老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

『蜻蛉日記』の「うつろひたる菊」

 

 知らないことだらけ

 

1)「色褪めた菊」の大事な意味合い

 2月1日に『蜻蛉日記』の著者について、いろいろ書いた中で、旦那である兼家さんの足が遠のいたら従者に探偵させたり、腹いせに送った有名な歌『なげきつつ ひとり寝(ぬ)る夜の あくるまは いかに久しき ものとかは知る』には、「色褪めた菊」を添えて送ったりするので、兼家さんの足は余計に遠のいた・・みたいなことを書きました。

 その際、「色褪めた菊」は、「思いも冷めたわよ」的な意味かと思って書いたわけですが、もうひとつとっても重要な意味があったようです。

 

2)移菊(うつろいぎく)Wikipedia の説明

《 うつろいぎくとは晩秋のころ白菊が花弁の端から紫がかって来たものを言う。有体に言ってしまえば、花弁にが触れるなどして植物組織が損傷を受け色が変わったもので、園芸用語で言う「霜焼け」に過ぎない。 しかし、平安貴族の紫への愛着から、ともすれば通常の白菊よりも美しいとさえされた。・・・

・・・平安朝の貴族は、盛りを過ぎかけた白菊がほのかに紫がかった風情をことさら優美なものとして愛好し、「一年に二度の盛りを迎える花」「冬枯れの直前まで美しく咲く花」と愛でた。 通常「うつろひたる花」は萎れてみすぼらしくなった花を示すが、「うつろひたる菊」に関しては美しいものとして別格に扱う。

 重ねの色目にも採用されており、表は中紫、裏は青あるいは、表は紫で、裏が白。(山科流)

 源氏物語にも「うつろひたる菊」などという呼び方で登場し、鑑賞するほかに挿頭や手紙の付け枝として利用されていたことがわかる。

 秋をおきて時こそ有りけれ菊の花うつろふからに色のまされば平貞文古今和歌集」)「秋を過ぎてこそ菊は盛りだ。うちしおれていくほどに色の美しさが勝るのだから。」

 紫にやしほ染めたる菊の花うつろふ色と誰かいひけむ藤原義忠後拾遺和歌集」)「紫に何度も染めたような美しい菊の花をうつろう色(通常は植物に「うつろう」は色褪せていく様子)だなどと誰が言ったのだろう」

 他方、「関心が他へ移ろう」ことと掛けて、恋心が他へ移ったことを表す際にも使われる(「蜻蛉日記」など)。》(以上 Wikipedia

Wikipedia さんの説明によれば、「うつろひたる菊」は、たしかに「色褪せ気味の菊」なんだけど、平安貴族は、むしろ、そこににじみ出る微妙な紫味を尊い色合いとして賛美した。でも、『蜻蛉日記』のように、思いの冷める意味でもつかわれた。ということのようで、「結果オーライ」のようにも読めるのですが、そうかなという気がしてきました。

 色褪めた菊束の間に、あの有名歌の文を、挿し込んで送った、そのあとにつづく文章です

 

 かへりを               返事では

 「明くるまでも           「夜が明けるまで

 試みむとしつれど、         会おうと試みたのだけど

 とみなるめし使の          急用だという従者が

 來あひたりつればなむ。       来たので、行ってしまいました。

 いとことわりなりつるは、      (お怒りは)たいへんごもっともです(仰ってることは)

 『げにやげに            『ああもっともです

 冬の夜ならぬ            明けるのが遅い冬の夜でもない

 眞木の戶に             真木の戸(ご立派な門戸?)を

 遲くあくるは            遅く開けられるのは(それを待つ身は)

 陀しかりけり』」          なんとも辛いものです』」

 

 さても               とはいえ

 いとあやしかりつるほどに      たいへん不思議に思うくらい

 ことなしびたる、          何事もなかったようにしている

 しばしは              しばらくは

 忍びたるさまに           人目を避ける風にでもして

 こうぢに              「公用なので行ってきます」

 などいひつゝぞあるべきを      とかいいながら過ごすものだろうに

 いとしう心つきなく思ふことぞ    ひどく納得いかないと思うことが

 限りなきや。            限りないことだわ。

 

 この状況を読んで、兼家の無神経さということを、前回書いたのではありますが、なんで兼家さんがこんなに懲りない(懲りていなさそうに見える)のかというと、道綱母さんが「うつろいたる菊」を添えたのを、それほど悪い意味にはうけとめず、雅(みやび)なふるまいの範囲のこととして受け止めていたからではないでせうか。いろいろ言ってるけど「まだ、大丈夫だ」って。

 それは、兼家さんの不実を嘆きつつも、これから世にときめいていくらしい兼家の、妻の一人としての、自らの立場を理解している道綱母さんの思いの中にも、「責める思い」と同時に、雅に遊んで「やりすごそう」とする思いが錯綜していて、それが兼家にも伝わっていたからではないでせうか?

◆ということを思ったのは、中巻を読み出すとすぐに起こる「安和の変」がらみの斎藤菜穂子さんの「『蜻蛉日記』兼家の御嶽詣 ─安和の変後に求められた加護─ 」を読んだからです。それは、また次回。

 

『蜻蛉日記』の「折り枝」

 

 専門家の研究には教えられます

 

1)和歌を小枝に添える

 『蜻蛉日記』中巻に、和歌をしたためた青い短冊を、柳の小枝に結び付けて差し出すシーンがあります。

 2段の969年3月中旬ころ、「小弓」(小さい弓で、先攻、後攻の2チームに分かれて競う射的ゲームらしいです)が行われるということで、この家のものたちは、「わたしは先攻 チーム!」「わたしは後攻チーム!」みたいに賑やかに騒ぎ合います。

 そして、後攻チームが練習のために集まった時に、はしゃいで、女房(房のリーダー格の侍女?)に、「勝ったら賞品が欲しいなあ」みたいなことを言うが、まったく(いい)ものを即座に思いつけなかったので、道綱母さんが、困った(わび)挙句のたわむれ(ざれ)に、青い紙を柳の枝に結びつけます。(そこには以下の歌が書かれています)

 「山風の まへよりふけば この春の やなぎのいとは しりへにぞよる」

 山風が前から吹いてきたとしたら、この春伸びた新しい糸のような枝は、後ろ側(後攻チーム側)に揺れ寄ることでせうよ。

と詠んで、後攻チームの勝利を祈念してあげる、そういうシーンです。

 

2)男もやってた

 この、短冊や紙片を、手折った枝や花などに添えるシーンは、上巻にすでにあります。 

 上巻27段、大和の「長谷寺詣で」の帰り道、宇治川を船で、奈良側から京側へやっと渡り終えた頃に、按察使大納言(あぜちのだいなごん、兼家の叔父藤原師氏もろうじ)が、所領がある奈良側の岸にいて、紅葉のとても美しい枝に、雉(きじ)や氷魚(ひお)などをつけたうえに、和歌ではないですが、「準備はできていなかったのだけどぜひ立ち寄ってください」というメッセージ文を添えてきます。

 この時点で、「枝に添える」「枝にくっつける」ふるまいには、何か意味があるなと思います。

 

3)折り枝(おりえだ)表現

◆共立女子大の岡田ひろ先生が書かれた『平安中期の「折り枝」表現』というpdfがネットに上っています。これを読むと、「折り枝」表現の奥深さ知ります。

 和歌の私家集を読み比べると、9世紀ごろから「折り枝」表現が出現するそうです。歌を補完したり、暗喩したり、歌の意を実体再現して強調したり。また、絶対読んでほしかったりして、枝や葉そのものに歌や文が書きこまれたりと、当時の生活感覚や世界観などに即した多様な表現様態があったことを知り、驚きます。専門家の研究にはやっぱ教えられます。

★岡田先生はそうは書いておられませんが、今でいう「プレゼン資料」のうようなものだなと思いました。視覚的に、触覚的に、あるいは嗅覚的にも、文や和歌の小宇宙を補足し、演出するもの。「折り枝表現」ってそういうことじゃないんでせうか。

★「折り枝表現」の出現は9世紀(平安前期)ころで、平安中期(道綱母さんや清少納言紫式部のころ)にピークを迎えるらしいです。そうすると、平安以前には「折り枝表現」は、この表現形態としてはなかったてことですが、ただ、「折り枝」自体には、なにかもっとプリミティブな古代臭漂っている気がします。

 

4)古代臭

 967年の晦日の日、追儺(ついな)式のために、周囲の人間が立ち騒ぐ様子がさらっと述べられています(『蜻蛉日記』上巻25段)。この「追儺」は、中国由来の年越しの鬼払い儀式のようですが、儺人(なじん)方相氏(ほうそうし)侲子(しんし)といった鬼払い役が、鬼を宮中から町の外へと追い立てていくのだそうですが、儺人は、桃の枝で作った弓、葦の矢を持って追うのだそうです(Wikipedia)。

 桃の弓は中国由来なのかもしれませんが、わが国でも、橘(たちばな)とか松の枝とかで長寿を願ったり、賢木(さかき=葉がたくさんつく=栄える木?)をお祓いに使うとかあります。植物の繁殖力を自然の摩訶不思議な力として畏敬した原始時代の遺風と、平安時代の「ひらがな」を「散文」に持ち込んで人の心の動きの細部を描き出そうとした表現文化が結びついたってことなんせうか。定かではありませんが。 

 

5)呪力の衰え?

 その追儺式の翌日(968年元旦)、道綱母さんのところに旦那の兼家の妹(藤原登子=貞観殿〈じょうがんでん〉の尚侍〈ないしのかみ〉)がやってきていて、のんびりされている(=年賀の男客も来ない)ので、道綱母さんは、自分も同じで、兼家はすぐ傍の本家で賑やかにやっていてこちらに来そうにもないから、年が改まっても「待つのは鶯の声ばかり」なんて古歌に因んだ戯れ言を言ったりしています。

 ところへ、侍女が「かいくり(栗や貝のようなものか不明)」を、糸で結んで贈り物のような形にして、木で作った田舎男の人形(片足にコブ=尰〈こひ〉がある)に荷なわせて持ってきます(底本もいろいろあって原文バラついているみたいなので正確な描写よくわかりませんが)。

 道綱母さんはそれを引き寄せて、色紙に「片恋ひ(片尰=片思ひ)で辛い? 田舎男だったら天秤棒持ってんだからバランスとりもどせるでせうに(会う機会がないなんてないはずだわよ)」

 みたいな歌を書いて色紙を人形の脛(はぎ=ふくらはぎ)辺りにつけて、貞観殿さまに(面白がって)渡します。

 貞観殿さまは、干した海藻の細かく刻んだものを集めて、天秤棒の反対方に「かいくり」と入れ替えて人形に荷なわせ、人形の片足のコブを削りとって反対側の足により大きくしてつけて、「田舎男の天秤棒(を待ってそれ)で測ってみたら、片恋ひどころか、その恋ひ(尰ひ)思ひが、優ってるってこともあるもんなのよ」みたいな歌を返されます。

◆9世紀、10世紀の人形(ひとがた)が平安京で出土していて、律令制の衰退とともに消えていったと見られているそうです(平安京と「まじない」—人形—』(財)京都市埋蔵文化財研究所京都市考古資料館の pdf )。 

◆「平城宮の時代よりやや後の、平安時代の書物には、朱雀門と壬生門のあいだの大路で、「大祓(おおはらえ)」という儀式が行われたことが書かれています。「大祓」は、人々の犯した罪や災気を払うために毎年6月と12月の晦日みそか)に行われる国家の儀式のことです。二条大路北側溝から見つかった大量の人形は、この儀式に用いられたものと考えられます。」(奈良文化財研究所研究員 庄田慎矢

 以上のように、平安時代、人形が作られていたのは遺跡発掘から証拠が出ているわけですが、山賤(やまがつ=山里の男)の人形というような、人物像設定の人形があったってことは、上二つの解説には、触れられていないだけかもしれませんが、ありません。とまれ、房の女性陣が、それに違和感なく接しているっていうのがなんか驚きです。しかも、山賤は、尰(こひ=こぶ)持ちのような醜怪な存在として造形され、それが常識的に受け止められ、遊ばれてもいるわけです(時代性を考慮して妄想表現に自主規制かけていないことを予めお断りしておきます)。

 この話が、追儺式に続けて語られているので、この人形が追儺式(大祓)関連の祭祀具である可能性も高いのでせうが、それにしては、女性陣、そういうことに忌憚なく遊んでいる風です。追儺式が終わった後だから? でも、足に大きなコブをつけたりするのは、純粋に造形描写なのか、やはり、まじない的な行為なか? どっちでせうね。人形で愉快に遊ぶって、だいぶ古代的な心性から脱け出ている気もしますが、でもまだ、すっかりってことでもないような雰囲気もあります。定かではありませんが。

 

 

蜻蛉の日記読みかけて睦月尽

 

 行き場なき争いの世の冬深し

      昭和99年2月1日

 

1)あっというまの2月

 『徒然草』第12段読解の中、「をかし」の中古~中世の用例を追っかけ出して『蜻蛉日記(かげろうにき)』にはまる。また、わからないことばのネットサーフィンしながら読んでいたら、上巻だけで1月が終わってしまった。

 その、上巻迄を読んだところでの感想文。

 

2)正直でいい『蜻蛉日記

 紀貫之(きのつらゆき)の『土佐日記』は(ほんと、またザックリの感想ながら)貫之の風流設定の語り口が、あざとい感じなんですけど、『蜻蛉日記』は、著者"道綱(みちつな)の母"の正直な気持ちがストレートに記されていて、この時代の心持ちのリアルが伝わってきて面白いです。

 

3)道綱母さんは兼家(かねいえ)の妻の一人

 道綱母さんは、1月から始まったNHK大河ドラマ『光る君へ』時代の人。段田安則さんが演じている藤原兼家の妻の一人なんですね。時姫(演者:光石琴乃さん)が正妻で、よくわかりませんが、2番目か3番目くらいなんでせうか。だから道綱は兼家(段田さん)のお子さんなんですね。

 道綱母さんは、なんていうか、乞食や目の見えない人を見て、可哀想に思ったりもしますが、そういう人たちのそばを(牛車で)通って、穢れた気になることも、正直にというか、無神経に書いてくれる、まさに時代に正直なセレブ奥さんです。

 

4)ノリのいいほうでもない

 兼家の求婚にもどちらかというとノリが悪くて、兼家さん手を焼き、面倒くさくなったりもします。

 恋に飛び込むタイプではなく、お父さんやお母さん姉さんといった家族が身近にいないと心細くてたまらないタイプのようです。ただ、これは、母系制というような話もからむような気がするので、「恋に飛び込む」というような現代的なものさしがどこまで有効なのかってこともあるかもしれませんが。ただ、突き詰めた所でどっち側に転ぶ人なのかって、やっぱ男女間の心の最後のきずな部分にからみます。兼家さんもそういうこと考えたかもしれません。 

 道綱が生まれて、兼家の足が遠のくと、使いの者を使って兼家の動向探偵させたり、その腹いせに送る歌の文には「色褪めた菊の花」添えたりするので、兼家は余計に平然と他の所に通ったりします。また、遠のいては、またやってくる兼家の言い訳ののらりくらりぶりも、道綱母さんがいうとおり無神経です。まあ、あっちこっちに女性がいたらそうなるだろう、よくそんな面倒なことやるよと、ほぼ呆れ、恐ろしくもなります。

 道綱母さんは、兼家が頻繁に通っていた他所の女に子が生まれて、その女性やその家がにぎわうと腹がたち、でも産後、そこから兼家の足が遠のいたりすると「してやったり」の快哉さけんだりします。

 また、別の女性のところでも兼家の足が遠のき、心細くしている風なので、おなじような気持ちを慰めるつもりなのかなんなのか同情の手紙を送り、「恋敵に送る手紙のほうが気色悪いわ。遠のかれていく人の身の上楽しんでるの?」と、反発くらいます。

 (※追記 この女性が第一夫人の時姫と一般的には見做されているようです。)

 道綱母さんの書き記したたくさんの歌の古典知識とか、掛詞の当意即妙さとかからして、知的な人だったんだなということも、この日記読めばすぐ感じるんですが、なんか、どっか硬質な無神経さも抱えていたような感じの人でもあります(あくまで上巻までを読んでの個人的な感想です)。

 

5)あってないようなプライバシー

 兼家との和歌のやりとりは、どうも、道綱母さんに仕えている女性たちもほぼその内容シェアしてた風ですし、兼家が仕えていた部署の宮様と兼家との和歌のやりとりでは、道綱母さんもほぼ一緒に読んでる風なので、この時代のプライバシー感覚っていうのが、当然ながら、まったく現代とは違うなと感じます。

 和歌のやり取りが貴族生活に浸透したのは、延喜ー天暦のころ(10世紀前半)と、どこかに書いてありました(典拠元失念)。まさに道綱母さんたちの前代までに地ならしは済んでいたわけです。

 まあ、この『蜻蛉日記』での和歌のやり取りの感じは、携帯電話でのショートメッセージのやり取りですよ。文字を書ける人たちは概ね貴族的な、インテリな人たちだったでせうから、手紙のやり取りに、万葉集古今集などから「白氏文集」などの漢籍まで含めた多くの古典を踏まえた雅(みやび)なことばを散りばめて、思いを凝縮させる。そういうインテリ嗜み(たしなみ)だったかと思います。

 で、現代風なプライバシー意識はとても低かったから、喜怒哀楽をやりとりの相手どころか、回りの人々とも共有して楽しむ?。そういう世界です。みんながそれぞれの情動を相当なまでさらけ出し合いながらぶつかり合う世界です。現代人には2日と堪えられないでせうね。

 

 中巻で、様相が変わるらしいです。楽しみです。 

 

■追記 2024/02/04

 NHK大河の『光る君へ』のスペシャル版として、『知恵泉』という番組が、紫式部清少納言道綱母を取り上げてました。今年1月1日に放送予定だったのが能登地震のために昨日2月3日(土)に放送になっていたらしいです。本日NHKプラスで見ました。

 道綱母さんは、本朝三美人の一人だったのですね。知りませんでした。そして、道綱母さんは、やはり兼家の二番目格の妻だったそうです。また、『蜻蛉日記』は本人の日記原本のままでは無いというような話もありました。

 『蜻蛉日記』にたくさん記載されている和歌がどれも優れているのは、道綱母さんのお父さんが和歌の名手なので、その子である道綱母さんも和歌の素養に恵まれていたから、という面はもちろんながら、和歌名手として、『蜻蛉日記』執筆時に推敲しつくしたっていう面もあったってことになるんでせうね。和歌のやり取りの当意即妙性の部分には、若干の疑義も差し挟まるってことでせうか。うまく仕上げるレベルの高さに疑念はないのですが。

 『蜻蛉日記』の結末がどうなっていくのかも、わかっちゃってしまいましたが、「読み直し派」は、その時代に語られたことばや、その時代の人の心持ちに興味があるので、中巻、下巻も読んで、道綱母さんを自分なりに確認しておきたいと思います。

 

『徒然草』第11段(読み納めシリーズ)

1)第11段 要旨 

 山里でひっそり暮らす風の庵を見つけたが、平凡な人の欲を感じるものも見つけ、興覚めしたという話です。

 いわゆる兼好の出家遁世、隠棲、閑寂イメジというものがどういうものか、それを裏切る点がどういう点かを説明しています。
 こういう閑寂感が『徒然草』以前からどう展開されて来たかとか、兼好の閑寂感の意味合い(あるいは、どれくらい本気なのかとか)につい興味湧きますが、机上空論城主の手に余り、そこまでは追及しません。おいおいにでも、つかめていけるかどうか。

 

0)前置き

以下の4点を参照しつつ『徒然草』を、下手の横好き読解しています。
旺文社文庫『現代語訳対照 徒然草』(安良岡康作訳注/1971初版の1980重版版) 
②ネット検索 
③『角川古語辞典』(昭和46年改定153版)
中公新書兼好法師』(小川剛生著・2017初版の2018第3版)

 

2)第11段 本文

 神無月のころ 栗栖野 といふ所を 過ぎて、ある山里に たづね入ること 侍りしに、遙なる 苔の細道を ふみわけて、心ぼそく 住みなしたる 庵あり。

 木の葉に うづもるゝ かけひ の しづくならでは、つゆ おとなふ もの なし。閼伽棚に 菊紅葉 など 折りちらしたる さすがに  住む 人の あれば なるべし。

 かくても あられけるよ と、あはれに 見るほどに、かなたの 庭に 大きなる 柑子の木 の、枝も たわゝに なりたるが、まはりを きびしく かこひたりし こそ すこし  ことさめ て、この木 なから ましかば と 覺えしか。

 

3)第11段 訳

 神無月(10月)のころ、来栖野(くるすの)というところを通り過ぎて、ある山里に訪ねて行ったことがあった時に、長い苔むした細道を踏みわけていって、もの寂れた感じにして住んでいる仮住まいがあった。

 散った木の葉に埋もれた掛け樋から落ちるしずく(の音)以外、少しも(音たてて)訪れる者はない。閼伽棚(あかだな)に菊や紅葉(もみじ)などを手折って散らしているのは、やはり、住んでいる人がいるからなんだろう。

  【閑寂な隠棲者像の期待】 

 こんなふうでも(住んで)いらっしゃるんだと、趣深く思っていると、むこうの庭に大きな柑子(こうじ)の木が(あって)、枝が撓むほどに実っているのを、そのまわりを厳重に囲ったりしているのが、少し興が醒め、この木がなかったらよかったのにと思ったことだった。

  【凡俗性感じさせられ落胆】

 

4)ことば とか あれこれ

〇栗栖野(くるすの) 

 安良岡康作先生は脚注で、栗栖野の地を「山城国宇治郡、今の京都市東山区山科の内。京都市中から東山の丘陵を越えて、東に下ったところにある。」と説明されています。栗栖野の位置、それでOKかと思うんですが、それがそうでもないんです。
 安良岡先生の「東山区山科」というのは、Wikiによれば、1931(昭和6)年から1976年まで確かに山科は「東山区」だったそうで、安良岡先生の『現代語訳 対照 徒然草』が1971年初版なので、その時点での説明ということになります。
 これを確認すると、同じ昭和6年(1931年)に、東山区に南接した伏見区で「小栗栖(おぐりす)」15町が再編されているので、東山(山科)側の「栗栖野」は、伏見区側の「小栗栖」ではないということを、安良岡先生が同時に説明されているということになるかと思います。

★何を、ややこしいこと言っているんだと思われるかもしれませんが、実は、京都近辺で「栗栖野」と目されてきた場所は3箇所もあるんですね。ざっくりいうと、
(A)京都市街北西の「北区西賀茂辺り」、
(B)京都市街からいうと南東方向、東山の向こうの「山科区栗栖野(現在はくりすのと呼称)」、
(C)そのさらに南手の「伏見区小栗栖(おぐりす)」。

Wikipediaには「栗栖野」解説がないので、コトバンクを見ると、「栗栖野」がどこかについて、少しずつ見解の異なる5種の辞事典が並列的に紹介されているので、素直に読むと混乱します。ザックリいうと、
 ①【精選版 日本国語大辞典】(A)(B)の順で併説
 ②【小学館デジタル大辞泉】(B)(A)の順で併説
 ③【ジャパンナレッジ】(A)推し。(B)も同名で混乱するが、『源氏物語』の注釈書『花鳥余情』や、僧契沖などが書き残す内容によれば、「文学、文献上で多くは」(A)を想定していると説明。
 ④【平凡社「日本歴史地名大系」】(B)一択。 
 ⑤【平凡社 改訂新版「世界大百科事典」】(A)推し。(C)も同名で混同されるが(A)のほうが「より著名であったようだ」と説明。

★(A)(B)(C)それぞれの特色は

(A)は、古典に出る「北野」「紫野」があったり、宮廷猟場や宮廷氷室などがあって古典世界で著名な地。
(B)は、山科川と安祥寺あんしようじ川に挟まれた丘陵台地にあって、坂上田村麻呂墓地や中臣鎌足遺跡、勧修寺などがある。
(C)は、中臣鎌足の子定惠建立の法琳寺跡があったり、兼好の時代に関係ないですが明智光秀絶命の地で有名らしいです。
 3地点それぞれに、歴史があって、「栗栖野」を語った語り手達によって、想定地が違ってたってこともあったかもしれません。

★安良岡さんが11段の栗栖野を「山科」の方(B)とされるのは、兼好が、栗栖野を過ぎて行った先の「ある山里」というのが、兼好が正和2年(1313年)に取得した一町の田のあった山城国「小野荘」の地だろうと目されてきたことを前提にされているからのようです。そしてそのころが兼好が遁世者になった頃でもあると認識されていたようです(安良岡先生の本の補注14)。
 (B)のすぐ右下あたりに今も「小野」地名があります。この「小野荘」の土地の売買について、小川先生も『兼好法師』71~74pで詳しく書かれています。取引関係文書は8通現存しているそうです。取引条項は、買った側(兼好方)が不測の損が発生しないよう周到なもののようで、「出家遁世」「脱俗」じゃなかったんか~いと突っ込み入れたくなります。
 東山六波羅から7㎞程の「小野荘」の土地を、兼好が仲介役に勧められて持ち主であった山科家から買ったのは間違いないようです。六波羅と小野荘の間に山科・栗栖野があるのも間違いなく、この11段冒頭の1行も小川先生の『兼好法師』文中でも登場するのですが、小川先生は、兼好が書いた「栗栖野」と「山科栗栖野」の関係性については一切触れられていません。

★また、ネットに上っている、◆関西学院大(?)の藤原正義先生が書かれた『兼好の「小野・栗栖野」』によれば、兼好の自撰歌集を詳細に見ていくと(つまり兼好がいろいろと歌っている兼好の心持ちをおっかけていくと)、兼好が山科小野や(醍醐寺の辺=小野のさらに南)に赴いたり、あるいはそこに庵居した形跡は読み取れず、むしろ、兼好が遁世の初めに籠ったのは、(A)に近い「修学院」のほうで、11段冒頭の1行が「修学院」に向かうことを言っているかどうかはわからないが、「栗栖野」は、愛宕郡の鷹嶺東(※京市街を軸にいうと(A)の北区西賀茂辺り(北西)と、東の比叡山側裾野辺り(北東)の違いはあるんですが、まあ京都市街の北部ではあります)と見ておくのが穏当だと仰ってます。

★兼好が小野荘の土地売買を行ったのは事実であっても、兼好の心象風景にそこは出て来ず、兼好は、むしろ北の方のあちこちを、あれこれ歌に詠みこんでいる、ということらしいです。

★本段冒頭は、本人が籠りに行っているとかではなく、「栗栖野」を越えていった先の山里で、誰かが物寂し気な佇まいさせながら住んでたって話ですし、尚且つ、脱俗系の人かと思ったら、そうじゃなかったジャンジャンって話ですから、ここで、無理に兼好の遁世思想にこだわる必要もない気もします。もちろん遁世がらみの山行きだった可能性も十分ありうることかとは思いますが。

 「栗栖野」一帯を通り過ぎて、その先にある「山里」っていう記述の位置関係でいうと、(A)が比叡山の山裾ならさらにその先(北の方の山裾もしくは東手の比叡山系)に山里がないといけないってことになるかと思うし、(B)の山科の栗栖野と小野奥の山里なら位置関係的に無理がない気もしますが、まあ、未決トレー入れですね。

 

〇はべり

 「あり」「をり」「はべり」「いまそがり」の「はべり」。ラ変動詞。これで終止形。高校古文で聞いた(学んだ?)あれです。
 「はべり」なんて言い回しは『枕草子』とか『源氏物語』にはオンパレードかと思ったらそうでもなくて、雅な人たちの雅な会話と思わせたいようなところで使われている感じですね(ざっと見の感想です)。
 『枕草子』『源氏物語』より1世紀ほど遡る『伊勢物語』は、中央から離れた話が多いからか第107段(全125段)くらいにしか発見できませんでした(たぶん)。同時期の『土佐日記』も中央に縁なく「はべり」ことばは一つもなし(たぶん)。

 一方、平安後期の『大鏡』は、仮構された語り手の大宅世継(おおやけのよつぎ)や夏山茂樹(なつやまのしげき)らが『大鏡』=「藤原道長隆盛の歴史」を語るに至る次第を述べる「序」の部分では、「はべり」オンパレードですが、史資料を下敷きにしらたらしい"歴史話"に入った途端全然そうではなくなります。「はべり」は、尊敬・謙譲を誇張気味に語る場合のことばなんでせうか。

★角川古語辞典で確認しておきます。
「はべり【侍り】」
[1]自ラ変 
  意味:①(貴人のそばに)いる。伺候している。(用例:枕54「たれか侍る」)
  意味:②自己(側)の「あり」「居り」の意の謙遜語(用例:源・桐壺「(身の)置きどころも侍らず」)
  意味:③有りの意にあたる丁寧語(用例:源・橋姫「御心侍らば」/枕7「「見つくる折も侍らむ」)
[2]補助動詞
  意味:①自己(側)の事にいう謙遜語。ございます。あります。(用例:源・桐壺「(私の)妹に侍る」)
  意味:②相手(側)に対する丁寧語。ございます。あります。(用例:源・帚木「さは侍らぬか」)
  意味:③(他の動詞について)
   イ)謙遜語。相手(側)に対し自己(側)の動作をへりくだっていう。(用例:源・桐壺「見え侍らぬ」)
   ロ)丁寧語。自分外(側)の動作を丁寧にいう(用例:源・桐壺「夜更け侍りぬ」)

★[2]の補助動詞の③の「他の動詞について機能するのが補助動詞」というのはわかりやすいのですが、[2]の①②がよくわからず「トライ」さんの解説(黒須宜行先生)を見ました。「妹です」の「です」とか、「そうでない」の「ではない」などは、独立した動詞ではなく、[1]の「誰か居るか」の「居る」や「置き所も無い」の「無い=無し」はれっきとした動詞だということと理解。

★それはともかく、「はべり」はどういうことば、語源なのでせうか?
 角川古語辞典の用例を見ればわかるとおり、「はべり」用例は中古時代のものばかりです。奈良県立万葉文化館さんの「万葉百科」で「侍」字で検索かけてみても、「さぶらふ」とか「侍宿(とのい)」「持つ」とかはあっても「侍り」用法は引っかからず、上代では用いられていなかったようです。
コトバンクの語源説明部分は、
 《 〘自ラ変〙 (「這(は)ひあり」の変化したものという) 這いつくばる動作を表わすところから、絶対者の支配下・恩恵下に存在させていただく、さらに、絶対者・尊者のおそばにいさせていただくという敬語性を帯びるように発展したものか。なお、「はんべり」の語形のものもある。 》
 と、あっさりと「侍り」=「這ひ」由来と説明されています。確かに「侍り」に降りてきそうな、周辺の上代語をみまわしても、

●「はふ【這ふ】」自ハ四(※ははず、はひたり、はふ、はふとき、はへば、はへ) 
  意味:①腹ばう。腹這っていく。(用例:万3791)
  意味:②(虫、貝などが)進む。行く。(用例:雄略紀)
  意味:③伸びてゆく。蔓延る。(用例:万190)
●「はふ【延ふ】」他ハ下二(※はへず、はへたり、はふ、はふるとき、はふれば、はれよ)
  意味:①伸ばし張る。張り渡す。(用例:万4274)
  意味:②途絶えず思い続ける。(用例:万3067)
●「はふり【祝】」名 
  意味:神主、禰宜などの神職の総称。(用例:万2309)
●「はふる=はぶる【葬る】」他ラ四
  意味:①死体をの山へ捨てる。葬る。(用例:万199)

 これらいしかなく、たしかに「はふ【這ふ】」以外、「侍り」が遡れそうなことばはありません。「這ふ」の連用形「這ひ」に補助動詞「あり」がくっついて「侍り」に転化して行ったということですが、たとえば、「お聞き致しました」っていう時に、「聞きはひあり」って言う時期が、平安時代の前期とかにあったってことなんですかね? 

★念のため「古事類苑データベース」で「〇這あり」式の表現があるものか「這」の字で検索してみましたが、みつかりませんでした。
 「這」の漢字は、「這ふ(はふ)」のほかに、「この」「これ」っていう意味もあるらしく、その用法で「這村(このむら)」とか、「這人(このひと)」「這職(このしょく)」みたいな使い方があって、戸惑いました。
 漢字として、「這」の音は「シャ」で、「這界(シャカイ)」「這般(シャハン)」「這裏(シャリ)」というような言葉あるらしいです。とまれ、「這ひあり」説は、机上空論城では「しっくり来ないトレー」入れさせて頂きます。

 

〇はるかなる

 苔道ということは、日晒しの乾いた道ではなく、竹とか笹とか小喬木とかの間に伸びた少し湿り気味の黒土に緑色の苔が特に道脇を濃く覆っているような感じ妄想します。 そういう道を長々とあるいてたどり着く山里の庵。

●「はるか【遥】」形動ナリ 

 意味:①遠く離れたさま。(用例:宇津保・俊蔭) 

 意味:②年月が隔たっているさま(用例:太平記2) 

 意味:③気が進まないさま(用例:源・宿木)

★「はるか」も上代に、これに降りて来そうなことばが見当たらず、出処不明のことばのように思えたのですが、

●「はりみち【墾り道】」名 
 意味:新たに開いた道路。新道。(用例:万3399) 

●「はる【墾る】」他ラ四 
 意味:新しく田、畑、池、道などを作る。(用例:万3447) 

 という2つのことばを見つけて俄然意を強くしました。
 「はる」は「開く」が根本義ではないかと妄想します。「見晴るかす(祝詞では〈見霽かす〉と書くらしい)」というのも、視野が障害物に遮られずに遠くまで広がることかと思います。

★いいですね。そう思って見ると「春」も寒さに閉ざされていた世界が温かく開かれるということかもしれませんし、いろんな花が一斉に開くから春なのかもしれません。

 

〇こころぼそし 

角川古語辞典解説
●「こころぼそし【心細し】」形ク 
  意味:①頼りなくて心配だ。(用例:竹取) 意味:②もの寂しい。(用例:徒然19)

★「こころぼそし」については、今日的なニュアンスとそう変わりません。

 なんで、この「こころぼそし」で項目設けたかというと、角川古語辞典見ていて、「こころほそし」という「ほ」に濁点のつかないことばがあるんだと気づいたからです。

●「こころほそし【心細し】」形ク
  意味:「あはれ」の理念と「たけたかし」の理念との融合した歌体を表す語。静寂の美をいう。→幽玄。 
 らしいです。
 「たけたかし」というのは、「歌学で、格調・声調のあること。壮大、崇高であること。
 らしいです。大きい。偉大だ。雄大だ。ということをいう「とほしろし」という上代語もあるということも付記されています。

★「こころほそし」が「格調高いあはれさ」というのも若干戸惑いますが。そして具体的にどういう歌が対象か気になりますが、ここでは深入りしません。

 

〇庵(いほり)

「いほり」関連語。角川古語辞典説明

●「いほ【庵・盧】」名 

  意味:草木などを結んで、簡単に作った小屋で、僧、世捨て人などの仮住まい。また、旅中の宿泊や、農事のためにも使う仮小屋。(用例:新古今・秋)

●「いほり【庵・廬】」名 

  意味:①「いほ」におなじ。(用例:万2235) 

  意味:②「いほる」に同じ。(用例:万1918) ③④略

●「いほる【庵る・盧る】」自ラ四 意味:「いほ」を造って住む。「いほ」に宿る。(用例:万1029)

★第10段で見た「いへゐ【家居】」で、「いへ【家】」は「い(斎)」+「へ(辺)」だと了解しました。

★その伝でいくと「いほ」「いほり」も「い」+「ほ」という組み合わせを考えなければならないようですが、角川古語辞典で「ほ」つきことばを眺め渡すと

●「ほとり【辺・邊】」名 

  意味:①②中古語で割愛。

  意味:③都から遠く離れたあたり。片いなか。(用例:神武紀)

 という上代語がありました。「ほ」は「へ」とほぼ同系の語のようです。「いほ+り」も「ほと+り」もよく似ています。 

★ところで、「いほり」の用例歌を、奈良県立万葉文化館」さんの「万葉百科」からまた引用させて頂きます。
 第10巻-2235(作者未詳)
  漢字本文 「秋田苅客乃廬入尒四具礼零我袖沾干人無二」
  読み下し文「秋田刈る 旅の廬りに しぐれ降り 我が袖濡れぬ 乾す人なしに」
  現代語訳 「秋の田を刈る、家を離れたいおりに時雨が降って、私の袖は濡れた。かわかす人とてなく。」
 第10巻-1918(作者未詳)
  漢字本文 「梅花令散春雨多零客尒也君之廬入西留良武」
  読み下し文「梅の花 散らす春雨 いたく降る 旅にや君が 廬りせるらむ」
  現代語訳 「梅の花を散らす春雨がしとしとと降る旅で、あなたは仮の宿りをとっているだろうか。」
 第6巻-1029(大伴宿禰家持・おおとものすくねやかもち)
  漢字本文 「河口之野邊尒廬而夜乃歴者妹之手本師所念鴨」
  読み下し文「河口の 野辺に廬りて 夜の経れば 妹が手本し 思ほゆるかも」
  現代語訳 「河口の野のほとりに仮のやどりをとると、夜の更けるにつれて妻の手枕が思われることよ。

★「い・ほ・り」の納まり具合を確認したく、歌を並べてみましたが、いまいちよくわかりませんでした。とまれ、「いほり」は「いへ」本宅ではなく、どっか離れたところに建てる「仮屋」「仮小屋」のことなんだというイメジはつかめた気がします。

 

〇かけひ

角川古語辞典説明

●「かけひ【懸け樋・筧】」名 
  意味:竹や木を地上にかけ渡して水を通すとい。(用例:徒然11=本段)

●「ひ【樋】」名 
  意味:①竹・木などで作った丸い管で、水を遠くへ送るもの。とい。筧、下樋などがある。(用例:神代紀)
  意味:②堰き止めた水の出口に設けた戸。開閉して水を出入りさせる。(用例:武烈紀)
  意味:③樋(とい)のように虚ろなところの称。(用例:万1129)→したび
  意味:④刀の背につけた細長いみぞ。血流し。(用例:義経記5)
  意味:⑤大小便を受ける箱。使用後水で洗った。

★孟宗竹を半分に割って、掛け渡すようなイメジを「かけひ(掛け樋)(筧)」に持っていましたが、万1129の歌(琴の胴との類似性)や、万2720の歌(水面下の排水施設を言っている)などを見ると、「樋」は筒状イメジのようです。

★「ひ【樋】」は、見出しにありますが、角川古語辞典に「とひ【樋】」の見出しはなく、ネットの古語事典でも見当たらないので、「とひ」は「ひ」と同じものの扱いのようです。「とひ」という言い方は「樋」の②の「(堰)戸樋」のような呼称があってそれと混称されたりしたんでせうか?

★因みに現代語の「とい【樋】」は、①屋根の雨水を地面に流すあれで、軒に渡すものが「軒樋(のきとい)」で、「内樋」「外樋」があり、縦に水を落とす樋が「竪樋(たてとい)」というそうです。 ②が旧来の「樋(ひ)」の説明です(岩波「広辞苑」)。 

 

〇つゆ

「つゆ【露】」は、名詞と副詞があって、名詞では、①「水滴(涙、はかなさ)」、②袖の「緒の先」、③「小粒銀」などの意味があり、副詞で①「わずか」、②否定伴う分で「全然」などの意味があるようです。

 以上の用例は中古以降なんですが、「つゆの命」(万3933)、「つゆ分く」(万4297)などの上代のことばが子見出しで挙げられており、「つゆ【露】」が上代からのことばであることは確認できます。

★名詞「つゆ」は、第9段の「つつしむ」で触れた点を意味する「つ」ことば「つ(点)」と、第1段前半で確認した「ゆ(湯水)」の合わさったものだと基本妄想しております。
 副詞での「わずか」「全然」という意味は、水滴の小ささイメジからのことばだろうと思いますが、角川古語辞典を眺めていたら、中世の人たちは、どうもその「僅かさ」が大好きだったような気がしてきました。

●「つゆけげ【露けげ】」形動ナリ 露っぽいさま(用例:源・夕顔)
●「つゆけし【露けし】」形ク ①露っぽい(用例:謡・安宅)、②涙がちだ(用例:源・桐壺)
●「つゆちり【露塵】」名 ①きわめてすくないことのたとえ(用例:平家1)、②捨てて顧みないもののたとえ(用例:平家2)
●「つゆばかり【露ばかり】」⦅副詞「つゆ」+副助詞「ばかり」⦆ごくわずか(用例:源・手習)←※中古にもありますが。
●「つゆも【露も】」⦅副詞「つゆ」+係助詞「も」⦆少しも。夢にも。(用例:平家5)
●「つやつやと【艶艶と】」副 光沢あるさま(用例:源・若菜)
●「つやつやと」副 ①(下に打消の語を伴って)決して。少しも。いっこう。(用例:徒然54)、②さっぱり(用例:愚管抄)、③じっと。つらつら。(浄・車街道)

★「つや【艶】」は、「つゆ」ではありませんが、似た傾向感じ併記しました。
 『源氏物語』(平安時代)の「露っぽい」「涙がち」などのいかにも文学的な感性と違って、『平家物語』『徒然草』『愚管抄』などの中世勢では、「少ない」「捨てて顧みない」「少しも」などのように、即物的といいますか、潤いの無い方にばかり目が行っている気がします。
 たったこれだけの例で、そういってしまうのも「いかがなものか」ですが、なんか中世の「説話」物なんかにもそんな感じ漂っていたような気もするので、今後、おりおりホントかどうか確認していきたいと思います。

★ところで、【艶】の漢字は、日本書紀の神代紀で味耜高彦根あじすきたかひこね)の神の光り輝き「時味耜高根神光儀華艶」とか、允恭記の衣通姫(そとおりひめ)の「艶色」とか、『万葉集』126番の相聞歌左註「容姿佳艶風流秀絶」とか、まあ、漢語としてきちんと用いられていたわけですが、

「読游摘録」さんの2018/10/29「春山万花の艶と秋山黄葉の彩との美の競いに巧みな決着をつける額田王歌」では、『万葉集』16番の額田王の歌「冬ごもり春さり来れば鳴かざりし・・・」の題詞「天皇、詔内大臣藤原朝臣、競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時、額田王、以歌判之歌」の「萬花之艶」を「春山の萬花の艶(にほひ)」と訳しておられます。
 これは、第8段で見た「匂ひ」の意味に「色つや」がありましたから、まことに適正至極な訳だなと首肯敬服します。角川古語辞典みても「つや」のつく上代言葉の見出し自体ほとんどないし、万葉時代に「つや」って言っていなかっただろうと、思い込みを深めた次第です。
 じゃあ、「つや」ってことばは、中古時代にどこから生まれたのか?「つゆ」の転生か? なんかそれっぽい気がしますが、まだわかりません。「時間解決トレー」置きです。

 

〇おとなふ
角川古語辞典解説、
●「おとなふ」自ハ四
  意味:①音をたてる。(用例:源・総角)
  意味:②訪問する。尋ねる。(用例:源・末摘花)
  意味:③手紙を出す。たよりをする。(用例:源・葵)

●「おとづる【音づる・訪る】」自ラ下二
  意味:①音を立てる。音がする。(用例:金葉・秋)
  意味:②訪問する。(用例:源・椎本)
  意味:③手紙で尋ねる(用例:源・蜻蛉)

●「とふ【問ふ・訪ふ】」他ハ四
  意味:①ものを言いかける。呼びかける。(用例:記・中)
  意味:②尋ねる。質問する。(用例:源・桐壺)
  意味:③取り調べる。問いただす。(用例:平家12)
  意味:④訪れる。訪問する。(万1659)
  意味:⑤弔う

★「訪ふ(とふ)」ということばと「訪なふ(おとなふ)」は、てっきり同源のことばだと、ずっと思っておりました。
 なので、兼好が「つゆ おとなふ」と書いたのは、「つゆ」=水滴と、その「水音」を掛けた「軽い洒落」だと思ったのですが、「おとなふ」が実は平安時代の雅な「音」由来のことばだったんだと、余命短くなって気づき、「軽く」でなく、「堂々たる掛けことば」だったんだと思い知った次第です。
 「訪ふ(とふ)」のほうが上代からあることばですから、「おとなふ」という言葉は、「音擦れ」が「人が寄り来る気はい」から「来訪」の意味に明確化していくときに、傍らの意識に「訪ふ=訪れ」という語感が響いていて、それが、「おとなふ」=「訪問する」ということばの派生に寄与したんではないかと、妄想する次第です。

 なので、「訪ふ」と「訪なふ」を同源の語のように勘違いしたのは、ある意味正しい誤解の仕方であったと勝手に妄想納得する次第です。定かではありませんが。

 

〇閼伽棚
 角川古語辞典の「閼伽」説明
●「あか【閼伽・遏伽】」名 〘梵〙 

  意味:①供養。  

  意味:②仏に供える水。また、その容器。

●同「閼伽棚」の説明
 「—だな【棚】」名 仏前に供える水や花などを置く棚 (用例:徒然11※本段です)

★「閼伽(あか)」は「アクエリアス」の「アク」と同系の印欧語由来のことばというようなことを、50年くらい前、なんかの端っこに書いてあったのを読んだことあります。今、ネット検索すると、印欧語族の話が膨大そうなので、すごすごと退散しました。 

 

〇さすがに

 角川古語辞典の「さすが」の解説から
●「さすが」
 [1]形動ナリ  

  意味:(そうはいうものの)そうもしていられないさま(用例:源・花散里)

 [2]副詞  

  意味:やはりなんといっても(用例:平家3)

●「さすがに」副 ※「さすが」の「子見出し」として記載
  意味:①そうれはそうであるが。しかし、そうはいうものの。(用例:枕139)
  意味:②やはり、なんといっても (用例:後撰・秋)

★「さ【然】」(意味:そう。そのように。)から始まる「さ」のつくことばを、机上空論城主は「さことば」と呼んでおります。

 「さしも」副(そのようにも・・だろうか)、「さて」副(そうであって)、「さも」副(そのようにも)、「さりとも」接続(そうであっても)/副(そうであっても)、「さりながら」接続(しかしながら)、「さる」連体(そのような)、「されど」接続(そうであるが)等々のことば。

 「さ」は「それ」「そのような状態、経緯」などを指し示しているかと思います。

★こっから机上空論城主の妄想世界です。
 「さすが」は「さすがなり」なので「さすが+に」でせうが、「さすが」をさらに分解すると、「さ」(そのように)+「す」(する/である)+「が」(接続助詞の「確定条件の逆説」用法 ・・だけれども)のような心理の働きなのかと妄想します。 

 ある話の流れを、一旦押しとどめ、そこから、①いやいややっぱそうじゃないんだと否定的に次の条へつなげるか、②いやいやそれでいいんだと肯定的に次の条へつなげていくのか、の二つのつなぎ方の違いが意識されているんではないでせうか? 超さだかではありません。

 

〇かくても

 「さことば」が「そのよう・・」だったのに対し、「かくても」などの「か(く)ことば」は「このよう・・」の世界のようです。
 角川古語辞典の説明。
●「かくて【斯くて】」副 意味:こうして。このようで。(用例:万734)
●「かくても【斯くても】」連語 意味:こんなふうでも。(用例:徒然11※本段です)

★「か(く)ことば」は、中古以後のことばも少なくないんですが、「さことば」がほぼ中古以降のことばであったのに対し、「か(く)ことば」は、以下のように上代から使われていたということはちょっと驚きです。
●「かくすす【斯く為す】」⦅「すす」は動詞「す」を重ねた形⦆ こうして。(用例:万3487)
●「かくし【斯くし】」⦅「し」は強意の間投助詞⦆「かく」に同じ。(用例:万659)
●「かくしもがも【斯くしもがも】」 こうありたいものだなあ。(用例:万478)
●「かくのごと【斯くの如】」「かくのごとく」に同じ。 このように。こんなに。(用例:万4304)
●「かくのみ【斯くのみ】」 これほど。こればかり。(用例:万455)
●「かくばかり【斯くばかり】」 これほどまでに。こんなに。(用例:万129)
●「かくゆゑに【斯く故に】」副 これだから。それだから。(用例:万305)

★「かくのごとく」は、おそらく「如斯(じょし)」っていう漢字に「ごと」とか「かく」って日本語を被せたわけですよね(定かではないですが)。

 とすれば、「ごと」も「かく」も日本語なわけですが、「かく」って言い方本当にあったんすかね。なんか怪しい感じがするのです。

 次項の「かなた」(中古語)のような言い回しは全然抵抗無いんですが「かく・・」はどうも、しっくりきません。

 「か【彼】」は、遠称の代名詞(万3565)だそうです。上代語です。「か」音の遠称性が、「かく」になると近称というか近場を見下ろす感じに変わる。この辺に「かく」ことばの秘密が潜んでいるような気がするのです。

★では、「く」はどうか。角川古語辞典を眺めます。

●「く【来】」自カ変
  意味:①こちらへ近づく。こちらに着く。(万2045)
  意味:②(目的地に自分を置いた気持から)行く。(伊勢)⇦英語の「行く」の「come」と同じですね。

★「く」準体助詞〘上代語〙については、いまいちよくわからないので割愛します。「・・のこと」というような意味的働きするようですが。

★「く【来】」が「こちら側意識」を醸すのは、わかります。でも、その意識が「かく」の語源に寄与しているかどうか、正直さっぱりわかりません。残念ながら「未決トレー」置きします。

 

〇かなた

 角川古語辞典の説明。
●「かなた【彼方】」代 遠称。あちら。向こう。向こう側。(用例:新古今・雑)

★用例が『新古今和歌集』つまり中世なので、上代に「かなた」という言い方はなかったのかと、奈良県立万葉文化館さん万葉百科で検索します。
 「彼方」の漢字を使った歌は、万要集の110番、2014番にあるのですが、いずれも「をちかた」の読みになってます。

 特に2014番の原文は「越方」なので「をちかた」の訓みで間違いがなさそうです。 10番は原文「彼方野辺」で、音的に「かなたのべ」より「をちかたのべ」が確かにしっくり来るかと思います。だから古語辞典に上代用例が掲示されなかったのかもしれません。 

★では、「かなた」という読みがないのかというと、巻9-1809番の「菟原処女の墓を見たる歌一首〔并せて短歌〕」(うないをとめのつかをみたるうたいっしゅ。あわせて短歌)という、『竹取物語』のプリミティブな悲劇ヴァージョンのような魅力的な長歌(歌体)、挽歌(部立)があり、その本文に「此方彼方」という字があり「こなたかなた」という訓みになっています。ここは「こちかたをちかた」とはさすがに読まなかったんじゃないかと。定かではありませんが。

 だとすれば、「かなた」という言い方は上代にもあったということでいいのではないでせうか。ただ、引っかかってくるのがこれ一つだけですから、「遠き・・」の言い方が沢山ヒットするのに比べて、一般的な言い回しではなかったのか? どうでせう。

 

〇柑子(こうじ) 

Wikipediaの説明。切り抜き繋ぎ。
《 コウジ(「甘子」または「柑子」、学名:Citrus leiocarpa)は、ミカン科ミカン属の常緑小高木で柑橘類の一種。 「ウスカワ(薄皮)ミカン」とも言われる。》
《 概要 古くから日本国内で栽培されている柑橘の一種だが、8世紀頃に中国から渡来したと言われる(一説には「タチバナ」の変種とも)。果実は一般的な「ウンシュウミカン」よりも糖度が低く酸味が強い。種は多いが日持ちは良い。 樹勢が強く耐寒性に優れている為、「ウンシュウミカン」の露地栽培が難しい日本海側の一部でも栽培されている 》

◆参考「橘(たちばな)」 Wikipedia の説明。切り抜き繋ぎ。
《 タチバナ(橘、学名:Citrus tachibana)は、ミカン科ミカン属の常緑小高木で柑橘類の一種である。別名はヤマトタチバナ、ニッポンタチバナ。》
《 日本に古くから野生していた日本固有のカンキツである。本州の和歌山県三重県山口県四国地方、九州地方の海岸に近い山地にまれに自生する。近縁種にはコウライタチバナ(C. nipponokoreana)があり、萩市と韓国の済州島にのみ自生する(略)》
《 日本では、その実や葉、花は文様や家紋のデザインに用いられ、近代では勲章のデザインに採用されている。》
《 2021年、タチバナは沖縄原産のタニブター(C. ryukyuensis)とアジア大陸産の詳細不明の種との交配により誕生したこと、日向夏、黄金柑などの日本産柑橘のルーツであることが沖縄科学技術大学院大学などの研究により明らかとなった[2]。》
《 果実は滑らかで、直径3 センチメートルほど。キシュウミカンやウンシュウミカンに似た外見をしているが、酸味が強く生食用には向かないため、マーマレードなどの加工品にされることがある。》

《 日本では固有のカンキツ類で、実より花や常緑の葉が注目された。マツなどと同様、常緑が「永遠」を喩えるということで喜ばれた。
古事記日本書紀には、垂仁天皇が田道間守を常世の国に遣わして「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)・非時香木実(時じくの香の木の実)」と呼ばれる不老不死の力を持った(永遠の命をもたらす)霊薬を持ち帰らせたという話が記されている。古事記の本文では非時香菓を「是今橘也」(これ今の橘なり)とする由来から京都御所紫宸殿では「右近橘[注釈 1]、左近桜」として橘が植えられている。ただし、実際に『古事記』に登場するものが橘そのものであるかについてはわかっていない。
奈良時代、その「右近の橘」を元明天皇が寵愛し、宮中に仕える県犬養橘三千代に、杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰の姓を下賜し橘氏が生まれた。
古今和歌集』夏、詠み人知らず「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」以後、橘は懐旧の情、特に昔の恋人への心情と結び付けて詠まれることになる。》

◆参考「みかん=紀州みかん=小みかん」 Wikipedia 説明。切り抜き繋ぎ。
《 キシュウミカン(紀州蜜柑、学名:Citrus kinokuni)は、柑橘類の一種であり、西日本や中日本では小ミカン、東日本ではキシュウミカンと呼ばれる。鹿児島県のサクラジマミカンは品種的にはこれと同じものである。》※付記、「サクラジマミカン」は次の薩摩・長島の「うんしゅうみかん」とは別のようです。
《 普段「みかん」と認識されているウンシュウミカンと違い各房に種があり、果実の直径は5 センチメートル程度、重さは30〜50 グラム内外と小ぶりである。また、種のない無核紀州蜜柑もある。かつてはみかんといえばこのキシュウミカンを指すのが普通であったが、小ぶりで種があり食べづらいこと、酸味が強いなどの理由が一般消費者に敬遠され、代わりに種がなく甘みが強い温州みかんに急速に取って代わり、現在では最盛期の頃と比べ作付面積は少ない。》
《 ミカンとしては最初に日本に広まった種類である。中国との交易港として古くから栄えていた肥後国八代(現熊本県八代市)の徳渕津に中国浙江省から小ミカンが伝り、高田(こうだ)みかんとして栽培され肥後国司より朝廷にも献上されていた。15世紀〜16世紀頃には紀州有田(現和歌山県有田市・有田郡)に移植され一大産業に発展したことから「紀州」の名が付けられ東日本ではキシュウミカンと呼ばれるようになった。また江戸時代の豪商である紀伊國屋文左衛門が、当時江戸で高騰していた小ミカンを紀州から運搬し富を得たとされる伝説でも有名である。》
《 古木 現存する日本最古のキシュウミカンの木は、大分県津久見市にある尾崎小ミカン先祖木とされる。1157年(保元2年)に移植された樹齢800年を超える古木で、天然記念物に指定されている。》

◆参考「みかん=ウンシュウミカン」 Wikipedia 説明。切り抜き繋ぎ。
《 現代において「みかん」は、通常ウンシュウミカンを指す[4][5]:21。和名ウンシュウミカンの名称は、温州(三国志演義中などで蜜柑の産地とされる中国浙江省の温州市)から入った種子を日本で蒔いてできた品種であるとの俗説があることに由来する[6]が、本種の原産地は日本の薩摩地方(現在の鹿児島県)の長島であると考えられており、温州から伝来したというわけではない。》
《 ウンシュウミカンの名は江戸時代の後半に名付けられた[7]が、九州では古くは仲島ミカンと呼ばれていた。2010年代に行われた遺伝研究により、母系種は小ミカン、父系種はクネンボと明らかになっている[7][8]。 》
《 みかん」は蜜のように甘い柑橘の意で、漢字では「蜜柑」「蜜橘」「樒柑」などと表記された[4]。
 史料上「蜜柑」という言葉の初出は、室町時代の1418年(応永26年)に記された伏見宮貞成親王後崇光院)の日記『看聞日記』で、室町殿(足利義持)や仙洞(後小松上皇)へ「蜜柑」(小ミカンと考えられる)が贈られている[4]。
 1540年ごろと年次が推定される、伊予国大三島大山祇神社大祝三島氏が献上した果物に対する領主河野通直の礼状が2通が残されているが、一通には「みつかん」、もう一通には「みかん」と記されており、「みつかん」から「みかん」への発音の過渡期と考えられている[4]。》
《 英語で本種は satsuma mandarin と呼ばれる[4]。欧米では「Satsuma」「Mikan」などの名称が一般的である。"satsuma" という名称は、1876年(明治9年)、本種が鹿児島県薩摩地方からアメリカ合衆国フロリダに導入されたことによる。》

★以上の「橘」「こうじ」「小みかん」「うんしゅうみかん」の説明から妄想するミカンの歴史は。古く、食べにくい「橘(たちばな)」は、食べようということでなく、長寿の木として近畿など中央では愛でるのが一般的だった。8世紀頃から、食べられる「柑子(こうじ)」が世の中に広まっていったけど、まだとっても小さく酸っぱかった。その後、若干大き目で、酸っぱさも若干控えめで美味しい「小みかん」がだんだんと世の中に広まり、ついに1418年(15世紀、室町時代)「蜜柑」の名が初めて文献にも登場。実はもっと甘くておいしい「うんしゅみかん」も一部(薩摩、九州?)にあったのだけど、「タネ無し」と嫌われ、江戸時代まで「タネ有り・小みかん」の時代が続いた(紀伊国屋文左衛門の陰謀??)。江戸のしがらみが終わった明治、やっと甘くておいしい「うんしゅうみかん」の時代が訪れた。ということのようです。

★「蜜柑」が初めて記された1418年は、推定される兼好没年頃から約60年後です。ですから兼好は「蜜柑」ということばをまだ知らなかったようです。この60年という歳月をどうみるか。「枝もたわわな」その実は、まだ「柑子」だったのか、実は水面下で広がり始めていた、おいしい「小みかん」だったからこそ庵主は浅ましくも厳重囲いして、実を守ろうとしたのか? いや、おいしい奴の名前って千里を走るでせうし、兼好先生は、高貴な所出入りしていて情報にも敏感だったようだから、やっぱ柑子だったんでせうね。

 

〇たわわ

角川古語辞典説明
●「たわわ【撓撓】」副 

  意味:枝などのしなうさま。(万2315)

★「たわわ」っていうのは、実がたくさんつくこと、成ることをいっているのだとばかり思っておりました。「撓む」の「たわ」だったのですね。

●「たわ【撓】」という名詞は、

  意味:①山の尾根の線のくぼんで低くなったところ。(用例:記・中)

 とありあすから、「枝がしなう」の元は、「曲がる」というということのようです。また、

●「たをり【撓】」という名詞は、「撓」に同じ(用例:万4169)

 とあります。

 「た+わ」は、「手」+第10段で確認した上代の「わ」(「走る/巡る」系)なのかもしれません。定かではありません。

 

〇きびし

●「きびし【厳し・酷し】」形シク 
  意味:①おごそかだ。厳重だ。(用例:源・真木柱)
  意味:②むごい。 手厳しい。(用例:源・若菜・下)
  意味:③はなはだしい。ひどい。(用例:沙石集)
  意味:④かどだっている。険しい。(用例:(用例:新続古今・釈教)
  意味:⑤たいしたことだ。すばらしい。(歌・五大力

★「厳」の字を奈良県立万葉文化館」さんの「万葉百科」で検索掛けてみると、「厳しき」には「伊都久志吉(いつくしき)」の万葉仮名が当てられてます(巻5-894)。「巻1-9」の歌でも「厳」は「五(いつ)」の万葉仮名です。日本書紀(神武紀)でも「厳瓫(いつへ)」とか「厳呪詛(いつのかしり)」とか、「厳=いつ」読みがほとんどです。

★「きびし」っていう言い方はどっから来てるんでせうか? 周辺のことばを見回しても、ヒントになりそうなものは一切ありません。

 漢字「厳」の音は「ゲン・ゴン」ですから、そこから「きびし」が生まれるとは思えません。

 これほど日本人に身近なことばの由来が見いだせないって、どういうことでせう。 

平安時代頃に突如始まったらしい言い回し。『源氏物語』「真木柱(まきばしら)」、「若菜・下(わかな・げ)」とも◆「A  Cup of Coffe」さんのサイトで確認させてもらいましたが、すでに今日と同じような、角川古語辞典の①②通りの言い回しです。「きびし」に流れ降りそうな上代語が一切見当たらない!!!!

★慌てるな! 落ち着け! 妄想しろ! 妄想しろ! 

 「きびしい」っていう言い方が成立するためには、何が必要だ? 「やさし」は、「①つらい」を表す「憂し(うし)」に近い意味からスタートしている。 意味の流れにもっと幅をもたせて妄想しろ! 「きびし」の近くで、上代からではなく、同じ平安時代で、「きびし」に近かったり遠かったりすることばは無い? 

●「きはぎはし【際際し】」形シク 特に際立っている。顕著だ。(源・行幸(みゆき))
●「きはだかし【際高し】」形ク 気位が高い。おおぎょうだ。(堤中納言・よしなしごと)
●「きはだけし【際猛し】」形ク 気性が激しい。(源・少女)
●「きはなし【際なし】」自カ四 ①限りがない(源・若菜下) ②限りなく優れている(源・梅枝)
●「きはまりて【極まりて】」副 この上なく。きわめて。(万342)
●「きはみ【極み】」名 極限。果て。(万485)
●「きはむ【極む/窮む/究む】」他マ下二 ①極限まで至らせる(源・明石)
●「きびは」形動ナリ 幼くてか弱いさま。幼少だ。(源・少女) 

★幼さをいう「きびは」の「は」は「年端」の「端」なんでせうか? 

 「きびはなり」と言っていたとすると「極端」(きわめて幼い年齢)という意味だったのか? そして音的には、

 「きはみはなり」→「きはむはなり」→「きゃむはなり」→「きゃぶはなり」→「きびはなり」に変化していった? 

 「おごそか」さについても、「きはまり」などから

 「きはんみしき」→「きゃんみしき」→「きんびしき」→「きびしき」などへの変化があった!??? 

 そして、「極まる」物の中にある、強すぎるイメジからだんだんとマイナスな場面のことばとしても使われていった!??? 

 机上空論城主の妄想の限りを尽くしておりますが、そうでもしないと、手がかりが全くないのであります。

 

 

『徒然草』第10段 後半(読み納めシリーズ)

1)第10段 後半 要旨

 兼好は、「家の話」繋がりで、豪奢な邸宅に執着する「屋根の上に張った縄」の昔話を持ち出します。それは、兼好自身が一見それと似たような状況に出くわしたことがあったからなんですが、「あの昔話には別の一面があったんじゃないか」と、家造りの話から若干焦点ズレます。

 その昔ばなしに登場した面々(NHK大河「鎌倉殿の13人」世代)を追っかけ、昔ばなしの場面時期を妄想してみたり、兼好がその昔ばなしを思い出した界隈などへも思い馳せます。

 

0)前置き

 以下の4点を参照しつつ『徒然草』を、下手の横好き読解しています。
 ①旺文社文庫『現代語訳対照 徒然草』(安良岡康作訳注/1971初版の1980重版版) 
 ②ネット検索 
 ③『角川古語辞典』(昭和46年改定153版)
 ④中公新書兼好法師』(小川剛生著・2017初版の2018第3版)

 

2)第10段 本文 後半 

 後德大寺大臣 の 寢殿に 鳶 ゐさせじ とて 繩をはられたりけるを、西行が見て、「鳶 のゐたらむ 何かは 苦しかるべき。この殿の 御心 さばかりにこそ」とて その後は 參らざりける と聞き はんべるに、

 綾小路宮 の おはします 小坂殿 の 棟に、いつぞや 繩を ひかれたり しかば、かの ためし 思ひ出でられ 侍りしに、「まことや 鳥のむれゐて、池の蛙を とりければ、御覽じ かなしませ 給ひてなむ」と 人の語りし こそ さては いみじく こそ とおぼえしか。

 德大寺にも いかなるゆゑ か 侍りけむ。

 

3)第10段 後半 訳  

 後徳大寺大臣(ごとくだいじのおとど)の寝殿造りの建物の正殿に、鳶(とび)が止まらないようにと縄を張られたのを、西行(さいぎょう)が見て、「鳶が止まって何が不都合だというのか。この殿のお心持ちはその程度のことか」と、その後は訪問されなかったと聞き及んでいたところ、

  【財産執着の話と理解していた昔話】

 綾小路宮(あやのこうじのみや)が住んでいらっしゃる小坂殿(こさかどの)の屋根の上に、いつだったか綱を張られた時、そのことが思い出されたのだけど、「あそうそう、鳥が群れ止まって、池の蛙(かえる)をたべたので、ご覧になってお悲しみなられたのです」と(小坂殿の)人が語ったのこそ、それはもうたいへん素晴らしいことだと思ったことだった。

 後徳大寺殿のほうにもなにかわけがあったのだろうか。

  【表面的な理解を自分もしていたか】

 

3)ことば とか あれこれ 探索

〇後徳大寺大臣(とくだいじのおとど。藤原実定(さねさだ) 1139-1192) 

 「鎌倉殿の13人」の一人、梶原景時とほぼ同じ頃生まれているので、実定も「鎌倉殿の13人世代」でせう。

 ★Wikipediaの説明など読むと、実定さんラッキーな人です。生まれる前、やがて保元の乱につながる、鳥羽法皇院政下での待賢門院派と美福門院派の対立(説明入れると長くなるので割愛)があって、実定の祖父・実能さねよし。この人が徳大寺大臣と言われたので、実定が後徳大寺と言われた。)は、はじめ待賢門院(たいけんもんいん)派側だったのを、実定17歳頃に、今後優勢になりそうな美福門院(びふくもんいん)派に寝返ります。

 それが直接の要因かどうかはともかく、実定は左近衛権中将(さこんえごんのちゅうじょう)に任ぜられ、以後、26、7歳ころまで昇進を重ねます。

 その26,7歳の頃、昇進ライバル中納言実長卿(ちゅうなごんさねながきょう)に位階先従二位」で先を越され憤慨し駄々こねます。(『古今著聞集』巻1神祇第1ー20)昔の功労話でやっとライバルに互し、それでも満足できず、辞職して、退官功労賞で「正二位」に位されライバル抜きます。世の人「をしみあへり」というのは、「がっかりした」ってことかと思います。

 そこから12年間「散位(位階だけあり官職無し)」を続けたらしいですが、この12年は、実定兄弟らが平清盛から排除されていた期間という見方もあるようです(Wiki)し、『古今著聞集』という本は、西行が、位官昇進を望まない人間は「無下の人(くだらない人)」と考えていた人のように描く本ですから、その辺踏まえて読まないといけないようです。

 ★実定は「鹿ケ谷の陰謀」事件が起こった1177年、その事件の少し前に大納言に還任(官職復帰)します。理由はよくわからないようですが、このあと1179年に清盛のクーデタ「治承三年の乱」(後白河院や鳥羽殿の幽閉)や、平氏が滅亡する「治承・寿永の乱」(1180)へと向かう時期の、様々な思惑の交錯が実定に都合よく働いたってことでせうか。わかりませんがラッキーです。 

 1183年には内大臣に昇進します。そして、清盛の死後、木曽義仲が「法住寺合戦」で一時政権を握った時、実定は喪中で公務から外れていたらしいんですが、清盛から睨まれていた前関白・松殿基房(まつどのもとふさ)が義仲と結んで、自分の息子師家(もろいえ)を内大臣に就かせたりるすも、結局、義仲は敗死、松殿父子は失脚。実定が復帰します。ラッキーです。

 そして、1185年後白河と源義経による"源頼朝追討の宣旨発給"に実定は一旦賛同するのですが、義経はすぐに没。そんな状況の中で、頼朝は、朝政運営にあたる議奏公卿に九条兼実(くじょうかねざね)ら10名を指名しますが、なんとその中に実定も含まれていたのです。超ラッキーです。

 ★頼朝がなぜ実定を選んだのかわかっていないようですが、まあ、そもそも、「徳大寺家」は、大昔の藤原房前に遡る藤原北家の流れで、あの藤原道長のお爺ちゃん藤原師輔の子、つまり道長の叔父さん(道長の父兼家の兄)公李に始まる「閑院流」の流れである「三条家」「西園寺家」「徳大寺家」という三名門の一つです。「閑院流」は、道長ら師輔本流の「九条流摂関家」に次ぐ家格の「精華家」であったそうです。そもそもがセレブ中のセレブですし、あの和歌の藤原俊成(としなり/しゅんぜい)藤原定家(さだいえ/ていか)は、九条流の流れながら、実定の叔父さん従兄弟にあたるそうです。藤原定家も「鎌倉殿の13人」世代です。

 それに、徳大寺家も和歌の家系として有名で、実定ものちに藤原定家百人一首に歌「ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる」が採られるほどの歌人でしたから、あるいはそういったことが幸いしたのかもしれません? わかりませんがセレブは?ラッキーです。 

 ★九条兼実(当然、藤原九条流の人)は、有職故実の権化のような人、つまり、今風に言えば、世間人情のしがらみよりは、しきたり、法律、第一的な人だったような感じですが、その兼実と実定はうまくいったようなので、頼朝は、実定の中にもそういう気質をみていたのかもしれない、などと九条兼実の印象も含め、あくまでも、読書感想文派、上っ面派の妄想的見解です(九条兼実については別途どこかで改めて)。

 ★西行は実定の20歳くらい年長です。また、出家前に実定のおじいちゃん徳大寺実能に武士として仕えていたので、実定(後徳大寺大臣)に対して上から目線は納得します。

 二人とも兼好からは、一世紀半くらい前の人たちです。西行が後徳大寺の大臣の寝殿を訪れた本段の話も『古今著聞集』(巻15宿執着23-14)の中にあります。西行が出家し、諸国巡礼修行して京にもどって来たタイミング、かつ、西行が仕えていた徳大寺実能もその子公能(きんよし)も今はなく実定ら孫世代の頃という時間設定のようです。

 ★西行は、出家後、陸奥高野山、四国、伊勢、亡くなる4,5年前にも、おそらく1185年の文治地震で被害の出た東大寺の修繕勧進のために再度陸奥へ旅したりしています。ずーっと京から離れていたわけではなく、出かけては戻りということだったようです。

 上述の、実能、公能が亡くなったあとで、西行が京に戻るタイミングというのは、四国への旅のあとの1170年の平清盛(きよもり)主催の千僧供養に参加したり、1177年の高野山の蓮華乗院(れんげじょういん)の移築にかかわったりしている西行50代後半、実定は30代後半ころじゃないかなと妄想するわけであります。で、その1177年に徳大寺大臣は官職復帰しているわけです。屋敷のことに執着したりするのは(もちろん現代のマイホームパパ的に、本人が縄張ったりはしないでせうが)暇なときかもしれないなどと妄想を逞しうすると、その官職復帰の前頃までのタイミング、てなことを思ったりするわけであります。

 

西行(さいぎょう。1118-1190) 

 俗名・佐藤義清(⇦これで"のりきよ"。他に憲清、則清、範清などとも書くそうです)。
 言わずと知れた、和歌の有名人。家は代々の武士(俵藤太秀郷たわらとうたひでさと九代の嫡流?。裕福)で、十代半ばで徳大寺実能(さねよし。実定さねさだ祖父)に出仕。おそらくそのころに妻も娶ったと推定されるらしいです。

 保延元年(1135年)下北面武士として鳥羽院にも奉仕。この頃、同時期の北面武士に同い年の平清盛(1118-1181)がいたらしいです(Wiki)。

 実はそこにもう一人NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で活躍した文覚鳥羽院北面の武士の一人としていたらしく、武士から僧形への転身は西行と同じながら、自身の荒法師キャラクターのゆえもあって? 後に歌道で名をなしていく西行には憎しみを抱いていたが、実際に西行と対面した際には西行の資質を見抜き、穏かに対したそうです(『井蛙抄』)。

 ★西行北面の武士を5年ほど務めた後(1140年・保延6年10月)、23歳の若さで出家・遁世。法名円位。遁世後、京都近郊で草庵生活を送ったあと、陸奥高野山、四国、伊勢、再び陸奥、伝説としては九州までという旅や移住を行い、最後は河内国の弘川寺(葛城山の大阪側山裾辺)で、鎌倉時代の幕開けの頃の建久元年に73歳で亡くなっています。

 ★この間、勅撰集で『詞花集』に1首(初出)、『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして、勅撰和歌集(21集)いづれかへの計265首の入撰歌など含め、約2300首の和歌が伝わっているそうです(Wiki)。

 徳大寺家の祖父ちゃん(実能)に仕えたことのある西行が、その孫の実定の振る舞いに、上から目線の言葉を放ったというのも、あり得なくもない話だったようにも思われますし、西行が頼朝と面談したという逸話や、藤原俊成(歌道で西行の先輩)、定家父子との和歌を通じた関係性などから、この段に登場する面々の一定の関係性が兼好によって想定させられていたんでせうね。

 

 ★西行の歌の評価として、Wikipedia の一節を、少し長いですが引用させていただきます。
 《『後鳥羽院御口伝』に「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく 出できがたき かたも ともに あひかねて 見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」とあるごとく、藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。

 歌風は率直質実を旨としながら、強い情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが恋歌や雑歌に優れていた。

 院政前期から流行し始めた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美運子をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。

 また俗語や歌語ならざる語を歌の中に取り入れるなどの自由な詠み口もその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。

 後鳥羽院西行をことに好んだのは、こうした平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風が、彼自身の作風と共通するゆえであったのかも知れない。》

 

★「いつか読むかもしれない」と、むかしむか~し、買い溜めていた西行の『山家集』(佐々木信綱校訂/岩波文庫)を、今回初めて本棚から引っ張り出し、読んでみました。

 歌数が多いので、「春歌」「夏歌」などの15の「題目」ごとに適当に当り、Wiki に書かれている大仰な誉め言葉に相当する証左部分を探すような気持ちだったのですが、読んでみて感じたのは、西行さんは現代人だ」ということでした。

 「春としも なほおもはれぬ 心かな 雨ふる年の ここちのみして」「春歌」冒頭の歌です(佐々木信綱さんの岩波文庫版でない「山家集」では別の歌のようですが)。

 ここで言っている春というのは新春つまり新年で、それは今日の立春のころだったようです。で、歌に添えられた「詞書(ことばがき)」によると、新年になる前頃に春の雨が振り出して、「雨年かよ、春が来たって気になれないじゃないか」ということを歌ってるらしいんです。

 この歌は、『古今集』冒頭の「年のうちに 春は来にけり ひととせを こぞとやいはむ ことしとやいはむ」(在原元方・ありわらのもとかた)を念頭に置いてはいるようなんですが、『古今集』的、元方的問いかけ(それを請けるのが和歌の伝統?)などは無視して、雨に降られた自分の気持ちに焦点を当ててます。

 よく言われる西行の「生活密着」型の「抒情性」っていうのが、こういう21世紀人的な「ありのまま」さ加減なんだなと感じます。

 同時代の歌人たちは、雨といえば「身を知る雨」とか、そういう昔からの雨発想から抜け切れずにいた時代に、見たまま、感じたまま、ありのままっていう物差しで、歌を歌うことが、なぜか西行にはそれがごくごく当たり前だったらしいのです。中世人的 Let it Go! です。

 ですから西行と言えば必ず言われる「寂寥感」というのも、現代人が感じる孤独感のような角度の孤独感を早くも12世紀に感得してそのまま表現しているので、当時の人々にとっては、全く斬新な世界だったようです。 

 いい歌いっぱいあるので、具体的に紹介したいのですが、やりだすときりがないことがわかっているので我慢します。「詞書」の感性もそんな感じなんで、1100年代の現代人のメモを読むような気になったりします。

 

〇綾小路宮(あやのこうじのみや 生没年未詳=性恵法親王(しょうえほっしんのう・ほうしんのう))

 亀山天皇(かめやま90代天皇1249-1305)と宮人三条公親女(さんじょうきんちかむすめ)との皇子(Wiki)。

 生没年は未詳ながら、弘安(こうあん)7年(1284)天台宗妙法院(みょうほういん)で出家、翌年親王となる(※追記。この、出家後に親王宣下を受けた皇子法親王と呼ばれたそうです《 ◆「中世前期の王家と法親王」佐伯智広 》)。のち同院門跡(もんぜき=法流継承の住職の意味合いらしいです)となった。綾小路宮とよばれた(コトバンク)。

 ★この方が仮に亀山天皇20才くらいの時の皇子ならば、兼好より15歳くらい年長ながらも、まあ兼好と同時代の人と言えるでせう。

 そして、この小坂殿(こさかどの)という建物は、「妙法印内に存した院の一つ」と安良岡先生の脚注にあります。妙法院というのは、現在は京都国立博物館の東側です(この話の頃の位置は事項で説明)。

 とまれ、小坂殿に関して、小川先生の『兼好法師』(66p辺)が、妙法院(小坂殿)が存した、京・六波羅一帯の意味合い、そしてその一帯を歩き回る兼好とを面白く説明してくれます。

 それをひとことでいうと、そのころの六波羅は武士と公家、土倉(金融業者)らが蝟集した新興都市だったということです。少し前『ブラタモリ』で見た「逢坂の関」を越えて来て、山科盆地に入り、そしてまた東山を越え、(五条通りに至る道で?)京に入る鴨川の手前一帯が六波羅ですからね、鎌倉や関東方面からの武士らは、まずこのあたりに居ついたってことでせうかね。

 鶯が鳴いた794年ごろから造営された平安京も、はやくも9世紀(800年代)後半には火災の頻発や疫病の流行などで右京側(桂川の氾濫等もあって?)が荒廃、農村化していき、京の機能が左京(東)側に偏っていったらしいです。やがて平安宮(大内裏)すら「内野(うちの)」と呼ばれる状況になっていくというようなことが、小川先生の『兼好法師』にも書かれています。商工業者や新参の武士たちの住まいが、左京、下京の外に広がっていたのは、京の歴史そのものでもあったようです。

 ある日兼好はこの新興都市を闊歩し、小坂殿に差し掛かるとその屋根に張られた縄を発見し、あの昔話を思い出したってことらしいです。

 

妙法院(みょうほういん)  

 皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称する(Wiki)。 

 《 京都市東山区妙法院前側(まえかわ)町にある天台宗門跡(もんぜき)寺で、山門五箇室門跡の一つ。

 もと比叡山西塔(ひえいざんさいとう)妙香院に起源し、1160年(永暦1)法住寺離宮のそばに日吉山王(ひえさんのう)を勧請(かんじょう)したとき、護持僧として招かれた妙法院昌雲(しょううん)の住房として移し、これを新日吉(いまひえ)と称した。

 1164年(長寛2)後白河(ごしらかわ)法皇法住寺殿内に建てた蓮華王院(れんげおういん)と、法住寺とを昌雲が管掌した。後を継いだ実全が1202年(建仁2)天台座主(ざす)となり初めて妙法院の号をたてた。

 高倉(たかくら)天皇第2子尊性法親王(そんしょうほっしんのう)が入寺し、1227年(安貞1)天台座主となり、綾小路(あやのこうじ)小坂に移建され、天台座主三門跡の一となる。

 以来法親王が入り、新日吉門跡、皇門跡、綾小路門跡などと称され、法住寺・蓮華王院の法燈(ほうとう)を嗣(つ)いだ・・・。》

コトバンク[塩入良道]出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)) 

Wikipediaでの妙法院の説明では、

《 天台宗の他の門跡寺院青蓮院三千院など)と同様、妙法院比叡山上にあった坊(小寺院)がその起源とされ、初代門主伝教大師最澄)とされている。その後、西塔宝幢院の恵亮が継承し、その教えを伝えたとされている。その後、平安時代末期(12世紀)、後白河法皇の時代に洛中に移転し、一時は綾小路小坂(現在の京都市東山区八坂神社の南西あたりと推定される)に所在したが、近世初期に現在地である法住寺殿跡地に移転した。 》

《 妙法院門主系譜では最澄を初代として、13代が快修、15代が後白河法皇法名は行真)、16代が昌雲となっている。続く17代門主の実全(昌雲の弟子で甥でもある)も後に天台座主になっている。18代門主として尊性法親王後高倉院皇子)が入寺してからは門跡寺院(綾小路門跡)としての地位が確立し、近世末期に至るまで歴代門主の大部分が法親王(皇族で出家後に親王宣下を受けた者を指す)である。

 鎌倉時代妙法院は「綾小路房」「綾小路御所」「綾小路宮」などと呼ばれたことが記録からわかり、現在の京都市東山区祇園町南側あたりに主要な房舎が存在したと思われるが、方広寺大仏に隣接する現在地への移転の時期などは正確にはわかっていない。 》

 ★ごちゃごちゃしてますが、要するに最初期は、比叡山中に起こり、12世紀後白河のころ洛中に移転し、13世紀(1227年)に、尊性法親王天台座主になったころから綾小路小坂にあると、鎌倉時代も認識されていたが、その後、現在地へ移転したがその時期はあきらかでないということらしいです。

 尊性法親王(1194-1239)は後高倉皇子で、1283年頃といわれる兼好の生誕の半世紀前頃に亡くなっているので、この18代尊性法親王の後の、「近世末期に至るまで歴代門主の大部分が法親王」の中の、兼好の時代の一人が「性恵法親王」だったということになるようです。

 

〇ゆゑ 

 角川古語辞典 説明
●「ゆゑ【故】」

 [1]名
  意味:①物事の起こる理由。原因。(用例:更級) 

  意味:②風情。趣き。(用例:紫式部)  

  意味:③人の品格。身分。由緒。(用例:源・葵) 

  意味:④根拠。出典。(用例:源・常夏) 

  意味:⑤事故。変事。(用例:人・娘節用)

 [2]形式名詞

 (体言や活用語の連体形について)・・のために、・・によって、・・なので、などの意味を表す。(用例:万21 / 源・桐壺)

★これで見ると、上代用例のある「~ゆゑ」「~ゆゑに」っていう形式名詞の用法から、名詞の用法が平安時代以降固定されていったと受け取れるようです。

★「ゆ」は、第1段で見た、「マジカルなパワーの源泉」の「ゆ」かと思います。
★「ゑ」の上代的意味は、角川古語辞典によれば、

  「故」の意味の「ゑ」、

  「飢え」、

  「穢れ」、

  「酔う」、

  「笑む」など。

 「飢え」を除けば、「ゑ」も、何かが内側から湧きでてきて作用を及ぼすような現象を言っているように感じます。「由来の元」というニュアンスが「ゆゑ」ではないかと。定かではありませんが。

 

〇まことや

 角川古語辞典の説明

●「まこと【真実・誠】」
 [1]名詞
  意味:①真実。本当。実際。(用例:源・若菜・上)
  意味:②人に対して道徳適に偽らないこと。誠実。真情。(用例:続紀宣命

 [2]副詞
  意味:ほんとうに。(用例:万245)

 [3]感動詞
  (何か思いついた時の)そうそう。ほんとうに。(用例:宇津保・俊蔭)

●「まことや」※「まこと」の子見出し
  意味:「まこと」[感動詞]におなじ。(用例:源・須磨)

★以上の辞書説明通りに「まことや」は「感動詞」として「あ、そうそう」と何か思い出した風に訳しています。 

★「まこと」の、「ま」は「真っすぐ」、あるいは「真っすぐな神霊」のことじゃなかったんでせうか? 角川古語辞典の「まつきことば」を見渡してそんな気がしてきました。

●「まが【禍】」名 意味:悪いこと。災い。(用例:記・上)
  ➡「ま」(真っすぐ)に「が」(交差する力=バイアス)あるいは「真」の神聖な力を「枯らす力」がかかること?

●「まかい【真櫂】」名 意味:船の両側に取り付けた櫂。(用例:万433)→「まかじ」に同じ。
  ➡古代において、「櫂」は先端技術で、神霊の「ま」を付けて称賛した?

●「まかごゆみ【真鹿児弓】」名 意味:シカやイノシシを射た弓。(神代紀)
  ➡神聖なほどまっすぐな矢(を弓と言った?)だったんでせう。

●「まかたち【侍女・侍婢】」名 意味:貴人に付き添い使える女性。
  ➡これは、よく、わかりません。※別系統の解釈が必要?

●「まがたま【曲玉・勾玉】」名 意味:上代、装身用の曲がった玉。(用例:記・上)
  ➡本来真っすぐなものに(仮想の)交差する力、真っすぐを枯らす力が加わると「曲が」ると考えられていたってことかと。

●「まかなし【真愛し】」形シク 意味:ほんとうにかわいい。とても愛しい。(用例:万3567)
  ➡「かなし」は次項で説明しています。

●「まがひ【紛ひ】」名 意味:①交じり乱れること。(用例:万3963)
  ➡まっすぐなものに交差する力、真っすぐの神聖を枯らす力が加わって、曲がる柔軟性がなければ、乱れる?

★まだまだ、続きますが、きりがないので、以下割愛します。その中で、重要だなと思われることばが「禍る」です。

●「まがる【禍る】」自ラ四 ⦅災難が起こるの意から⦆死ぬ。(記・上)
  ➡この「まがる」は「ま」の霊力が枯れたことを意味しているように感じますが、それは、「罷る」=「目離る」=目から離れる、見えなくなるという意味と二重の意味、いわゆるダブル・ネーミングになっている気がします。

 「罷る(まかる)」系統のことばもたくさんあります。

 で、「禍る」や「罷る」の 大元は「目(ま)」に見えるものこそ真実で、エネルギーも宿っており、その力は純粋、真っすぐなものであり、それが妨げられると災難は起きると考えられていた のではないかと思うのですが、どうでせうか? 

●「ます【坐す・座す】」

 [1]自サ四

 意味:①「あり」「をり」の尊敬語。いらっしゃる。(用例:万172)
  ➡これも、「目」で見もうしあげておりますってことなんですよね。

 意味:②「行く」行くの尊敬語。いらっしゃる=行かれる。(用例:万3996)
  ➡これも、貴人の動きを見守って、動く動作を見ているという意味でもいいと思いますし、「ま」に真っすぐのエネルギーありましたから、貴人のエネルギーの動きを指しているともいえるようです。

 今まで、なんとなく、そこに「いらっしゃる」と、移動して「行かれる」が、おなじ「ます」で表現されることを若干の違和感覚えつつ、漠然と受入れていた気がします。今回、少し見え方が変わり嬉しいです。定かではないんですけどね。

★「感動詞」の「まこと」「まことや」(あ、そうだ)は、用例が平安時代ですので、上古、神聖厳かであった「まことば」も、平安時代にはいると、ずいぶん身近な言い回しになっていたってことかと妄想します。これも定かではないですが。

 

〇かなしむ

  角川古語辞典の「かなしむ」関連列挙します。

 ●「かなしむ【悲(哀)しむ】」他マ四 「悲(哀)しぶ」に同じ。(用例:源・宿木)

 ●「かなしぶ【悲(哀)しぶ】」他バ上二・四 意味:嘆く。悲しく思うこと。(用例:源・手習)

 ●「かなしぶ【愛しぶ】」他バ上二・四 意味:めでる。珍重する。(用例・古今・序)  

 ●「かなし【悲し】」形シク 
    意味:①心に哀切の情が染みる。嘆かわしい。楽しくない。(用例:万793
    意味:②かわいそうだ。きのどくだ。(用例:源・帚木)
    意味:③残念だ。癪だ。(用例:宇治拾遺5)
    意味:④きびしい。(用例:今鏡・藤波・上)
    意味:⑤貧しい。(浮・縅留)

 ●「かなし【愛し】」形シク
    意味:①可愛い。いとおしい。(用例:源・夕顔)
    意味:②興味深い。おもしろい。(新勅撰・旅)

 ●「かなしけく【悲しけく】」〘上代の未然形「かなしけ」+準体詞「く」〙意味:悲しいこと(に)。(用例:万3969

 ●「かなしがる【愛しがる】」他ラ四 意味:可愛いと思う。(用例:枕92)

 ●「かなしけ【愛しけ】」〘上代東国方言〙⦅形容詞「かなし」の連体形「かなしき」の転⦆ 意味:いとしい。恋しい。(用例:万4369) 

 

 ●「かぬ【予ぬ】」他ナ下二 
    意味:①先のことを心にかける。(用例:万3410
    意味:②予想する。(用例:万1047

★「かなしむ」は、上代にあった「かなし」から派生したようです。上代の「かなし」は、ある状況に接して湧いてくる「悲しさ」が大元だったように思いますが、上代東国方言にあったように「いとしい」という意味の用法もあったようです。

 それが、平安時代になってはっきりと「悲しい」思いと、「愛しい」おもいで「かなし」は使われるようになったと妄想します。

 ★で、その「かなし」がどういう根源のベクトルを持つことばかというと、「かぬ」が、①先のことを思う、②予想するという意味のことばであるということから推測すると、自分の思いをある方向にむける・自分の思いがある方向に向かうニュアンスを感じます。

 ★「かぬ」も源はなにか? 例えば、

 「かはす【交わす】」=移す(万4008)。

 「かへる」=もとに戻る(万801)。

 「かよふ」=往来する(万4005)。

 「かる」=離れる(万373)、疎くなる(万3910)

 などのことばから感じられるのは、「か」一音のなかに「動き」が潜んでいるということです。

 ★「かなしむ」というのは、そもそも、思わず感じられる(心がそちらに向いてしまう、動いてしまう)、惻隠の情のような心の動きを言ったが、その、つい心が向かう先の代表格が「悲しみ」と「愛おしさ」だったので、「かなしむ」と言えば、「悲しむ」か「愛しむ」が通り相場になった、ということかと妄想します。もちろん定かではありません。

 

令和6年新年2日め

 

1)夕方のNHKニュース

 夕方6時近く、お腹が空いてキッチンのほうに行ったら、母が見ていたNHKニュースで、羽田空港での旅客航空機炎上のニュースをやりだした。

 最初女性のアナウンサーの声だったけど、すぐに男性アナウンサーが替わり、違うかもしれないけど、声の感じと、NHKアナウンス室の顔写真からいうと、糸井羊司アナウンサーだったか。

 

2)冷静沈着

 空港に設置の、NHKのカメラ映像だけの情報しかない中で、男性アナウンサーは、カメラ映像から確認できる事実と、そこから類推される事柄と、類推が犯しがちな想定過剰とを冷静に選り分けながら、刻々進展する映像の中身と、徐々に増えていく断片的な外部情報とを、冷静沈着に整理、実況中継しいていった。

 (追記:空港設置のカメラは、乗客脱出の反対側をずっと映していたので、放送時間内は反対側からの機体が燃え上がっていく姿しか見えていなかった)

 空港ロビーから入る、NHK記者からの音声レポートでは、見えない発着のインフォメーション・ボードを、自分からは見えない点ををはっきりさせながら、空港ロビーにいる記者が伝えている内容に足りないと思われる、航空会社からの情報の掲出の有無の点などの確認を記者に促すなど、テレビ視聴者の知りたい心の動きと報道の一体性が、途切れないよう常に配慮しているのがわかった。見事だった。

 ニュースを見ていた人はわかると思いますが、着陸した飛行機が衝突火を噴いて、その火が機体の中にどんどん回っていく、その短い時間のさなかに、千歳空港からの376名の乗客をすべて脱出させた乗務員らの誘導の見事さ(推測)、その誘導に応えた乗客の冷静な行動(推定)など、詳細はこれから徐々に明らかになっていくと思いますが、 ほんとうに驚嘆でした。

(※重ねて追記:脱出の情報などはアナウンサーに届いた情報としてアナウンサーが逐次実況したので、時間中のテレビ映像としては、機体が燃える映像ばかりだった。)

 

 能登もまだ大変な状況のようです。そのことにも、糸井さんは気を配ったアナウンスしてました。ただただ、敬服でした。

 

元旦が甲子でスタート

 

1)昭和99年元旦

   元旦やピーカンの下の縁(えにし)かな

 元旦のピーカンの真っ青な空を眺めていると、この空の下にいて、普段すっかり忘れているあの人、この人。やっぱ、思い出したりするものですね。

 

2)干支が1番からスタート

 今日の干支は甲子(きのえね)。干支の第一番。元旦が干支1番からスタートするのは何年置きか? 60日で干支1回転なので、年間6回転+5日消化ってことは、ああわからん。

 まあ、その余分の5日で60干支が回転すれば12年なんだろうけど、閏年が4年ごとに挟まってくる。ああわからん。算数、数学だめなのばれます。

 まあ、そういう、なかなか来ない干支第一番目の甲子日スタートの年です。紛争とかもリセットできないもんすかね。

 

 

3)16:14追記

 能登半島地震が起き、その余波が関東にまで届いた。

 何年か前の新潟地震だったかの時とそっくりで、大きな波がゆっくり届くタイプの地震。ここも1、2分?ゆっくり揺れる感じになった。

 残念ながら、今年も呑気な一年にはなれそうもないみたい。