老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

『徒然草』第5段(読み納めシリーズ)

1)第5段 要旨

 とにかく静かに内省的な隠遁生活を送ることを至高のこととし、それを、顕基(あきもと)中納言という人がいったという「冤罪の身ながら配流された流刑地で見るような月を見たい」という、インテリ共通の知識らしいことばを引用することで、強調しているようです。

 顕基中納言のことばをどう理解したらいいのかということに、昔から多くの識者や学者さんたちが取り組んできた歴史もあったみたいです。 

 

0)前置き
以下の4点を参照しつつ『徒然草』を、下手の横好き読解しています。
旺文社文庫『現代語訳対照 徒然草』(安良岡康作訳注/1971初版の1980重版版) 
②ネット検索 
③『角川古語辞典』(昭和46年改定153版)
中公新書兼好法師』(小川剛生著・2017初版の2018第3版)

 

2)第5段 本文

 不幸 にうれへ に 沈める 人 の、かしらおろし など、ふつゝかに 思ひとりたる には あらで、

 あるかなきかに 門さしこめて 待つこともなく あかし暮らしたる さるかたに あらまほし。

 顯基中納言 の いひけむ、配所の月罪なくて見むこと、さも おぼえぬ べし。

 

3)第5段 訳

 死とか心配事で気がふさいでいる人が、剃髪(出家)などを浅はかに決心したというのでもなく、

   【地に足の着いた発心】 

 居るのかいないのかわからないような様子で、戸を閉じて内に籠り、何かを期待し待つということもなく一日一日を暮らしている、そういう方が望ましいものだ。

  【世間的な成功を期待しない生き方】【引きこもりの肯定】。

 顕基中納言の言ったという「流刑地での月を配流の罪もなく見たい」というのは、そういうような思いなのだろう。

   

4)第五段 妄想解釈

★小川先生の『兼好法師』を読むと、二条派の歌道の師範代的な活躍とか、高僧に随伴して伊勢に旅するとか、貴顕との多様な交わりとか、兼好の活発な生活が縷々綴られます。

 兼好の活発活動は、『太平記』で、高師直の艶書事件という兼好法師幇間まがいに貶める逸話が語られるまでになるようです。
 それについて、小川先生は、当時の艶書というものの時代的意味合いを検証され、『太平記』のステレオタイプな風俗揶揄描写に師直、兼好の名が使われただけだと、濡れ衣晴らしに努めておられます(148p辺)。

★まあ、そんなこんな、兼好は「むしろ活動的な人だった」形跡が、『兼好法師』の中に横溢しており、その点を思うと、この段での、けっこう"過激な"引きこもり推奨は、なんだか実際の兼好と矛盾しているような当惑を覚えます。『徒然草』の大きな謎の一つになるような気もします。

★小川先生は、『兼好法師』巻末(219p辺)で、遁世思想、尚古思想という、この時代の文化モデルの中で、兼好を捉えなおす必要があると、記されています。

 これからあとの段をさらに読み進めていく中で、その矛盾というか、謎は解消されていくのでせうか。

   

5)ことば とか あれこれ

〇顕基中納言源顕基 みなもとのあきもと 1000-1047) 

 後一条天皇の側近・腹心として活躍し、天皇没後は、「二君に仕えず」といって出家・遁世したことで有名な人のようです。その話は、『古今著聞集』や『十訓抄』などいろいろなところで取り上げられているようです。

★この段で言われている「配所の月罪なくて見む」ですが、これは、顕基が「罪はないのに(冤罪で)、処罰を受けて流罪になり、配流地(辺地)に行った先で見上げるような月を見たいものだ」ということを口癖のようにいっていたという逸話があったらしのを、1108年頃(顕基さんご本人から約60年後)、平安後期の知識人・大江匡房(おおえのまさふさ)が語った談話を藤原実兼(ふじわらのさねかね)がまとめた『江談抄』あたりから引用がはじまり、その後も多くの書で引用されているらしいです。

★しかし、罪を犯してもいないのに処罰されて流刑地で月をみたいって「どういうこと?」と、昔から疑問にも思われて来たらしく、その解釈についても、考察がいっぱいあるようです。

◆ネットをググったら、三重大学の学術機関リポリトジ 研究教育成果コレクションの中にあった松本昭彦先生の「配所の月を見る人 ― 菅原道真の境地・源顕基の思い ―」がヒットして、そこらへんを網羅的に整理されていて大変参考になりました。

 ネットに上っているので、アクセスされるのが一番なのですが、例のごとく、ドンブリ勘定的圧縮要約すると、顕基はなにを言いたかったか? 三つの見方があるらしいです。 

  ①仏道への発心を意味する、

  ②芸術的な「数寄」の境地をいっている、

  ③悲劇的主人公の境地をいっている。 

 松本先生は、それらをもう一度洗いなおした上で、

  ④人が仰ぎ見る傑出した「英雄」への憧憬的なことばではないか、

 とあらたな解釈を提出されています。(あんまり圧縮しすぎて面白い部分が全然伝わりませんのでぜひ直接アクセスお願いします)。  

★兼好が顕基のことばをどう捉えたのかということは、ここでは直接は、触れられていないのですが、説明の中で紹介されていた鴨長明の『発心集』で、長明が顕基のことを「心はこの世のさかえをこのまず」といっているらしく、「配所の月」の真意が奈辺にあったかはともかくとして、この逸話にフォーカスする論者たちが共通にまず理解したことは、「顕基が遁世指向者である」ということだったかと思うのです。

★兼好も、その大前提に立って、出家・遁世といえば顕基のあのことば!的な、そういう中世インテリの共通知識を、遁世・隠棲を奨めるこの段でも引用した。という理解でいいんじゃないかと思うのですがどうでせう。

 

〇不幸

 「不幸」は、漢語であって、和語(やまとことば)ではないかららしく、角川古語辞典には見出しはなく、ネットで「古語 不幸」と検索しても「不祥」しか出て来ず、一瞬戸惑います。

★古事類苑で「不幸」を検索します。

 日本書紀で、天智天皇が病に伏して、内心は皇子の大友皇子に継がせたいと思いながら、弟の大海皇子に鴻業(天皇の仕事)を譲るとか言って大海の気持ちを探る有名なシーンで、大海皇子は「臣之不幸元有多病(私は不幸なことに元々病が多い)」と言い訳して、難を遁れます。

 また、雄略紀では、吉備の人妻を奪って妻にした雄略が、その妻となした子(星川王)は皇位に就けるな「不幸朕崩之後、當害皇太子」(不幸にして自分が死んだあと、皇太子(清寧天皇)を襲う)と言います。

 これらの「不幸」は、死をも含む「ふしあわせ」の意味で、今日と同じように使われているようです。

コトバンク説明内の用例

< ※続日本紀‐大宝三年(703)閏四月辛酉「寡君不幸、自去秋疾、以今春薨」(わが君主の不幸は、去年の秋から病にかかり、今春それで亡くなられた)>(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 この用例の「不幸」は、ほぼ「死」の意味で使われているようです。今日でも、人の逝去、御不幸の世界では「不幸」は「死」の意味で使われています。

◆古事類苑でも、

 「常陸國記」(712年頃成る?)常陸係蘇(へそ)の條(古風土記逸文所収)に、田植え仕事をなまけた妹を殺した雷を、兄が雉(きじ)の助けで追い詰め、村人の百年の息災を約束させたという面白い話の中に、雉の恩を村人が忘れたら「病二マツハレテ、生涯不幸ナルベシ」という言葉があるのですが、これは、生涯の不幸(ふしあわせ)の意味合いより、生涯が終わる(死ぬ)という意味合いの強い動詞的(?)用法のような気がします。 

★まあ、要するに何を言いたいかというと、「不幸」は、漢語由来だったせいか(元の意味が固定され?)、上代から今日まで殆ど変化無く、同じような意味合いで使われてきたらしいってことであります。 

★じゃあ、そのもとの意味って、どうなのかと気になります。漢字だから、漢和辞典がまとめてるだろうと、大修館の「新漢和辞典」(昭和43年2月15日改定第二版第六刷)を見ます。
 それによれば、「幸」の字は、「さいわい、さち、しあわせ、かわいがり、いつくしむ」といった意味が並びますが、〘字解〙が面白いです。

 「幸」は、「夭」(死)の意と「屰」(それにさからう)意の組み合わせ(会意文字)らしいのです(諸橋轍次さんらの説ということになるかと思いますが)。

 日本人は、最初から「不幸」という漢字の意味合いしっかり押さえて、長年使ってきたみたいです。すごい。

★実際の「不幸」の漢文用例ないかと、ネットで「漢文 不幸」で検索したら「熊大医学部硬式庭球部の学生さんのための、「格言・故事成語」講座です。」というサイトの中に、『論語』第6篇の「雍也」の次のダイアログがありました。

< 『哀公問、「弟子孰為好学」。孔子対曰、「有顔回者。好学、不遷怒、不弐過。不幸短命死矣。今也則亡。未聞好学者也」』

 『[口語訳](魯の君主)哀公(あいこう)が、「(あなたの)弟子の中でだれが学問を好む者とおもわれるか」とたずねた。孔子が答えて言った、「顔回(がんかい)という者がいました。学問を好み、怒って人にやつあたりするようなことはせず、(同じ)過ちを二度と繰り返すことはなかった。(しかしながら)不幸にも短命でしんでしまった。今はもうこの世にいない。(彼の死後は、ほかに)学問好きの者がいるとは聞いていない」と。(『論語』・旺文社)>(同サイトからの引用)。

 やっぱ死と同伴です。

★「不幸」は、「死の反対の反対は不幸なのだ!」みたいな、天才!バカボン的なことばだったようですし、「♪幸せ~って、なんだっけ、なんだあっけ♪」の問いには、「死んでないってことだよ」と答えるのが一番いいみたいです。

 

〇ふつつか(不束) 

 角川古語辞典の説明。

●「ふつつか【不束】」形動ナリ(形容動詞ナリ活用) 

  意味:①太く丈夫なさま (用例:宇津保・蔵開・上「いと大きやかにふつつかに肥え給へるが」)

  意味:②不細工だ 不格好だ (同:源・東屋「敷きたる紙にふつつかに書きたるもの」) 

  意味:③下品だ 無骨だ (同:歌舞伎・壬生「年五十ばかり(略)黒くふつつかに」) 

  意味:④美人でない 不器量だ (同:浮(浮世草子)・一代女「田舎にもあれほどふつつかなるはまたあるまじ」) 

  意味:⑤心の至らないさま あさはかだ (同:徒然5「本段部分」) 

 とあって、まさに⑤は、本段から採集された意味なわけですが、

 ①~⑤を眺めると、「ぎゅっとしぼりこまれていない」「水ぶくれのような」「ゆるい」「だらしない」のニュアンス感じます。

★そうすると「束」は、「ぎゅっと縛り込」んだ状態なんでせうか?「束」を角川古語辞典で見てみると、

●「つか【束】」

 [1]名詞 

  意味:「束柱(つかばしら=梁と棟との間に立てる短い柱=用例:平家3「大床の束柱わりなどして」)」の略。 

 [2]助数詞 

  意味:①四本の指を併せて握った長さ上代はこれによってものの長さを測った。(用例:「十束の剣」「八束髯」) 

  意味:②たばねたものを数える語 (用例:孝徳紀「祖(たちから)の稲二束」)

 孝徳紀(上代)に「たばねる」ことの関連語があり、「束(つか)」は「たばね」と理解してよさそうです。てっきり「つかむ」あたりが語源かと思ったのですが、そうではないらしいです。あとで書いてますが、上代に「つかむ」という動詞は、そもそも、なかったらしいのです。

 「束柱(つかばしら)」というのも、『平家物語』(中世)が用例なんですけど、 「柱」というものが家の上から下までのフルの長さで家を支えるという発想に対して、梁と棟との間のいわば「中途半端な」といいますか、「フル」に対する「セット単位」四本指の幅で〇束(つか)というようなニュアンスなのかもしれません。 

◆「束」の漢語的な意味合いを新漢和大辞典で見ます。

  ①ひとまとめにくくったもの。また、それを数える語。 

  ②たばねる。つかねる。くくる。しばる。「束縛」。 

  ③つなぐ ひきとめる「拘束」 

  ④つつしむ 

  ⑤ちぢむ  

 ⦅国字⦆

  ①ソク (イ)稲十把 

      (ロ)紙十帖 

  ②つか (イ)四本の指の一握り 

      (ロ)わずか すこしの時間「束の間」

      (ハ)束柱の略 〇読み:き・さと・つか・つかぬ・つかね。

 〘字解〙会意文字。

  木と口(ぐるぐる束ねる)との合字。木をたばねる意で、広くたばねる・つかねる意に用いる。

★つまり、漢字の「束(ソク)=たばねる=しばる」の意味が、大和ことばの「つか」(たばねる)の意味と被るので、「束」に「つか」の訓読みを当てたということでせうね。

 漢和辞典で記されているように「指四本分」は、日本独自の物差し感覚だったようです。

★「ふつつか」の角川古語辞典用例ですが、①用例の『宇津保物語』も②の用例『源氏物語』も平安中期の作品で、③④は近世のものであり、上代の用例がありません。だから、上代に、たばねる意味の「束」はあっても、「不束」ということばまでは、まだ派生していなかったけど、やがて「束」に「不」がついて「ふつつか」になった?!でも     

 えっ、「不」+「束」なら「ふつか」じゃね?と、戸惑います。

★ネットをググると、「ふつつか」は、「ふとつか(太束)」が変化したもののような説明がたくさん出てきます。「ふつつか」の角川古語辞典の①の意味とも整合性とれ、そうかそうか、そういうことかと納得しかかるのですが、  

★念のため、「太束」「ふとつか」で、古事類苑データベース、あるいは、「万葉集、ふとつか」とかでネット検索かけてみるのですが、全然、ヒットしません。

★「太束」は、推定の語源なんでせうか? こちらの検索力が低すぎるのでせうか? 

★因みに、新漢和辞典でみると「不束」は⦅国⦆つまり国字、日本だけの使い方ということですから、「不束」を漢文から学んだわけでもない。

 となると「ふつつか」は、「束(つか)」という上代からあることばに、大陸かぶれの平安インテリが「ノー残業デー」みたいな感じで「不」+「束」(ふつか)って言いだし(まあそれも相当無理な気はしますが)、語調を整えるのと、意味強調の作用働いて自然と「ふつつか」って言うようになった、なんて妄想もしてみるわけですが、

★まあ、「ふとつか」の証拠、痕跡さえつかめれば、一件落着なんですけど。とまれ、この点は、時間解決トレー入れです。

 

★ところで、角川古語辞典に「つかぬ」(ひとつにまとめてくくる)という上代語の見出し語はあっても、「つかむ」という見出しでは、上代語も中古語もなく、「つかみ」の見出しで、「つかみからげ(掴み絡げ)」などの近世の子見出しがいくつか挙がっています。

「つかむ」平家物語の「悪七兵衛景清錣引き(あくしちびょうえかげきよのしころひき)」の逸話で頻出確認できますので、中古~中世あたりで派生したもので、上代にはなかったということになるかと思うのです。

★『日本書紀』神代紀で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が「十握剣(とつかのつるぎ)」を抜いて軻遇突智(かぐつち)の体を三つに切った「十握剣」の「握(つか)」はまさに日本的な四本指の幅としての「握(つか)」なんでせう。
Jimdofree.comさんの浩瀚な古典現代語訳のなかの『古事記』神武記の「宇陀の血原(うだのちはら)」の段(武田祐吉先生の仕事が下敷き)で、

 神武の神攻に抵抗する地場勢力のエウカシが、ワナを仕掛けた建物を作って待っていると、エウカシの弟のオトウカシが神武側に内通してその秘密を漏らし、神武配下のオオクメ二人が、それを了解してやってきてエウカシを恫喝したうえで、太刀を掴んで振り回し(?)、矢をつがえて、ワナを仕掛けた建物にエウカシ自身を追い込むのですが、

 その原文が

 「即横刀之手上 矛由氣 矢刺而 追入之時」。

 「即握横刀之手上」部分の武田祐吉先生の書き下しは「横刀(よこたち)の手上(たがみ) 握(とりしばり)」となっています。

上代に、「つかむ」という言い方はなく、「とる」(⇦漁の「すなどり」とか)「しばる」という言い方ならあったのだから、古事記で使われている「握」は、つかむ意味なら「とりしばる」と読むしかあるまい!と、武田先生もお考えになられたのか、定かではないんですが。

 いやあ、なんか強力な正規軍が到着したような、欣喜雀躍状態です。