老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

『蜻蛉日記』の「折り枝」

 

 専門家の研究には教えられます

 

1)和歌を小枝に添える

 『蜻蛉日記』中巻に、和歌をしたためた青い短冊を、柳の小枝に結び付けて差し出すシーンがあります。

 2段の969年3月中旬ころ、「小弓」(小さい弓で、先攻、後攻の2チームに分かれて競う射的ゲームらしいです)が行われるということで、この家のものたちは、「わたしは先攻 チーム!」「わたしは後攻チーム!」みたいに賑やかに騒ぎ合います。

 そして、後攻チームが練習のために集まった時に、はしゃいで、女房(房のリーダー格の侍女?)に、「勝ったら賞品が欲しいなあ」みたいなことを言うが、まったく(いい)ものを即座に思いつけなかったので、道綱母さんが、困った(わび)挙句のたわむれ(ざれ)に、青い紙を柳の枝に結びつけます。(そこには以下の歌が書かれています)

 「山風の まへよりふけば この春の やなぎのいとは しりへにぞよる」

 山風が前から吹いてきたとしたら、この春伸びた新しい糸のような枝は、後ろ側(後攻チーム側)に揺れ寄ることでせうよ。

と詠んで、後攻チームの勝利を祈念してあげる、そういうシーンです。

 

2)男もやってた

 この、短冊や紙片を、手折った枝や花などに添えるシーンは、上巻にすでにあります。 

 上巻27段、大和の「長谷寺詣で」の帰り道、宇治川を船で、奈良側から京側へやっと渡り終えた頃に、按察使大納言(あぜちのだいなごん、兼家の叔父藤原師氏もろうじ)が、所領がある奈良側の岸にいて、紅葉のとても美しい枝に、雉(きじ)や氷魚(ひお)などをつけたうえに、和歌ではないですが、「準備はできていなかったのだけどぜひ立ち寄ってください」というメッセージ文を添えてきます。

 この時点で、「枝に添える」「枝にくっつける」ふるまいには、何か意味があるなと思います。

 

3)折り枝(おりえだ)表現

◆共立女子大の岡田ひろ先生が書かれた『平安中期の「折り枝」表現』というpdfがネットに上っています。これを読むと、「折り枝」表現の奥深さ知ります。

 和歌の私家集を読み比べると、9世紀ごろから「折り枝」表現が出現するそうです。歌を補完したり、暗喩したり、歌の意を実体再現して強調したり。また、絶対読んでほしかったりして、枝や葉そのものに歌や文が書きこまれたりと、当時の生活感覚や世界観などに即した多様な表現様態があったことを知り、驚きます。専門家の研究にはやっぱ教えられます。

★岡田先生はそうは書いておられませんが、今でいう「プレゼン資料」のうようなものだなと思いました。視覚的に、触覚的に、あるいは嗅覚的にも、文や和歌の小宇宙を補足し、演出するもの。「折り枝表現」ってそういうことじゃないんでせうか。

★「折り枝表現」の出現は9世紀(平安前期)ころで、平安中期(道綱母さんや清少納言紫式部のころ)にピークを迎えるらしいです。そうすると、平安以前には「折り枝表現」は、この表現形態としてはなかったてことですが、ただ、「折り枝」自体には、なにかもっとプリミティブな古代臭漂っている気がします。

 

4)古代臭

 967年の晦日の日、追儺(ついな)式のために、周囲の人間が立ち騒ぐ様子がさらっと述べられています(『蜻蛉日記』上巻25段)。この「追儺」は、中国由来の年越しの鬼払い儀式のようですが、儺人(なじん)方相氏(ほうそうし)侲子(しんし)といった鬼払い役が、鬼を宮中から町の外へと追い立てていくのだそうですが、儺人は、桃の枝で作った弓、葦の矢を持って追うのだそうです(Wikipedia)。

 桃の弓は中国由来なのかもしれませんが、わが国でも、橘(たちばな)とか松の枝とかで長寿を願ったり、賢木(さかき=葉がたくさんつく=栄える木?)をお祓いに使うとかあります。植物の繁殖力を自然の摩訶不思議な力として畏敬した原始時代の遺風と、平安時代の「ひらがな」を「散文」に持ち込んで人の心の動きの細部を描き出そうとした表現文化が結びついたってことなんせうか。定かではありませんが。 

 

5)呪力の衰え?

 その追儺式の翌日(968年元旦)、道綱母さんのところに旦那の兼家の妹(藤原登子=貞観殿〈じょうがんでん〉の尚侍〈ないしのかみ〉)がやってきていて、のんびりされている(=年賀の男客も来ない)ので、道綱母さんは、自分も同じで、兼家はすぐ傍の本家で賑やかにやっていてこちらに来そうにもないから、年が改まっても「待つのは鶯の声ばかり」なんて古歌に因んだ戯れ言を言ったりしています。

 ところへ、侍女が「かいくり(栗や貝のようなものか不明)」を、糸で結んで贈り物のような形にして、木で作った田舎男の人形(片足にコブ=尰〈こひ〉がある)に荷なわせて持ってきます(底本もいろいろあって原文バラついているみたいなので正確な描写よくわかりませんが)。

 道綱母さんはそれを引き寄せて、色紙に「片恋ひ(片尰=片思ひ)で辛い? 田舎男だったら天秤棒持ってんだからバランスとりもどせるでせうに(会う機会がないなんてないはずだわよ)」

 みたいな歌を書いて色紙を人形の脛(はぎ=ふくらはぎ)辺りにつけて、貞観殿さまに(面白がって)渡します。

 貞観殿さまは、干した海藻の細かく刻んだものを集めて、天秤棒の反対方に「かいくり」と入れ替えて人形に荷なわせ、人形の片足のコブを削りとって反対側の足により大きくしてつけて、「田舎男の天秤棒(を待ってそれ)で測ってみたら、片恋ひどころか、その恋ひ(尰ひ)思ひが、優ってるってこともあるもんなのよ」みたいな歌を返されます。

◆9世紀、10世紀の人形(ひとがた)が平安京で出土していて、律令制の衰退とともに消えていったと見られているそうです(平安京と「まじない」—人形—』(財)京都市埋蔵文化財研究所京都市考古資料館の pdf )。 

◆「平城宮の時代よりやや後の、平安時代の書物には、朱雀門と壬生門のあいだの大路で、「大祓(おおはらえ)」という儀式が行われたことが書かれています。「大祓」は、人々の犯した罪や災気を払うために毎年6月と12月の晦日みそか)に行われる国家の儀式のことです。二条大路北側溝から見つかった大量の人形は、この儀式に用いられたものと考えられます。」(奈良文化財研究所研究員 庄田慎矢

 以上のように、平安時代、人形が作られていたのは遺跡発掘から証拠が出ているわけですが、山賤(やまがつ=山里の男)の人形というような、人物像設定の人形があったってことは、上二つの解説には、触れられていないだけかもしれませんが、ありません。とまれ、房の女性陣が、それに違和感なく接しているっていうのがなんか驚きです。しかも、山賤は、尰(こひ=こぶ)持ちのような醜怪な存在として造形され、それが常識的に受け止められ、遊ばれてもいるわけです(時代性を考慮して妄想表現に自主規制かけていないことを予めお断りしておきます)。

 この話が、追儺式に続けて語られているので、この人形が追儺式(大祓)関連の祭祀具である可能性も高いのでせうが、それにしては、女性陣、そういうことに忌憚なく遊んでいる風です。追儺式が終わった後だから? でも、足に大きなコブをつけたりするのは、純粋に造形描写なのか、やはり、まじない的な行為なか? どっちでせうね。人形で愉快に遊ぶって、だいぶ古代的な心性から脱け出ている気もしますが、でもまだ、すっかりってことでもないような雰囲気もあります。定かではありませんが。