老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

『徒然草』第1段 前半(読み納めシリーズ)

3)第1段 要旨 前半

 まず最初に兼好は、自分がこうありたいと思う人物像というものを挙げていきます。 

 それは同時に、兼好の皇室崇拝、高貴趣味、対する下位の人間への評価の低さ、勢い激しく名声に執着する僧への嫌悪、それに相対させた隠遁僧への高い評価などに披瀝でもあります。

 

0)前置き

以下の4点を参照しつつ『徒然草』を読んでいます。

旺文社文庫『現代語訳対照 徒然草』(安良岡康作于訳注/1971初版の1980重版版) 
②ネット検索                                                                                                                  

③『角川古語辞典』(昭和46年改定153版)
中公新書兼好法師』(小川剛生著・2017初版の2018第3版)

 

 

2)第1段 本文 前半

 いでや この世に生れては、ねがはしかる べき こと こそ 多かめれ。みかど の 御位は いとも かしこし。竹の園生 の すゑばまで、人間の 種ならぬぞ やんごとなき。

 一の人 の御ありさま は さらなり、たゞ人 も 舍人 など たまはる きは は ゆゝし と 見ゆ。そのこ うまご までは はふれ に たれ ど、なほ  なまめかし。

 それより下つ方 は、ほど に つけ つゝ 時 に あひ、したり顏 なるも、みづからは いみじ と思ふ らめど いと口をし。

 法師  ばかり うらやましから ぬ ものは あらじ。「人には木のはしのやうに思はるゝよ」と 淸少納言 が 書けるも、げに さること ぞ かし。

 いきほひまう に のゝしり たる に つけて、いみじ とは 見えず。增賀ひじり の いひけむ やう に、名聞ぐるしく、佛 の 御をしへ にたがふ らむ とぞ 覺ゆる。

 ひたぶる の 世すて人 は、なかなか あらまほしき かた も あり なむ。

 

3)第1段 訳文 前半

 いやまあこの世に生まれたからには、願わしく思うことは多いものだろう。皇室の地位などというものは大変に畏れ多い。皇族の子々孫々に至るまで(我々と同じ)人でないことが特別のことなのだ。

 【皇族崇拝】 

 

 摂政・関白のご様子などいうまでもない。摂政・関白以外の貴族の方々でも(天皇や皇族の雑事を司る)舎人(とねり)などを仰せつかっているご身分は憚られるほど立派に見える。その子や孫は、零落れたとしても依然として優美だ。

 【高貴好み】

 

 それより身分の低い方々は、それぞれの身分に従って時流に乗り得意顔であっても、自分では素晴らしいと思っているかもしれないがどこか物足りない。

 【下級見下し】 

 

 法師くらい、そうありたいと思わないものはない。世の人々には木片のように思われるものだと清少納言が書いたのもなるほどそのとおりだ。

 【法師嫌い】

   

 勢いが盛んで、でかい声で騒ぎ立てるやつなど、凄いとは思えず

 【権勢嫌い】  

 増賀聖が言ったように世間的名声を夢中になって追い求めているようで

 【権勢欲嫌い】

 仏の教えから外れているんじゃないかと思える。

 【仏道崇敬】

   

 まっすぐで無心な遁世者というものはかえって望ましい場合もあるのではないか。  

 【遁世隠者崇敬】

 

4)ことばとか あれこれ

 

〇竹の園生(たけのそのふ) 

 < 親王。皇族。「たけのその(竹の園)」とも。▽中国の漢代、文帝の皇子の梁(りょう)の孝王が、庭園に竹を多く植えて、「修竹苑(しゆうちくえん)」と名付けた故事による。 >(Weblio「学研全訳古語辞典」)

 < 孝王(-BC144)は、前漢の文帝の子で、文帝を継いだ景帝(BC188-BC141)は、同母兄。孝王は、呉楚七国の乱(中国前漢の紀元前154年に、呉王ほか七国の諸侯王が起こした反乱。漢の宗室である劉氏同士の内乱) >(Wikipedia

 で、大いに活躍し、兄に気に入られたものの、兄の取り巻きらに阻害され、景帝の後継は遂になれなかったたようです。

 そういったエピソードも含めて我が国のインテリらに知られた話だったのだと思います。

★いまのように科学的な学問とか情報通信システムとかなかった時代の人々の知識の源泉は、先人・故人の記述、記録、それから云い伝えなどだったと妄想するのです。

 昔の人たちにとっての古典や云い伝えというものは、現代人と桁違いに、識者を自認する人々にとっては、踏まえておかねばならない「知識」そのものだったと。

 たとえば、所沢(埼玉県)にある「まいまいず井戸」や「堀兼井」(このふたつは近くにありますが別物です)を、著名な歌人らが和歌に詠んでいたりするのは、当然ながら実際の知見があったからではなく、そういうもんなんだという「まいまいず知識」「堀兼井知識」が、歌に詠まれたり、口伝(くちづて)に情報が語り伝えられていたからだと思うのです。

 昔の人の「古典・伝承」コスモスへの参入情熱は、現代人が想像する何倍ものエネルギー量で、(いまでいうと法律を目指す人が法体系とか判例集みたいなもんを知り尽くそうとするようなもんだったんじゃないかと思うのですが)それが中國での「科挙制度」や、日本での「有職故実」熱のエンジンだったろうと思うのです。

 現代の国語の授業における「古文」と「漢文(まだやってんですかね?)」の「漢文」は、そういう情熱の現代まで届いた彗芒のようなもんだった、というような気もするんですがどうでせうね。    

 

〇人間(にんげん) 

 人間は、角川古語辞典では、「にんげん」の読みのみで、意味は、「①この世、世間 〔仏説〕人間界 ②ひと」となっています。当然ここでは「②ひと」の方でせうけど、本来は「①この世、世間」のほうだったように思われます。

★「人間」ということばの使われ方を「古事類苑データベース」でざっと見たら、古くは肥前風土記奈良時代)の大伴狭手彦(おおとものさでひこ)と弟日姫子(おとひひめこ=佐用媛)の伝説の中の「鏡渡り」の部分で、佐用媛(さよひめ)が絶世の美女であると「特絶人間」と表現されている。「特に人間には絶する」とでも読むのかよくわからないですが、ここでの「人間」は「①この世、世間」の意味の方でせう。

 古事類苑検索での、奈良時代はそれくらいで、あとは「三大實禄」とか「本朝世紀」とかの平安時代中・後期以降でちらほらし、鎌倉時代のものでどっと増える感じ。(あくまで「ド素人」のざっくり検索ですので夜露死苦!)

★ここで自ずと思い浮かぶ「人間(じんかん)到る処青山有り」は、中国の漢詩だと思っていましたが、「 幕末の僧・月性(げっしょう)の詩『将まさに東遊せんとして壁に題す』の末尾の一句」(コトバンク 出典 「故事成語を知る辞典」)なのだそうです。だから「じんかん」という読ませ方は、ことさらの漢文調みたいな読ませ方だったのかもしれません。

 

 

〇舎人(とねり) 

◆角川古語辞典によると、「とねり【舎人】」名

 意味:①天皇、皇族に近侍し雑用を司った人(用例:徒然1)   

 意味:②牛車の牛飼、馬の口取り (同:宇津保・俊蔭)」とあり、

 

◆古事類苑データベースによれば、

 日本書紀の仁徳紀に「近習舎人」とあり、角川古語辞典①の説明と符合。日本書紀では「允恭記」などにも、天皇側近として舎人「中臣烏賊津使主」が登場します。

 しかし時代が降った「源平盛衰記」(鎌倉中期)となると、九郎判官義経の前に進み出た牛遣いの小三郎丸は自分のことを「舎人牛飼トテ下﨟ノハテナレバ」と卑下して話す。角川古語辞典の②の説明どおりとなります。

 舎人ということばは、「上臈」ということばがやがて「女郎」へと変質していったような高貴から下賤への道筋をたどったことばの一つなんですね。

★ならば、その「舎人(とねり)」の語源は何か?ですが、

 「殿寢」か「殿ゐ」かわかりませんが、「殿」がらみに違いないと推測するのですが、定かではありません。「未決トレー」置きです。

 

 

〇ゆゆし 

◆角川古語辞典の説明は、形シク(形容詞シク活用)

  意味:①忌はばかられる。慎まれる。おそれおおい。(用例:万3603) 

  意味:②不吉だ。縁起が悪い。(同:源氏・紅葉寶) 

  意味:③一とおりでない。はなはだしい。(同:平家10) 

  意味:④立派だ。あっぱれだ。(同:浄瑠璃・夕霧)となっている。

 ここでの意味は①の「忌はばかられる」でいいでせう。 

◆因みに①の用例の『万葉集』3603の歌は

 「青楊の枝伐り下ろしゆ種蒔きゆゆしき君に恋ひわたるかも」。

 この歌の解説を<たのしい万葉集さんのサイトから引用します。

< 原文:安乎楊疑能 延太伎里於呂之 湯種蒔 忌忌伎美尓 故非和多流香母」 

  作者:遣新羅使(けんしらぎし) 

  よみ:青楊(あをやぎ)の、枝(えだ)伐(き)り下ろし、ゆ種(だね)蒔(ま)き、ゆゆしき君に、恋ひわたるかも 

  意味:青楊(あをやぎ)の枝(えだ)を伐って(田に挿し)、清めた種を蒔くように、恐れつつしむべきあなた様に恋し続けることです。

 田に青柳を挿すことで、苗がしっかりと根を張って順調に生育することを祈ったそうです。「ゆ種」は豊穣を祈って清めた種籾(たねもみ)のことだそうです。>(引用以上)

◆原文を見ると、「忌忌」で「ゆゆしき」と読ませているのですね。それにしても「ゆ(忌?)」とは、どういうことばなんだろうか? あらためて「ゆ」のつく「上代ことば」=『万葉集』用例や『記紀』用例をもつことば=を角川古語辞典で追うと、これがやたら多いんです!「ゆ」には、上代がいっぱい詰まっています。

 そのいちいちを書き連ねていくと、長たらしくなるので、ざっくりどんぶり勘定圧縮しますと、

 「ゆ」は「湯」であり「清浄」なものであり「清め」の源泉であり「神聖さ」の源泉であり、「沸き」たつ「動き」であり「ゆれ(揺れ)」「ゆくら(揺れ動き)」であり、「ゆき(行き)」「ゆつる(移動する)」「動き」の源泉であり、湧き上がる「ゆたけしさ(豊かさ)」の源泉でもある。

★もしかしたら「ゆ」はひとつのエネルギーそのものであるから「ゆ(弓)」は、「ゆき(「ゆ」の木)=「矢」」を鋭く移動させ、生き物の命をしとめることができるのかもしれないし、「ゆっ(結)」たり「ゆるし(緩し)」たりするパワーを発揮するのかもしれない。

 だから、上述のように「ゆ種(ゆだね)」は「清めた種」という解釈が専らなのですが、なぜ「清める」かというと、雑菌除去とかではなく「エネルギー注入」のためであり、「ゆ種」は「豊かさを祈り籠めた」「豊かな種」そのものであったんじゃないかと思う次第です。

 

〇なまめかし 

◆「なまめかし」(形シク)は、角川古語辞典では、

 意味:①みずみずしい。若々しい。新鮮だ。(用例:源氏・若菜・下)(同:枕・208) 

 意味:②優美だ。優雅だ。(同:源氏・賢木)(同:徒然・16) 

 意味:③なよやかだ(同:枕・284) 

 意味:④色めかしい。艶っぽい(同:浄瑠璃・反魂香)

 と説明されています。

平安時代(中古時代)に、若々しさ、瑞々しさ、新鮮さを源とする感性が感得され、同時に優美さ、優雅さ、それが高貴さにまで高まり、やがて清新さを減じて、なよなよした感じも生まれ、王朝感の薄れた近世に到ると艶っぽさの方へと移り、強められてもいった、というような理解でいいのでせうか。

★では、中古以前はどうかというと、

 上代に「なま」のつくことばは少なく、「なまじひ」(形動ナリ)と、枕詞の「なまよみの」くらい。

◆「なまじひ」形動ナリ は、角川古語辞典では

 意味:①押し切ってするさま(用例:万・613) 

 意味:②中途半端だ(同:平家・1) 

 意味:③好まないのにされる、しなくてよいのにするさま(同:源氏・若菜・下)」

 とあります。

上代の「なま」は、空気が読めず垢抜けぬ、無骨で鈍重なさまをさしたことばで、「なまよみ」という訛って喋ることをいうのも、明瞭さを欠いた、どんくさい言葉使いのことを言っていたようです。 

 上代の「なま」が、中古時代の「なま」と真逆のようなことばだったとすると、一体、中古時代の若々しさ、新鮮さをいう「なま」は、どうやって生まれて来たんでせうか?不思議です。

どんくささの中にある朴訥さ素直さ、幼児の中にあるういういしさ、瑞々しさのようなものに、比較的温暖な気候であったといわれる平安時代の"ゆとり"が、気づかせていくことになったんだろうか、などと空想するのですが、全然定かではありません。これも「未決トレー」置きです。

 

〇法師ばかりうらやましからぬものはあらじ  

 「法師」ということばは、小川剛生先生の『兼好法師』の最重要語のひとつなんじゃないかと思います。

 兼好自身が法師でありながら、ここで、いきなり、法師なんか全然うらやましくない、と書いたのはなぜか? 

★『兼好法師』(13p前後)を読めばわかりますが、「法師」というのは、ざっくりいうと、六位以下の数に入るようで入らないような侍品の、しかも、出家しながらもその世界で特筆すべき実績もない「凡僧」を指していう言い方で、かつそれは、勅撰和歌集などの作者表記上の伝統の考え方でもあり、法師は「おおっぴらに集をかざる存在ではなかった」らしいのです。

★兼好から300年くらい前に清少納言も蔑みつつ「でもそれも昔はそうだったけど最近はそうでもないわよ」と書いていたのでしたが、その遺風・通念は続いており、兼好は、その「伝統」に則ったと考えていいのでせうか。

★しかし、数に入るようで入らない存在は、逆にいうと位階・身分からはずれた自由を身に帯び、それが、里内裏(さとだいり)ではあるものの、兼好の高貴好みを満足させる内裏光景を兼好に裹頭(かとう)姿で瞥見させて『徒然草』に反映させたり、また、高師直(こうのもろなお)ら室町幕府要人との接触など、実は、兼好の人生を非凡ならしめた通行手形のようなものだったというようなあたりが、小川先生の『兼好法師』を読む醍醐味部分でもあります。

 

〇いきほひもうにののしりたる  

 この「勢いまうに・・」の部分は、実は、上に訳したような、一般的、抽象的な意味だけではなく、1319年正月(兼好36歳頃)に起きた、東大寺の僧徒の訴訟騒動、同年4月の比叡山宗徒の三井寺焼討といった"戒壇建立にまつわる名聞争い"の社会的な事件を踏まえていたらしいと、安良岡耕作先生の補注[2]にありました。学者さんはさすがです。

 ネットにあった鎌倉年代記http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/  nendai.html さんの1319年の記事なども、詳細まで理解できていませんが、その当時の騒ぎ具合が伝わります。

★今もそうですが、度を越した騒動や事件(寺の焼討等)などは、社会的な公然の論議対象となるわけで、兼好の批判的なスタンスもその空気感だったんだろうと想像します。

★実は、三井寺焼亡の件は、86段にも登場しますが、事件そのものを正面から問題にするのではなく、だいぶ「外して」書いてます。世を騒がすような問題に下手に関わらない、下手な論評は避けるというのは、昔も今も変わらない世間で生きる人間の知恵のようです。

★"戒壇建立にまつわる名聞の争い"というのがどういうことなのか。宗派間の考え方とか立場とか、何がどうなってそんな激しい抗争騒ぎになっているのかなど、明らかにできればいいのですが、それは読書感想文派の手に負える内容ではありません、関連のWiki記事を読みまわるのが精一杯なんですが、ただ、思うのは、突き詰めて言えば「食うため」なんだろうな、ということです。

平安時代から鎌倉時代に起こる数々の「乱」とか「変」とか言われる事件の大半は、働かざる(不耕貪食の)人たちが、喰うに困ることがなくなるための、荘園(土地)や家督(財産)やその権利などの争奪戦なんですね。皇族の中でも、公家の中でも、武家の中でも、どこでもここでも、そのために親子、兄弟、親族間、家筋、流派、宗派の間で繰り返される、血で血を洗う争いを「歴史」とか言ってるようです。

★そして、耕さない「僧」たちにとっても、「寺」とか「戒壇」とかいうのは、単なる立派さの象徴などではなく、官寺であればその看板に荘園が付与されるなど、食っていく装置そのものなんで、誰がその権利を握るかは、死活問題、必死にならざるを得ない問題だったようなんですね。

★兼好は員数に入らぬ「法師」の位置からそれらを斜に見ていた。そんな想像をするわけであります。もちろん定かではありません。

 

〇増賀聖(ぞうがひじり) 

 そういった「名聞ぐるしい」法師らに対置させる存在として記された遁世僧・増賀聖とはどういう人なのか? 

 増賀上人は、平安時代の前期後半(10C)を生きた天台宗(時の権力に随伴する総合大学、今で言えば東京大学みたいなところ)の僧で、「奇行」で有名だったようです。

★安良岡先生は、上人の人となりを伝える話として、補注[3]で『発心集』(鴨長明が編んだ仏教説話集)第一(5)の「多武峯増賀上人遁世往生ノ事」にある話を紹介しています。

 それは、増賀聖の師の僧正良源が、大僧正の官位を授かった礼を宮中で行う祝いの儀式で、増賀上人は、鮭(魚の干物)を刀に見立てて腰に差し、痩せ牛に乗り行列の先を行ったりしたあと、「名聞こそくるしかりけれ。かたゐ(乞食)のみぞたのしかりけり」と言って、師の権威にすり寄る姿勢に疑義をとなえたという話です。「名聞くるし」さへの非難にからむ好例ではあります。

 ただ、ネット検索すると、『宇治拾遺物語』の別の話もあります。こちらは、三条大后(さんじょうおおきさい)の宮(円融天皇女御)から、増賀上人が、出家の授戒の戒師として招かれながら、宮に向かって下品で無礼な話をしたり、帰り際、とんでもなく尾籠極まりない振る舞いに及ぶなど、むちゃくちゃな話になっています。安良岡先生が、『発心集』の話のみ紹介された心中を察するばかりなんですが、でも、なんでこんなトンデモ奇行親爺が、遁世の鏡と仰がれていたのか?

Wikipediaの「蔵賀(増賀上人)」の説明は分量少なくよくわからず、ネットをあちこち検索。

「料理旅館大正楼」さんのサイトの、奈良・多武峯(とうのみね)の奥の談山神社域(たんざんじんじゃ)にある増賀上人の墓「念誦崛(ねずき)」の独特さは、その造墓のイメージの由来への思い募らせます。

◆また「奈良・桜井の歴史と社会」さんの「増賀上人と談山神社は、上人の生涯(もちろん諸書にある伝承のまとめでしょうから事実かどうかはともかく)をまとめられていて助かります。

 その中に、増賀が32歳の時(948年)、夢に維摩居士(ゆいまこじ)が現れたことで、その後多武峯の地へ導かれたというような話があります。

維摩(ゆいま)は、古代インドの上人で在野の釈迦の弟子(Wiki)。聖徳太子が著したとされる仏典注釈書『三経義疏』の中で維摩の教えも紹介されているというのは日本史の参考書なんかにも書かれていたりしたかと思います。

★その維摩の教えについてNHKの「100分で名著」でも取り上げていましたが、それを見て、これは、ソクラテスなんじゃなかろうかとずっと気になっている存在です。

 自分は何らかの見識家だと自認・自負する人たちのメンツを潰し続ける維摩の姿は、ソクラテスそのものだと思うのです。

★紀元前4C頃(?)にプラトンらが記したソクラテスの話(因みにソクラテスは、紀元前5C後半の人。釈迦は紀元前7C~5Cと説は定まっていないそう)が、仏教世界にも伝わり強烈な刺激を与え、咀嚼され、紀元前1C頃から紀元後1Cのころにまとめられていく仏教経典の中に取り込まれていったんじゃなかろうか、というような妄想を抱くわけです。

 一つのTV番組見ただけでの思い付きを平気で語るのが、読書感想文派の面目躍如たるところです。トンデモ話の類です。夜露死苦

★三条大后の宮の出家は991年らしいです(Wiki)。『宇治拾遺物語』がまとめられたのは1212年~1221年頃(鎌倉中期初め)らしいです(Wiki)。まとめ始めの1212年からでも増賀の話は200年以上の前の話です。ほぼ伝説でせう(そこをちゃんと調べないのが読書感想文派ですが)。

 伝説が書かれるのは、強い思いや意図を、ざっくり伝えるためだと思うのですが、増賀の奇行伝説が言いかった強い思いを我田引水的に言うなら、増賀もまた本質において維摩であり、ソクラテスであった、ということではないでしょうか。

 その高さがあったからこそ、周りは遠慮なく、良からぬ尾ひれをつけて上人をおもしろおかしく語ったが、上人への崇敬が高まることはあれ、失われることはなかった、そんなような気がするわけであります。