「読み納め」は「終活」の一環です。
本棚の、昔読んだ本や、「積ん読」だった本を再読し廃棄する作業です。
1)超有名な昭和の英語の先生
J・B・ハリスさんの名前にピンとくる人達は、おそらく50代以上の方かと思います。ラジオ(文化放送)の「百万人の英語」(1958-1992)、そして短波ラジオの「大学受験ラジオ講座」(1952-1995)の司会兼講師(先生)を長年務められた方。
「大学受験ラジオ講座」の始まった1952年といえば、終戦から7年目です(昭和27年)。そこからWindows95の1995年まで43年間も英語学習の放送で教え続けられた! その番組を2、3度聞いたか、聞かなかったかくらいのボンクラ生徒だった机上空論城城主ですら、そのお名前はしっかり存じ上げる超有名人だったわけです。
しかし、そのハリスさんが、ハーフで、国籍は日本で、そして、第二次世界大戦時に日本兵として北支(中国大陸北部)で兵役に就かれてた。なんてことは、古書店でこの『ぼくは日本兵だった』を見つけるまで、全然知りませんでした。
2)ハリスさんの特異さと戦争の時代
ハリスさんはロンドン・タイムズの極東特派員であったイギリス人の父と千葉県出身の母との間に大正5年(1916)神戸で生まれます。一家はほどなくして横浜へ移り住み、そこでハリスさんが7歳の頃、関東大震災に遭遇。住む家を失った一家は、父の転勤という形でアメリカ、ロサンゼルスへ移住。そこでは日本と比べものにならない広大なアメリカを目の当たりにするなど、ハリスさんの幼少期は、ハリスさん自身がハーフであるというその存在の二重性の問題も含め、かなり色濃い経験の連続であったような気がします。
そして12歳頃の昭和3年(1928)、父の再度の極東赴任で日本へ戻るも、16歳頃の昭和8年(1933)に父が急逝。ハリス氏は進学をあきらめ新聞社(ジャパンタイムズの前身の一つである「ジャパン・アドバタイザー」)に給仕として就職。そこから苦労して記者へと昇進しています(Wikipedia参照)。
この新聞社への16歳での就職と記者への昇進などは、ハリスさんの父の職業とハリスさんがバイリンガルの人であったことを抜きには考えられないでしょう。
ハリスさんがそうやって特異な自身の経験と経歴を積み上げていた頃、日本は昭和6年(1931)の満州事変、昭和12年(1937)の盧溝橋事件などから日中戦争への突入と拡大、世界からは孤立への道をずんずん突き進んでいました。
そして、資源獲得と大陸での局面打開を企図し、日本は昭和16年(1941)12月8日真珠湾を攻撃し太平洋戦争を始め、さらなる戦線拡大へとのめり込んでいっていたのでした。
3)中国北部の戦線へ
ハリスさんは、父が亡くなったあと日本国籍を取得していたのですが、太平洋戦争がはじまると、なぜか日本にいる外国人と同列にみなされ、横浜の山下埠頭に設けられていた敵国人収容所に押し込められます。
そして、8カ月間の収容所暮らしのあと日本国籍が判明したと、収容所から解放され喜んでいると、徴兵検査の通知「出頭命令書」が届きます。昭和17年(1942)の夏のころのようです。
検査に合格したハリスさんは甲府の部隊に入隊。そこで軍隊の基本を学び、昭和17年の初冬の頃? 甲府から広島・宇品へ。宇品港から朝鮮の釜山へ。そして釜山から列車で京城(ソウル)、平壌(ピョンヤン)を過ぎ、北支(ほくし=北支那)河南省・新郷へ到着。そこから100㌔先の湯陰(トウイン)という地に駐屯していた部隊に配属されます。
4)極限の状況で人であること
湯陰の部隊での昭和17年(1942)の冬から、「終戦」の翌年昭和21年(1946)の春先?の帰国のころまでの約3年の出来事が語られます。
帰国後判明した奇跡的な話を面白いと言っては語敝があるのですが、そのほかの「へぇ」な話など、特異な存在であるハリスさんのような人の周りにはやはり、特異な逸話が付きまとうもののようです。
それらを読みながら、城主が興味深かったのは、やはり、戦争という非人間的な極限状況での人間のありようでした。
ハリスさんが自身で述べているように、ハリスさんが南方の戦線に送られず、北支の部隊に配属されたことは、まず何よりも一つの僥倖でなかったかと思うのです。
ハリスさんたちは、京漢<けいかん>(北京―漢口)線という北支と中支を結び、日本軍の補給路でもある幹線鉄道の警備が主任務だったそうです。対峙するのは、中国の国府軍(重慶軍)。その時点では国府軍の敵でもあった共産軍である八路軍。そして両者に着いたり離れたり、あるいは時として日本軍の手先になって動くことすらあったという匪賊や馬賊ら。
殺し合いですから、常に命がけではあるのですが、例えば、フィリピン「マニラ事件」の資料を読むような絶望さ加減とは、やはりだいぶ違っている気がします。
でも、殺し合い、極限状況には違いありませんから、ハリスさんも昭和19年(1944)正月の八路軍の襲来の状況を正直に述べておられます。殺らなければ殺られる状況。しかし、八路軍は青龍刀が主力で、モーゼル銃や鉄砲を携えているものはごく少数だったそうです。これも僥倖というものではないでしょうか。
≪ といいますか、中国側の敵対勢力たちが、そういう泥縄的な武装勢力であったことや、内側で国府軍と共産軍との対立があったことなどが、広大な大陸のところどころでの日本軍の勝利となり、それが一見、日本軍全体の”破竹の勢い”に見えていた。だけだったのではないでしょうか。 ≫
そういう極限状況で、自分を見失ってしまう人たちが登場します。
そういう極限状況でも、人の道を歩き続けようとする人たちが登場します。
あるいはそういう極限状況に押しつぶされて、自死した方の話もあります。
日本の敗戦(昭和20年<1945>8月)が明らかになったあとも、それを認めず、シナに残って匪賊となって徹底的に八路軍と戦おうと叫ぶ下士官のグループがあったそうです。
ハリスさんはこう書きます、
「ぼくにはわからなかった。おそらく、永年にわたる戦地暮らしが彼らを心底から殺し屋に仕立てあげたのだろう。 ”軍隊ぼけ”ということばがあるが、ものごとを理性的に判断できなくさせる”何か”が、たしかに軍隊にはあるようだ。ぼくは、改めて戦争のもっている底知れぬこわさを感じていた。 幸いなことに、こうした過激派の存在にもかかわらず、部隊全体の秩序はおおむね保たれていた。それはエザキ大隊長をはじめとする上層部の方針が、はっきりと示されていたからであった。『日本は大東亜戦争に敗れた。われわれは天皇陛下の大御心に従わなければならない。近く重慶軍の使者が到着するはずであるが、われわれ第六独立警備三十二大隊将兵は、全員整然とその指揮下に入る。それまでは従来通り日常の任務を遂行する。この方針に従わないものは容赦することなく処断する』 大隊長は全軍に敗戦を通知したとき、こう訓示していたのである。」
そして、ハリスさんはこういう見方も続けて添えています。
「それはたぶん、重慶側の指示によっていたのだろう。たしかに八路軍や匪賊による鉄道破壊は依然としてつづいていた。重慶政府にとって彼らはいまでも敵であったから、降伏した日本軍の力に頼らざるをえないところがあったのである。」
それは、その通りだったのでしょう。でも、部隊の上層部が、日本本国の降伏の意向と、敗軍という自軍の立場を正しく受け止め、適切に対応したことが、敗戦と言う混乱のなかでの自隊の安寧を最大限に確保した。そう思います。
上に立つ者の理性と冷静さと果断さこそが、極限の状況の中では最も重要なことだと改めて思うのです。というか、そういう極限状況に人々を追い込まないことが先ずもって大切なことであり、そもそも戦争というものを始めないことこそが、大大大前提であるとは思うのです。上層部がだめだとどうなるかは、大東亜戦争全体の評価に繋がっていくかと思います。
ともあれ、そういう極限状況の中でも、人としての大事なものを失うまいとする人たちが確かにいたということを確認できたことが、自分にとっては救いであり、この本を読んだことの一番の成果だったように思います。
5)「新しい戦前」?
本を開いたら、巻末まで前回(2005~2010年頃)読んだ時の書き込み傍線だらけだったのですが、実はすっかり忘れておりました。Wikipediaによればそのすこし前の2004年(平成16年)にハリスさんはお亡くなりになられていたようです。
それからまた約20年。
残念なことに国会前で反戦デモが盛んになってしまった今現在、この本は、本来は昔の出来事を語る本だっただろうに、俄かに、呑気に「読み納め」なんて言ってられなくなってしまっているような気がして、複雑な心境であります。
<※文中で、年齢を曖昧に記述している箇所があるのは、Wikipediaでハリスさんご誕生の月日が明示されていないことによります。>