老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

しがらみすぎない、ちょうどいいきずな あるんじゃね

 

  老齢脳天気シリーズ  

 

1)『徒然草』第20段

 

 なにがし とかや いひし 世すて人 の、この世の ほだし もたらぬ身に、

 たゞ 空の なごり のみ ぞ をしき といひし こそ 誠に さも おぼえぬべけれ。

 

     『誰それとか言った遁世者が、

 

       「この世の(世間の人々との)しがらみとか

        持っていない身には、

        とにかく、空(を見上げては感じられるこれまで)の

        余韻ばかりに心が引かれるものだ」 

 

      といったことこそ

      ほんとうに そうだろうと 

      思われるものだ。』

 

 

2)突然『徒然草』の20段訳ですが

   

  「空のなごり」を意訳しすぎだろうと

  感じる向きもおありかと思いますが、

 

  前段の第19段に、元旦の明け方に感じる、

  前夜、大みそかの騒ぎの余韻を、

  「年のなごり」と表現しているので、

  その用い方を兼好は踏まえていたろうと

  想像しているわけであります。

 

  が、書きたかったのは

  空の「なごり」ではありません

 

 

3)「ほだし」は「きずな」でもあった

 

  「ほだし」は、角川古語辞典によると

  漢字は「絆」なのだそうです。

 

  意味は

 

     ①馬の足にからませ歩けないようにする綱

     ②人の身を束縛するもの。障碍となるもの。

     (同)きづな 

  

  「きづな」を引いてみてもほぼ同じ内容が書かれています。

 

  「きづな」は、おそらく「木綱」で、

  馬の足にからめても切れないような、

  植物繊維の糸から作った綱でなく、

  木蔦(キヅタ)とかで作った綱を言ったのでせう。

 

  野生の馬を捕まえて家畜化するということを

  5Cに渡来人たちが日本に伝えた時に

  いっしょにレクチャーされた文化だったんでせうか。

 

  「ほだし」が外来語で、

  その和語が「きづな」だった?

  古代語の「ミネルバ・サイエンチア」さんの動画とかに

  なんか情報ないか探してみたいです。 

  

 

4)「きずな」は人情のしがらみ

 

  「きずな」は、

  人と人とのつながりを象徴することばです。

  でもその語源は「しがらみ」だったわけです。  

 

  人間関係が希薄になった社会は

  1950年代、60年代、70年代に

  会社や工場で働くため村から人々を引きはがし

  都会に住まわせるために都会で形成されました。

  

    (もちろん、淵源がそれではなく、漱石先生が『明暗』で

     妹役に「兄さんは間違ってます」と言わしめた

     近代の知性そのものが、村的なものの否定エンジン

     そのものでだろうとは思います)

 

  食って、浴して、寝て、起きて

  会社や学校へ出かけるための

  ベースのようなものとしての団地や

  文化住宅が都市部でがんがん造られました。

 

    (以前、田無市にあった文化住宅に入った時、

     自分の福岡の地方都市にあった文化住宅

     そっくりだったので感動した記憶あます)

 

  村から離れることに悲しんだ人々もいましたが

  人付き合いの面倒でうっとおしい村から

  逃れ出る喜びが優ったお上りさんも沢山いました。

  (ほっこりもまさにその一人です)

 

  前近代から現代への最終脱皮が

  50年代、60年代、70年代、80年代に行われたのです。

 

 

5)「良き面」と表裏一体の「悪しき面」

 

  濃厚な人間関係からの脱却。

  それが、60年代70年代頃は心地よかったのですが、

  なにごとにも良き面と悪しき面があり

  

  それまでは人間関係のしがらみが機能して

  目立たなかった老後の孤独(死)とか認知症とか

  (嫁さんや親族の誰かに負担がのしかかっていたって話なんですが)

  手を差し伸べてくれる人のいない貧困や、

  孤独な若者の自殺とか

 

  希薄な人間関係性による

  ひずみの面が社会問題化しています。

 

 

6)「きずな」の二面性は生きている

  

  振り子の振り戻しのように

  田舎移住を図る人たちも多くなっているらしい。

 

  「きずな」を求めて村をめざし

  うまく行っている人もいるらしいですが

 

  「きずな=しがらみ」の二面性を突きつけられて

  不愉快な思いをしている人々もいるようです。

 

 

7)ちょおどいい「きずな」あるんじゃね。

 

  都会の場末の飲み屋で展開される疑似ファミリー関係とか

  若い人たちの長屋シェアとか

 

  わりと上手くいってそうなコミュニティってのは

  踏み込み過ぎない人間関係性ってのが

  前提になってんじゃないかと

  想像するのですが、実際どうかは

  よくわかりません。

 

 

8)1957年生まれのほっこりは

 

  60年代、70年代や80年代、90年代

  そして新世紀になって以降の社会の進展とかを

 

  空の遠くを見はるかすように

  いろいろと、いろいろと思うわけであります。

  

  分断の時代を乗り越える

  踏み込み過ぎず離れ過ぎない

  人間関係性の社会が

 

  きっと、住宅や町、社会通念の再整備とかを通じて

  実現されていく将来がくるんじゃなかろうかと

 

  空の遠くを見遥かし、ほんのり期待したり

  するわけでもあります。