老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

日本はトンボの国なのか

 

 また、すきな語源話です

 

1)日本はトンボの国?

 

 記紀神話とか柳田國男とかの

 関連の検索していると

 秋津洲(あきつしま)のアキツ

 トンボのことで、

 「日本はトンボの国」みたいな

 見出しにしょっちゅう出会います。

 

 それでいいんだろうか? と、

 ずっと気になっておりました。

 

 

2)神武天皇の茶目っ気

 

 東征を終えた神武天皇

 ホホマの丘で国誉めをされ

 

 「なんてすばらしいんだ。

  国を得るということは。

  木綿(麻)の繊維を削ぐような

  狭い国ではあるけれど

  トンボがつがったような

  形の国よ」

 

   (めでたい、めでたい。なんせ

    トンボはアキツってんだから

    秋津洲アキツシマ=ヤマト

    の国)は・・トンボだろ!)

 

 みたいな、

 ロイヤル・ジョークを

 カマされた1900年くらい前に

 ことの発端は、

 さかのぼるわけですが。

 

 これって、あくまで

 ジョークなんじゃないかと

 思うんですね。

 

 アキツがトンボなのは、

 それはそれでいいと思うんですが、

 だからってアキツシマが

 トンボの島ってことじゃ

 ないだろうと思うわけです。

 

 でも、

 

2)ジョークって言いきっていい?

 

 少し心配になって

 

 まず、はじめに

 「古事類苑全文データベース」

 さんを頼りました。

 

 「秋津」と「蜻蛉」でOR検索。

 

 秋津洲アキツ由来だという解説も

 多数目につきますが、どれも、

 神武天皇の話をもとにした解説で、

 いわば循環エラー状態。

 

 ただ、トンボの名前の

 ヴァリエーションがけっこう多彩で

 アキツということばの実感把握に

 いいと思えます。

 

 平安中期の『和名類聚抄』は

 

  胡黎・・〈和名、木惠無波〉蜻蛉

  之小而黄也(キエンハ、カゲロウ

  の小さくて黄色なり)

 

 平安末の『伊呂波字類抄』は、

 上の説明を踏襲。

 

 だいぶ下った江戸中期(1712頃)の

 『和漢三才圖會』では

  

   ヤンマ、クロヤンマ、

   キヤンマ、ヲニヤンマ

   などのあとに

   赤卒(アカトンハウ)、

   胡黎(キトンホウ)、

   蚊蜻蛉(カトンホウ)

 

 を挙げ、 

 その少し後(1775年)の方言辞典

 『物類稱呼』では、

 

   奥州千臺南部にて あけづと云、

   津輕にて だんぶりと云、

   常州及上州野州にて

   げんざと云、

   西國にて ゑんばと云

 

  とあります。

 

 江戸後期(1803年頃)の類書

 『重修本草綱目啓蒙』では、

 

   トンボウ、トンボ、

   アキツムシ、アキツハ、

   アキツ、アゲツ、

   カグロフ、エムマ、エムバ、

   エンブウ、ヤンマ、ヘシボウ、

   ヘンボ、ボウリ、アカイス、

   タンボ、ゲンザ

 

 などのトンボの名前を挙げています

 

 平安の頃に、アキツの名は

 出ていないのですが、

 奥州に「あけづ」の方言が

 残っているのは、

 あきづ、あきつなどのかつての

 都ことばが、地方に残っている

 可能性は否定できないと、

 柳田先生の力説されたりする

 ところであります。

 

 

3)次に「秋津洲」の方ですが

 

 アキツシマはトンボのことじゃない

 と言うとすれば、じゃあなんなのか

 言わなければならなくなります。

 

 この場合「アキツ」を名詞とみると

 「アキツ・シマ」のように

 解釈することになりますが、

 

 「ツ」を助詞とみると、

 「アキ」ノ「シマ」のように、

 「アキ」一語での解釈が必要になり

 

 それと同時に、

 「アキツ=トンボ」説から離脱

 ということになるかと思いますが

 

 ほっこりは、まさにこの

 「津」は助詞説を支持する

 ものであります。

 つまり、「アキ」の意味を

 どう解釈するかです。

 

 

4)ネットではどうか 

 

 あらためて、ネット上では、

 

   ①トンボ説

   ②人名に基づく説

    人為説、

   ③アクツ地名とからめた

    湿地帯説、

   ④津の字を港と解釈する

    「港」説 、

 

 などあります。

 

 ①は、上述の通り、立場的に

  まず除外

 ②は、命名の事情次第で

  あり得ます。

 (秋田市長岡市

  千秋〈センシュー〉等。

  〈アキ〉読みでは

  ありませんが)

 

 ③のアクツはのちほど触れますが、

  可能性はあると思います。

 

 ④の「港」説を、実は一番押して

  おりました。「津」というより

  「アキ」そのものが「港」

  だったんじゃないかと。

 

 古代では、我々が想像する以上に

 船運が世の中の大きなウェイトを

 占めていた、というような話を

 読んでましたので

 

 長い船旅のあとに、

 上陸しやすそうな入り江を見つけ、

 鬱蒼とした水草

 押し開けて行ったり、

 港を開いたりする、

 文明的な営為の呼称が「あく」で、

 名詞で「あき」、

 狭義には港のことを指したんじゃ

 ないかと、そう思って

 おりました。

  

 

4)で、「秋」地名の分布をみてみる

 

 「秋」のつく地名の分布をみと、

 いいヒントをくれるんじゃないかと

 思いました。

 

 「漢字書き順辞典」さんで

 「秋」のつく地名を一覧に

 されており

 それを使わせて頂きました。

 

 この一覧の精度とか、

 わかりません。

 まあ、そこまで大仰な話じゃ

 ありません、ざっくりした

 感じがつかめればという

 思いつきですので、ご寛容に。

 

 

5)とりあえず秋の付く地名です。

 

 秋穂(あいお)・秋鹿(あいか)・秋

 秋田(あいだ)・秋保(あきう)・秋江

 秋岡・秋掛・秋ケ島・秋川(あきが

 わ)・秋里・秋沢・秋篠・秋柴・

 秋田・秋台・秋津(あきつ/づ)・

 秋月(あきつき/づき)・

 秋縄(あきつな)・秋塚・秋常・秋妻

 秋堂・秋徳・秋名・秋永・秋成・

 秋根・秋畑・秋野々・秋ノ宮・

 秋ノ山・秋浜・秋葉(あきは/ば)・

 秋原(あきばる)・秋房・秋間・

 秋町・秋松・秋丸・秋目・秋元・

 秋谷(あきや)・秋山・秋吉・秋留・

 秋和・大秋(おおあき/たいあき)・

 奥秋・上秋・秋喜(しゅうき)・

 千秋(ちあき)・冨秋・豊秋・夏秋・

 三秋

 

 アバウトな集計なので

 あまり意味ありませんが、

 住所件数としては199件、

 上とか下とか東とか西とかが付く

 重複分、人的なものなど除いた

 残りが141件です。

 

 これらを

 国土地理院地図を併用しつつ

 Googleアースで観ていく

 わけです。

 ※まだ、全部は調べきれてません。

  結構かかりそうです。なので、

  早々と中間まとめです。

 

 

6)山の中にけっこうあります  

 

 上述のとおり、ほっこりは

 「港」由来だと思っていたので、

 

 港のある入り江とか

 海に近いところに

 多いのかと思ってたら、

 豈はからんやです。

 

 海辺、海近くの平地にも

 もちろんありますが、

 平野の奥、

 山裾(川を遡上する辺り)、

 さらに遡上していく川筋や、

 川の合流点辺り、

 

 そらにその先の深い山あい、

 谷あい、

 少し開けたプラトー部分、

 さらなる山の奥、

 あるいは山の上面に切り開いた

 広がり部分といった具合で、

 

 山のなかにも全然あります。

 

 要するに、自分たちが

 開いて行ったところに

 「アキ」の地名がつけられてい

 っている気がしました。

 

 

7)平地のほうがわかりづらい

 

 港や入り江、山あい、谷あい、

 段丘のあいだなんか形状的に

 そうかなと感じさせるところは

 分かりやすいんですが

 

 平地の場合、例えば、

 愛知県一宮市の千秋町の数々とかが

 そうなんですが、

 今は、まったくの街中に

 並んでます。

 

 そのラインが、縄文海進とか

 弥生時代の海岸線の図とかと、

 けっこう符合したりします。

 

 もちろん縄文人がそこにいて

 地名を残したとかいうのではなく、

 縄文の遺跡にかぶさって

 弥生遺跡があったりする

 ところもあるわけですから、

 (一宮がどうだったか

  調べてません)

 

 海退とともに、

 徐々に住めるようになって来た

 という記憶の土地。

 もしくは、だんだんと

 活用できる幅が広がっていくと

 村の古老の語る土地に、

 人は住み関りを持ち続ける

 でしょう。

 

 古代日本語の

 醸成期ごろかと思われる、

 弥生時代の中期、BC3世紀、

 BC2世紀以降ごろに

 その辺で活躍していた人たちが、

 

 土地の広がりを寿ぐ

 「あき」の呼称。なんてことを

 イマジナリー・インプレッショニズ

 ムっちゃうわけであります。

 

 なので、そういう場合には、

 広がることなのか、湿地なのか

 ご当人たちにも定かでは

 なくなってたかと思ったりもする

 わけであります。

 

 

8)神武天皇が言いたかったのは

 

 「大和の国は、豊かな港が

  あちこちに開かれた島、

  人も開明な文明豊かに

  開けた国の島。

  なんて素晴らしい」

 

 ということだったのだろうと

 思います

 

 当時港を開くなんてことは、

 日本が明治の頃に盛んに

 欧米から学んだような

 近代の最新の工業技術の受容の

 ようなものだったのだろうと、

 空想したりする

 わけであります。