1)第11段 要旨
山里でひっそり暮らす風の庵を見つけたが、平凡な人の欲を感じるものも見つけ、興覚めしたという話です。
いわゆる兼好の出家遁世、隠棲、閑寂イメジというものがどういうものか、それを裏切る点がどういう点かを説明しています。
こういう閑寂感が『徒然草』以前からどう展開されて来たかとか、兼好の閑寂感の意味合い(あるいは、どれくらい本気なのかとか)につい興味湧きますが、机上空論城主の手に余り、そこまでは追及しません。おいおいにでも、つかめていけるかどうか。
0)前置き
以下の4点を参照しつつ『徒然草』を、下手の横好き読解しています。
①旺文社文庫『現代語訳対照 徒然草』(安良岡康作訳注/1971初版の1980重版版)
②ネット検索
③『角川古語辞典』(昭和46年改定153版)
④中公新書『兼好法師』(小川剛生著・2017初版の2018第3版)
2)第11段 本文
神無月のころ 栗栖野 といふ所を 過ぎて、ある山里に たづね入ること 侍りしに、遙なる 苔の細道を ふみわけて、心ぼそく 住みなしたる 庵あり。
木の葉に うづもるゝ かけひ の しづくならでは、つゆ おとなふ もの なし。閼伽棚に 菊紅葉 など 折りちらしたる さすがに 住む 人の あれば なるべし。
かくても あられけるよ と、あはれに 見るほどに、かなたの 庭に 大きなる 柑子の木 の、枝も たわゝに なりたるが、まはりを きびしく かこひたりし こそ すこし ことさめ て、この木 なから ましかば と 覺えしか。
3)第11段 訳
神無月(10月)のころ、来栖野(くるすの)というところを通り過ぎて、ある山里に訪ねて行ったことがあった時に、長い苔むした細道を踏みわけていって、もの寂れた感じにして住んでいる仮住まいがあった。
散った木の葉に埋もれた掛け樋から落ちるしずく(の音)以外、少しも(音たてて)訪れる者はない。閼伽棚(あかだな)に菊や紅葉(もみじ)などを手折って散らしているのは、やはり、住んでいる人がいるからなんだろう。
【閑寂な隠棲者像の期待】
こんなふうでも(住んで)いらっしゃるんだと、趣深く思っていると、むこうの庭に大きな柑子(こうじ)の木が(あって)、枝が撓むほどに実っているのを、そのまわりを厳重に囲ったりしているのが、少し興が醒め、この木がなかったらよかったのにと思ったことだった。
【凡俗性感じさせられ落胆】
4)ことば とか あれこれ
〇栗栖野(くるすの)
安良岡康作先生は脚注で、栗栖野の地を「山城国宇治郡、今の京都市東山区山科の内。京都市中から東山の丘陵を越えて、東に下ったところにある。」と説明されています。栗栖野の位置、それでOKかと思うんですが、それがそうでもないんです。
安良岡先生の「東山区山科」というのは、Wikiによれば、1931(昭和6)年から1976年まで確かに山科は「東山区」だったそうで、安良岡先生の『現代語訳 対照 徒然草』が1971年初版なので、その時点での説明ということになります。
これを確認すると、同じ昭和6年(1931年)に、東山区に南接した伏見区で「小栗栖(おぐりす)」15町が再編されているので、東山(山科)側の「栗栖野」は、伏見区側の「小栗栖」ではないということを、安良岡先生が同時に説明されているということになるかと思います。
★何を、ややこしいこと言っているんだと思われるかもしれませんが、実は、京都近辺で「栗栖野」と目されてきた場所は3箇所もあるんですね。ざっくりいうと、
(A)京都市街北西の「北区西賀茂辺り」、
(B)京都市街からいうと南東方向、東山の向こうの「山科区栗栖野(現在はくりすのと呼称)」、
(C)そのさらに南手の「伏見区小栗栖(おぐりす)」。
★Wikipediaには「栗栖野」解説がないので、コトバンクを見ると、「栗栖野」がどこかについて、少しずつ見解の異なる5種の辞事典が並列的に紹介されているので、素直に読むと混乱します。ザックリいうと、
①【精選版 日本国語大辞典】(A)(B)の順で併説
②【小学館デジタル大辞泉】(B)(A)の順で併説
③【ジャパンナレッジ】(A)推し。(B)も同名で混乱するが、『源氏物語』の注釈書『花鳥余情』や、僧契沖などが書き残す内容によれば、「文学、文献上で多くは」(A)を想定していると説明。
④【平凡社「日本歴史地名大系」】(B)一択。
⑤【平凡社 改訂新版「世界大百科事典」】(A)推し。(C)も同名で混同されるが(A)のほうが「より著名であったようだ」と説明。
★(A)(B)(C)それぞれの特色は
(A)は、古典に出る「北野」「紫野」があったり、宮廷猟場や宮廷氷室などがあって古典世界で著名な地。
(B)は、山科川と安祥寺あんしようじ川に挟まれた丘陵台地にあって、坂上田村麻呂墓地や中臣鎌足遺跡、勧修寺などがある。
(C)は、中臣鎌足の子定惠建立の法琳寺跡があったり、兼好の時代に関係ないですが明智光秀絶命の地で有名らしいです。
3地点それぞれに、歴史があって、「栗栖野」を語った語り手達によって、想定地が違ってたってこともあったかもしれません。
★安良岡さんが11段の栗栖野を「山科」の方(B)とされるのは、兼好が、栗栖野を過ぎて行った先の「ある山里」というのが、兼好が正和2年(1313年)に取得した一町の田のあった山城国「小野荘」の地だろうと目されてきたことを前提にされているからのようです。そしてそのころが兼好が遁世者になった頃でもあると認識されていたようです(安良岡先生の本の補注14)。
(B)のすぐ右下あたりに今も「小野」地名があります。この「小野荘」の土地の売買について、小川先生も『兼好法師』71~74pで詳しく書かれています。取引関係文書は8通現存しているそうです。取引条項は、買った側(兼好方)が不測の損が発生しないよう周到なもののようで、「出家遁世」「脱俗」じゃなかったんか~いと突っ込み入れたくなります。
東山六波羅から7㎞程の「小野荘」の土地を、兼好が仲介役に勧められて持ち主であった山科家から買ったのは間違いないようです。六波羅と小野荘の間に山科・栗栖野があるのも間違いなく、この11段冒頭の1行も小川先生の『兼好法師』文中でも登場するのですが、小川先生は、兼好が書いた「栗栖野」と「山科栗栖野」の関係性については一切触れられていません。
★また、ネットに上っている、◆関西学院大(?)の藤原正義先生が書かれた『兼好の「小野・栗栖野」』によれば、兼好の自撰歌集を詳細に見ていくと(つまり兼好がいろいろと歌っている兼好の心持ちをおっかけていくと)、兼好が山科小野や(醍醐寺の辺=小野のさらに南)に赴いたり、あるいはそこに庵居した形跡は読み取れず、むしろ、兼好が遁世の初めに籠ったのは、(A)に近い「修学院」のほうで、11段冒頭の1行が「修学院」に向かうことを言っているかどうかはわからないが、「栗栖野」は、愛宕郡の鷹嶺東(※京市街を軸にいうと(A)の北区西賀茂辺り(北西)と、東の比叡山側裾野辺り(北東)の違いはあるんですが、まあ京都市街の北部ではあります)と見ておくのが穏当だと仰ってます。
★兼好が小野荘の土地売買を行ったのは事実であっても、兼好の心象風景にそこは出て来ず、兼好は、むしろ北の方のあちこちを、あれこれ歌に詠みこんでいる、ということらしいです。
★本段冒頭は、本人が籠りに行っているとかではなく、「栗栖野」を越えていった先の山里で、誰かが物寂し気な佇まいさせながら住んでたって話ですし、尚且つ、脱俗系の人かと思ったら、そうじゃなかったジャンジャンって話ですから、ここで、無理に兼好の遁世思想にこだわる必要もない気もします。もちろん遁世がらみの山行きだった可能性も十分ありうることかとは思いますが。
「栗栖野」一帯を通り過ぎて、その先にある「山里」っていう記述の位置関係でいうと、(A)が比叡山の山裾ならさらにその先(北の方の山裾もしくは東手の比叡山系)に山里がないといけないってことになるかと思うし、(B)の山科の栗栖野と小野奥の山里なら位置関係的に無理がない気もしますが、まあ、未決トレー入れですね。
〇はべり
「あり」「をり」「はべり」「いまそがり」の「はべり」。ラ変動詞。これで終止形。高校古文で聞いた(学んだ?)あれです。
「はべり」なんて言い回しは『枕草子』とか『源氏物語』にはオンパレードかと思ったらそうでもなくて、雅な人たちの雅な会話と思わせたいようなところで使われている感じですね(ざっと見の感想です)。
『枕草子』『源氏物語』より1世紀ほど遡る『伊勢物語』は、中央から離れた話が多いからか第107段(全125段)くらいにしか発見できませんでした(たぶん)。同時期の『土佐日記』も中央に縁なく「はべり」ことばは一つもなし(たぶん)。
一方、平安後期の『大鏡』は、仮構された語り手の大宅世継(おおやけのよつぎ)や夏山茂樹(なつやまのしげき)らが『大鏡』=「藤原道長隆盛の歴史」を語るに至る次第を述べる「序」の部分では、「はべり」オンパレードですが、史資料を下敷きにしらたらしい"歴史話"に入った途端全然そうではなくなります。「はべり」は、尊敬・謙譲を誇張気味に語る場合のことばなんでせうか。
★角川古語辞典で確認しておきます。
「はべり【侍り】」
[1]自ラ変
意味:①(貴人のそばに)いる。伺候している。(用例:枕54「たれか侍る」)
意味:②自己(側)の「あり」「居り」の意の謙遜語(用例:源・桐壺「(身の)置きどころも侍らず」)
意味:③有りの意にあたる丁寧語(用例:源・橋姫「御心侍らば」/枕7「「見つくる折も侍らむ」)
[2]補助動詞
意味:①自己(側)の事にいう謙遜語。ございます。あります。(用例:源・桐壺「(私の)妹に侍る」)
意味:②相手(側)に対する丁寧語。ございます。あります。(用例:源・帚木「さは侍らぬか」)
意味:③(他の動詞について)
イ)謙遜語。相手(側)に対し自己(側)の動作をへりくだっていう。(用例:源・桐壺「見え侍らぬ」)
ロ)丁寧語。自分外(側)の動作を丁寧にいう(用例:源・桐壺「夜更け侍りぬ」)
★[2]の補助動詞の③の「他の動詞について機能するのが補助動詞」というのはわかりやすいのですが、[2]の①②がよくわからず「トライ」さんの解説(黒須宜行先生)を見ました。「妹です」の「です」とか、「そうでない」の「ではない」などは、独立した動詞ではなく、[1]の「誰か居るか」の「居る」や「置き所も無い」の「無い=無し」はれっきとした動詞だということと理解。
★それはともかく、「はべり」はどういうことば、語源なのでせうか?
角川古語辞典の用例を見ればわかるとおり、「はべり」用例は中古時代のものばかりです。奈良県立万葉文化館さんの「万葉百科」で「侍」字で検索かけてみても、「さぶらふ」とか「侍宿(とのい)」「持つ」とかはあっても「侍り」用法は引っかからず、上代では用いられていなかったようです。
◆コトバンクの語源説明部分は、
《 〘自ラ変〙 (「這(は)ひあり」の変化したものという) 這いつくばる動作を表わすところから、絶対者の支配下・恩恵下に存在させていただく、さらに、絶対者・尊者のおそばにいさせていただくという敬語性を帯びるように発展したものか。なお、「はんべり」の語形のものもある。 》
と、あっさりと「侍り」=「這ひ」由来と説明されています。確かに「侍り」に降りてきそうな、周辺の上代語をみまわしても、
●「はふ【這ふ】」自ハ四(※ははず、はひたり、はふ、はふとき、はへば、はへ)
意味:①腹ばう。腹這っていく。(用例:万3791)
意味:②(虫、貝などが)進む。行く。(用例:雄略紀)
意味:③伸びてゆく。蔓延る。(用例:万190)
●「はふ【延ふ】」他ハ下二(※はへず、はへたり、はふ、はふるとき、はふれば、はれよ)
意味:①伸ばし張る。張り渡す。(用例:万4274)
意味:②途絶えず思い続ける。(用例:万3067)
●「はふり【祝】」名
意味:神主、禰宜などの神職の総称。(用例:万2309)
●「はふる=はぶる【葬る】」他ラ四
意味:①死体をの山へ捨てる。葬る。(用例:万199)
これらいしかなく、たしかに「はふ【這ふ】」以外、「侍り」が遡れそうなことばはありません。「這ふ」の連用形「這ひ」に補助動詞「あり」がくっついて「侍り」に転化して行ったということですが、たとえば、「お聞き致しました」っていう時に、「聞きはひあり」って言う時期が、平安時代の前期とかにあったってことなんですかね?
★念のため「古事類苑データベース」で「〇這あり」式の表現があるものか「這」の字で検索してみましたが、みつかりませんでした。
「這」の漢字は、「這ふ(はふ)」のほかに、「この」「これ」っていう意味もあるらしく、その用法で「這村(このむら)」とか、「這人(このひと)」「這職(このしょく)」みたいな使い方があって、戸惑いました。
漢字として、「這」の音は「シャ」で、「這界(シャカイ)」「這般(シャハン)」「這裏(シャリ)」というような言葉あるらしいです。とまれ、「這ひあり」説は、机上空論城では「しっくり来ないトレー」入れさせて頂きます。
〇はるかなる
苔道ということは、日晒しの乾いた道ではなく、竹とか笹とか小喬木とかの間に伸びた少し湿り気味の黒土に緑色の苔が特に道脇を濃く覆っているような感じ妄想します。 そういう道を長々とあるいてたどり着く山里の庵。
●「はるか【遥】」形動ナリ
意味:①遠く離れたさま。(用例:宇津保・俊蔭)
意味:②年月が隔たっているさま(用例:太平記2)
意味:③気が進まないさま(用例:源・宿木)
★「はるか」も上代に、これに降りて来そうなことばが見当たらず、出処不明のことばのように思えたのですが、
●「はりみち【墾り道】」名
意味:新たに開いた道路。新道。(用例:万3399)
●「はる【墾る】」他ラ四
意味:新しく田、畑、池、道などを作る。(用例:万3447)
という2つのことばを見つけて俄然意を強くしました。
「はる」は「開く」が根本義ではないかと妄想します。「見晴るかす(祝詞では〈見霽かす〉と書くらしい)」というのも、視野が障害物に遮られずに遠くまで広がることかと思います。
★いいですね。そう思って見ると「春」も寒さに閉ざされていた世界が温かく開かれるということかもしれませんし、いろんな花が一斉に開くから春なのかもしれません。
〇こころぼそし
角川古語辞典解説
●「こころぼそし【心細し】」形ク
意味:①頼りなくて心配だ。(用例:竹取) 意味:②もの寂しい。(用例:徒然19)
★「こころぼそし」については、今日的なニュアンスとそう変わりません。
なんで、この「こころぼそし」で項目設けたかというと、角川古語辞典見ていて、「こころほそし」という「ほ」に濁点のつかないことばがあるんだと気づいたからです。
●「こころほそし【心細し】」形ク
意味:「あはれ」の理念と「たけたかし」の理念との融合した歌体を表す語。静寂の美をいう。→幽玄。
らしいです。
「たけたかし」というのは、「歌学で、格調・声調のあること。壮大、崇高であること。
らしいです。大きい。偉大だ。雄大だ。ということをいう「とほしろし」という上代語もあるということも付記されています。
★「こころほそし」が「格調高いあはれさ」というのも若干戸惑いますが。そして具体的にどういう歌が対象か気になりますが、ここでは深入りしません。
〇庵(いほり)
「いほり」関連語。角川古語辞典説明
●「いほ【庵・盧】」名
意味:草木などを結んで、簡単に作った小屋で、僧、世捨て人などの仮住まい。また、旅中の宿泊や、農事のためにも使う仮小屋。(用例:新古今・秋)
●「いほり【庵・廬】」名
意味:①「いほ」におなじ。(用例:万2235)
意味:②「いほる」に同じ。(用例:万1918) ③④略
●「いほる【庵る・盧る】」自ラ四 意味:「いほ」を造って住む。「いほ」に宿る。(用例:万1029)
★第10段で見た「いへゐ【家居】」で、「いへ【家】」は「い(斎)」+「へ(辺)」だと了解しました。
★その伝でいくと「いほ」「いほり」も「い」+「ほ」という組み合わせを考えなければならないようですが、角川古語辞典で「ほ」つきことばを眺め渡すと
●「ほとり【辺・邊】」名
意味:①②中古語で割愛。
意味:③都から遠く離れたあたり。片いなか。(用例:神武紀)
という上代語がありました。「ほ」は「へ」とほぼ同系の語のようです。「いほ+り」も「ほと+り」もよく似ています。
★ところで、「いほり」の用例歌を、「奈良県立万葉文化館」さんの「万葉百科」からまた引用させて頂きます。
第10巻-2235(作者未詳)
漢字本文 「秋田苅客乃廬入尒四具礼零我袖沾干人無二」
読み下し文「秋田刈る 旅の廬りに しぐれ降り 我が袖濡れぬ 乾す人なしに」
現代語訳 「秋の田を刈る、家を離れたいおりに時雨が降って、私の袖は濡れた。かわかす人とてなく。」
第10巻-1918(作者未詳)
漢字本文 「梅花令散春雨多零客尒也君之廬入西留良武」
読み下し文「梅の花 散らす春雨 いたく降る 旅にや君が 廬りせるらむ」
現代語訳 「梅の花を散らす春雨がしとしとと降る旅で、あなたは仮の宿りをとっているだろうか。」
第6巻-1029(大伴宿禰家持・おおとものすくねやかもち)
漢字本文 「河口之野邊尒廬而夜乃歴者妹之手本師所念鴨」
読み下し文「河口の 野辺に廬りて 夜の経れば 妹が手本し 思ほゆるかも」
現代語訳 「河口の野のほとりに仮のやどりをとると、夜の更けるにつれて妻の手枕が思われることよ。
★「い・ほ・り」の納まり具合を確認したく、歌を並べてみましたが、いまいちよくわかりませんでした。とまれ、「いほり」は「いへ」本宅ではなく、どっか離れたところに建てる「仮屋」「仮小屋」のことなんだというイメジはつかめた気がします。
〇かけひ
角川古語辞典説明
●「かけひ【懸け樋・筧】」名
意味:竹や木を地上にかけ渡して水を通すとい。(用例:徒然11=本段)
●「ひ【樋】」名
意味:①竹・木などで作った丸い管で、水を遠くへ送るもの。とい。筧、下樋などがある。(用例:神代紀)
意味:②堰き止めた水の出口に設けた戸。開閉して水を出入りさせる。(用例:武烈紀)
意味:③樋(とい)のように虚ろなところの称。(用例:万1129)→したび
意味:④刀の背につけた細長いみぞ。血流し。(用例:義経記5)
意味:⑤大小便を受ける箱。使用後水で洗った。
★孟宗竹を半分に割って、掛け渡すようなイメジを「かけひ(掛け樋)(筧)」に持っていましたが、万1129の歌(琴の胴との類似性)や、万2720の歌(水面下の排水施設を言っている)などを見ると、「樋」は筒状イメジのようです。
★「ひ【樋】」は、見出しにありますが、角川古語辞典に「とひ【樋】」の見出しはなく、ネットの古語事典でも見当たらないので、「とひ」は「ひ」と同じものの扱いのようです。「とひ」という言い方は「樋」の②の「(堰)戸樋」のような呼称があってそれと混称されたりしたんでせうか?
★因みに現代語の「とい【樋】」は、①屋根の雨水を地面に流すあれで、軒に渡すものが「軒樋(のきとい)」で、「内樋」「外樋」があり、縦に水を落とす樋が「竪樋(たてとい)」というそうです。 ②が旧来の「樋(ひ)」の説明です(岩波「広辞苑」)。
〇つゆ
「つゆ【露】」は、名詞と副詞があって、名詞では、①「水滴(涙、はかなさ)」、②袖の「緒の先」、③「小粒銀」などの意味があり、副詞で①「わずか」、②否定伴う分で「全然」などの意味があるようです。
以上の用例は中古以降なんですが、「つゆの命」(万3933)、「つゆ分く」(万4297)などの上代のことばが子見出しで挙げられており、「つゆ【露】」が上代からのことばであることは確認できます。
★名詞「つゆ」は、第9段の「つつしむ」で触れた点を意味する「つ」ことば「つ(点)」と、第1段前半で確認した「ゆ(湯水)」の合わさったものだと基本妄想しております。
副詞での「わずか」「全然」という意味は、水滴の小ささイメジからのことばだろうと思いますが、角川古語辞典を眺めていたら、中世の人たちは、どうもその「僅かさ」が大好きだったような気がしてきました。
●「つゆけげ【露けげ】」形動ナリ 露っぽいさま(用例:源・夕顔)
●「つゆけし【露けし】」形ク ①露っぽい(用例:謡・安宅)、②涙がちだ(用例:源・桐壺)
●「つゆちり【露塵】」名 ①きわめてすくないことのたとえ(用例:平家1)、②捨てて顧みないもののたとえ(用例:平家2)
●「つゆばかり【露ばかり】」⦅副詞「つゆ」+副助詞「ばかり」⦆ごくわずか(用例:源・手習)←※中古にもありますが。
●「つゆも【露も】」⦅副詞「つゆ」+係助詞「も」⦆少しも。夢にも。(用例:平家5)
●「つやつやと【艶艶と】」副 光沢あるさま(用例:源・若菜)
●「つやつやと」副 ①(下に打消の語を伴って)決して。少しも。いっこう。(用例:徒然54)、②さっぱり(用例:愚管抄)、③じっと。つらつら。(浄・車街道)
★「つや【艶】」は、「つゆ」ではありませんが、似た傾向感じ併記しました。
『源氏物語』(平安時代)の「露っぽい」「涙がち」などのいかにも文学的な感性と違って、『平家物語』『徒然草』『愚管抄』などの中世勢では、「少ない」「捨てて顧みない」「少しも」などのように、即物的といいますか、潤いの無い方にばかり目が行っている気がします。
たったこれだけの例で、そういってしまうのも「いかがなものか」ですが、なんか中世の「説話」物なんかにもそんな感じ漂っていたような気もするので、今後、おりおりホントかどうか確認していきたいと思います。
★ところで、【艶】の漢字は、日本書紀の神代紀で味耜高彦根(あじすきたかひこね)の神の光り輝き「時味耜高根神光儀華艶」とか、允恭記の衣通姫(そとおりひめ)の「艶色」とか、『万葉集』126番の相聞歌左註「容姿佳艶風流秀絶」とか、まあ、漢語としてきちんと用いられていたわけですが、
◆「読游摘録」さんの2018/10/29「春山万花の艶と秋山黄葉の彩との美の競いに巧みな決着をつける額田王歌」では、『万葉集』16番の額田王の歌「冬ごもり春さり来れば鳴かざりし・・・」の題詞「天皇、詔内大臣藤原朝臣、競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時、額田王、以歌判之歌」の「萬花之艶」を「春山の萬花の艶(にほひ)」と訳しておられます。
これは、第8段で見た「匂ひ」の意味に「色つや」がありましたから、まことに適正至極な訳だなと首肯敬服します。角川古語辞典みても「つや」のつく上代言葉の見出し自体ほとんどないし、万葉時代に「つや」って言っていなかっただろうと、思い込みを深めた次第です。
じゃあ、「つや」ってことばは、中古時代にどこから生まれたのか?「つゆ」の転生か? なんかそれっぽい気がしますが、まだわかりません。「時間解決トレー」置きです。
〇おとなふ
角川古語辞典解説、
●「おとなふ」自ハ四
意味:①音をたてる。(用例:源・総角)
意味:②訪問する。尋ねる。(用例:源・末摘花)
意味:③手紙を出す。たよりをする。(用例:源・葵)
●「おとづる【音づる・訪る】」自ラ下二
意味:①音を立てる。音がする。(用例:金葉・秋)
意味:②訪問する。(用例:源・椎本)
意味:③手紙で尋ねる(用例:源・蜻蛉)
●「とふ【問ふ・訪ふ】」他ハ四
意味:①ものを言いかける。呼びかける。(用例:記・中)
意味:②尋ねる。質問する。(用例:源・桐壺)
意味:③取り調べる。問いただす。(用例:平家12)
意味:④訪れる。訪問する。(万1659)
意味:⑤弔う
★「訪ふ(とふ)」ということばと「訪なふ(おとなふ)」は、てっきり同源のことばだと、ずっと思っておりました。
なので、兼好が「つゆ おとなふ」と書いたのは、「つゆ」=水滴と、その「水音」を掛けた「軽い洒落」だと思ったのですが、「おとなふ」が実は平安時代の雅な「音」由来のことばだったんだと、余命短くなって気づき、「軽く」でなく、「堂々たる掛けことば」だったんだと思い知った次第です。
「訪ふ(とふ)」のほうが上代からあることばですから、「おとなふ」という言葉は、「音擦れ」が「人が寄り来る気はい」から「来訪」の意味に明確化していくときに、傍らの意識に「訪ふ=訪れ」という語感が響いていて、それが、「おとなふ」=「訪問する」ということばの派生に寄与したんではないかと、妄想する次第です。
なので、「訪ふ」と「訪なふ」を同源の語のように勘違いしたのは、ある意味正しい誤解の仕方であったと勝手に妄想納得する次第です。定かではありませんが。
〇閼伽棚
角川古語辞典の「閼伽」説明
●「あか【閼伽・遏伽】」名 〘梵〙
意味:①供養。
意味:②仏に供える水。また、その容器。
●同「閼伽棚」の説明
「—だな【棚】」名 仏前に供える水や花などを置く棚 (用例:徒然11※本段です)
★「閼伽(あか)」は「アクエリアス」の「アク」と同系の印欧語由来のことばというようなことを、50年くらい前、なんかの端っこに書いてあったのを読んだことあります。今、ネット検索すると、印欧語族の話が膨大そうなので、すごすごと退散しました。
〇さすがに
角川古語辞典の「さすが」の解説から
●「さすが」
[1]形動ナリ
意味:(そうはいうものの)そうもしていられないさま(用例:源・花散里)
[2]副詞
意味:やはりなんといっても(用例:平家3)
●「さすがに」副 ※「さすが」の「子見出し」として記載
意味:①そうれはそうであるが。しかし、そうはいうものの。(用例:枕139)
意味:②やはり、なんといっても (用例:後撰・秋)
★「さ【然】」(意味:そう。そのように。)から始まる「さ」のつくことばを、机上空論城主は「さことば」と呼んでおります。
「さしも」副(そのようにも・・だろうか)、「さて」副(そうであって)、「さも」副(そのようにも)、「さりとも」接続(そうであっても)/副(そうであっても)、「さりながら」接続(しかしながら)、「さる」連体(そのような)、「されど」接続(そうであるが)等々のことば。
「さ」は「それ」「そのような状態、経緯」などを指し示しているかと思います。
★こっから机上空論城主の妄想世界です。
「さすが」は「さすがなり」なので「さすが+に」でせうが、「さすが」をさらに分解すると、「さ」(そのように)+「す」(する/である)+「が」(接続助詞の「確定条件の逆説」用法 ・・だけれども)のような心理の働きなのかと妄想します。
ある話の流れを、一旦押しとどめ、そこから、①いやいややっぱそうじゃないんだと否定的に次の条へつなげるか、②いやいやそれでいいんだと肯定的に次の条へつなげていくのか、の二つのつなぎ方の違いが意識されているんではないでせうか? 超さだかではありません。
〇かくても
「さことば」が「そのよう・・」だったのに対し、「かくても」などの「か(く)ことば」は「このよう・・」の世界のようです。
角川古語辞典の説明。
●「かくて【斯くて】」副 意味:こうして。このようで。(用例:万734)
●「かくても【斯くても】」連語 意味:こんなふうでも。(用例:徒然11※本段です)
★「か(く)ことば」は、中古以後のことばも少なくないんですが、「さことば」がほぼ中古以降のことばであったのに対し、「か(く)ことば」は、以下のように上代から使われていたということはちょっと驚きです。
●「かくすす【斯く為す】」⦅「すす」は動詞「す」を重ねた形⦆ こうして。(用例:万3487)
●「かくし【斯くし】」⦅「し」は強意の間投助詞⦆「かく」に同じ。(用例:万659)
●「かくしもがも【斯くしもがも】」 こうありたいものだなあ。(用例:万478)
●「かくのごと【斯くの如】」「かくのごとく」に同じ。 このように。こんなに。(用例:万4304)
●「かくのみ【斯くのみ】」 これほど。こればかり。(用例:万455)
●「かくばかり【斯くばかり】」 これほどまでに。こんなに。(用例:万129)
●「かくゆゑに【斯く故に】」副 これだから。それだから。(用例:万305)
★「かくのごとく」は、おそらく「如斯(じょし)」っていう漢字に「ごと」とか「かく」って日本語を被せたわけですよね(定かではないですが)。
とすれば、「ごと」も「かく」も日本語なわけですが、「かく」って言い方本当にあったんすかね。なんか怪しい感じがするのです。
次項の「かなた」(中古語)のような言い回しは全然抵抗無いんですが「かく・・」はどうも、しっくりきません。
「か【彼】」は、遠称の代名詞(万3565)だそうです。上代語です。「か」音の遠称性が、「かく」になると近称というか近場を見下ろす感じに変わる。この辺に「かく」ことばの秘密が潜んでいるような気がするのです。
★では、「く」はどうか。角川古語辞典を眺めます。
●「く【来】」自カ変
意味:①こちらへ近づく。こちらに着く。(万2045)
意味:②(目的地に自分を置いた気持から)行く。(伊勢)⇦英語の「行く」の「come」と同じですね。
★「く」準体助詞〘上代語〙については、いまいちよくわからないので割愛します。「・・のこと」というような意味的働きするようですが。
★「く【来】」が「こちら側意識」を醸すのは、わかります。でも、その意識が「かく」の語源に寄与しているかどうか、正直さっぱりわかりません。残念ながら「未決トレー」置きします。
〇かなた
角川古語辞典の説明。
●「かなた【彼方】」代 遠称。あちら。向こう。向こう側。(用例:新古今・雑)
★用例が『新古今和歌集』つまり中世なので、上代に「かなた」という言い方はなかったのかと、奈良県立万葉文化館さん万葉百科で検索します。
「彼方」の漢字を使った歌は、万要集の110番、2014番にあるのですが、いずれも「をちかた」の読みになってます。
特に2014番の原文は「越方」なので「をちかた」の訓みで間違いがなさそうです。 10番は原文「彼方野辺」で、音的に「かなたのべ」より「をちかたのべ」が確かにしっくり来るかと思います。だから古語辞典に上代用例が掲示されなかったのかもしれません。
★では、「かなた」という読みがないのかというと、巻9-1809番の「菟原処女の墓を見たる歌一首〔并せて短歌〕」(うないをとめのつかをみたるうたいっしゅ。あわせて短歌)という、『竹取物語』のプリミティブな悲劇ヴァージョンのような魅力的な長歌(歌体)、挽歌(部立)があり、その本文に「此方彼方」という字があり「こなたかなた」という訓みになっています。ここは「こちかたをちかた」とはさすがに読まなかったんじゃないかと。定かではありませんが。
だとすれば、「かなた」という言い方は上代にもあったということでいいのではないでせうか。ただ、引っかかってくるのがこれ一つだけですから、「遠き・・」の言い方が沢山ヒットするのに比べて、一般的な言い回しではなかったのか? どうでせう。
〇柑子(こうじ)
◆Wikipediaの説明。切り抜き繋ぎ。
《 コウジ(「甘子」または「柑子」、学名:Citrus leiocarpa)は、ミカン科ミカン属の常緑小高木で柑橘類の一種。 「ウスカワ(薄皮)ミカン」とも言われる。》
《 概要 古くから日本国内で栽培されている柑橘の一種だが、8世紀頃に中国から渡来したと言われる(一説には「タチバナ」の変種とも)。果実は一般的な「ウンシュウミカン」よりも糖度が低く酸味が強い。種は多いが日持ちは良い。 樹勢が強く耐寒性に優れている為、「ウンシュウミカン」の露地栽培が難しい日本海側の一部でも栽培されている 》
◆参考「橘(たちばな)」 Wikipedia の説明。切り抜き繋ぎ。
《 タチバナ(橘、学名:Citrus tachibana)は、ミカン科ミカン属の常緑小高木で柑橘類の一種である。別名はヤマトタチバナ、ニッポンタチバナ。》
《 日本に古くから野生していた日本固有のカンキツである。本州の和歌山県、三重県、山口県、四国地方、九州地方の海岸に近い山地にまれに自生する。近縁種にはコウライタチバナ(C. nipponokoreana)があり、萩市と韓国の済州島にのみ自生する(略)》
《 日本では、その実や葉、花は文様や家紋のデザインに用いられ、近代では勲章のデザインに採用されている。》
《 2021年、タチバナは沖縄原産のタニブター(C. ryukyuensis)とアジア大陸産の詳細不明の種との交配により誕生したこと、日向夏、黄金柑などの日本産柑橘のルーツであることが沖縄科学技術大学院大学などの研究により明らかとなった[2]。》
《 果実は滑らかで、直径3 センチメートルほど。キシュウミカンやウンシュウミカンに似た外見をしているが、酸味が強く生食用には向かないため、マーマレードなどの加工品にされることがある。》
《 日本では固有のカンキツ類で、実より花や常緑の葉が注目された。マツなどと同様、常緑が「永遠」を喩えるということで喜ばれた。
古事記、日本書紀には、垂仁天皇が田道間守を常世の国に遣わして「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)・非時香木実(時じくの香の木の実)」と呼ばれる不老不死の力を持った(永遠の命をもたらす)霊薬を持ち帰らせたという話が記されている。古事記の本文では非時香菓を「是今橘也」(これ今の橘なり)とする由来から京都御所紫宸殿では「右近橘[注釈 1]、左近桜」として橘が植えられている。ただし、実際に『古事記』に登場するものが橘そのものであるかについてはわかっていない。
奈良時代、その「右近の橘」を元明天皇が寵愛し、宮中に仕える県犬養橘三千代に、杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰の姓を下賜し橘氏が生まれた。
『古今和歌集』夏、詠み人知らず「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」以後、橘は懐旧の情、特に昔の恋人への心情と結び付けて詠まれることになる。》
◆参考「みかん=紀州みかん=小みかん」 Wikipedia 説明。切り抜き繋ぎ。
《 キシュウミカン(紀州蜜柑、学名:Citrus kinokuni)は、柑橘類の一種であり、西日本や中日本では小ミカン、東日本ではキシュウミカンと呼ばれる。鹿児島県のサクラジマミカンは品種的にはこれと同じものである。》※付記、「サクラジマミカン」は次の薩摩・長島の「うんしゅうみかん」とは別のようです。
《 普段「みかん」と認識されているウンシュウミカンと違い各房に種があり、果実の直径は5 センチメートル程度、重さは30〜50 グラム内外と小ぶりである。また、種のない無核紀州蜜柑もある。かつてはみかんといえばこのキシュウミカンを指すのが普通であったが、小ぶりで種があり食べづらいこと、酸味が強いなどの理由が一般消費者に敬遠され、代わりに種がなく甘みが強い温州みかんに急速に取って代わり、現在では最盛期の頃と比べ作付面積は少ない。》
《 ミカンとしては最初に日本に広まった種類である。中国との交易港として古くから栄えていた肥後国八代(現熊本県八代市)の徳渕津に中国浙江省から小ミカンが伝り、高田(こうだ)みかんとして栽培され肥後国司より朝廷にも献上されていた。15世紀〜16世紀頃には紀州有田(現和歌山県有田市・有田郡)に移植され一大産業に発展したことから「紀州」の名が付けられ東日本ではキシュウミカンと呼ばれるようになった。また江戸時代の豪商である紀伊國屋文左衛門が、当時江戸で高騰していた小ミカンを紀州から運搬し富を得たとされる伝説でも有名である。》
《 古木 現存する日本最古のキシュウミカンの木は、大分県津久見市にある尾崎小ミカン先祖木とされる。1157年(保元2年)に移植された樹齢800年を超える古木で、天然記念物に指定されている。》
◆参考「みかん=ウンシュウミカン」 Wikipedia 説明。切り抜き繋ぎ。
《 現代において「みかん」は、通常ウンシュウミカンを指す[4][5]:21。和名ウンシュウミカンの名称は、温州(三国志演義中などで蜜柑の産地とされる中国浙江省の温州市)から入った種子を日本で蒔いてできた品種であるとの俗説があることに由来する[6]が、本種の原産地は日本の薩摩地方(現在の鹿児島県)の長島であると考えられており、温州から伝来したというわけではない。》
《 ウンシュウミカンの名は江戸時代の後半に名付けられた[7]が、九州では古くは仲島ミカンと呼ばれていた。2010年代に行われた遺伝研究により、母系種は小ミカン、父系種はクネンボと明らかになっている[7][8]。 》
《 みかん」は蜜のように甘い柑橘の意で、漢字では「蜜柑」「蜜橘」「樒柑」などと表記された[4]。
史料上「蜜柑」という言葉の初出は、室町時代の1418年(応永26年)に記された伏見宮貞成親王(後崇光院)の日記『看聞日記』で、室町殿(足利義持)や仙洞(後小松上皇)へ「蜜柑」(小ミカンと考えられる)が贈られている[4]。
1540年ごろと年次が推定される、伊予国大三島の大山祇神社大祝三島氏が献上した果物に対する領主河野通直の礼状が2通が残されているが、一通には「みつかん」、もう一通には「みかん」と記されており、「みつかん」から「みかん」への発音の過渡期と考えられている[4]。》
《 英語で本種は satsuma mandarin と呼ばれる[4]。欧米では「Satsuma」「Mikan」などの名称が一般的である。"satsuma" という名称は、1876年(明治9年)、本種が鹿児島県薩摩地方からアメリカ合衆国フロリダに導入されたことによる。》
★以上の「橘」「こうじ」「小みかん」「うんしゅうみかん」の説明から妄想するミカンの歴史は。古く、食べにくい「橘(たちばな)」は、食べようということでなく、長寿の木として近畿など中央では愛でるのが一般的だった。8世紀頃から、食べられる「柑子(こうじ)」が世の中に広まっていったけど、まだとっても小さく酸っぱかった。その後、若干大き目で、酸っぱさも若干控えめで美味しい「小みかん」がだんだんと世の中に広まり、ついに1418年(15世紀、室町時代)「蜜柑」の名が初めて文献にも登場。実はもっと甘くておいしい「うんしゅみかん」も一部(薩摩、九州?)にあったのだけど、「タネ無し」と嫌われ、江戸時代まで「タネ有り・小みかん」の時代が続いた(紀伊国屋文左衛門の陰謀??)。江戸のしがらみが終わった明治、やっと甘くておいしい「うんしゅうみかん」の時代が訪れた。ということのようです。
★「蜜柑」が初めて記された1418年は、推定される兼好没年頃から約60年後です。ですから兼好は「蜜柑」ということばをまだ知らなかったようです。この60年という歳月をどうみるか。「枝もたわわな」その実は、まだ「柑子」だったのか、実は水面下で広がり始めていた、おいしい「小みかん」だったからこそ庵主は浅ましくも厳重囲いして、実を守ろうとしたのか? いや、おいしい奴の名前って千里を走るでせうし、兼好先生は、高貴な所出入りしていて情報にも敏感だったようだから、やっぱ柑子だったんでせうね。
〇たわわ
角川古語辞典説明
●「たわわ【撓撓】」副
意味:枝などのしなうさま。(万2315)
★「たわわ」っていうのは、実がたくさんつくこと、成ることをいっているのだとばかり思っておりました。「撓む」の「たわ」だったのですね。
●「たわ【撓】」という名詞は、
意味:①山の尾根の線のくぼんで低くなったところ。(用例:記・中)
とありあすから、「枝がしなう」の元は、「曲がる」というということのようです。また、
●「たをり【撓】」という名詞は、「撓」に同じ(用例:万4169)
とあります。
「た+わ」は、「手」+第10段で確認した上代の「わ」(「走る/巡る」系)なのかもしれません。定かではありません。
〇きびし
●「きびし【厳し・酷し】」形シク
意味:①おごそかだ。厳重だ。(用例:源・真木柱)
意味:②むごい。 手厳しい。(用例:源・若菜・下)
意味:③はなはだしい。ひどい。(用例:沙石集)
意味:④かどだっている。険しい。(用例:(用例:新続古今・釈教)
意味:⑤たいしたことだ。すばらしい。(歌・五大力)
★「厳」の字を「奈良県立万葉文化館」さんの「万葉百科」で検索掛けてみると、「厳しき」には「伊都久志吉(いつくしき)」の万葉仮名が当てられてます(巻5-894)。「巻1-9」の歌でも「厳」は「五(いつ)」の万葉仮名です。日本書紀(神武紀)でも「厳瓫(いつへ)」とか「厳呪詛(いつのかしり)」とか、「厳=いつ」読みがほとんどです。
★「きびし」っていう言い方はどっから来てるんでせうか? 周辺のことばを見回しても、ヒントになりそうなものは一切ありません。
漢字「厳」の音は「ゲン・ゴン」ですから、そこから「きびし」が生まれるとは思えません。
これほど日本人に身近なことばの由来が見いだせないって、どういうことでせう。
★平安時代頃に突如始まったらしい言い回し。『源氏物語』「真木柱(まきばしら)」、「若菜・下(わかな・げ)」とも◆「A Cup of Coffe」さんのサイトで確認させてもらいましたが、すでに今日と同じような、角川古語辞典の①②通りの言い回しです。「きびし」に流れ降りそうな上代語が一切見当たらない!!!!
★慌てるな! 落ち着け! 妄想しろ! 妄想しろ!
「きびしい」っていう言い方が成立するためには、何が必要だ? 「やさし」は、「①つらい」を表す「憂し(うし)」に近い意味からスタートしている。 意味の流れにもっと幅をもたせて妄想しろ! 「きびし」の近くで、上代からではなく、同じ平安時代で、「きびし」に近かったり遠かったりすることばは無い?
●「きはぎはし【際際し】」形シク 特に際立っている。顕著だ。(源・行幸(みゆき))
●「きはだかし【際高し】」形ク 気位が高い。おおぎょうだ。(堤中納言・よしなしごと)
●「きはだけし【際猛し】」形ク 気性が激しい。(源・少女)
●「きはなし【際なし】」自カ四 ①限りがない(源・若菜下) ②限りなく優れている(源・梅枝)
●「きはまりて【極まりて】」副 この上なく。きわめて。(万342)
●「きはみ【極み】」名 極限。果て。(万485)
●「きはむ【極む/窮む/究む】」他マ下二 ①極限まで至らせる(源・明石)
●「きびは」形動ナリ 幼くてか弱いさま。幼少だ。(源・少女)
★幼さをいう「きびは」の「は」は「年端」の「端」なんでせうか?
「きびはなり」と言っていたとすると「極端」(きわめて幼い年齢)という意味だったのか? そして音的には、
「きはみはなり」→「きはむはなり」→「きゃむはなり」→「きゃぶはなり」→「きびはなり」に変化していった?
「おごそか」さについても、「きはまり」などから
「きはんみしき」→「きゃんみしき」→「きんびしき」→「きびしき」などへの変化があった!???
そして、「極まる」物の中にある、強すぎるイメジからだんだんとマイナスな場面のことばとしても使われていった!???
机上空論城主の妄想の限りを尽くしておりますが、そうでもしないと、手がかりが全くないのであります。