに恋い続けています。
「万葉百科」さんの訳も「岩波文庫」さんの訳も上句のほうは「ぼんやりと逢った」「ぼんやりと見た」などとのどかな感じなんですが、下二句の「命も絶えそうなほど恋い続けている」という強い表現との落差が気になります。
上述のように、「おほに」の裏にある「弱さ」「不足さ」感にもっとウェイトを置いて、「朝霧のようにかすかにしかお逢いできなかった」とか「かすかに見ただけの人なのに」などと訳したほうが歌意はよりはっきりし、下二句との落差も縮まる気がするのですがどうでせう。
04-0611 欝悒=いぶせく= 万)重くふさぎこんで /岩)(心)晴れないのは
◆『今更(いまさらに) 妹尒将相八跡(いもにあはめやと) 念可聞(おもへかも) 幾許吾胸(ここだあがむね) 欝悒将有(いぶせくあらむ)』
▷万葉百科訳:もうふたたびはあなたにお逢いすまいと思うから、私の胸は重くふさぎこんでしまうのだろうか。
▷岩波文庫訳:これからはあなたに逢えないと思うからでしょうか、こんなにも私の心が晴れないのは。
175番、189番で「おほほしく」と読ませた「欝悒」の字がここでは塞ぎこむ思いをいう「いぶせく」と訓まれていると言いますか、塞ぎこむ思いをいう「いぶせく」にも「欝悒」の「おほほし」に当てるのと同じ漢字が当てられているといったほうが正しいかと思います。
「いぶせし」は「おほほし」とは別系統のことばでせう。「居塞せし(ゐぶせし)?」。それが意味合いの近似性から「欝悒」という漢字で交差しているということかと思います。
04-0638 遮=いぶせし= 万)なごまない /岩)乱れました。
◆『直一夜(ただひとよ) 隔之可良尒(へだてしからに) 荒玉乃(あらたまの) 月歟経去跡(つきかへぬると) 心(こころ)遮(万:いぶせし/岩:まとひぬ)』
▷万葉百科訳:たった一夜だけ逢えなかったのに、すさまじくもひと月も経ったのかと心はなごみません。
▷岩波文庫訳:たった一夜離れていただけなのに、一月も経ってしまったかと心乱れました。
岩波文庫が「遮」を「まとふ(迷ふ)」と訓んだ理由は歌の説明に書いてあります。
逢わなかった一夜が一月にも思えるという歌で、作者・湯原王なのか、あるいは写本を書き継いで来た人たちの誰かなのかが、歌意「ジリジリする思い」に対して「遮」の字を当てた。
その字は『類聚名義抄』(平安時代後期頃の漢字辞書)の「妨げられて心が迷う」の語釈と通底している、ということのようです。
いろいろある「鬱々とした」思いの中で、隔てられたり、遮られたりしたときの辛さにフォーカスする漢字としての「遮」。
天智天皇の孫で、志貴皇子の子でありながら天武朝下、政争から身を引き女性との悲恋を万葉集に残した(Wikipedia)作者・湯原王(ゆはらのおおきみ)が、ほんとはどう詠んでいたのかはもう誰もわからないので、「万葉百科」さんのように「心いぶせし」といっていたかもしれないという推定も否定はできない、ということのようです。
ともあれ、「鬱々とした」思いが「いぶせし」に繋がり、さらに「まと(ど)ふ(遮)」にまで繋がってきました。
04-0677 欝=おほほしく= 万)心晴れやらず /岩)ぼんやりとしか
04-0769 欝有来=いぶせかりけり= 万)こころも塞ぐ /岩)うっとおしい
04-0789 情八十一=こころぐく= 万)心もおぼろで /岩)=心晴れず切ない
◆『情八十一(こころぐく) 所念可聞(おもほゆるかも) 春霞(はるがすみ) 軽引時二(たなびくときに) 事之通者(ことのかふょへば)』
▷万葉百科訳:何となく心もおぼろで、晴れやかに思われぬことです。森の霞がおぼろにたなびく時におことばをいただくと。
▷岩波文庫訳:心晴れず切ない思いがします。春霞のたなびいている時にお便りがくると。
「八十一」が「ぐく」なのは、九九=八十一から。戯書というそうです。それを伝えたいのではなく、この歌の岩波文庫解説にある「心ぐく」が「心ぐし」の連用形で、「心ぐし」は「心が晴れず、切ない気持ちを表す」という解説の方にひっかかったわけです。
つまり、鬱々とした心を表わすことばに「こころぐし」系もあると。
この「ぐし/ぐく」は「潜く(くく)」と関連があるのかとも思うのですが、まだよく空論城城主はわかっておりません。
漢字被りがあるわけでもないのですが、「おぼろ」とか「心晴れず」の現代語訳のところでの交差であります。
05-0884 意保〻斯久=おほほしく= 万)いぶせく /岩)心も暗く
05-0887 意保〻斯久=おほほしく= 万)心も暗く /岩)心塞いだまま
06-0965 凡有者=おほならば= 万)通り一遍の方なら /岩)普通の方になら
◆『凡有者(おほならば) 左毛右毛将為乎(かもかもせむを) 恐跡(かしこみと) 振痛袖乎(ふりたきそでを) 忍而有香聞(しのびてあるかも)』
▷万葉百科訳:通り一遍の方ならばどのようにもしましょうものを、恐れ多さに、振りたい袖も 我慢していることですよ。
▷普通の方になら、どうとでもいたしましょうが。恐れ多いので、振りたい袖を 堪えています。
「岩波文庫」によれば、<「遊行女婦」(遊女)の児島が帰京する大伴旅人を送る宴席で作った歌 >だそうです。「凡有者(おほならば)」は相手が平凡な人であるならの意。とあります。平凡とは、つまりは身分が「高くない」「低い」と言っているのでせう。
「弱い」「薄い」系のことばということになるかと思います。
「袖を振る」のは愛情のしるしなのだそうです。
身分の低いひとなら、あれこれ(気兼ねなく)しましょうが、身分の高い(恐き)人なので、別れの愛情表現など、(わたしも)憚っているのかなあ(「かも」は詠嘆の疑問とみてます)。
と、相手の恐さ(かしこさ、身分の高さ)に委縮している自分に驚いたり少しイラついたりしている歌意のようです。
06-0974 凡可尒=おほろかに= 万)いい加減に /岩)いい加減に
◆『大夫之(ますらをの) 去跡云道曽(ゆくといふみちそ) 凡可尒(おほろかに) 念而行勿(おもひてゆかな) 大夫之伴(ますらをのとも)』
▷万葉百科訳:雄々しい男子が行くという道であるよ、いいかげんに考えて行くな。雄々しい男子たちよ。
▷岩波文庫訳:ますらおの行くという道だぞ。いい加減に思っていくな。ますらおたちよ。
「おほろか」が「いい加減に」と訳されるのは「不十分に」考える「十分に考えない」「考えが足りない」ということでせう。
「弱さ」「薄さ」「疎らさ」をいう「おほ」系統なのでせう。
ここでふと後代の「おろか」を連想しますが、実際関連があるのかどうかはまだ確認していません。
空論城城主の出身地は福岡県南部なんですが、あのあたりには「おろよか」ということばがありました。「悪か」とは断言できないが、どちらかといえばそれにちかい「良か」さ加減が「おろ良か」だったと思います。
古代からのでんでんむし運動で地方に押しやられた「おろ」なんでせうか? これも定かではありませんが。
06-0982 不清=おほほしく= 万)ぼんやりと /岩)ぼんやりと
◆『烏玉(ぬばたまの) 夜霧立而(よぎりのたちて) 不清(おほほしく) 照有月夜乃(てらすつきよの) 見者悲沙(みればかなしさ)』
▷万葉百科訳:ぬばたまのような夜の霧が立って、ぼんやりと照っている月は、おもむき深いことだ。
▷岩波文庫訳:(ぬばたまの)夜の霧が立ってぼんやとり照っている月を見ることは悲しいことだ
作者である坂上郎女さんが、夜霧の向こうにうっすらぼやけて見える「おほほしき」月を言いたくて「不清」という漢字を当てられた。月の光や輪郭のはっきりしない点にこだわりたかったのではないでせうか。当て字がバラつく好個の例かと。
細かいことをいうと、「かなし」は「愛し(かなし)」(心が向かう)だろうと「万葉百科」さんは解釈され、岩波文庫さんは漢字として「悲」が使われているのだからここは「悲し」でいいだろうと判断されたのかと思います。
07-1225 欝之苦=おほほしく= 万)ぼんやりと /岩)くぐもった声で
◆『狭夜深而(さよふけて) 夜中乃方尒(よなかのかたに) 欝之苦(おほほしく) 呼之舟人(よびしふなびと) 泊兼鴨(はてにけむかも)』
▷万葉百科訳:さ夜もふけ、さっき夜中の潟でぼんやりと呼び声がひびいていた船人たちも、今はどこかに泊っているだろうか。
▷岩波文庫訳:夜が更けて夜中の潟でくぐもった声で呼び合っていた舟人たちは、もうどこかに船を泊めただろうか。
作者は未詳です。"夜更け"と"夜中"が重言かもしれないらしいです(岩波文庫)。「潟」ってことは、遠浅かどうかはともかく、そうとうな広がりを感じさせます。
「漁り(いさり)」する人とは書いてないのですが、夜中だというので、舟人は潟の向こうの波の上で夜釣りをする人かもしれません(そういう歌も多いです)し、そうでないかもしれません。
ともあれ、そういう反響物のないところで交わされている声は、少し離れた者にさえなかなか届きにくくなります。
陸か浜辺かでその声を聞く者には「闇の奥に聞くような声」「消え入るような声」になります。未詳の作者さんはそれを言いたかったのだと思います。そして、その声がほんとに聞こえなくなった時に、あれどこかにいっちゃった? って思ったのでせうね。
万葉百科さんの「ぼんやり」と呼び声がひびくというのもイマイチですし、岩波さんの「くぐもった声」は「欝」の字に引っ張られすぎだと思います。ここはまさに音声の「弱さ」がポイントだと思うのです。
▷私試訳 : 夜更けて 夜の潟の向こうの波の上で かすかな 呼び声が聞こえてた舟人も もうどこかに船を入れたんでしょうか (全く声がしなくなりましたね)
▶この歌については、「夜中乃方尒」の「方」を「潟」ではなく、「方角」の「方」として、「夜中」をある地域を指しそこに向かう意と捉える解釈もあるようです。
「河童老」さんという、古典の知識・造詣のすごくしっかりなされてる、現在横浜在住らしい方の『万葉集』を訓(よ)む(その千五百八十四)2021年02月10日付け に書いてあります。
巻9-1691 客在者(たびなれば)三更判而(よなかをさして)照月(てるつきは) 高嶋山(たかしまやまに) 隠惜毛(かくらくおしも)
▷万葉百科訳:旅なので 夜中の方に 照り移っていく月が 高島の山に 隠れるのは惜しいことよ。
が、類型の歌としてあるようです。なるほどぉ。どうなんでせうね。
机上空論城城主には肯定も否定もできません。ただ、1225の歌に「呼之舟人(よびしふなびと) 泊兼鴨(はてにけむかも)」の二句があるので、「潟」解釈でもいいんじゃないかなと、軽率に思うばかりであります。
07-1312 凡尒=おほろかに= 万)いい加減な /岩)疎略に
07-1333 於凡尒=おほに= 万)いい加減に /岩)ぼんやりと
08-1451 於保束無毛=おほつかなくも= 万)ぼんやりとおぼつかなく /岩)あなたの気持ちがはっきりせず
08-1479 欝悒=いぶせみ= 万)心もうっとうしい /岩)うっとうしい
08-1568 欝悒=いぶせみ= 万)うっとうしい /岩)鬱々とする
08-1809 悒憤=いぶせむ= 万)心晴れやらず /岩)いらいらして
10-1813 欝之=おほにし= 万)おぼろな /岩)ぼんやり
10-1875 欝束無裳=おぼつかなしも= 万)ぼんやりとして /岩)ぼんやりとしてはっきりみえない
10-1909 欝=おほほしく= 万)おぼろに /岩)ぼんやりとほのかに
10-1921 不明=おほほしく= 万)ほんの少しだけ /岩)おぼろげに
10-1952 於保束無=おぼつかなき= 万)心がおぼつかない /岩)ぼんやりとした
10-2139 欝=おほほしく= 万)心もおぼつかないのか /岩)心ぼそげに
10-2150 欝三=おほほしみ= 万)心もおぼつかなく /岩)心が晴れず
10-2241 凡〻=おほほしく= 万)ぼんやりと /岩)ぼんやりとしているように
◆『秋夜(あきのよの) 霧発渡(きりたちわたり) 凡〻(おほほしく) 夢見(いめにそみつる) 妹形矣(いもがすがたを)』
▷万葉百科訳:秋の夜霧が立ち渡り、霧のようにぼんやりと夢に見たことだ。妻の姿を。
▷岩波文庫訳:秋の夜の霧が一面にたちこめてぼんやりとしているように、ほのかに夢にみましたよ、あなたの姿を。
作者は柿本人麻呂です。霧の中でみるような感じで夢に見ましたよあなたの姿を。と言っています。夢に見るほどだから、女性のことを思っているのでしょうが、もっと見たかったというような切迫した感じはありません。
「凡〻」という漢字が当てられたのも切迫感よりはボンヤリ感を言いたかったからなのでせうか? わかりませんが、切迫感の薄らいだボンヤリことば派生の痕跡なんでせうか。
10-2263 烟寸=いぶせき= 万)うっとうしい /岩)鬱陶しい
11-2449 於保〻思久=おほほしく= 万)ぼんやりと /岩)ぼんやりおぼろげに
◆『香山尒(かぐやまに) 雲位桁曳(くもゐたなびき) 於保〻思久(おほほしく) 相見子等乎(あひみしこらを) 後恋牟鴨(のちこひむかも)』
▷万葉百科訳:香具山に 霞がたなびく。そのようにぼんやりと逢った子を、後に恋するだろうかなあ
▷岩波文庫訳:香久山に雲がたなびいてぼんやりしているように、おぼろげに顔をみただけの子なのに、後で恋しく思うことだろうかなあ
11-2450 於保〻思久=おほほしく= 万)ぼんやりと /岩)ぼんやりと見た
◆『雲間従(くもまより) 狭陘月乃(さわたるつきの) 於保〻思久(おほほしく) 相見子等乎(あひみしこらを) 見因鴨(みるよしもがも)』
▷万葉百科訳:雲の間を渡っていく月のようにぼんやりと逢った子にもう一度逢うすべがほしいよ
▷岩波文庫訳:雲間を移っていく月のように、ぼんやりと見たあの子を、見る術があったらなあ。
上記二首も人麻呂の歌です。ここは、チラッと見て忘れられず恋に焦がれる「チラ見惚れ」パタン歌。
チラッとしか見なかった口惜しさが「凡〻」ではなく「於保〻思」の漢字に込められている!と見ていいんじゃないでせうか。
万葉百科さんの2首ともの「ぼんやり逢う」ってどういうことでせう。自分の意識の問題のようにも読めるんですが、そうではなく、この歌は、ちゃんと見たか、見えたかっていう方が問題なんだと思います。そこを踏まえていれば、こういうボンヤリした現代語訳にはならないんじゃないかと思うわけです。
11-2523 凡者=おほならば= 万)通り一遍の気持ちなら /通り一遍の気持ちでしたら
◆『凡者(おほならば) 誰将見雖(たがみむとかも) 黒玉乃(ぬばたまの) 我玄髪乎(わがくろかみを) 靡而将居(なびけておらむ)』
▷万葉百科訳:通り一ぺんの気持なら、誰が見ようとて、漆黒のこの黒髪を靡かせていましょうか。
▷通り一遍の気持ちでしたら、あなた以外の誰が見ようというので(ぬばたまの)私の黒髪をなびかせていましょうか。
前回(10月8日)取り上げた歌です。今回のこの稿を起こす動機になった歌です。作者は未詳です。まあ間違いなく女性です。
前回「凡者(おほならば)」を「万葉百科」さん「岩波文庫」さんが、どちらも「通り一遍の気持ちなら」と訳されているということで、作者(女性)は、"自分の気持ち"が並みのものではないということを言おうとしているという解釈であり、作者の目は自身の心持ちに向いていると解釈されていると理解しました。
一方、空論城城主は、「凡者(おほならば)」を「見えにくいなら」の意味で「薄暗がりの中でなら」と訳し「誰が見ようといえど真っ黒い私の黒髪をなびかせていましょう」という訳を試み、作者の目は、暗闇の深さにむかっていると主張し、どっちなのかを自分への宿題のように結びました。
その宿題に決着をつけるべくこれを書いているわけですが、以下に続く「凡(おほ)」字ことばを見たうえで改めてこの宿題に戻りたいと思います。
11-2535 凡乃=おほろかの= 万)通り一遍の /岩)通り一遍の
◆『凡乃(おほろかの) 行者不念(わざとはもわじ) 言故(わがゆゑに) 人尒事痛(ひとにこちたく) 所云物乎(いわれしものを)』
▷万葉百科訳:通り一ぺんの事とは思うまい。私のために人からあれこれとうわさされたものを。
▷岩波文庫訳:通り一遍の気持ちは抱きますまい。私ゆえに人からうるさく噂されたあなたなのに。
「岩波文庫」は、「行」を「心」と読んでいる。その理由は『類聚名義抄』によることが歌の説明に書いてあります。
ともあれ、「凡乃(おほろかの)」は「行(わざ)」「心(こころ)」に掛かり「不念((お)もはじ)」で打ち消されている。文法的にといいますか、文の構造的には順接といいますか、すっきりしている気がします。
「言」を「わが」と読んでいるのは、単純にそういう読み方と意味合いがあるからでした。漢和辞書を引いたらちゃんと出ていてびっくりしました。
11-2568 凡=おほろかに= 万)並一通りに /岩)いい加減に
◆『凡(おほろかに) 吾之念者(われしおもはば) 如是許(かくばかり) 難御門乎(かたきみかどを) 退出米也母(まかりいでめやも)』
▷万葉百科訳:並一通りに私が思っているのなら、これほど抜け出しがたい朝廷の御門を、どうして退出して来ましょう。
▷岩波文庫訳:いい加減に私が思うのだったら、これほど厳重な御門なのに退出してくるでしょうか
「凡(おほろかに)」は「吾之念者(われし(お)もはば)」に掛かっている。「凡(おほろかに)」自体は、程度の低さ・弱さを言っているだけかと思います。これも文の構造的にはすっきりです。
11-2720 欝悒=いぶせき= 万)隠って鬱々とする /岩)ふさぐ思い
12-2909 凡尒=おほろかに= 万)通り一遍に /岩)通り一遍に
◆『凡尒(おほろかに) 吾之念者(われしおもはば) 人妻尒(ひとづまに) 有云妹尒(あるといふいもに) 恋管有米也(こひつつありめや)』
▷万葉百科訳:通り一ぺんに私が思うのなら、人妻だというあなたに恋いつづけていたりしましょうか。
▷岩波文庫訳:通り一遍に私が思うのだったら、人妻だというあなたに恋いしつづけるでだろうか。
「岩波文庫」によれば、人妻との関係は重い禁忌だったそうです。古代は性的にはおおらかだったようなことが言われますが、妻と定まったあとはやはりタブーにしばられるというのは今と変わらなそうです。このあたり母系制の観念ともからめて詳しくみてみないとよくわからないです。
ともあれ、この「凡尒(おほろかに)」は「吾之念者(われしおもはば)」と「ば(者)」で仮定の問いかけが行われ、文末に「恋菅有米也(こひつつありめや)」の「や(也)」が置かれて、歌全体を反語化しています。それによって、「通り一遍に思うなら・・・・するだろうか」という歌が成立しています。
6)宿題へのアンサー
では、改めて、11-2532の「凡有者(おほならば)」ですが、この「おほならば」という仮定の問いかけはどこに掛かかる、繋がるかといえば「靡而将居(なびけておらむ)」につながると思われます。
それを直訳すると「弱い」としたら「靡かせていよう」ということになるかと思います。
これを「いい加減な気持ちなら」と、気持ち解釈すると「靡かせていよう」では意味が通じません。
そこに「誰将見雖(だがみんとかも)」「だれが見ようといえども」ということばが挟まることで、「靡而将居(なびけておらむ)」の訳が「靡かせていようか」と語尾に「か」をつけて反語化されているわけです。
そのことによって「通り一遍の気持ちなら」「黒髪をなびかせたりはしない」いや「強い思いがあるからこそ靡かせるのだ」という反転解釈に整えられているわけです。
でも「靡而将居(なびけておらむ)」に「や」とか「かも」とかの反語要素はないです。「将」は、ここでは「まさに・・」という意志や「今にも・・」という予期の字で使われているかと思います。
「将(はた)」読みで、「はたまた・・か」という使い方が「万葉集」953番にありますが、
◆『竿壮鹿之(さおしかの) 鳴奈流山乎(なくなるやまを) 越将去(こえゆかむ) 日谷八(ひだにや) 君(きみが) 當不相将有(はたあわざらむ)』
▷万葉百科訳:さ男鹿が鳴く山を越えていく日にさえも、あなたはやはり逢おうとしないのだろうか。
▷岩波文庫訳:雄鹿の鳴いている山を越えていく日さえも、もしかして、あなたは、逢ってくれないのではなかろうか)<岩波文庫>
越えて行こうとする日(だに=さえも)のあとの「や(八)」や、「もしかして」の「當不(まさに~ず)」という再読文字・否定辞によって「はたまた・・か」の反語化が成立しています。
まだ全然わかっていませんが「将」一字で反語機能を果たし出すのは平安時代とかもっとあとの時代からなんじゃないでせうか。
なので、「誰将見雖(たがみむとかも)」によって、全体の反語化が行われているように見えるのですが、「だれかが将に見ようとすると雖も(誰が見ようとしたとしても)」は「靡而将居(なびかせていよう)」に、2909番で見た「也」のような反語がないので、ただ、順接的に掛かっていくだけで、
「いい加減な気持ちなら」➡「だれが見ようといえど」➡「黒髪を」➡「靡かせていよう」
というふうにしか解釈できないんじゃないかと思うのです。
でも、「おほほしく」を「よく見えない」の意で解釈すれば、
「暗くてよく見えないなら」➡「だれが見ようと(いいじゃないか)」➡黒髪を➡「靡かせよう」の意で成立すると思うのです。
いやいや「凡有者(おほならば)」のことば自体に歌全体を反語化、疑問化する仕掛けがあるんだ!、というようなことがあるんでせうか? わかりません。
古文法の専門家さんたちが、そういう読み方をされているということにはそれなりの理由があるとは思うわけです。
古語文法のことに詳しかったら断言文末で締めくくれるところですが、そうでないところが読書感想文派の悲しいところです。トホホ。
今後そのあたりつまびらかになって、前言撤回するかもしれませんが、今回も蟷螂之斧は振り上げたままになってしまいます。すいません。
7)バラツキ具合の続き
12-2949 欝悒=いぶせし= 万)心がふさぎこんでいます /岩)気がふさぎます
12-2991 馬声蜂音石花蜘蹰荒鹿=いぶせくもあるか= 万)心がこもって鬱陶しい /岩)心が塞ぎます
この「馬声蜂音石花蜘蹰荒鹿(いぶせくもあるか)」も「万葉集」の戯書といわれるものです。検索すれば出てきます。
12-3003 不明=おほほしく= 万)ぼんやりと /岩)ぼんやりと
12-3161 欝悒=おほほしく= 万心が晴れない /岩)不安に思う
13-3335 疎=おほ= 万)いい加減には(立たず) /岩)並大抵には(立たず)
14-3535 於保=おほ= 万)いい加減に /岩)粗末に
16-3794 大欲寸=おほほしき= 万)ぼんやりした /岩)ぼんやりものの
3794番の歌の要点については、「デジタル大辞泉」の3の意味立て「愚かである」についての話の中で触れております。
17-3899 於煩保之久=おぼほしく= 万)ぼんやりと /岩)ぼんやりと
◆『海未通女(あまをとめ) 伊射里(いざり) 多久火能(たくひの) 於煩保之久(おぼほしく) 都努乃松原(つののまつばら) 於母保由流可問(おもほゆるかも)』
▷万葉百科訳:海人の娘たちが夜釣りに焚く火のようにぼんやりと、角の松原が思われることだ。
▷岩波文庫訳:海人おとめが焚く漁り火がぼんやりしているように、心もとなく角の松原が思われるのだ。
「於煩保之久(おぼほしく)」。二番目の音字に「保(ほ)」でなく濁音の「煩(ぼ)」の字をあてて「おぼほしく」と言っています。というか、逆で、「おぼほしく」というやまとことばの音をそのまま表現しようとして、「ぼ」の音に「煩」の字が当てられています。
「岩波文庫」解説によれば「おほほしく」を「おぼほしく」と言っているのはこの歌だけなのだそうです(「於煩呂加尒」おぼろかに ならば4465番にもあります)。
Wikipediaに掲示の「上代特殊仮名遣」表を見ると、「ほ」音、「ぼ」音には甲乙音の区別はないですが、「保」は「ほ」音、「煩」は「ぼ」音の字として区別されています。
初めのほうで「おぼ」がおおもとで、だんだんと「おほほし」になっていったのか?というような、ことを書いているのですが「おぼほし」の例がこうも少ないのは、古い言いかただから少なかったのでせうか? どうなんでせう。よくわかりません。
作者は、大伴旅人の従者(名は未詳)だそうです。大宰帥(だざいのそち)である大伴旅人が天平二年(730年)の冬十一月大納言に任ぜられて《太宰帥の任はそのままで》京(奈良)に上った際、従者らは海路を経て京に入ったそうです。その海路の旅を悲傷して作られた歌なのだそうです。
「悲傷」とは、「悲しみ心を痛めること」のようです。古代の船旅は我々が想像する以上に大変だったのでせう。船酔いとか卑近な想像もしますし、船旅用の船がどれくらいの大きさであったかわかりませんが、今からいえば小型だったでせうから、雨風の時の命がけ感すら妄想されます。
「旅(羇旅)を悲傷して」というようなことばが公の歌集に当たり前のように記載されているのですから。
ですから身分の高い大伴旅人は、全路そうであったかどうかはともかく、陸路で京へのぼったのでせう。
角の松原というのは現在の西宮市あたりにあった古代の大阪湾沿岸部の勝景の一つ(岩波文庫)だそうです。古代でも有名だったようです。大阪湾が船旅の到達地点だとすると、西宮辺りならまだまだ手前でせう。
船旅に疲弊しきった身で、なかなか目的地に到達できない焦りすら感じさせる辺りかもしれません。
そんな中で、従者らは、海人乙女らの焚く漁り火を目にしたのでせう。1225番の歌で触れたように辺りに反射物がない夜の海は、声だけでなく火の光さえも闇に吸い込まれるように「弱々しく」もの寂しいものだったのではないでせうか。
ここには挙げていませんが3170番の歌では「漁り火」と「髪髴(ほのか)」がセットで歌われていたりします。
そういう心細さ、弱った思いの中で、この闇の向こう辺りが角の松原だと聞いたり思ったりした。そういう状況だったのではないでせうか? 旅の景勝地にぼんやりと憧れるとかそういう心の状態ではなかったように思います。
この歌の「おぼほしく」は「ぼんやりと」と訳すよりは「ほのかに」とか「心細くも」などのほうが相応しいのではないでせうか。
18-4113 移夫勢美=いぶせみ= 万)心鬱陶しい /岩)気が滅入る
19-4164 於保呂可尒=おほろかに= 万)通りいっぺんに /岩)おざなりの
20-4465 於煩呂加尒=おぼろかに= 万)あさはかに /岩)いい加減に
8)「弱さ」にこだわって訳す
「弱さ」を淵源にすると思われる「おほほし」系のやまとことばや近しい思いを述べるその他のやまとことばに、それを歌った? 書き留めた? 人の視点次第で、実にさまざまな漢字表現(当て字)が行われたらしい、ということが多少伝わったでせうか?「夜露死苦!」の暴走族とかなり近しい暴走具合です。
ともあれ、空論城城主が言いたいのは、「おほほし」の現代語訳として、「ぼんやり」と「心が晴れない」の二つの辞書的意味で機械的に訳していくと、歌の真意を取りこぼしてしまうんじゃないかという懸念です。
歌意のおおもとにある「弱さ」をはずさず、じっくり歌の世界に浸りこめば、ピンぼけ解釈は減らせるんじゃないかなと思う次第です。
▶ネットに上っているPDF「帯広大谷短期大学紀要(第50号)2013年3月」の古代の食文化などがご専門らしい池添博彦先生の『万葉集の語彙について(2)』にて、「こころ」の関連語の中で「心が定まらず、不安な気持ちを表す語」の類として、「おほに」「おほほし」「おほろか」「おぼつかなし」「いぶせし」などのことばの分析が行われています。
そういったことばの底にあるものを、さらに、心に限らず自然一般も含めた「弱さ」へのことばとして「おぼ」「おほ」などがあったんじゃないかと捉えようとするところが、空論城城主の力点のほかと違う所かと思います。ご理解いただけるでせうか。
池添先生の論考は、大学の先生、いわばプロの行われることばの分析であり、「こころ」「うら」「した」「おもふ」などについて当てられた漢字の意味もからめた分析で大変興味深く、ご一読をお勧めいたします。
////////////付記///////////
今年も11月3日文化の日は「特異日」の面目を保ちました。
ここ数日の曇りや雨の日続きのなかで、傘マークから曇りマークへの矢印がついている北海道を除けば、ほぼ全国的に晴れマーク。いやあ、見事です。敬服、感服至極です。
昔は毎年この日が家族旅行の日だったんですが・・・。
まあ、昨夜から3夜連続の「ブラタモリ」スペシャル版「東海道五十七次」もやっているし、嬉しい限りです。