老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

『蜻蛉日記』の「うつろひたる菊」

 

 知らないことだらけ

 

1)「色褪めた菊」の大事な意味合い

 2月1日に『蜻蛉日記』の著者について、いろいろ書いた中で、旦那である兼家さんの足が遠のいたら従者に探偵させたり、腹いせに送った有名な歌『なげきつつ ひとり寝(ぬ)る夜の あくるまは いかに久しき ものとかは知る』には、「色褪めた菊」を添えて送ったりするので、兼家さんの足は余計に遠のいた・・みたいなことを書きました。

 その際、「色褪めた菊」は、「思いも冷めたわよ」的な意味かと思って書いたわけですが、もうひとつとっても重要な意味があったようです。

 

2)移菊(うつろいぎく)Wikipedia の説明

《 うつろいぎくとは晩秋のころ白菊が花弁の端から紫がかって来たものを言う。有体に言ってしまえば、花弁にが触れるなどして植物組織が損傷を受け色が変わったもので、園芸用語で言う「霜焼け」に過ぎない。 しかし、平安貴族の紫への愛着から、ともすれば通常の白菊よりも美しいとさえされた。・・・

・・・平安朝の貴族は、盛りを過ぎかけた白菊がほのかに紫がかった風情をことさら優美なものとして愛好し、「一年に二度の盛りを迎える花」「冬枯れの直前まで美しく咲く花」と愛でた。 通常「うつろひたる花」は萎れてみすぼらしくなった花を示すが、「うつろひたる菊」に関しては美しいものとして別格に扱う。

 重ねの色目にも採用されており、表は中紫、裏は青あるいは、表は紫で、裏が白。(山科流)

 源氏物語にも「うつろひたる菊」などという呼び方で登場し、鑑賞するほかに挿頭や手紙の付け枝として利用されていたことがわかる。

 秋をおきて時こそ有りけれ菊の花うつろふからに色のまされば平貞文古今和歌集」)「秋を過ぎてこそ菊は盛りだ。うちしおれていくほどに色の美しさが勝るのだから。」

 紫にやしほ染めたる菊の花うつろふ色と誰かいひけむ藤原義忠後拾遺和歌集」)「紫に何度も染めたような美しい菊の花をうつろう色(通常は植物に「うつろう」は色褪せていく様子)だなどと誰が言ったのだろう」

 他方、「関心が他へ移ろう」ことと掛けて、恋心が他へ移ったことを表す際にも使われる(「蜻蛉日記」など)。》(以上 Wikipedia

Wikipedia さんの説明によれば、「うつろひたる菊」は、たしかに「色褪せ気味の菊」なんだけど、平安貴族は、むしろ、そこににじみ出る微妙な紫味を尊い色合いとして賛美した。でも、『蜻蛉日記』のように、思いの冷める意味でもつかわれた。ということのようで、「結果オーライ」のようにも読めるのですが、そうかなという気がしてきました。

 色褪めた菊束の間に、あの有名歌の文を、挿し込んで送った、そのあとにつづく文章です

 

 かへりを               返事では

 「明くるまでも           「夜が明けるまで

 試みむとしつれど、         会おうと試みたのだけど

 とみなるめし使の          急用だという従者が

 來あひたりつればなむ。       来たので、行ってしまいました。

 いとことわりなりつるは、      (お怒りは)たいへんごもっともです(仰ってることは)

 『げにやげに            『ああもっともです

 冬の夜ならぬ            明けるのが遅い冬の夜でもない

 眞木の戶に             真木の戸(ご立派な門戸?)を

 遲くあくるは            遅く開けられるのは(それを待つ身は)

 陀しかりけり』」          なんとも辛いものです』」

 

 さても               とはいえ

 いとあやしかりつるほどに      たいへん不思議に思うくらい

 ことなしびたる、          何事もなかったようにしている

 しばしは              しばらくは

 忍びたるさまに           人目を避ける風にでもして

 こうぢに              「公用なので行ってきます」

 などいひつゝぞあるべきを      とかいいながら過ごすものだろうに

 いとしう心つきなく思ふことぞ    ひどく納得いかないと思うことが

 限りなきや。            限りないことだわ。

 

 この状況を読んで、兼家の無神経さということを、前回書いたのではありますが、なんで兼家さんがこんなに懲りない(懲りていなさそうに見える)のかというと、道綱母さんが「うつろいたる菊」を添えたのを、それほど悪い意味にはうけとめず、雅(みやび)なふるまいの範囲のこととして受け止めていたからではないでせうか。いろいろ言ってるけど「まだ、大丈夫だ」って。

 それは、兼家さんの不実を嘆きつつも、これから世にときめいていくらしい兼家の、妻の一人としての、自らの立場を理解している道綱母さんの思いの中にも、「責める思い」と同時に、雅に遊んで「やりすごそう」とする思いが錯綜していて、それが兼家にも伝わっていたからではないでせうか?

◆ということを思ったのは、中巻を読み出すとすぐに起こる「安和の変」がらみの斎藤菜穂子さんの「『蜻蛉日記』兼家の御嶽詣 ─安和の変後に求められた加護─ 」を読んだからです。それは、また次回。