老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

単語登録の近未来?

 なくなる?

 

1)過剰最適化

 上代語やその説明語などは、普段使わないことばが多いので、PCで単語登録に励みます。そうすると、普段使っているなんでもないことばが、逆に一語のまま、あるいは分割されて変換選択を迫られるという事態に至ります。たとえばこの「たんごとうろく」が「丹後登録」と変換提案されるみたいに・・・。多くの皆様ご体験のところかと。

 メンドクサイので、なんでもないことば(単語登録)を、再登録して分割されなくしたりしなければならなくなります。便利なための単語登録が、やればやるほど、余計な対応作業を招くという、なんだかなあな状況を招きます。

 こういうのを過剰最適化(オーバー・オプチマイズ)とかいうらしいです。まあようするに、「過ぎたるは及ばざるが如し」みたいなことなんでせう。

 

2)単語登録の未来

 で、ふと思ったんですが、おそらく、IMEなどにも、そのうちAIが組み込まれる。そのころには単語登録の量とか専門性とかもレベルが違って(AIが自己学習して?)、ユーザーの単語登録ってほぼなくなっちゃんうんじゃないかと。

 昔、本屋に足を運ぶこと、神保町を歩いて必要な本を探し出すことの意義を、真顔で語っていた時代があったように、「昔は、単語登録してさあ、自分の辞書作ってたもんだけど。あの作業に、なんか意味があった気がすんだよねえ」みたいなことを、きっと何十年後かに(たぶんそのころにはもしかしたら自分はもういないので、誰かが)ノスタルジックに言ってそうな気がするけど、いや、ないかなあ。

 

 

 

熱帯夜 冷ます工夫  

 

 夏の夜のメモ。

 

1)夜でも猛暑

 

 2026年7月22日水曜日

 時間22:25で、スマホで確認の外気温は30℃

 (埼玉県で熱中症警戒アラート発令中)

 

 今日は朝から猛暑だった。

 洗濯、布団干しにはよかったが・・。

 午後少し雲が出たが、夕方は西陽がもどり、強烈だった。

 猛暑、猛暑でTVニュースも持ち切りだった。

 

 

2)エアコン入れっぱなし

 

 ここしばらくエアコン(冷房)は入れっぱなしで24時間稼働している。

 さすがに大丈夫かなと心配になるが、

 老いた母もいるし、暑いの苦手だし、スイッチ切る気にはなれない。

 ボロマンションだけど、マンションなんで、気密性が高い。

 防犯的にも窓やベランダを開け放して寝るわけにもいかない。

 基本28℃設定で、日中は、家の中が暑くなったりすると

 27℃~26℃に下げたりして調整の日々。

 

 

3)部屋を冷ますさらなる工夫

 

 トイレの換気扇も回しっぱなし。

 

 エアコンは20畳用だったかで威力強めなるも、

 ベランダ(東)側にあり、

 午後、陽が西に傾くと、西側の壁が温められ

 冷気が家(室)じゅうに行きわたらななくなる。

 西側の玄関脇トイレの換気扇を回していると

 冷気がゆっくり西側にたどり着く。

 最近気づいた。

 

 さらに、もう一つ。

 西側の窓を日除けシートで覆っている。

 

 以前は感じなかったが、

 昨年、西陽で、西側の部屋の室温がぐんぐん上昇するのを感じ、

 たまらず、Amazonで探して購入。

 覆っても室温は上がるが、覆わないのと比べると全然違う!

 日中の室内温度上昇の抑制にかなり貢献してくれている気がする。

 

 

4)電気代が恐ろしい

 

 夜のこの時間もエアコンは温度設定は28℃で、換気扇も回り続けている。

 就寝後もエアコン、換気扇は稼働し続ける。24時間。稼働。稼働。稼働。

 熱中症も怖いが、電気代も怖いし、エアコンへの負荷も怖い。

 背筋が寒くなるのではなく、背に汗にじむ怖さ。

 

 

 P.S. 2026/07/27(月曜)

 太平洋岸側に前線が連なり、雨雲が、日本海側から太平洋側に移って、関東もやっと気温が下がる。早朝(午前5時頃、スマホ確認外気温23℃くらいだった)さすがにエアコンのスイッチを切る。久しぶり。この23℃あたりがこの家(室)の涼しさの規準なんだなということをメモしておきたかったのでP.S.記録。

 6時頃のシャワー浴びのあと、ベランダを開け、玄関ドアも内側チェーン掛けで薄開きにし、風を通す。でも、8時、9時くらいには、曇り空のままなるも、やはり気温は上昇し、たしか24℃くらいに。そうなると、風を通していても室温の上昇を感じるのは、おそらくマンションの気密性の故ではないか。田舎の隙間だらけの家だとそうではない気がする。

 ということで、やむなくエアコンスイッチを再びオン。悲し。

J・B・ハリス『ぼくは日本兵だった』 読み納め

 「読み納め」は「終活」の一環です。

 本棚の、昔読んだ本や、「積ん読」だった本を再読し廃棄する作業です。

 

1)超有名な昭和の英語の先生

 J・B・ハリスさんの名前にピンとくる人達は、おそらく50代以上の方かと思います。ラジオ(文化放送)の「百万人の英語」(1958-1992)、そして短波ラジオの「大学受験ラジオ講座」(1952-1995)の司会兼講師(先生)を長年務められた方。

 「大学受験ラジオ講座」の始まった1952年といえば、終戦から7年目です(昭和27年)。そこからWindows95の1995年まで43年間も英語学習の放送で教え続けられた! その番組を2、3度聞いたか、聞かなかったかくらいのボンクラ生徒だった机上空論城城主ですら、そのお名前はしっかり存じ上げる超有名人だったわけです。

 しかし、そのハリスさんが、ハーフで、国籍は日本で、そして、第二次世界大戦時に日本兵として北支(中国大陸北部)で兵役に就かれてた。なんてことは、古書店でこの『ぼくは日本兵だった』を見つけるまで、全然知りませんでした。

 

2)ハリスさんの特異さと戦争の時代

 ハリスさんはロンドン・タイムズの極東特派員であったイギリス人の父と千葉県出身の母との間に大正5年(1916)神戸で生まれます。一家はほどなくして横浜へ移り住み、そこでハリスさんが7歳の頃、関東大震災に遭遇。住む家を失った一家は、父の転勤という形でアメリカ、ロサンゼルスへ移住。そこでは日本と比べものにならない広大なアメリカを目の当たりにするなど、ハリスさんの幼少期は、ハリスさん自身がハーフであるというその存在の二重性の問題も含め、かなり色濃い経験の連続であったような気がします。

 そして12歳頃の昭和3年(1928)、父の再度の極東赴任で日本へ戻るも、16歳頃の昭和8年(1933)に父が急逝。ハリス氏は進学をあきらめ新聞社(ジャパンタイムズの前身の一つである「ジャパン・アドバタイザー」)に給仕として就職。そこから苦労して記者へと昇進しています(Wikipedia参照)。

 この新聞社への16歳での就職と記者への昇進などは、ハリスさんの父の職業とハリスさんがバイリンガルの人であったことを抜きには考えられないでしょう。

 ハリスさんがそうやって特異な自身の経験と経歴を積み上げていた頃、日本は昭和6年(1931)の満州事変、昭和12年(1937)の盧溝橋事件などから日中戦争への突入と拡大、世界からは孤立への道をずんずん突き進んでいました。

 そして、資源獲得と大陸での局面打開を企図し、日本は昭和16年(1941)12月8日真珠湾を攻撃し太平洋戦争を始め、さらなる戦線拡大へとのめり込んでいっていたのでした。

 

3)中国北部の戦線へ

 ハリスさんは、父が亡くなったあと日本国籍を取得していたのですが、太平洋戦争がはじまると、なぜか日本にいる外国人と同列にみなされ、横浜の山下埠頭に設けられていた敵国人収容所に押し込められます。

 そして、8カ月間の収容所暮らしのあと日本国籍が判明したと、収容所から解放され喜んでいると、徴兵検査の通知「出頭命令書」が届きます。昭和17年(1942)の夏のころのようです。

 検査に合格したハリスさんは甲府の部隊に入隊。そこで軍隊の基本を学び、昭和17年の初冬の頃? 甲府から広島・宇品へ。宇品港から朝鮮の釜山へ。そして釜山から列車で京城(ソウル)、平壌(ピョンヤン)を過ぎ、北支(ほくし=北支那)河南省・新郷へ到着。そこから100㌔先の湯陰(トウイン)という地に駐屯していた部隊に配属されます。

 

4)極限の状況で人であること

 湯陰の部隊での昭和17年(1942)の冬から、「終戦」の翌年昭和21年(1946)の春先?の帰国のころまでの約3年の出来事が語られます。

 帰国後判明した奇跡的な話を面白いと言っては語敝があるのですが、そのほかの「へぇ」な話など、特異な存在であるハリスさんのような人の周りにはやはり、特異な逸話が付きまとうもののようです。

 それらを読みながら、城主が興味深かったのは、やはり、戦争という非人間的な極限状況での人間のありようでした。

 ハリスさんが自身で述べているように、ハリスさんが南方の戦線に送られず、北支の部隊に配属されたことは、まず何よりも一つの僥倖でなかったかと思うのです。

 ハリスさんたちは、京漢<けいかん>(北京―漢口)線という北支と中支を結び、日本軍の補給路でもある幹線鉄道の警備が主任務だったそうです。対峙するのは、中国の国府軍(重慶軍)。その時点では国府軍の敵でもあった共産軍である八路軍。そして両者に着いたり離れたり、あるいは時として日本軍の手先になって動くことすらあったという匪賊や馬賊ら。

 殺し合いですから、常に命がけではあるのですが、例えば、フィリピン「マニラ事件」の資料を読むような絶望さ加減とは、やはりだいぶ違っている気がします。

 でも、殺し合い、極限状況には違いありませんから、ハリスさんも昭和19年(1944)正月の八路軍の襲来の状況を正直に述べておられます。殺らなければ殺られる状況。しかし、八路軍は青龍刀が主力で、モーゼル銃や鉄砲を携えているものはごく少数だったそうです。これも僥倖というものではないでしょうか。

≪ といいますか、中国側の敵対勢力たちが、そういう泥縄的な武装勢力であったことや、内側で国府軍と共産軍との対立があったことなどが、広大な大陸のところどころでの日本軍の勝利となり、それが一見、日本軍全体の”破竹の勢い”に見えていた。だけだったのではないでしょうか。 ≫

 そういう極限状況で、自分を見失ってしまう人たちが登場します。

 そういう極限状況でも、人の道を歩き続けようとする人たちが登場します。

 あるいはそういう極限状況に押しつぶされて、自死した方の話もあります。

 日本の敗戦(昭和20年<1945>8月)が明らかになったあとも、それを認めず、シナに残って匪賊となって徹底的に八路軍と戦おうと叫ぶ下士官のグループがあったそうです。

 ハリスさんはこう書きます、

 「ぼくにはわからなかった。おそらく、永年にわたる戦地暮らしが彼らを心底から殺し屋に仕立てあげたのだろう。 ”軍隊ぼけ”ということばがあるが、ものごとを理性的に判断できなくさせる”何か”が、たしかに軍隊にはあるようだ。ぼくは、改めて戦争のもっている底知れぬこわさを感じていた。 幸いなことに、こうした過激派の存在にもかかわらず、部隊全体の秩序はおおむね保たれていた。それはエザキ大隊長をはじめとする上層部の方針が、はっきりと示されていたからであった。『日本は大東亜戦争に敗れた。われわれは天皇陛下の大御心に従わなければならない。近く重慶軍の使者が到着するはずであるが、われわれ第六独立警備三十二大隊将兵は、全員整然とその指揮下に入る。それまでは従来通り日常の任務を遂行する。この方針に従わないものは容赦することなく処断する』 大隊長は全軍に敗戦を通知したとき、こう訓示していたのである。」

 そして、ハリスさんはこういう見方も続けて添えています。

 「それはたぶん、重慶側の指示によっていたのだろう。たしかに八路軍や匪賊による鉄道破壊は依然としてつづいていた。重慶政府にとって彼らはいまでも敵であったから、降伏した日本軍の力に頼らざるをえないところがあったのである。」

 それは、その通りだったのでしょう。でも、部隊の上層部が、日本本国の降伏の意向と、敗軍という自軍の立場を正しく受け止め、適切に対応したことが、敗戦と言う混乱のなかでの自隊の安寧を最大限に確保した。そう思います。

 上に立つ者の理性と冷静さと果断さこそが、極限の状況の中では最も重要なことだと改めて思うのです。というか、そういう極限状況に人々を追い込まないことが先ずもって大切なことであり、そもそも戦争というものを始めないことこそが、大大大前提であるとは思うのです。上層部がだめだとどうなるかは、大東亜戦争全体の評価に繋がっていくかと思います。

 ともあれ、そういう極限状況の中でも、人としての大事なものを失うまいとする人たちが確かにいたということを確認できたことが、自分にとっては救いであり、この本を読んだことの一番の成果だったように思います。

 

5)「新しい戦前」?

 

 本を開いたら、巻末まで前回(2005~2010年頃)読んだ時の書き込み傍線だらけだったのですが、実はすっかり忘れておりました。Wikipediaによればそのすこし前の2004年(平成16年)にハリスさんはお亡くなりになられていたようです。

 それからまた約20年。

 残念なことに国会前で反戦デモが盛んになってしまった今現在、この本は、本来は昔の出来事を語る本だっただろうに、俄かに、呑気に「読み納め」なんて言ってられなくなってしまっているような気がして、複雑な心境であります。

 

 <※文中で、年齢を曖昧に記述している箇所があるのは、Wikipediaでハリスさんご誕生の月日が明示されていないことによります。> 

 

蓮池薫さんの『日本人拉致』を読む

 

 えー! 拉致ってこんなにあったの!? というのが、正直な感想でした。

 

1)拉致されて暮らすこと

 『半島へ、再び』を読んだときに感じた、蓮池さんの拉致の実態がどういうものだったんだというモヤモヤは、前回読んだ『拉致と決断』と本書でほぼ晴れました。

 もちろん、今も残る拉致被害者への配慮や、日本政府の北朝鮮との交渉等々への配慮から、書かれていないことが、まだ多々あるのだろうとは思いつつもです。

 

2)あらためて驚く拉致被害の規模

 この本を読んで驚かされたのは、「拉致」の「ら」の字も表面化していなかった、1960年代から拉致が行われていたということでした。

 この本を読みつつ、ググったWikipediaやネットの記事等によれば、日本人で拉致被害者と見做されているのは20数名。このほかに、日本では「特定失踪者」といわれている(拉致被害と見られている)方々がまた10数名いらしゃるし、韓国や、タイ、マレーシア、シンガポールなどの東南アジアや、ルーマニア、フランス、イタリアなどの欧州、そしてアメリカでも拉致被害と見做されている失踪者がいるとのことです。

 開いた口がふさがらないというのはこういうことかと。

 

3)時代錯誤? 解放思想の罠?

 前回、過酷な支配と抑圧から、自分達を解放してくれたものへの絶大なる信頼、ということを書きました。戦後の日本人がアメリカの民主主義と自由主義を信奉したように、北朝鮮は、共産主義に似た金日成の「主体」思想(のちに個人崇拝化したということですが)を最大善と見做し、これを全世界に広めることによって、世界の人々が救われると、おそらく本気でそう思ってたらしいことを『日本人拉致』を読みながら感じました(その見立てが妥当かどうかはわかりませんが)。

 自分たちの至高の思想を、ターゲットとする国々に広めるため、その国々へ送り込むための工作員(スパイ)獲得の狙いで拉致が行われたのではないか、というのが蓮池さんの見立てです。

 1960年代の日本人拉致被害者は、北朝鮮の一般社会に「放出」されたそうです。後に蓮池さんらのように「招待所」によって北朝鮮社会から隔離されなかったらしいです。

 このことから空論城城主は妄想したのですが、60年代のころまでの地方人などは、まだ70年代以降の「情報化社会人」ではなかったので、自分が拉致されたという極端な事態の異常性を、さまざまな情報によって相対化させて考えるというようなことが出来なかったんじゃないかと。 ”これが我が身の運命”と、受け入れて生きるようなところがあったのではないか、そんな気がしたのです。もちろん、まったく定かではないのですが。

 仮にそうだとすれば、その(運命を受け入れた)姿を、自分達の思想の感化の成功と見て、拉致担当者たちは、思想の確かさというような勘違いを深めたのではなかろうか?と。 これも、もちろん定かではありませんが。

 そこに1970年の「よど号ハイジャック事件」がからむ?

 

4)よど号ハイジャック事件の意味合い

 この「よど号」事件と「よど号」グループの拉致関与は、北朝鮮の思惑を大いに後押ししたのではないでしょうか(そんなこと蓮池さんは書いていませんが)。 

 ”米帝国主義”と、つき従う日本への反発と、朝鮮戦争でアメリカと対峙した小国(北の楽園)への憧憬のようなものが赤軍派にあったのでしょうね(詳しいことはまったくわかっておりませんが)。

 そういう赤軍派が、国際事件を起こしてまで、自分達の国を慕ってやってくる。北朝鮮にとっては喜ばしいことだったのでしょうね(そんなことは蓮池さんの本には書いてはありませんが)。

 よど号ハイジャック犯らのヨーロッパでの拉致事件関与については、蓮池さんは明らかになった事実に基づいて言及されています。

 しかし、ハイジャック犯らは自分たちの拉致関与を否定しているようです。それ以上のことは空論城城主の手に余る話ですが、ネットの記事によれば、彼らは、自分達は亡命者であり国外移住者なんだから国外移住者の帰還として、日本は自分達を受け入れよと言っているらしいのですが、さすがに虫のよすぎる話かと。

 《 自分たちの規律違反は体制の悪を糺すためのものであり、一般的な犯罪とは区別されるべきである 》というような考え方なのでしょうか? わかりませんが。国家転覆に成功したら、その論理は通用する? それもわかりませんが。 そうだとすると、国家転覆出来ていないのだから通用しないのでは?

 1970年代中盤~後半に拉致が頻発したのは「よど号」事件のせいもあるんじゃないでしょうか(これも城主の考えで、蓮池さんはそんなこと書いていません)。 

 

5)「招待所」から見た歴史

 しかし、78年後半に起きたレバノン人ら外国人拉致被害者の国外脱出などで、拉致にブレーキがかかる。そして80年代後半になるとソ連をはじめとする東欧諸国の西側接近が始まり、北朝鮮は孤立。その孤立を深めたところで「大韓航空機爆破事件」を起こす。

 90年代には、北朝鮮を大飢饉が襲い、北朝鮮は、国外からの支援を必要としていた。といった流れの先に、2002年の小泉首相訪朝による日朝首脳会談と蓮池さんらの帰国があった。ようです。 

 そういう北朝鮮の歴史を、招待所暮らしという内部から眺めた感触が『日本人拉致』から感じ取ることができます。

 

 

老体の異変は突然訪れる

  母下血

 

1)久々母に異変

 

  昨夜(2026/6/6/土曜)8時ころ

  母、トイレに用足しに行き、声を上げたので

  行くと鮮紅色の下血。

  ビビるも、母は、母も驚いてはいるが、

  調子が悪い時のドヨンとした感じも無く

  本人も調子は普通だという。

 

2)血圧は低め

  

  血圧計で測ったら上95/下51と低め

  訪問看護さんが付けてくれているレポート見ると

  だいぶ前に上98があるが

  通常は105とか110とか120くらいで振幅。

  やはりヤバイかなとも思ったが

  母が「別に(調子は)変わらない」というので

  看護訪問さんからいただいている

  緊急時連絡先の電話番号の利用は行わず

  「明日朝の調子、状態で判断」と母と話す。

 

3)ネットぐぐると

 

     鮮やかな赤色の便の場合

      比較的肛門に近い場所での出血の可能性。

      肛門なら(外痔核または内痔核)や裂肛、

      直腸からの場合、潰瘍性大腸炎や、直腸がんなどの可能性

 

    痛みのない血便の原因

      近年増加しているのが大腸憩室出血

      大腸の壁の一部が外側に小さな袋状に突出したもの。

      加齢や慢性便秘などによる腸内圧の高まりでできやすくなる。

      特徴は、突然の血便(鮮やかな赤色の出血)。

      痛みをほとんど伴わずいきなり出血が起こる。

      多くの場合自然に止まるが、再び出血することがある、等々。

 

  概ねこのような解説。

  母は、痔の訴えはなく(でも定かではないですが)

  「腹が張る」と訴えたり、

  逆に「いつも下痢気味」とも訴えたり

  定かではないのですが、

  大腸憩室出血の記述あてはまる気がしますが

  もちろん、定かではありません。

 

4)月曜は通院の日

 

  今朝(6/7日曜)朝6時ころ

  母、トイレで用を足したのですが、

  特段に騒ぎもなく済んだので

  二度寝の熟睡(ウマイ)を貪っていただこうと

  こちらも寝床から起きませんでした。

  

  最近はだいたい10時ころ起きるので

  そのときの状況次第です。

  日曜診療の病院の住所もネットで確認したのですが

  明日はかかりつけの病院に通院の日(しかも内科)なので

  おそらく、明日先生に相談の方向かと。

 

5)狭量なわたし

 

 それにしても、下血などという事態は

 遭遇すると驚く。

 正直「いやだな」という気分が湧く。

 ああおれは人間が狭量だなとつくづく思う。

 

 ただ、最近思うのだけど

 こういう、経験は、結局、自分のためなんじゃないかと。

 上の世代の末路に立ち合うことで

 いろんな意味での予備知識や心づもりを得ているのではないかと。

 

 核家族化で、

 こういう老齢の無惨さ、面倒くささから遠ざかることは

 楽でいいんだけど、それだけじゃないんでしょうね。

  

 

  ///P.S.///

   上記の通り、最初下血と思ったのですが、

   その後、小用で母が血尿と気づきました。

   そして6月8日(月曜)に先生に診てもらい、

   CT検査の結果、臓器に異常はなく、

   尿検査の結果で細菌の値が高いことが判明しました。 

   いわゆる膀胱炎らしいです。 

   7日間毎食後服用で呑みきりの抗生物質が処方されました。 

 

蓮池薫さんの『拉致と決断』を読む

 いやあ、こういうあり得ない経験をされた方の体験談の「なにをどう言ったらいいのか」って思うばかりなんですが、北朝鮮という”特殊な国(?)”について、そして、首領さまを護持する人たちへの不可解さを日頃感じている方々には、その解きほぐしの手がかりになる本じゃないかと思いました。

 

 これだけの内容を、うまくまとめるのは難儀なので、ホントに感想だけです。

 

1)最初『半島へ、ふたたび』(2009)を読みました。

 かなり前、『半島へ、ふたたび』を古書店で見つけて買ったのですが、少し読んで、予想に反して、のんびりした内容なので、なんか違う気がして、冒頭で挫折し、長らく積ん読状態でした。

 もちろん、(蓮池さんが一番書きたいことは)書きたくてもまだ書けない段階だったんだろうなあ、というような推察はあったのですが・・・。

 で、最近、”終活読書”の一冊として、あらためて読み直し、やっぱ、なんか違うなの感が払しょくできず、そのことを、Copilot(AIチャット)に相談したら、体験談の比重高い本として『拉致と決断』(2012)を勧めてくれ、即、Amazonで買った次第です。

 

2)蓮池薫さんと同い年

 机上空論城城主は蓮池さんと同い年です。それに気づいたのは、拉致被害者の帰国が盛んにニュースになっていた2002年前後ころだったかと思うのですが、TVの番組のなかで、蓮池さんがいなくなってもそのままにされていた蓮池さんの部屋が映し出され、勉強机がアップになった時に、棚にある何本かの音楽カセットの中に吉田拓郎のカセットがあって、「あれ」っと思ったのがきっかけでした。

 同い年なんだと分かると、自分のノホホンな数十年の意味とかを、急に考えたりしたものでした。

 

3)気になっていたこと 

 自分がそんなめに会ったら、半狂乱になったんじゃないかと思うんですが、蓮池さんはそんなふうにならなかったのか? というのが『半島へ、ふたたび』を再び読んだ時に一番感じたことでした。 

 拉致当初のそういう”反抗的?”な態度は、『拉致と決断』の「あとがき」で少し触れてありました。 強い抗議を行われたようですが、それ以上の”半狂乱”などがその社会で何を意味するかということは(そうは書かれていませんが)、その場でまざまざと感じられたんでしょうね。命なんかどうだっていいという捨て鉢な考えでなければ、どういう態度でいるべきか・・。そういう社会、国であったことは、本文の中に、多くのエピソードを通して描かれています。

 もうひとつ気になっていたのは、当然、あの首領さま崇拝の国民の実態です。

 その点も、在日朝鮮人の帰国者(という北朝鮮国内向けの嘘)という身分で、半監視状態でありつつ、北朝鮮国民からすると特別待遇の「招待所(帰国者隔離所?)」生活や、引っ越しや、少ない国内旅行等々を通じて、実態が描かれます。

 その一つ一つは、ぜひ日本人は読んでおいたほうが、北朝鮮を非難したりするうえでも大いに参考になると思うのですが、空論城城主が感じていた、首領崇拝への不可解さは(極めて圧縮要約した形でいうと)、「自分達を圧政からの解放してくれたものへの信頼」の構造なんだなということでした。。

 

4)危難からの解放体験の心理構造

 日本人は、戦前の帝国主義から日本国民を解放してくれた、あるいはその対極の共産主義から日本を守ってくれたのが、アメリカの民主主義だと信じ、これが善だと「自由と民主主義」礼賛のその後の社会を構築してきたわけですが、朝鮮の人たちは、自分達の国を奪い、朝鮮人が朝鮮人であることすら否定するような教育までおしつけた日本の帝国主義、そして、第二次大戦後は勝手に半島を南北に分割して南側を奪ったアメリカ帝国主義の侵略と支配から自分達を解放してくれたリーダーの金日成こそが善だとして、その後の統治体制「主体」を肯定しつづけているわけです。

 その肯定の中にこそ、自分達の存在意義があると深く信じているのです(たぶん)。

 自分達を圧政と隷属から解放してくれるもの、それを人は、最大の善と見做す。という、太古からの人間社会に共通の、認識構造なんだなと、思うのです。

 

5)その次の段階へいけないものか

 今も、近国の脅威論とか、それによる排外主義・民族主義の喧伝とか、古代からの認識構造はお盛んです。もちろん脅威が一切無いなどというつもりはありません。現に、大国のリーダーたちは、国際社会の法や倫理をすっとばして、”国のため”という大義名分を楯に、平気で人の命を奪い、社会を損い続けています。

 最悪なのは、それに対して国際社会(世界の人々)が、これをすぐに中止させる有効な手段をまだ持ち得ていないということです。というか、許容し続けてさえいるということです。

 「そういうもんだろ」、じゃなくて、「それを何とかする」責任を21世紀の人間は負うているんじゃないでしょうか。

 国と国の問題、最近重要度を増していると思われるリーダーの資質の問題、それらをどう考え、整理し、ルールを引くか! 

 『拉致と決断』を読むと、その辺りのことを思わずにいられなくなります。

 

※余談です

 配送シールに「プライバシー配送」って記載があったんですけど、変な本買ってるみたいなんで、この注記はやめてほしいなぁ。

衆院選高市自民圧勝

衆院選で高市自民が圧勝。

驚きました。

 

2024年の石丸ブームの時にも感じたことですが、

若い人たちが、

リベラル 対 保守 といった

左右の対立構図に辟易している気がします。

 

若い人が保守化しているというようなことでなく

前にも書いたかもしれませんが

若い人たちの問題意識と

リベラル派の問題意識が

もはや噛み合わなくなっているんじゃないでせうか?

 

リベラル世代は、

その時代の思潮のなかで

問題意識を持ち、

人格形成もしてきたかもしれないけど

 

その後の人たちは

その後の社会の中で成長し

その後の時代状況や文化の中で問題意識を持ち

人格形成もしてきたわけで

 

フォークルとか高石ともやとか吉田拓郎とかの

あの世代の曲に今でも心躍る人たちと

その後どういうグループがそういう存在か知りませんが

これこそが自分達の時代の歌だと思う歌は

ちがっていると思うんですよね

それが世代っていう事なんだろうと

思うわけです。

 

もちろん、時代が変わっても

社会に大切な、社会の基盤となっている

自由、平等、博愛、平和、人権、

そしてコンプライアンス、

といった

近現代が築いてきた理念は

これから先も揺るがせにできないのだけど

もう、それらを、

リベラル世代のことばで

教えられたりするんじゃなくて

自分達の世代のことばで

改めて語り直したい

というようなことなんじゃないすかね。

 

「ちーむ未来」という政党が

当選者を増やしたあたりなんかにも

そういうものを感じるのですが

(定かではありませんが)

 

まあ、圧勝の高市内閣が

旧来の対立軸から抜け出す

あたらしい社会のありようを

検討する足掛かりになるかもしれません。

 

リベラル世代の末席を汚す机上空論城城主は

やはり、コンプライアンス等を軸に

眺めていく他なかろうと

思ってはおります。