老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

『徒然草』第6段(読み納めシリーズ)

1)第6段 要旨

 子というものはなくてありなむ、子供なんかいないほうがましだ、という奇異な話です。どういうこと?と気になります。

 そういう「子孫否定」の代表のように書かれてしまった面々の事績など追っかけてみると「子孫否定」を称揚するエネルギーの出どころのほうが気になっていきます。

 

0)前置き

以下の4点を参照しつつ『徒然草』を、下手の横好き読解しています。
旺文社文庫『現代語訳対照 徒然草』(安良岡康作訳注/1971初版の1980重版版) 
②ネット検索 
③『角川古語辞典』(昭和46年改定153版)
中公新書兼好法師』(小川剛生著・2017初版の2018第3版)

 

1)第6段 本文

 我が身の やんごとなからむ にも、まして  數 ならざらむ にも、子といふもの なくてありなむ。

 「さきの 中書王、九條の太政大臣、花園左大臣、皆 ぞう 絕えむ ことを 願ひ 給へり。染殿の おとゞも、子孫 おはせぬぞ よく 侍る。末の おくれ給へるは  わろき ことなり」とぞ 世繼の翁の ものがたり には いへる。

 聖德太子の 御墓を かねて つかせ 給ひけるときも、「こゝをきれ、かしこをたて、子孫 あらせじと 思ふなり」と 侍りける とかや。

 

2)第6段 訳文

 自分の身分が高貴であっても、それどころか、とるにたりないとしても、子どもというものは、ないにこしたことはない.

  【子孫否定】

 「さきの中書王(ちゅうしょおう=兼明親王)、九条の太政大臣(おおきおとど藤原信長)、花園左大臣(はなぞののひだりのおとど源有仁)ら、みな一族が絶えてしまうことを願われた。染殿大臣(そめどののおとど藤原良房)も子孫はいらっしゃらなくて見事でいらっしゃいました。子孫が衰退なさるのは不都合なことです」と、「大鏡」のなかで書かれています。

 聖徳太子のお墓を昔お築きになられた時にも「(墓相の観点から)ここ切れ、あそこは断て、子孫を残さぬようにしようと思うのだ」というようなことであったそうだ。

 

4)ことば とか あれこれ

〇中書王(兼明親王 かねあきらしんのう 914-987) 

 醍醐天皇の第16皇子(Wikiでは11皇子?)ながら臣籍降下(皇族が「源」などの姓をもらって一般貴族になることらしいです=実務的官職に就いての出世も可能になる)して、左大臣を務めた。

 天皇の皇子が左大臣にまでなられたので「御子左大臣(みこさだいじん)とよばれたそうです。

 しかし、円融天皇(えんゆう64代てんのう 第2段で登場の藤原師輔が義父=外戚)の時の関白・藤原兼通(かねみち)と弟の大納言・藤原兼家(かねいえ)の兄弟政争があって、そのとばっちりと、円融天皇も、臣籍降下した兄の源昭平(みなもとのあきひら)の皇籍復帰を願ったことのとばっちり、二重のとばっちりから、977年、源昭平といっしょに、兼明は望まない皇籍復帰をさせられ、左大臣をはずされ(=関白兼通が自身の相談相手である藤原頼忠(よりただ)を左大臣に就け政権を固めたかった)、名誉職である中務卿(なかつかさきょう)につかされた(=実務的な栄達が閉ざされた)らしいです。(※追記:円融天皇藤原兼家と同時代の人というわけですから兼明親王NHK大河ドラマ「光る君へ」のお父さんたち世代ということになるようです。紫式部は970~978頃の生まれと想定されているようですので、このとばっちり事件のころに生まれていたか、生まれるくらいだった、ということになりそうです。)

兼明親王は、この"とばっちり皇籍復帰事件"件に関する怒りを「菟裘賦(ときゅうふ)」という漢詩で表現しているらしいです(Wiki他)。

◆ということで、ネット検索し、天理大学学術情報リポリトジ于永梅先生の『「菟裘賦」における兼明親王の思想』pdf にたどり着きます。         https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/94/CGK002208.pdf   

 また、ざっくりドンブリ勘定要約すると、

 兼明は、老荘思想的な、名利栄達を超越した悠々自適の「遁世」の世界で深遠な道理を究めることを「宿志」として願うも、低劣な現実(兼道の横暴)に阻まれ、(老荘的な)天意に従うことへの疑念を絶叫!

 そこから、仏教的な、人の世、人の身のはかなさの解釈へと軸足移し、これに抗わず、主観を超えた、思慮分別の彼方にある真理への到達を望む境地に近づきながらも、実は、なお「宿志」への未練が捨てきれない。

 そういう往ったり来たりの思いが漂う詩賦のようです。

★だから、そういう懊悩に満ちた詩賦ではあっても、「ぞう絶えむ」願いなど、どこにも書いていないみたいなのです。これは、どういうことでせうか?

★「遁世」=「子孫否定」という不文律でもあったのでせうか? 

 兼明親王自身は、源伊陟(みなもとのこれただ)、源伊行(みなもとのこれゆき?)という二子を為していらっしゃるようです(Wiki)が。

※追記:『蜻蛉日記』中巻を読んでいたら、西暦970年、和暦では天禄元年の、八月十九日(Wikisource「国文大観」の原文だと(8月の)「十の日と定めてす」となっているのですが、大方の現代語訳や解説(ex,「『栄花物語』における藤原道綱像」川田康幸pdf)は8月19日となっています。それが何故かは理解できておりません。きっとそこを明らかにした考察があるのだと思いますがまだ到達できておりません。とまれ、天禄元年八月十九日は、西暦だと西暦970年9月22日らしいです〈国立天文台:日本の暦日〉)。この日、藤原道綱つまり、『蜻蛉日記』作者の可愛い可愛い一人息子(旦那の藤原兼家にとっては次男らしい)の元服式があり、その加冠役が源氏の大納言様=兼明親王なのでした。兼明の生年からすると56歳(今の言い方で)の年の一コマということになるかと思います。因みに道綱は15歳(同)です。NHK大河ドラマ『光る君へ』では、道綱母さんを財前直見さん、道綱を上地雄輔さん、兼家を段田安則さんが演じています。『蜻蛉日記』は、『枕草子』や『源氏物語』の親世代の日記ということになりそうです。で、兼明親王はお爺ちゃん世代ということになるようです。

 

〇九条太政大臣藤原信長 ふじわらののぶなが 1169-1206)

 藤原道長(みちなが)の二男教通(のりみち)の子。つまり道長の孫にあたります。くじょうのおおまつりごとのおおまえつぎみ/くじょうのおおきおとど/くじょうのだいじょうだいじん/くじょうのだじょうだいじん。などと読むそうです(Wikipedia)。まあ、実際どう呼ばれていたかは定かではないってことかと思います。 

 安良岡康作さんの補注によれば、昔は、藤原伊通(これみち=道長の玄孫世代)を九条太政大臣に当てることが多かったそうですが、「『今鏡』巻四の「はちすの露」にある記載によれば・・・信長を当てるべきであろう」と書かれいます。

★その「はちすの露」には、

 「又九條の太政のおとゞ、信長とておはせし、それもはかばかしき末もおはせぬなるべし」(また九条の太政大臣、信長とおっしゃっていらした方、そちらも際立ったご子孫もいらっしゃらないのだろう)

 という行があります。『今鏡』というよりは、世間一般の、一族、一門の栄こそがこの世の最大幸福という価値観感じさせます。それが話の筋を左右していそうな条でもあります。

★この信長さん、Wiki 等によると、出世の遅れでごねたりとか、教通父さんといっしょに、頼道(よりみち)叔父さんとした譲り合いの取決めを、父さんと一緒に無視して関白に就こうとして果たせなかったりとか、躓きの多い人のようですが、一族の繁栄に相当な執着をもち、「族絶えむ」と願ったのとは真逆の人ながら、しかし、その一門(教通流)が衰えたことも知られたことだったようです。

 そういう結果から、一方的に、「族絶えむ」ことを願った人にされてしまった?恐ろしい。

 

〇花園左大臣源有仁 みなもとのありひと 1103-1147)

 「花園左大臣」の呼称は、第1段後半の、ことばについての説明の中の「有職」で、Wikipedia からの「有職故実」説明を長々引用した中にも出ていたのですが、院政期にこの源有仁さんを祖として『縁戚の徳大寺実定・三条実房が完成させた花園流(閑院流系)』に因むものです。

 この方の没年1147年は、源頼朝生誕の年です。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代の前夜に亡くなった方。頼朝さんらのお爺ちゃん世代になるのでせうか。

 後三条天皇の第三皇子・輔仁(すけひと)親王の第二皇子。父の異母腹の兄になる白河院(つまり伯父さん)の養子にされ(皇位継承候補にされ)ながら、

 白河院孫の鳥羽天皇に子ができると、臣籍降下させられ(皇位継承からはずされ)、白河院は、その償いにか、有仁を無位からいきなり従三位(いわゆる雲上人)で位階スタートさせ、その後、有仁は、従一位左大臣までトントン拍子に出世します(Wikipediaベース)。

 容貌に優れ、光源氏にたとえられ、衣裳に凝って鳥羽上皇と競い合い(同い年)、詩歌の才、音楽の才に優れ、ことに琵琶と笙に長じた。邸宅には人の出入りが絶えなかった(コトバンク)。

 今言うところのパリピな人のような説明で、Wikipedia 読んでも、コトバンク読んでも、臣籍降下以降は、順風満帆そのもので、どこから「ぞう(族)絶えむ」ことを願う話になるのかと、訝るのですが、また、『今鏡』にそれが書かれていると、安良岡康作さんの補注五に書いてあります。  

★『今鏡』(1170年頃以降成立?)をWikisourceで見てみると、第八章四段「月のかくるる山の端」に、確かに「(栄達のほどが)それほどでもない子孫になっていくのは(血脈の?)本意ではない」(から子孫はないほうがいい)というような考えを有仁が述べたというようなことになっているのですが、

 それは実は、ともに後三条天皇(藤原摂関家と対立した人)の子でありながら、藤原氏系の妻を持った白河院と、村上源氏系の妻を持った有仁の父・輔仁親王(自らも摂関政治と闘った後三条は当然こっち推しだった)との長い確執・因縁のもつれ合い問題がそこにあるようです。

◆ネットに上がっている(おそらく金沢工業大名誉教授の)藤島秀隆先生の『花園左大臣有仁の説話をめぐって』というPDFが詳しく教えてくれます。

Wiki等の記事等まぜながら、ざっくりドンブリ勘定要約すると、

 有仁の父・輔仁も白河院皇位継承のハシゴをはずされて失意のうちに没し、有仁もまた、父を追い詰めた、おなじ同じ白河院にハシゴを外され、一般貴族にされる(16歳頃?)。

 白河院は親子2代への不実の負い目からか、有仁の一般貴族としての位階昇進は強力にバックアップ。有仁もそれを背景に、とんとん拍子で出世栄達しつつ、その抜群の容姿、知性、ファッションセンスなどでも衆目を集め、世の中から時代の寵児のように思われていたようです。

 しかし、トラウマというのでせうか、内面は複雑で、特に左大臣になったあたり(34歳頃)から病気になっここともあり、また、自分が頼りとする人たちが次々に亡くなったり、源氏系の親戚筋の零落などもあったりするなどし、ああいったことになるくらいならと「子孫否定」的な境地にもなってしまった、というような次第のようです(あくまで伝承でせうが)。

★因みに、Wikipediaには、有仁さんの子として3女子と、藤原経実(つねざね)女(むすめ)懿子(いし/よしこ)が養子として記載されています。

★養子は、身分格上げのためにより高貴・高位な方の子となるなどあった由で、懿子の有仁猶子(資産継承のない養子)入りは、懿子がその後、後白河天皇親王時代(雅仁)の妃となったことを考え合わせると、そういった事情からだったかと拝察するのですが、定かではありません。

★ともあれ、男子はなかった。それが、「有仁には子がなくて、懿子を養子に迎えた」というような言い方もされるのかと思うのですが、3人の女子があったことを無いことのように語ることの意味が、いま、わかっておりません。

★後述のように、男子がなければ、男子を養子に迎えるという手もあったはずなのに、それをしなかったあたりに、ご当人が「子孫否定」を感じさせる、というのも、あるにはあるのでせうか。

源有仁という人の光と影ないまぜの人生はその通りだったんでせうけど、「子孫否定」は、先に見た兼明親王の「菟裘賦」に「子孫否定」のことばはないのに、「遁世」指向者=「子孫否定」指向者として一括りされていたのと同じようなパッションが、有仁の逸話を語る人たちの中にあって、そういうデフォルメ創作話が、説話に採取されたんでせうか。子もなさなかった、男子をあえて望まなかった風に。

★有仁没年1147年と『今鏡』が成立したとされる1170年頃(もっとあとという見方もあるようです)との差は23年しかなく、そうすると、『今鏡』の逸話は、同時代に広まっていた割とリアルな話の採取だったような気もしたりしますが、うーん、どうだったんでせうか? 

◆ネットに「『今鏡』における源有仁家の描き方 ―鎖連歌記事とその情報源―梅田径」(㈱新典社という出版社の「古代中世文学論考第34集」の紙面コピーのようです)というPDFが上がっています。

 タイトルの通り、『今鏡』に有仁のサロンで行われた連歌(くさりれんが)の光景が描かれている意味合いを考察するものですが、上述の、有仁の没年から20数年後世に出たらしい『今鏡』に、有仁サロンの情報提供をおこなったらしい「越後乳母(えちごのめのと?)」という有仁家の女房だった女性への考察があり、心踊ります。

 越後乳母は、有仁の死にも立ち会った人のようです。有仁と『今鏡』の距離感を考える上ですごく参考になります。

 でも、越後乳母の情報は、当然ながら、サロンの風景、見た限りの有仁の姿に限られ、政治面とか男社会での活躍の面とかには言及なかったようです。

 「子孫否定」などを越後乳母が語ったわけではないらしいのは当然のことでせうが。そうすると、結局「子孫否定」の逸話は、当時の風流人士の間の共通認識のようなものだったんでせうか? なかなか難しい話です。

★とまれ、源有仁と言う人は、この「子孫否定」の逸話だけでなく、実に多面的なテーマを抱え込んだ人だったようです。

◆ネットに上がっている京都府立大学学術報告『強装束について』(奥村萬亀子先生は、「強装束(こわしょうぞく)」(=有名な源頼朝図などに見られる、あの肩をいからせたようなパリっとした服装)の形と着装法の整備が、源有仁の創始とみなされているということを語られています。

 皇族(院政)と公家(藤原摂関政治)との争いに乗じて地歩を確かなものにしてきた武家勢力が、時代を根底から変えはじめた平安後期という時代変革期の中で、新勢力の過差(かさ=過度な華美)の風を吞み込み、それを上回って旧勢力の威信を示す「こわばって、ぱりっとした」新デザインの装束に身を包み、その着付け方とかもちゃんと整理した、今言う新進デザイナー的な存在。当時の人には、時代の変革そのものを感じさせる人だったようなのです。

 ビートルズとか、アンファンテリブルとか、なんかそんなふうな衝撃とか憧憬を掻き立てる人だったんじゃないでせうか。

 ★そのほかにも、「有職故実知識」のこととか、「蹴鞠(けまり)」のこととか(梅田径先生の文章に言及あったのですが)、源有仁という人には、この時代の変革の様相がぜーんぶ結び付けられているんじゃないかと疑いたくなるような様相なんですが、それは、この方の光と闇一体のような人生が、また「子孫否定」の思潮のほうからも格好の結び付け先だった、ということなんでせうか?

 

〇染殿大臣(藤原良房 ふじわらのよしふさ 804-872)

 藤原冬嗣(ふゆつぐ)の次男。平安時代第二世代?。父(冬嗣)の代以来の、嵯峨天皇夫妻からの贔屓と、それに劣らぬ自らの才覚で頭角を表し、

 ・承和の変(842年、良房の政敵として、橘逸勢(たちばなのはやなり)や伴健岑(とものこわみね)などが排斥された事件)や、

 ・応天門の変(866年、同じく判善男(とものよしお)らが排斥された事件)

 などを通じ、古代からの名族を斥け、皇族以外の"人臣"ではじめて摂政についた人藤原北家の全盛と、藤原氏による摂関時代の土台を築いた人として有名な人らしいです(Wiki)。そんな人が族絶えむことを願った???

★この人も、見栄えのよさ(類い希なく気高く、雅やかな身なり)で、嵯峨天皇から気に入られ、既に臣籍降下はしていた嵯峨天皇の皇女・潔姫(きよひめ)の降嫁をうけたりしたらしいです(Wiki)。

★そして、この人も子がなかったわけでなく、潔姫(きよひめ)との間に明子(めいし/あきらけいこ)を設け、後に文徳天皇となる道康親王に嫁がせています。

 しかし、男子は確かになかったらしく、世継の翁の物語=『大鏡』の良房の事績のあとの、良房没後の故人の死を悼み、偲ぶ部分で、

 「かくいみじき幸(さいは)ひ人(びと)の、子のおはしまさぬこそ口惜(くちを)しけれ」と嘆じられ、

 弟(良房)から追い越されてしまった時の兄さんの長良(ながら/ながよし)は、どんなにか辛かったことだろうけども、

 「その御末(すゑ)こそ、今に栄えおはしますめれ。ゆく末は、ことのほかにまさりたまひけるものを」

 と、その長良兄さんの子孫こそが、今栄えていらっしゃるわけでしょう、将来はなおいっそう栄えられるであろうことだよと語られています。   

★ちょっとわかりにくいですが、これは、良房が、男子がなかったために、兄の長良の子・藤原基経(もとつね 836-891)を養子に迎え、それが藤原北家、子々孫々大いなる繁栄につながったことを言っているらしいです。

★つまり、弟が生きている時は、弟の全盛時代で兄は後塵を拝したのだけど、結果的には、その兄さんの子が弟の養子に入ってその後の隆盛につながったから、結局いいとこは兄さんに持って行かれちゃったよねぇ。っていうニュアンスらしいです。

★藤原家の繁栄を導いたその基経と言う人がどういう人だったかというと、宇田天皇から関白に任じられる際、中国の古典に拠った天皇詔勅に難癖つけて、その詔勅の起草責任者であった天皇側近を罷免させた(阿衡事件)というようなそういう人です。そういう繁栄です。 

★とまれ、結果的に(たまたまといったほうがいいでせう)「養子」がその後の繁栄に幸いしたという話が「子がないほうがいい」話に曲解、仕立て上げられているというのが、良房における「族絶えむ」の真相のように思えるんですが、定かではありません。

 

聖徳太子(574-622)  

 あらためて、Wikipedia聖徳太子を見てみると、Wikipedia の記事後半に、1999年(前世紀末)に刊行された大山誠一氏の『「聖徳太子」の誕生』登場以降の「聖徳太子」の実態をめぐる論争が喧しかったらしい状況が記されています。

 それをはじめて知り、驚きました。

★それはともかく、あの聖徳太子までが「族絶えむ」ことを願った人だったってどういうこと? ホント? と、つい身を乗り出してしまいます。

★安良岡先生の、太子の脚注に「『聖徳太子伝暦』(推古二十六年の条)によったもの。「切れ」「断て」墓相(墓の造り様)によって、子孫の断絶を計ったもの」とあります。

Wikipedia によりますと、

< 『聖徳太子伝暦』(しょうとくたいしでんりゃく)は、厩戸皇子聖徳太子)の伝記の1つ。『聖徳太子平氏伝』ともいわれる。漢文,編年体の詳細な聖徳太子の伝記。全二巻。著者未詳。・・・>

< 東京帝国大学附属図書館所蔵の『太子伝傍註』に書き加えられた寛元2年(1244年)8月書写の菅原為長所持本の識語によると、「古本奥書云、延喜十七年(917年)九月、蔵入頭兼輔撰」とある。このことから藤原楢雪は本書の成立をこの延喜17年9月に藤原兼輔(かねすけ 877年 - 933年)によって編纂されたものが原撰本であるとしている。・・・>

< また、顕真の『聖徳太子伝私記』の記載などにより、現在の形になった年代を正暦3年(992年)とする説もある。・・・> 

< 内容は、欽明天皇31年(570年)太子の父である橘豊日命(用明天皇)が穴穂部間人皇女を妃としたときから始まり、敏達天皇元年(572年)の誕生、推古天皇29年(621年)2月の薨去までの太子の事績や関連事件を記し、さらに山背大兄王の事件や皇極天皇4年(645年)の蘇我入鹿の討滅までを、ほぼ年代を追って記している。

 聖徳太子に関する説話・奇談を集大成したような性格の伝記であり、その記事は必ずしも信用のおけるものではないが,後世の太子信仰に大きな影響を及ぼしている。一般の聖徳太子像は、本書を通じて形成されたものとも言える。 >(以上Wikipedia

★『聖徳太子伝暦』の原文と訳文がないかとネット探すと、原文は、国立公文書館デジタルアーカイブで、原本の写真画像がPDFで提供されています。現代語訳は、ネット探し回ったのですが、見当たりません。

★当該箇所あたり、意味の区切れに朱点打ってあり、レ点、一二点、上下点書き込んであるのですが、ボンクラなのでよくわかりません。たぶんむちゃくちゃ、でたらめな訳になっているかと思うのですが、「族絶えむ」の雰囲気が伝わればと。

「・不得到門戸説 (門戸説くに?到り得ず)                  

 今思捨此身命 (今おもわくこの身命を捨つると)                

 託生■〈微の字のル部分がロ〉家 (生を□家に託し??)            

 出入道 (出入りていわめ?)                           

 救済衆生是吾発心誓願 (救済衆生これわが発心誓願なり)             

 ■〈糸へんに璽みたいな字〉五百身 (五百の身を□って) 

 乃到彼岸 (すなわち彼岸にいたらん) 

 如何 (どうだ) 

 妃唾(?)涙啓曰 (妃は涙を流し言をひろめていわく?) 

 殿下之談 (殿下の語るところは) 

 非妾所識 (妾が理解できるところではありません?) 

 但悲殿下捨妾 (ただ悲しみます殿下が妾を捨てるとおっしゃるのを) 

 早以託生 (早く以って生を託してください?子を成してくだい?) 

 太子命曰 (太子いわしむ?)、

 吾雖託生 (われ生を託すと雖も?) 

 子何得留 (子(自分?)なんぞ留まるを得?) ???

 子悲早去 (子(自分?)早去を悲しむ??) ???

 今後両歳 (故に今後の両歳(ふたとせ)) 

 将化衆生 (将に衆生を化せんとす??)。

 冬十二月 

 太子命駕 (太子のみこと車にて行き?/太子車を命じ?) 

 科長墓處覧造墓者 (シナガの墓處にて墓を造る者をみそなわす?)  

 直入墓内 (じかに墓の内に入りて) 

 四望謂左右曰 (よもにのぞみて左右を謂いていわく) 

 此處必断 (このところをかならず断ち) 

 ■〈斤+支のような字〉處必切 (□のところをば必ず切る) 

 欲令應絶 子孫之後 (子孫の後を断つべからしむを欲し) 

 墓工随命 (墓のたくみ命じに従い) 

 可絶者絶可切者切 (〈たくみは〉断つべきは断ち、切るべきは切った) 

 太子大悦 (太子おおいに悦ぶと) 

 即夕旋駕 (すなわちすなわち夕方には駕をめぐらし) 

 歎謂妃曰 (歎きて妃に言うていわく?) 

 遥憶過〈過のような字だが少し違う?〉去 (はるかに過去を思いて?)??  

 因果相校 (因果それぞれ考ふるに) 

 吾未賽了(?) (われいまだ賽しえず?) 

 禍及子孫 (禍い子孫に及びて) 

 子孫不續 (子孫続かず) 

 豈云大咎 (どうしておおいなるあやまりといわないだろうか) 

 孔子遺教 (孔子が残された教えに) 

 無後嗣者 (後嗣のことがないのは) 

 為不孝矣 (不孝をなすかな) 

 吾為釈迦大聖弟子 (われは釈迦大聖の弟子たり) 

 豈為孔子 小賢弟子乎 (どうして孔子が、小賢しい者の弟子たらんや?)  

 妃含(?) 啓(?)曰 (妃は?めひろめてもうさく) 

 左之右之 依殿下命耳 (さともうとも殿下の命にのみ従いましょう) 

 三従之妾 (礼節をわきまえた夫人は) 

 更何異望 (さらに何の異なる望みがあろうか) 

 太子喜之 (太子はこれを喜んだ)」

★墓の中で、絶ったり、切ったりしたのは、子孫断絶をしからしむべく、墓相(陰陽五行的な?)を、整えたということらしいです。でも、ホントに聖徳太子がそんなことを言ったんでせうか。

★『聖徳太子伝暦』は、聖徳太子の逸話を集めたものだから、古い時代のものかと思うわけですが、既述のように、編纂開始人は、平安中期の公家・歌人藤原兼輔とのことで、10世紀を通じて成立していったとか言われているようです。先に見た、「菟裘賦」の兼明親王の生きた時代(914-987)とかぶってたりするわけです。(※付記:それはNHK大河ドラマ「光る君へ」の時代ともかぶっています。)

★あの王朝女流文学が花開いたその時代に、男たちの手では、聖徳太子の「族絶えむ」ことを願う太子像の伝記が集められていたわけですが、まあ、太子本人のあずかり知らぬ話ばかりだったんじゃないでせうか。  

★「伝暦」に、太子が釈迦大聖の生まれ変わりと言ったとかありますが、それはお釈迦様が家族を捨てて出家された話を言っているのだと思うわけです。

★もし釈迦の話も、説話・伝説のようなものだとすると、出家遁世ということばの中に潜む、現生の富、栄達の否定の類縁上にあるらしい、家族否定、子孫否定への情熱のようなものは、どんだけ古いんだと改めて思うわけです。

★『法華経』とか読み出すとすぐに「喜捨」の話になって(岩波文庫上巻29p)、最高のさとりに達するための最良の乗り物を得るために「ある人々は、自分の息子や娘たちを、愛する妻、自分の肉さえも贈る」とかの文言が自然に出て来て、〇〇センターに連れ込まれてわけのわからんビデオを見せられている青年のような当惑を覚えるわけです。

キリスト教においても「富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしい」(Wiki)とかいってるそうで、富については、似たようなことを言っているらしいですが、「子孫否定」の考え方まであるかどうかは確認しておりません。  

★そういう、私財・富貴への否定に傾けられる「情熱」の淵源は奈辺にあるのでせうか? 
★たとえば、縄文時代から弥生時代へみたいな、原始的な社会に富の集約時代が訪れた時の社会の混乱、矛盾への怒り、憎しみ、富への卑しみを、遺伝子の中に刻み込んだ人たちが居たってことなんでせうか。
★あるいは、「富」そのものというよりは、生活(生命)を脅かす事態への動物的、本能的な反応が、「行き過ぎ」としての「富」に果敢に反応しているってこととかだったりするんでせうか? 

★宗教や道徳というのは、そういう、人に備わっている社会安定化への本能的な心理作用が描いて見せる夢のようなドラマのようなものなんでせうか。

★であれば、なおさら、なぜそこで、家や妻子が放擲されなければならないのか? この段の奇異さは何も解明されていないですが、『徒然草』を読むと、いろんなことを考えさせられます。

 

〇やんごとなし

 角川古語辞典の説明では、

 ●「やんごとなし」形ク 

   意味:①打ち捨てておけない よんどころない (用例:後撰・恋・詞書) 

   意味:②一通りでない 特別だ (同:源・東屋) 

   意味:③たいへん尊い 高貴だ (同:後撰・雑・詞書) 

 とあって、そのあとに=やむごとなし やうごとなし やごとなし やごつなし とあります。
 で、「やむごとなし」形ク を見ると、「やんごとなし」に同じ。と書いてあります。

★以上の用例は、どれも平安中期(中古)ばかりで、「やんごとなし」「やんごとなき」というような言い回しは、上代にはなかったということになります。

★やっぱ「やんごとなし」なんて言い出したのは、平安王朝の貴族趣味のせいかな、などと、邪推するのですが、そうすると、③の「絶えることのない」皇統の・・みたいな用法だけで、ことたりるわけですが、でも、実際には、①のような、「(成り行きの始末がつかず)打ち捨てておけない」とか、「(事態を落ち着かせる先がない)よんどころない」みたいな、物事が「止まらない」的な用法が、同時にあるということは、貴族趣味ばかりの用法でなく、広く一般にも使われていたらしいと、思いなおすわけであります。

★で、このことばが、上代になかったなら、どんな風に、このことばが、生成されたのだろうと、このことばを改めて凝視し、語の構造を「やむ+ごと+なし」と、分解してみます。そして、

★「やむ」に近しい上代のことばを角川古語辞典で探します。 

 ●「やむ」【止む・息む・罷む】(用例:万・2815)、

 ●「やまひ」【病】(用例:万・1395)、

 ●「やみのよの」【闇の夜の】(用例:万・4436)、

 ●「やみしし」【病み猪】(用例:記・下)

 などのことばを拾い上げます。

 これらを見渡すと、「やまひ」も健康が損なわれた状態、止まった状態、「闇」は日の光も、月の光も途絶えた状態のような気がします(もちろん定かではありません)。

★つまり、「止む」「止まる」ことが、おおもとの意味だろうなと推定します。重ねて、定かではないですが。

上代から「やむ」「やまひ」「やみ(闇)」「やみ(病)」ということばはあったんだということだけは確認できます。

★念のため「やむ」を、角川古語辞典でみてみます。

 [1]自マ四(自動詞マ行四段活用) 

  意味:①続いていたものが絶える (用例:万・2815)  

  意味:②物事が中止になる (同:古今・雑・詞書) 

  意味:③病気が直る 癒える (同:拾遺・恋)  

  意味:④物事のきまりがつく おしまいになる (同:源・夕顔)

 [2]他マ下二(他動詞マ行下二段活用) 

  意味:①事を終りにする 中止する (用例:続紀宣命  

  意味:②病、癖などを直す (同:源・蜻蛉) 

★「絶える=止まる」「止める」が、やはり、古層の意味らしいです。くどいですが。 

 「止むことのない」もの。視線を上方に向けると、畏れ多い方々の「絶えることなき高貴な」さまがあり、視線を横方向に転ずると、仲間内の諍いとか、なかなか「やまない」成り行きに気を揉むし、美人に一目ぼれしてしまって「尋常じゃない状態がおさまらない」友人がいたりする。そういったことが「やんごとなき」ものとして、上代から中古へ時代が移ろう中で感得されていったということになるのでせうか。

★「やんごとなき一族」というTVドラマがありましたが、セレブな一族の意味と、ハラハラな一族の意味の両義で相応しいネーミングだったようですね。