老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

『徒然草』序 +前置き(読み納めシリーズ)

0)前置き

 以下の4点を参照しつつ『徒然草』を読んで行きます。

旺文社文庫『現代語訳対照 徒然草』(安良岡康作訳注/1971初版の1980重版版) 
②ネット検索                                 ③『角川古語辞典』昭和46年改定153版)
中公新書兼好法師』小川剛生著・2017初版の2018第3版)

★本棚の奥に①安良岡先生の現代語訳本があったのを、老いの読み納め活動の一環として読み始め、②ネットで検索しまくり、③でことばを確認しながら読み進めていたのですが、そのうちに、④の小川剛生先生の本が最近出て、話題になったらしいことを知りAmazonで取り寄せ読むと、これがもう、いろいろと目から鱗で、ならばこれを、最新の知見とみなし、安良岡先生の本を旧来からの読み方として、対照させつつ、ネットをググりまくって、自分なりに楽しもうというようなスタンスです。

★実は、小川剛生先生は、『徒然草』の訳本も出されています。それはまだ読んでいません。この「読み納め『徒然草』」の作業を終えた後読んでみたいと思います。

 たぶん、この「読み納め」に、✖点をつけなきゃいけないところがいっぱい出て来る気がします。それも楽しみです。

  

1)序 本文

 つれづれ なるまゝに、日ぐらし 硯にむかひて、心にうつりゆく よしなしごとを、そこはかとなく 書きつくれば、あやしうこそ ものぐるほし けれ。

 

2)序 訳文

 思いつくまま、終日硯に向かって、心に浮かんでくるとりとめもないことを当てどなく書いてみるとなんだか奇妙で変な気分だ。

 

 

3)ことばとか あれこれ

 

つれづれなるまゝに 

 「つれづれ」って感覚的にはわかるんだけど、説明しようとすると言いよどむことばのひとつだと思うのです。

  

 角川古語辞典では、 品詞的には、名詞と形動ナリ一体です。

「つれづれ」名・形動ナリ

 意味:①することがなくてぼんやりとしていること。手持無沙汰でたいくつなこと。用例:「—わぶる人はいかなる心ならむ。紛るる方なくだた一人あるのみこそよけれ」(用例:徒然草75段) 

 意味:②しんみりとして物思いにしずむさま。物を思い続けてぼんやりしているさま。用例:「ひとり寢は君も知りぬや—と思ひ明かしのうらさびしさを」(同:源氏・明石)

 

★語源的にはどうなんでせう。(こっから読書感想文派のかなり妄想的手法です。)

 角川古語辞典での見出しで「つれ」のつくことばを探します。なおかつ、万葉時代=上代奈良時代以前のことばを探します。

 

「つれなし」形容詞ク活用 があります。

●意味:①縁がない、関係がない。用例:「片よりにわれは物思ふ—きものを(万葉集2247

●意味:②無常だ 薄情だ。用例:「かの空蝉(=人の名)の、あさましくーきを」(源・夕顔)

●意味:③平気だ。何食わぬ顔をしている。あつかましい。用例:「—くてうちうちに忍び給ふかたがた多かめるを」(源・紅葉賀)

●意味:④なんの変りもない。無事だ。用例:「雪の山—くて、年もかへりぬ」(枕・83)

 

★「つれづれ」の意味:①の用例は『徒然草』からで、鎌倉時代(中世)でした。意味:②の用例の『源氏物語』は平安時代(中古)でした。なので、万葉集上代)の用例を持つ「つれなし」の方がより古くからあることばになると、勝手に妄想します。

 そのうえでいうと、「つれなし」の「つれ」は「縁」とか「関連」とか「係累」とか「しがらみ」みたいなことと、また、独自妄想します。

 

★「つれづれ」は、万葉・奈良時代のそういう「縁」「係累」感覚を土台に、「つれづれ」②の関連するものごとへの思いに沈みこむ感覚平安時代)、「つれづれ」①の物思ひする姿にフォーカスし、何もしていないように見る、無聊をかこっていると見た感覚のことば(鎌倉時代)へと、より軽い意識のほうに時代を移ろわせてきた、と妄想します。

 

★因みに「つれなし」の②は、無常だ、薄情だ(源・夕顔)と「しがらみ」に取り合わない姿を責める? 方向の意味合い、また③は、平気だ、何食わぬ顔をしている、あつかましい(源・紅葉寶)と、「しがらみ」に頓着しない意味合いとなっています。

 ④は、なんの変りもない、無事だ(枕・83)は、「しがらみ」を振り切って泰然自若たる様の意味のように思えます。 

 

★よって、「つれづれなるまま」は、そういった、思索のネットサーフィンみたいな、ある思ひからまたある思ひへとあてどなく移ろうような状態を想像します。

 

★ところで、安良岡康作先生は、脚注で、「何かをしようにも、することがない状態をいう。漢語の『徒然』に当る。書名もこの語に由来する」と書いておられます。

 「つれづれ」の角川古語辞典の①の意味での解釈ということかと思います。つまり、兼好は若干自虐的な意味合いも込めていると・・。

 

Weblio白水社「中国語辞典」で見る「徒然」は、

 1.形容詞 むだである、むなしい 

 2.副詞 ただ・・なばかり というふうにあって、

 たしかに、無駄さ感にウェイトのある意味合いのようです。

 兼好本人が「徒然草」という書名を実際書いて、ペダンチックにこの漢字を利用したということはあったかと思います。また確かに、意味合い的には、無聊かこちの気まぎらわしだよと、そういう意味を込めたというのはあったかと思うのですが・・・、

   

あやしうこそものぐるをしけれ  

 人はエッセーを書くと、とかく「肩の力を抜いて読んでください」みたいなメッセージを書きたがるもんだと思います。

 肩のはったもんじゃありませんよと呼びかけるような謙遜・恐縮と多少の矜持ないまぜの心持ちでしょうか。

 兼好も『徒然草』を書き終わり、もしくはある程度書き溜めた段階でこの「序文」を書き出し、おそらく、先づはそのような心持ちになったのではないかと思うのです。

 「つれづれ」「よしなし」「そこはかとなく」といった文言がそれを感じさせます。 

 でも、

 「・・・そこはかとなく書きつくれば」まで書いて、そこで自分の心持ち振り返った時に、「なんとなく奇妙で、変な気分だ」と書いた。

 「お気楽な文章ですよ」のまま締めることができなかった。そんな感じでしょうか。通読後はなんとなく分る気がします。

 「つれづれなるままに」は、あっちこっちに気持ちがさ迷って収拾がつかなくて、本人も参っているみたいな意味合いも十分に含まれていたように思う次第であります。