老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

どちらに転んでも正解ではない選択へのいら立ち

  

     突然ですが   

  

1)昨年(2021年)9月、10月

 

 第二の人生スタート前2ヶ月間

 読書に明け暮れました。

 20冊程度の本を読みました。

 

 

2)その中で

 

 イザベラ・バードの『日本紀行』

 と『朝鮮紀行』。

 金達寿の『玄界灘』(再読)も

 読みました。

 

 バードの『朝鮮紀行』は、

 日韓国併合直前頃の記録。

 

 紀行文を超え、閔妃暗殺で有名な

 李氏朝鮮の高宗とその妻閔妃とも

 何度か直接会うなどしつつ、

 

 体制側へのおべんちゃら語らず、

 (その後の他者の分析記事など踏まえ)

 その頃の朝鮮の政治状況への

 冷徹ともいえる報告行っています。

 

 金達寿の『玄界灘』は、

 太平洋戦争末期の日本の統治下の

 朝鮮の状況を描いた小説です。

 

 あくまで、小説ですが、

 在日であった主人公が

 日本の統治下の朝鮮に渡って

 日本の御用会社と知らず

 新聞社に入社するなどの話は

 作者自身の人生の反映

 のようですから

 日本の統治下の朝鮮の

 空気を伝える一つの

 報告として読めるかと思います。

 

 

3)ほっこりは、日本の統治下で

 

 日本が朝鮮人から

 朝鮮のことばを奪ったのは

 おおきな間違いだったと

 思っています。

 誤った施策だったと思います。

 

 もし、逆に

 ほっこりが、韓国人から

 日本語を奪われ、

 ハングルを押し付けられる

 ようなことがあったら

 絶対許さないと思います。

 末代まで、呪い尽くせと

 子々孫々に申し伝えると思います。

 

 ことばを奪うということは

 そのようなことであり

 韓国(朝鮮)の人たちが

 ことばだけでない併合時代全般の

 恨みや怒りから、なかなか

 抜け出ようとしないのも

 むべなるかなとも思います。

 

 ただ、

 

 そこに至る、歴史の流れがあった

 というのも、一方で確かにあった

 とも思います。

 

 

4)バードの『朝鮮紀行』は

 

 今日の韓国(朝鮮)人、なかでも、

 自国第一主義系の人々にとっては、

 相当に気分を害する本

 だろうと思います。

 

 それで、ほっこりも、

 歴史年表本を参照したり

 wikiほかの検索などして

 できるだけ丁寧かつ客観的な

 歴史理解を並行させつつ

 読み進めることに努めました。

   

 この本は、決して、

 朝鮮の内情に無理解な外国人による

 無責任な偏見のリポートなどではなく

 むしろ、日韓併合に至る歴史を

 その渦中で目の当たりにした人の、

 真率で貴重な、まさに歴史的な

 リポートだと感じました。   

 

 その当時のどこの国に

 一番大義があったなどと

 単純には言えない当時の

 世界状況がありましたし

 そこに、朝鮮、日本の国内事情が

 よくも悪くも、重層的に複雑に

 絡み合っていたのです。

 

 

5)しかし、そんな中でも

 

 朝鮮の人々がことばを奪われた

 怒り、恨みは、それはそれとして

 日本人がとやかく言える問題ではない

 と、思う次第です

 

   

6)なんで突然こんなこと書くかというと

 

 NHKの「クロ現」で、

 茨城のり子の詩が

 若い人の間で再評価されている

 らしいというのを

 TVerで、見たからです。

 

 日本の敗戦を境とする

 価値観の転倒を体験した

 茨木のり子

 自らの感性に依拠し

 それをさらに磨くことこで

 時代をぶれなく生きる

 軸にしようとした

 

 茨木のり子が戦後、

 日本の統治下で

 虐げられた韓国人の心の

 理解と慰謝を韓国語の学習を通じ

 行おうとした、

 というようなことが

 報じられていました。

   

 

7)一年くらい前に日経新聞

 

 茨城のり子の評伝を書いていた

 梯(かけはし)久美子さんが

 番組の最後のところで登場して

 早口に、ほめことばで

 番組をまとめていたのですが、

 そんな、まとめかたでいいんだろうか

 というのが、率直な感想でした。

 

 もちろん、番組の時間と構成

 というようなことがあり

 梯さんだけの問題でなく

 NHKの問題でもあるとともに

 梯さんやNHK

 ああいうまとめ方に

 おさめざるを得なかった

 今の世の中の問題でもあるなあ

 と思った次第です。

 

 

8)茨木のり子の詩が

 

 なぜ今人の心を打つのか。

 問いかけは、また振り出しに

 戻った気がして番組は終わりました。

 

 自分の感性を磨くということは

 どういうことだったのか?

 

 

9)亡くなる2年前のインタビュー

 

 2004年のインタヴューで

 茨木のり子

 好き嫌いは、本人にとって大事なこと

 と言っていたことが

 番組で紹介されていました。

 

 ネトウヨという言葉は

 2000年代半ばころから

 一般化したとか

 wikiには書いてあるのですが、

 2004年の頃には、

 自分の記憶を振り返ってみても

 確かではありませんが、

 まだほとんど一般に

 聞かれることばではなかった

 かと思います。

 

   

10)茨木のり子が「好き嫌い」を語ったのは

 

 日本人を毛嫌いしていた

 茨木のり子の詩の韓国語翻訳者の

 お母さんとの交流や

 そのほか多くの

 長い長い経験や思索を通じて

 

 人の「好き嫌い」というものが

 世間、社会が思っている以上に

 人々の心のありようの上において

 無視できない役割を

 担っているんじゃないか

 というような認識を

 持たれていたんじゃなかろうかと

 感じるからなのです。

 

 

11)自由・平等・博愛

 

 というような、

 近代が発明した崇高な理念、

 そしてそれを目標とし擁護する

 リベラル派の正論が

 世界的な排他主義の勢いにおされ   

 抗しえず輝きを失い

 迷走を深めている感があります。

 

 これらの理念、特に博愛の理念

 などからすると、

 「好き嫌い」の感情は

 乗り越えるべき対象

 なのかもしれません。

 というか、

 歯牙にもかけていなかった

 「些末な個々人の思い」

 だったのかも

 しれません。

 

 

12)これらの理念は、

 

 すでに、現代人の生活に

 深く根ざし、社会を支え

 機能していることもまた、

 事実で、

 ついしばらく前まで

 これらの理念を疑うことは

 好ましいものとは

 されてされていませんでした。

 もちろん、今も、

 そういう見方の人々のほうが

 実は社会の多数派だろう

 とは思います。

      

 

13)なのに、なぜ今、

   

 迷走が始まっているのでしょうか?

 おそらく(短絡的に論を進めれば)、

 右が善だとか、左が善だとか

 の問題ではなく、

 右には右の特長と欠点があり

 左には左の特長と欠点がある

 上には上の特徴と欠点があり

 下には下の特徴と欠点がある

 万人には万人の、

 好悪、善悪があり、   

 自由、平等、博愛にも

 長所と欠点がある。

 

 というようなことへの気付きが

 左右両方で起こってきている

 という状況なのでは

 ないでしょうか?

   

 

14)にもかかわらず、

 

 今の選挙制度がそうであるように

 世界は、いまだに、

 近代以降の人類が

 長い時間をかけて

 獲得してきた、

 自由・平等・博愛の

 理念とそれに基づく社会制度に

 変わる理念や制度を

 見出し得ていない。

 そういうことへの

 じりじりする苛立ち。

 

   

16)77年前、同じように

 

 信じることのできなくなった

 世間知、社会知の中から

 魂の救い出しを謳った

 茨木のり子の詩の響きと

 いまの人々のじりじりする思いが

 相響いている

 ということなんでしょうか?