老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

『徒然草』第10段 後半(読み納めシリーズ)

1)第10段 後半 要旨

 兼好は、「家の話」繋がりで、豪奢な邸宅に執着する「屋根の上に張った縄」の昔話を持ち出します。それは、兼好自身が一見それと似たような状況に出くわしたことがあったからなんですが、「あの昔話には別の一面があったんじゃないか」と、家造りの話から若干焦点ズレます。

 その昔ばなしに登場した面々(NHK大河「鎌倉殿の13人」世代)を追っかけ、昔ばなしの場面時期を妄想してみたり、兼好がその昔ばなしを思い出した界隈などへも思い馳せます。

 

0)前置き

 以下の4点を参照しつつ『徒然草』を、下手の横好き読解しています。
 ①旺文社文庫『現代語訳対照 徒然草』(安良岡康作訳注/1971初版の1980重版版) 
 ②ネット検索 
 ③『角川古語辞典』(昭和46年改定153版)
 ④中公新書兼好法師』(小川剛生著・2017初版の2018第3版)

 

2)第10段 本文 後半 

 後德大寺大臣 の 寢殿に 鳶 ゐさせじ とて 繩をはられたりけるを、西行が見て、「鳶 のゐたらむ 何かは 苦しかるべき。この殿の 御心 さばかりにこそ」とて その後は 參らざりける と聞き はんべるに、

 綾小路宮 の おはします 小坂殿 の 棟に、いつぞや 繩を ひかれたり しかば、かの ためし 思ひ出でられ 侍りしに、「まことや 鳥のむれゐて、池の蛙を とりければ、御覽じ かなしませ 給ひてなむ」と 人の語りし こそ さては いみじく こそ とおぼえしか。

 德大寺にも いかなるゆゑ か 侍りけむ。

 

3)第10段 後半 訳  

 後徳大寺大臣(ごとくだいじのおとど)の寝殿造りの建物の正殿に、鳶(とび)が止まらないようにと縄を張られたのを、西行(さいぎょう)が見て、「鳶が止まって何が不都合だというのか。この殿のお心持ちはその程度のことか」と、その後は訪問されなかったと聞き及んでいたところ、

  【財産執着の話と理解していた昔話】

 綾小路宮(あやのこうじのみや)が住んでいらっしゃる小坂殿(こさかどの)の屋根の上に、いつだったか綱を張られた時、そのことが思い出されたのだけど、「あそうそう、鳥が群れ止まって、池の蛙(かえる)をたべたので、ご覧になってお悲しみなられたのです」と(小坂殿の)人が語ったのこそ、それはもうたいへん素晴らしいことだと思ったことだった。

 後徳大寺殿のほうにもなにかわけがあったのだろうか。

  【表面的な理解を自分もしていたか】

 

3)ことば とか あれこれ 探索

〇後徳大寺大臣(とくだいじのおとど。藤原実定(さねさだ) 1139-1192) 

 「鎌倉殿の13人」の一人、梶原景時とほぼ同じ頃生まれているので、実定も「鎌倉殿の13人世代」でせう。

 ★Wikipediaの説明など読むと、実定さんラッキーな人です。生まれる前、やがて保元の乱につながる、鳥羽法皇院政下での待賢門院派と美福門院派の対立(説明入れると長くなるので割愛)があって、実定の祖父・実能さねよし。この人が徳大寺大臣と言われたので、実定が後徳大寺と言われた。)は、はじめ待賢門院(たいけんもんいん)派側だったのを、実定17歳頃に、今後優勢になりそうな美福門院(びふくもんいん)派に寝返ります。

 それが直接の要因かどうかはともかく、実定は左近衛権中将(さこんえごんのちゅうじょう)に任ぜられ、以後、26、7歳ころまで昇進を重ねます。

 その26,7歳の頃、昇進ライバル中納言実長卿(ちゅうなごんさねながきょう)に位階先従二位」で先を越され憤慨し駄々こねます。(『古今著聞集』巻1神祇第1ー20)昔の功労話でやっとライバルに互し、それでも満足できず、辞職して、退官功労賞で「正二位」に位されライバル抜きます。世の人「をしみあへり」というのは、「がっかりした」ってことかと思います。

 そこから12年間「散位(位階だけあり官職無し)」を続けたらしいですが、この12年は、実定兄弟らが平清盛から排除されていた期間という見方もあるようです(Wiki)し、『古今著聞集』という本は、西行が、位官昇進を望まない人間は「無下の人(くだらない人)」と考えていた人のように描く本ですから、その辺踏まえて読まないといけないようです。

 ★実定は「鹿ケ谷の陰謀」事件が起こった1177年、その事件の少し前に大納言に還任(官職復帰)します。理由はよくわからないようですが、このあと1179年に清盛のクーデタ「治承三年の乱」(後白河院や鳥羽殿の幽閉)や、平氏が滅亡する「治承・寿永の乱」(1180)へと向かう時期の、様々な思惑の交錯が実定に都合よく働いたってことでせうか。わかりませんがラッキーです。 

 1183年には内大臣に昇進します。そして、清盛の死後、木曽義仲が「法住寺合戦」で一時政権を握った時、実定は喪中で公務から外れていたらしいんですが、清盛から睨まれていた前関白・松殿基房(まつどのもとふさ)が義仲と結んで、自分の息子師家(もろいえ)を内大臣に就かせたりるすも、結局、義仲は敗死、松殿父子は失脚。実定が復帰します。ラッキーです。

 そして、1185年後白河と源義経による"源頼朝追討の宣旨発給"に実定は一旦賛同するのですが、義経はすぐに没。そんな状況の中で、頼朝は、朝政運営にあたる議奏公卿に九条兼実(くじょうかねざね)ら10名を指名しますが、なんとその中に実定も含まれていたのです。超ラッキーです。

 ★頼朝がなぜ実定を選んだのかわかっていないようですが、まあ、そもそも、「徳大寺家」は、大昔の藤原房前に遡る藤原北家の流れで、あの藤原道長のお爺ちゃん藤原師輔の子、つまり道長の叔父さん(道長の父兼家の兄)公李に始まる「閑院流」の流れである「三条家」「西園寺家」「徳大寺家」という三名門の一つです。「閑院流」は、道長ら師輔本流の「九条流摂関家」に次ぐ家格の「精華家」であったそうです。そもそもがセレブ中のセレブですし、あの和歌の藤原俊成(としなり/しゅんぜい)藤原定家(さだいえ/ていか)は、九条流の流れながら、実定の叔父さん従兄弟にあたるそうです。藤原定家も「鎌倉殿の13人」世代です。

 それに、徳大寺家も和歌の家系として有名で、実定ものちに藤原定家百人一首に歌「ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる」が採られるほどの歌人でしたから、あるいはそういったことが幸いしたのかもしれません? わかりませんがセレブは?ラッキーです。 

 ★九条兼実(当然、藤原九条流の人)は、有職故実の権化のような人、つまり、今風に言えば、世間人情のしがらみよりは、しきたり、法律、第一的な人だったような感じですが、その兼実と実定はうまくいったようなので、頼朝は、実定の中にもそういう気質をみていたのかもしれない、などと九条兼実の印象も含め、あくまでも、読書感想文派、上っ面派の妄想的見解です(九条兼実については別途どこかで改めて)。

 ★西行は実定の20歳くらい年長です。また、出家前に実定のおじいちゃん徳大寺実能に武士として仕えていたので、実定(後徳大寺大臣)に対して上から目線は納得します。

 二人とも兼好からは、一世紀半くらい前の人たちです。西行が後徳大寺の大臣の寝殿を訪れた本段の話も『古今著聞集』(巻15宿執着23-14)の中にあります。西行が出家し、諸国巡礼修行して京にもどって来たタイミング、かつ、西行が仕えていた徳大寺実能もその子公能(きんよし)も今はなく実定ら孫世代の頃という時間設定のようです。

 ★西行は、出家後、陸奥高野山、四国、伊勢、亡くなる4,5年前にも、おそらく1185年の文治地震で被害の出た東大寺の修繕勧進のために再度陸奥へ旅したりしています。ずーっと京から離れていたわけではなく、出かけては戻りということだったようです。

 上述の、実能、公能が亡くなったあとで、西行が京に戻るタイミングというのは、四国への旅のあとの1170年の平清盛(きよもり)主催の千僧供養に参加したり、1177年の高野山の蓮華乗院(れんげじょういん)の移築にかかわったりしている西行50代後半、実定は30代後半ころじゃないかなと妄想するわけであります。で、その1177年に徳大寺大臣は官職復帰しているわけです。屋敷のことに執着したりするのは(もちろん現代のマイホームパパ的に、本人が縄張ったりはしないでせうが)暇なときかもしれないなどと妄想を逞しうすると、その官職復帰の前頃までのタイミング、てなことを思ったりするわけであります。

 

西行(さいぎょう。1118-1190) 

 俗名・佐藤義清(⇦これで"のりきよ"。他に憲清、則清、範清などとも書くそうです)。
 言わずと知れた、和歌の有名人。家は代々の武士(俵藤太秀郷たわらとうたひでさと九代の嫡流?。裕福)で、十代半ばで徳大寺実能(さねよし。実定さねさだ祖父)に出仕。おそらくそのころに妻も娶ったと推定されるらしいです。

 保延元年(1135年)下北面武士として鳥羽院にも奉仕。この頃、同時期の北面武士に同い年の平清盛(1118-1181)がいたらしいです(Wiki)。

 実はそこにもう一人NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で活躍した文覚鳥羽院北面の武士の一人としていたらしく、武士から僧形への転身は西行と同じながら、自身の荒法師キャラクターのゆえもあって? 後に歌道で名をなしていく西行には憎しみを抱いていたが、実際に西行と対面した際には西行の資質を見抜き、穏かに対したそうです(『井蛙抄』)。

 ★西行北面の武士を5年ほど務めた後(1140年・保延6年10月)、23歳の若さで出家・遁世。法名円位。遁世後、京都近郊で草庵生活を送ったあと、陸奥高野山、四国、伊勢、再び陸奥、伝説としては九州までという旅や移住を行い、最後は河内国の弘川寺(葛城山の大阪側山裾辺)で、鎌倉時代の幕開けの頃の建久元年に73歳で亡くなっています。

 ★この間、勅撰集で『詞花集』に1首(初出)、『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして、勅撰和歌集(21集)いづれかへの計265首の入撰歌など含め、約2300首の和歌が伝わっているそうです(Wiki)。

 徳大寺家の祖父ちゃん(実能)に仕えたことのある西行が、その孫の実定の振る舞いに、上から目線の言葉を放ったというのも、あり得なくもない話だったようにも思われますし、西行が頼朝と面談したという逸話や、藤原俊成(歌道で西行の先輩)、定家父子との和歌を通じた関係性などから、この段に登場する面々の一定の関係性が兼好によって想定させられていたんでせうね。

 

 ★西行の歌の評価として、Wikipedia の一節を、少し長いですが引用させていただきます。
 《『後鳥羽院御口伝』に「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく 出できがたき かたも ともに あひかねて 見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」とあるごとく、藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。

 歌風は率直質実を旨としながら、強い情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが恋歌や雑歌に優れていた。

 院政前期から流行し始めた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美運子をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。

 また俗語や歌語ならざる語を歌の中に取り入れるなどの自由な詠み口もその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。

 後鳥羽院西行をことに好んだのは、こうした平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風が、彼自身の作風と共通するゆえであったのかも知れない。》

 

★「いつか読むかもしれない」と、むかしむか~し、買い溜めていた西行の『山家集』(佐々木信綱校訂/岩波文庫)を、今回初めて本棚から引っ張り出し、読んでみました。

 歌数が多いので、「春歌」「夏歌」などの15の「題目」ごとに適当に当り、Wiki に書かれている大仰な誉め言葉に相当する証左部分を探すような気持ちだったのですが、読んでみて感じたのは、西行さんは現代人だ」ということでした。

 「春としも なほおもはれぬ 心かな 雨ふる年の ここちのみして」「春歌」冒頭の歌です(佐々木信綱さんの岩波文庫版でない「山家集」では別の歌のようですが)。

 ここで言っている春というのは新春つまり新年で、それは今日の立春のころだったようです。で、歌に添えられた「詞書(ことばがき)」によると、新年になる前頃に春の雨が振り出して、「雨年かよ、春が来たって気になれないじゃないか」ということを歌ってるらしいんです。

 この歌は、『古今集』冒頭の「年のうちに 春は来にけり ひととせを こぞとやいはむ ことしとやいはむ」(在原元方・ありわらのもとかた)を念頭に置いてはいるようなんですが、『古今集』的、元方的問いかけ(それを請けるのが和歌の伝統?)などは無視して、雨に降られた自分の気持ちに焦点を当ててます。

 よく言われる西行の「生活密着」型の「抒情性」っていうのが、こういう21世紀人的な「ありのまま」さ加減なんだなと感じます。

 同時代の歌人たちは、雨といえば「身を知る雨」とか、そういう昔からの雨発想から抜け切れずにいた時代に、見たまま、感じたまま、ありのままっていう物差しで、歌を歌うことが、なぜか西行にはそれがごくごく当たり前だったらしいのです。中世人的 Let it Go! です。

 ですから西行と言えば必ず言われる「寂寥感」というのも、現代人が感じる孤独感のような角度の孤独感を早くも12世紀に感得してそのまま表現しているので、当時の人々にとっては、全く斬新な世界だったようです。 

 いい歌いっぱいあるので、具体的に紹介したいのですが、やりだすときりがないことがわかっているので我慢します。「詞書」の感性もそんな感じなんで、1100年代の現代人のメモを読むような気になったりします。

 

〇綾小路宮(あやのこうじのみや 生没年未詳=性恵法親王(しょうえほっしんのう・ほうしんのう))

 亀山天皇(かめやま90代天皇1249-1305)と宮人三条公親女(さんじょうきんちかむすめ)との皇子(Wiki)。

 生没年は未詳ながら、弘安(こうあん)7年(1284)天台宗妙法院(みょうほういん)で出家、翌年親王となる(※追記。この、出家後に親王宣下を受けた皇子法親王と呼ばれたそうです《 ◆「中世前期の王家と法親王」佐伯智広 》)。のち同院門跡(もんぜき=法流継承の住職の意味合いらしいです)となった。綾小路宮とよばれた(コトバンク)。

 ★この方が仮に亀山天皇20才くらいの時の皇子ならば、兼好より15歳くらい年長ながらも、まあ兼好と同時代の人と言えるでせう。

 そして、この小坂殿(こさかどの)という建物は、「妙法印内に存した院の一つ」と安良岡先生の脚注にあります。妙法院というのは、現在は京都国立博物館の東側です(この話の頃の位置は事項で説明)。

 とまれ、小坂殿に関して、小川先生の『兼好法師』(66p辺)が、妙法院(小坂殿)が存した、京・六波羅一帯の意味合い、そしてその一帯を歩き回る兼好とを面白く説明してくれます。

 それをひとことでいうと、そのころの六波羅は武士と公家、土倉(金融業者)らが蝟集した新興都市だったということです。少し前『ブラタモリ』で見た「逢坂の関」を越えて来て、山科盆地に入り、そしてまた東山を越え、(五条通りに至る道で?)京に入る鴨川の手前一帯が六波羅ですからね、鎌倉や関東方面からの武士らは、まずこのあたりに居ついたってことでせうかね。

 鶯が鳴いた794年ごろから造営された平安京も、はやくも9世紀(800年代)後半には火災の頻発や疫病の流行などで右京側(桂川の氾濫等もあって?)が荒廃、農村化していき、京の機能が左京(東)側に偏っていったらしいです。やがて平安宮(大内裏)すら「内野(うちの)」と呼ばれる状況になっていくというようなことが、小川先生の『兼好法師』にも書かれています。商工業者や新参の武士たちの住まいが、左京、下京の外に広がっていたのは、京の歴史そのものでもあったようです。

 ある日兼好はこの新興都市を闊歩し、小坂殿に差し掛かるとその屋根に張られた縄を発見し、あの昔話を思い出したってことらしいです。

 

妙法院(みょうほういん)  

 皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称する(Wiki)。 

 《 京都市東山区妙法院前側(まえかわ)町にある天台宗門跡(もんぜき)寺で、山門五箇室門跡の一つ。

 もと比叡山西塔(ひえいざんさいとう)妙香院に起源し、1160年(永暦1)法住寺離宮のそばに日吉山王(ひえさんのう)を勧請(かんじょう)したとき、護持僧として招かれた妙法院昌雲(しょううん)の住房として移し、これを新日吉(いまひえ)と称した。

 1164年(長寛2)後白河(ごしらかわ)法皇法住寺殿内に建てた蓮華王院(れんげおういん)と、法住寺とを昌雲が管掌した。後を継いだ実全が1202年(建仁2)天台座主(ざす)となり初めて妙法院の号をたてた。

 高倉(たかくら)天皇第2子尊性法親王(そんしょうほっしんのう)が入寺し、1227年(安貞1)天台座主となり、綾小路(あやのこうじ)小坂に移建され、天台座主三門跡の一となる。

 以来法親王が入り、新日吉門跡、皇門跡、綾小路門跡などと称され、法住寺・蓮華王院の法燈(ほうとう)を嗣(つ)いだ・・・。》

コトバンク[塩入良道]出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)) 

Wikipediaでの妙法院の説明では、

《 天台宗の他の門跡寺院青蓮院三千院など)と同様、妙法院比叡山上にあった坊(小寺院)がその起源とされ、初代門主伝教大師最澄)とされている。その後、西塔宝幢院の恵亮が継承し、その教えを伝えたとされている。その後、平安時代末期(12世紀)、後白河法皇の時代に洛中に移転し、一時は綾小路小坂(現在の京都市東山区八坂神社の南西あたりと推定される)に所在したが、近世初期に現在地である法住寺殿跡地に移転した。 》

《 妙法院門主系譜では最澄を初代として、13代が快修、15代が後白河法皇法名は行真)、16代が昌雲となっている。続く17代門主の実全(昌雲の弟子で甥でもある)も後に天台座主になっている。18代門主として尊性法親王後高倉院皇子)が入寺してからは門跡寺院(綾小路門跡)としての地位が確立し、近世末期に至るまで歴代門主の大部分が法親王(皇族で出家後に親王宣下を受けた者を指す)である。

 鎌倉時代妙法院は「綾小路房」「綾小路御所」「綾小路宮」などと呼ばれたことが記録からわかり、現在の京都市東山区祇園町南側あたりに主要な房舎が存在したと思われるが、方広寺大仏に隣接する現在地への移転の時期などは正確にはわかっていない。 》

 ★ごちゃごちゃしてますが、要するに最初期は、比叡山中に起こり、12世紀後白河のころ洛中に移転し、13世紀(1227年)に、尊性法親王天台座主になったころから綾小路小坂にあると、鎌倉時代も認識されていたが、その後、現在地へ移転したがその時期はあきらかでないということらしいです。

 尊性法親王(1194-1239)は後高倉皇子で、1283年頃といわれる兼好の生誕の半世紀前頃に亡くなっているので、この18代尊性法親王の後の、「近世末期に至るまで歴代門主の大部分が法親王」の中の、兼好の時代の一人が「性恵法親王」だったということになるようです。

 

〇ゆゑ 

 角川古語辞典 説明
●「ゆゑ【故】」

 [1]名
  意味:①物事の起こる理由。原因。(用例:更級) 

  意味:②風情。趣き。(用例:紫式部)  

  意味:③人の品格。身分。由緒。(用例:源・葵) 

  意味:④根拠。出典。(用例:源・常夏) 

  意味:⑤事故。変事。(用例:人・娘節用)

 [2]形式名詞

 (体言や活用語の連体形について)・・のために、・・によって、・・なので、などの意味を表す。(用例:万21 / 源・桐壺)

★これで見ると、上代用例のある「~ゆゑ」「~ゆゑに」っていう形式名詞の用法から、名詞の用法が平安時代以降固定されていったと受け取れるようです。

★「ゆ」は、第1段で見た、「マジカルなパワーの源泉」の「ゆ」かと思います。
★「ゑ」の上代的意味は、角川古語辞典によれば、

  「故」の意味の「ゑ」、

  「飢え」、

  「穢れ」、

  「酔う」、

  「笑む」など。

 「飢え」を除けば、「ゑ」も、何かが内側から湧きでてきて作用を及ぼすような現象を言っているように感じます。「由来の元」というニュアンスが「ゆゑ」ではないかと。定かではありませんが。

 

〇まことや

 角川古語辞典の説明

●「まこと【真実・誠】」
 [1]名詞
  意味:①真実。本当。実際。(用例:源・若菜・上)
  意味:②人に対して道徳適に偽らないこと。誠実。真情。(用例:続紀宣命

 [2]副詞
  意味:ほんとうに。(用例:万245

 [3]感動詞
  (何か思いついた時の)そうそう。ほんとうに。(用例:宇津保・俊蔭)

●「まことや」※「まこと」の子見出し
  意味:「まこと」[感動詞]におなじ。(用例:源・須磨)

★以上の辞書説明通りに「まことや」は「感動詞」として「あ、そうそう」と何か思い出した風に訳しています。 

★「まこと」の、「ま」は「真っすぐ」、あるいは「真っすぐな神霊」のことじゃなかったんでせうか? 角川古語辞典の「まつきことば」を見渡してそんな気がしてきました。

●「まが【禍】」名 意味:悪いこと。災い。(用例:記・上
  ➡「ま」(真っすぐ)に「が」(交差する力=バイアス)あるいは「真」の神聖な力を「枯らす力」がかかること?

●「まかい【真櫂】」名 意味:船の両側に取り付けた櫂。(用例:万433)→「まかじ」に同じ。
  ➡古代において、「櫂」は先端技術で、神霊の「ま」を付けて称賛した?

●「まかごゆみ【真鹿児弓】」名 意味:シカやイノシシを射た弓。(神代紀
  ➡神聖なほどまっすぐな矢(を弓と言った?)だったんでせう。

●「まかたち【侍女・侍婢】」名 意味:貴人に付き添い使える女性。
  ➡これは、よく、わかりません。※別系統の解釈が必要?

●「まがたま【曲玉・勾玉】」名 意味:上代、装身用の曲がった玉。(用例:記・上
  ➡本来真っすぐなものに(仮想の)交差する力、真っすぐを枯らす力が加わると「曲が」ると考えられていたってことかと。

●「まかなし【真愛し】」形シク 意味:ほんとうにかわいい。とても愛しい。(用例:万3567
  ➡「かなし」は次項で説明しています。

●「まがひ【紛ひ】」名 意味:①交じり乱れること。(用例:万3963
  ➡まっすぐなものに交差する力、真っすぐの神聖を枯らす力が加わって、曲がる柔軟性がなければ、乱れる?

★まだまだ、続きますが、きりがないので、以下割愛します。その中で、重要だなと思われることばが「禍る」です。

●「まがる【禍る】」自ラ四 ⦅災難が起こるの意から⦆死ぬ。(記・上
  ➡この「まがる」は「ま」の霊力が枯れたことを意味しているように感じますが、それは、「罷る」=「目離る」=目から離れる、見えなくなるという意味と二重の意味、いわゆるダブル・ネーミングになっている気がします。

 「罷る(まかる)」系統のことばもたくさんあります。

 で、「禍る」や「罷る」の 大元は「目(ま)」に見えるものこそ真実で、エネルギーも宿っており、その力は純粋、真っすぐなものであり、それが妨げられると災難は起きると考えられていた のではないかと思うのですが、どうでせうか? 

●「ます【坐す・座す】」

 [1]自サ四

 意味:①「あり」「をり」の尊敬語。いらっしゃる。(用例:万172
  ➡これも、「目」で見もうしあげておりますってことなんですよね。

 意味:②「行く」行くの尊敬語。いらっしゃる=行かれる。(用例:万3996
  ➡これも、貴人の動きを見守って、動く動作を見ているという意味でもいいと思いますし、「ま」に真っすぐのエネルギーありましたから、貴人のエネルギーの動きを指しているともいえるようです。

 今まで、なんとなく、そこに「いらっしゃる」と、移動して「行かれる」が、おなじ「ます」で表現されることを若干の違和感覚えつつ、漠然と受入れていた気がします。今回、少し見え方が変わり嬉しいです。定かではないんですけどね。

★「感動詞」の「まこと」「まことや」(あ、そうだ)は、用例が平安時代ですので、上古、神聖厳かであった「まことば」も、平安時代にはいると、ずいぶん身近な言い回しになっていたってことかと妄想します。これも定かではないですが。

 

〇かなしむ

  角川古語辞典の「かなしむ」関連列挙します。

 ●「かなしむ【悲(哀)しむ】」他マ四 「悲(哀)しぶ」に同じ。(用例:源・宿木)

 ●「かなしぶ【悲(哀)しぶ】」他バ上二・四 意味:嘆く。悲しく思うこと。(用例:源・手習)

 ●「かなしぶ【愛しぶ】」他バ上二・四 意味:めでる。珍重する。(用例・古今・序)  

 ●「かなし【悲し】」形シク 
    意味:①心に哀切の情が染みる。嘆かわしい。楽しくない。(用例:万793
    意味:②かわいそうだ。きのどくだ。(用例:源・帚木)
    意味:③残念だ。癪だ。(用例:宇治拾遺5)
    意味:④きびしい。(用例:今鏡・藤波・上)
    意味:⑤貧しい。(浮・縅留)

 ●「かなし【愛し】」形シク
    意味:①可愛い。いとおしい。(用例:源・夕顔)
    意味:②興味深い。おもしろい。(新勅撰・旅)

 ●「かなしけく【悲しけく】」〘上代の未然形「かなしけ」+準体詞「く」〙意味:悲しいこと(に)。(用例:万3969

 ●「かなしがる【愛しがる】」他ラ四 意味:可愛いと思う。(用例:枕92)

 ●「かなしけ【愛しけ】」〘上代東国方言〙⦅形容詞「かなし」の連体形「かなしき」の転⦆ 意味:いとしい。恋しい。(用例:万4369) 

 

 ●「かぬ【予ぬ】」他ナ下二 
    意味:①先のことを心にかける。(用例:万3410
    意味:②予想する。(用例:万1047

★「かなしむ」は、上代にあった「かなし」から派生したようです。上代の「かなし」は、ある状況に接して湧いてくる「悲しさ」が大元だったように思いますが、上代東国方言にあったように「いとしい」という意味の用法もあったようです。

 それが、平安時代になってはっきりと「悲しい」思いと、「愛しい」おもいで「かなし」は使われるようになったと妄想します。

 ★で、その「かなし」がどういう根源のベクトルを持つことばかというと、「かぬ」が、①先のことを思う、②予想するという意味のことばであるということから推測すると、自分の思いをある方向にむける・自分の思いがある方向に向かうニュアンスを感じます。

 ★「かぬ」も源はなにか? 例えば、

 「かはす【交わす】」=移す(万4008)。

 「かへる」=もとに戻る(万801)。

 「かよふ」=往来する(万4005)。

 「かる」=離れる(万373)、疎くなる(万3910)

 などのことばから感じられるのは、「か」一音のなかに「動き」が潜んでいるということです。

 ★「かなしむ」というのは、そもそも、思わず感じられる(心がそちらに向いてしまう、動いてしまう)、惻隠の情のような心の動きを言ったが、その、つい心が向かう先の代表格が「悲しみ」と「愛おしさ」だったので、「かなしむ」と言えば、「悲しむ」か「愛しむ」が通り相場になった、ということかと妄想します。もちろん定かではありません。

 

令和6年新年2日め

 

1)夕方のNHKニュース

 夕方6時近く、お腹が空いてキッチンのほうに行ったら、母が見ていたNHKニュースで、羽田空港での旅客航空機炎上のニュースをやりだした。

 最初女性のアナウンサーの声だったけど、すぐに男性アナウンサーが替わり、違うかもしれないけど、声の感じと、NHKアナウンス室の顔写真からいうと、糸井羊司アナウンサーだったか。

 

2)冷静沈着

 空港に設置の、NHKのカメラ映像だけの情報しかない中で、男性アナウンサーは、カメラ映像から確認できる事実と、そこから類推される事柄と、類推が犯しがちな想定過剰とを冷静に選り分けながら、刻々進展する映像の中身と、徐々に増えていく断片的な外部情報とを、冷静沈着に整理、実況中継しいていった。

 (追記:空港設置のカメラは、乗客脱出の反対側をずっと映していたので、放送時間内は反対側からの機体が燃え上がっていく姿しか見えていなかった)

 空港ロビーから入る、NHK記者からの音声レポートでは、見えない発着のインフォメーション・ボードを、自分からは見えない点ををはっきりさせながら、空港ロビーにいる記者が伝えている内容に足りないと思われる、航空会社からの情報の掲出の有無の点などの確認を記者に促すなど、テレビ視聴者の知りたい心の動きと報道の一体性が、途切れないよう常に配慮しているのがわかった。見事だった。

 ニュースを見ていた人はわかると思いますが、着陸した飛行機が衝突火を噴いて、その火が機体の中にどんどん回っていく、その短い時間のさなかに、千歳空港からの376名の乗客をすべて脱出させた乗務員らの誘導の見事さ(推測)、その誘導に応えた乗客の冷静な行動(推定)など、詳細はこれから徐々に明らかになっていくと思いますが、 ほんとうに驚嘆でした。

(※重ねて追記:脱出の情報などはアナウンサーに届いた情報としてアナウンサーが逐次実況したので、時間中のテレビ映像としては、機体が燃える映像ばかりだった。)

 

 能登もまだ大変な状況のようです。そのことにも、糸井さんは気を配ったアナウンスしてました。ただただ、敬服でした。

 

元旦が甲子でスタート

 

1)昭和99年元旦

   元旦やピーカンの下の縁(えにし)かな

 元旦のピーカンの真っ青な空を眺めていると、この空の下にいて、普段すっかり忘れているあの人、この人。やっぱ、思い出したりするものですね。

 

2)干支が1番からスタート

 今日の干支は甲子(きのえね)。干支の第一番。元旦が干支1番からスタートするのは何年置きか? 60日で干支1回転なので、年間6回転+5日消化ってことは、ああわからん。

 まあ、その余分の5日で60干支が回転すれば12年なんだろうけど、閏年が4年ごとに挟まってくる。ああわからん。算数、数学だめなのばれます。

 まあ、そういう、なかなか来ない干支第一番目の甲子日スタートの年です。紛争とかもリセットできないもんすかね。

 

 

3)16:14追記

 能登半島地震が起き、その余波が関東にまで届いた。

 何年か前の新潟地震だったかの時とそっくりで、大きな波がゆっくり届くタイプの地震。ここも1、2分?ゆっくり揺れる感じになった。

 残念ながら、今年も呑気な一年にはなれそうもないみたい。

 

『徒然草』第10段 前半(読み納めシリーズ)

 

1)第10段 前半の要旨

 「家はその人を語る」という「家居」(戸建て住居)の話です。特に凝った造りなどせず、その人らしい家が一番だといいます。

 技巧などやがて消える煙みたいなもんじゃないかと、華やかな技巧に感じる流行りと廃れへの眼差しは、やっぱ兼好さんなかなかのものだと思うのですが、出家遁世を言いながら、ついその角度の審美眼から、現世への拘りも働いてしまところが兼好さんらしいようです。

 「わびし」のことば探索では、この時代の「出家遁世」熱やその後の「わび・さび」に通じる、根本動機のようなものを妄想したりします。

 

0)前置き

 以下の4点を参照しつつ『徒然草』を、下手の横好き読解しています。

旺文社文庫『現代語訳対照 徒然草』(安良岡康作訳注/1971初版の1980重版版) 
②ネット検索 
③『角川古語辞典』(昭和46年改定153版)
中公新書兼好法師』(小川剛生著・2017初版の2018第3版)

 

2)第10段 本文前半 

 家居 の つきづきしく あらまほしき こそ かりのやどり とは 思へど、興 ある ものなれ。

 よき人の のどやかに 住みなしたる所は、さし入りたる 月の色も、ひときは  しみじみと 見ゆるぞかし。今めかしく きらゝか ならねど、木だち ものふりて、わざと ならむ 庭の草も 心あるさまに、すの子、すいがいの たより をかしく うちある 調度も むかし 覺えて、やすらかなる こそ 心にくし と 見ゆれ。

 多くの たくみの 心を盡して みがきたて、からの やまとの めづらしく、えならぬ 調度ども ならべおき、前栽 の 草木まで 心の まゝ ならず 作りなせる は、見る目も くるしく いとわびし。

 さても やは ながらへ 住むべき。また 時の間の 煙ともなりなむ とぞ うち見る よりも おもはるゝ。

 大かたは  家居に こそ ことざまは おしはからるれ。

 

3)第10段 訳 前半 

 住居が調和がとれて望ましい感じなのが、無常のこの世で暮らす仮の宿だとは思っても、趣きあるものだ。

  【身の丈に合った家の造りはいい】 

 高貴な人がゆったりと住んでいるのは、差し込む月の色あいも一段と趣き深く思われることであることだよ。当世風のきらびやかな感じではないが、植栽の木立ちがどことなく古び、特に力をいれたようでもない庭の草も趣きがあり、簀子、透垣の配置が優美で、なにげに置かれた手回りの道具類も昔が思い出され、やすらぐ感じがまた奥ゆかしいのだ。

  【立派な人の閑静なたたずまいには趣きがある】 

 多くの職人がが精力を傾けて飾り立て、外国風であれ和風であれ、優れた、この上ない道具類なども並べ置き、庭植えの草木まで自然に任せるのでなく造作しているのは、見た目に心穏かでなく、やりきれない。

  【人工物より自然なものの方がいい】

 そんな状態で、長く住み続けられるだろうか。あるいは、やがて消える煙にさえなるんじゃないかと、パット見から思われる。

  【華美は廃る】 

 大体は、家の造作にこそ(家主の)心持ちのほどは、おしはかられるものである。

  【人は家で分る】

 

4)第10段 前半 ことば とか あれこれ探索

〇家居(いへゐ) 

 角川古語辞典の説明 

●「いへゐ【家居】」名詞

  意味:①家を造って住むこと(用例:万1829
  意味:②家。住居。(同:源・須磨)

★「いへゐ」が万葉語であったことはなんか驚きです。

★「いへゐ」の「い」は前段で見た「寝」なんでせうか?

 角川古語辞典の「い」の上代語は、「い【寢】」と、前語を指示強調する上代の間投助詞「い」くらい。
 「い【寢】」は、前の第9段で「いもねず」の説明で登場したばかりですが、

●「い【寝】」名 

  意味:ねること。睡眠。(用例:万3665)→やすい

●「いをぬ【寝を寝】」(「い【寝】」の子見出し) 

  意味:ねる(同:万4400)→いぬ   

★これに対し「ゐ」<音は「うぃ」でいい?>の上代語は、

●「ゐ【井】」名 

  意味:①泉や小川から飲料水をくみとる所。 

  意味:②穴を掘って地下水をくみ取るところ。掘り井戸。(万1128)  

●「ゐあかす【居明かす】」他サ四 

  意味:起きたまま夜を明かす(用例:万89) 

●「ゐしき【居敷】」名 

  意味:①座席(用例:神功紀) 

●「ゐで【井出】」名 

  意味:「ゐ【堰】」に同じ<=水の流れを堰き止め、用水をためおく所>。(用例:万1108) 

●「ゐなか【田舎】」名 

  意味:①都を離れた地方。農村。(用例:万312)=ひな。 

●「ゐぬ【率寝】」他ナ下二 

  意味:連れて行って一緒に寝る。共寝。(万・382) 

●「ゐまちづき【居待ち月】」名 

  意味:②[枕]居待ち月は明るいので「明かし」にかかる(用例:万388) 

●「ゐや【礼】」名 

  意味:敬うこと。礼儀。礼。(用例:敏達紀)=うや  

●「ゐやじろ【礼代】」名 

  意味:敬意を示すために捧げる物。礼物。(用例:記・下)=ゐやじ。ゐやじり。  

●「ゐやなし【礼無し】」形ク 

  意味:失礼だ。無礼だ。(用例:記・中)=なめし。 

●「ゐやまふ【礼まふ・敬まふ】」他ハ四 

  意味:<「ゐやむ【礼む】」に同じ>=敬う。礼をいう。(用例:崇神

●「ゐる【居る】」1⃣自ワ上一 

  意味:①すわる(用例:万568) 

  意味:④〈船が〉泊まる(用例:万2831)      

★「ゐ」のつくことば自体がすくないので「ゐ」がついて上代の用例をもつことばはこれで全部です(角川古語辞典上)。

★こうやって、見ると、「ゐや【礼】」系のことばは、ちょっと脇に置くとして、水が湧き出す井戸の「ゐ」とか、水の流れをとどめおく堰の「ゐ」とか、人を率いる意味の「ゐ」とか、「ゐ」には「動き」が内臓されているように思います。

 「居明かす」「居る」「泊まる」の「ゐ」も、動いているものがある個所で留まっている(しばらくしたらまた動く)ことが原意なんじゃないでせうか? その仮定(妄想)を踏まえ、「いへゐ【家居】」はどう解釈したらいいか? 

★「ゐなか【田舎】」も、「なか」がなんなのか要検討語だと思うので、これも一旦脇に置きます。

 

★「いへ【家】」は、角川古語辞典を見ると、紛れもない上代語で、関連の上代語が無数にあります。

 「いへ」が「家」であることは間違いないようですが、実は「【家】」(用例:万837)だけでも「家」だと記載されています。

★「うぃ」音でない「い」と、「うぃ」音の「ゐ」との違いあたりの基本知識がなく、若干もどかしいのですが・・。

 

コトバンクの「家 いえ」を見ると、<出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典>

《 日本において家族生活の場であり,伝統的な社会の構成単位である親族集団をいう。語源「いへ」の「へ」はヘッツイ (かまど) のこと。火をともにする集団を意味した。 》

 という解説があります。

 同じコトバンク内の他の説明では、

《 「へ【▽家】」《「いへ」の音変化》いえ。人家。「春の野に鳴くやうぐひすなつけむと我が―の園に梅が花咲く」〈万・八三七〉(出典 小学館デジタル大辞泉) 》

 のように、「いへ」音の縮約形と見る見方もあります。

★そこで、改めて「家の語源」をネットでググってみました。

 

◆「家の語源・由来」さんのサイトより。

《 家とは、人が住むための建物。住まい。家屋。生活の中心となる場所。

 家の語源.由来

 ・家の旧かなは「いへ」で、語源は諸説あり、家は古く「小屋」をさし、「小さな家」をあらわす「庵(いほり)」の「いほ」と同根とする説.

 ・家は「寝戸(いへ)」の意味とする説や、「睡戸(いへ)」の意味とする説など、家の「い」が「寝る」を意味し、「へ」が「戸」に通ずるとする説.

 ・家の「い」は接頭語で、「へ」は容器を意味し、人間を入れる器を意味する説などがある。 》

 それぞれに、拠り所あっての説なんでせうが、なんかバラバラです。

 

◆「知らなかった日本に出会う ハッケン!ジャパン」さんのサイトでは     (原文/平井かおる(日本の神道文化研究会)) 。

《「いえ(家)」は、ハウスじゃなくてホーム 

 国語辞典で「いえ(家)」を引いてみると、最初に「人が住む建物。家屋」と出てくる。しかし元々の意味を調べると、ちょっとニュアンスが違う。

 「いえ」は、古語では「いへ」と書く。「い」という言葉は、それだけで「神聖なもの」という意味を持ち、「へ」は「辺(あたり)」の意味。つまり、いえとは「神聖な辺り」、生きていくパワーが集まる場所のことをいう
 ちなみに「建物」の方は、「や(屋)」。やど(宿)の「や」で、物理的に雨風をしのぎ体を休ませる場所、という意味だ。
 いえは「や」である以上に、人が生きていく活力を養うために帰るべき場所。英語でいえば「Home」ということになる。 》

 

 ★「家の語源・由来」さんのサイトの、「い」が「寝」という、こちらの当初の妄想に合致しそうな説にも、惹かれるのですが、

 「へ」を角川古語辞典で追っかけると「へ」が「辺」である上代の用例の多さに、こりゃなんかあると感じていたので、「い(斎)」+「へ(辺)」=「家」とする《知らなかった日本・・》さんの解釈は、そう言い出した古代人の言霊への畏怖心のようなものも感じさせて、すご~く説得力あります。

 それが正解なのかどうかはともかく。ライターの平井かおるさんは、参考文献に、『ひらがなでよめばわかる日本の言葉』(中西進著/新潮文庫)、『岩波 古語辞典』(大野晋佐竹昭広・前田金五郎編/岩波書店)、『古典基礎語事典』(大野晋編/角川学芸出版)『暮らしのしきたりと日本の神様』(双葉社)を挙げられています。

 正統派です。やっぱ、専門書なしに専門的な話するのは、無謀なんでせうね。
 

★でも、そうなると、本式のお勉強ですからね。机上空論城の城主、読書感想文派としては、もうしばらくこのまま行きます。

 

★上述の「い」の追っかけで「角川古語辞典の「い」の上代語は、「い【寢】」と、前語を指示強調する上代の間投助詞「い」くらい。」 と書いたのですが、実は、すいません、これは誤りのようです。

 角川古語辞典には、『「斎〈齋〉」造語 忌み清めた、神聖な、の意を表す。「—串」』 という記載もあったのですが、「造語」ということばが理解できておらず、スルーしておりました。同じく「い(五)」と「い(五十)」も「造語」であったために併せてスルーしておりました。

◆ネットで「造語」をググったら、青山学院大らしい山下喜代先生「国語辞典における語構成要素の扱いについて」というPDFがまさにこの「造語」を扱っていて、接頭語と言い切れず、また、単語にもなりきれていない 語基部分のことうをいうらしく、1952年に『三省堂改定明解国語辞典』で「造語成分」として登場したのが初めてらしいです。

 角川古語辞典の「斎」の用例に上っている「斎串(いぐし)」は、「五十串」とも書かれ、玉串のことで、万葉集3229歌の用例があるということですので、「い【斎】」も間違いなく上代語でした。

 ですので、

「家居」は、「斎(い)」つき「辺(べ)」に人がやってきて留まるということを言っていると、解釈します。

 

★余談ですが、2005年頃、所沢に引っ越してきて、自転車で神社仏閣巡りしました。

 大きめの神社はもちろん畑の脇(所沢は地質のせいで水田が少ない)の祠とかにも干支月日とか有志銘とか見つけ、そしてウカノミタマ(穀物神)の神名が他の神に混ざってよく記されているのなど見て、村を開いた当時の人たちの思いや姿を偲んだもんですが、そのときのことを思い出しました。

★とまれ、中世人の兼好が「家居」(戸建て住居)と言った時、兼好の頭にこういう語源ばなしは、もちろんなかったでせう。「家居」といった兼好の頭の中には、公家の屋敷や武家屋敷、隠棲者が住まう里山掘立柱建物なんかが浮かんでいた、ということになるかと思うのですが。

 よく言われるように、消滅しかかっていたものの、まだ、鎌倉時代のどこかには、竪穴住居に住んでいた庶民もいたそうです。まあ、兼好は見たことなかったでせうか? 後の段(14段)に出て来る「あやしの賤(しづ)」とか「山賤(やまがつ)」なんてことばのレンジ(想定の範囲)が気になりますが、それはまた改めてですね。 

 

〇つきづきし

●「つきづきし」形シク  角川古語辞典の説明

  意味:似つかわしい。ふさわしい。調和がとれている。しっくりしている。(用例:枕1/徒然草10)

★前段で述べた上代「付く」(=付着)系統のことばだと思います。この対義的なことばに相当すると思われる

●「心づきなし」

  意味:①共感できない。心が惹かれない。(用例:源・夕顔) 

  意味:②気に食わない。不愉快だ。(同:源・若菜・下)

 などを思うと、「つきづきし」は、自分の心や何かが対象とするものにくっついていく(同意、共感、相応)していくということかと。

 

〇いまめかし

●「いまめかし」形シク 角川古語辞典の説明 

  意味:①現代風だ。当世風だ。目新しく華やかだ。(用例:源・若紫)  

  意味:②改まっていて変だ。いまさらわざとらしい。(用例:伽・あきみち)

★「いまめかし」は、「今」+「めかす・めく」でせう。
 「今」は、角川古語辞典を見ると、上代語でおおくの見出し語掲示されています(割愛)。

 「めかし・めく」は、上代語ではありませんが、上代語「め」見ること、見えること、が元で、「~に見える」「~になる」という意味合いでいいんじゃないかと。

 

〇わざと

●「わざと【態と】」副  角川古語辞典の説明

  意味:①わざわざ。ことさらに。(用例:源・帚木)  

  意味:②正式に。公式に。表向きに。(同:源・桐壺) 

  意味:③とりわけ。特に。(同:源・賢木)  

  意味:④少しばかり。形ばかり。(同・続膝栗毛)

 「わざと」は、用例からすると、上代の用例がなく、中古(平安時代)以降のことばのようだということをまず確認してえおきます。

★ところで、「わざと」は、現代人の用法と、古代人の用法が違う「古今異義語」というのだそうです。

 現代では「わざと」を、本来の目的でもなく行うというような意味合いで使いますが、中古時代の「とりわけ」「格別に」「わざわざ」などの用法にはその意味合いが殆どなかったそうです。

明海大学の教授・佐々木文彦先生の『わざとの意味・用法について』という論考で述べておられます(PDFでネットに上がっています)。 

 中古(平安)時代の終り頃『今昔物語』などに微かにみられる、なにか別の意図のために「態ト」行ったという用法が、徐々に幅を効かせて現代に至ったそうです。

 事柄の定義づけと、その証明のために現代の書物では200冊以上検証されるなど、作業の大変さがひしひし偲ばれ、机上空論城城主は畏怖しつつ拝読した次第です。 

★とはいえ、そういう歴史をもつことばらしい「わざと」が、中古時代にどのへんのことばから生まれてきたのか? 机上空論城城主は、そっちの方に興味があり、懲りず続ける次第です。

★「わざと」の「わざ」関連語を列挙します。。

●「わざ【業・態・事】」

 [1]名
  意味:①すること。 行い。 いわざ。(用例:源・真木柱まきばしら)
  意味:②務め。仕事。(同:伊勢)
  意味:③方法。技術。(同:平家9)
  意味:④仏事。法会。(同:古今・恋・詞書)
  意味:⑤たたり。災い。あだ。

 [2]形式名詞

  意味:こと(の趣き)。ありさま。次第。(同:源・玉鬘/夕顔)

●「わざうた【態歌・童謡】」名 

  意味:時の異変や貴人の死などを予言するような意味で、民間に歌われる流行歌。(用例:皇極紀

●「わざとがまし【態とがまし】」形シク 

  意味:「わざわざし」に同じ=わざとらしい。ことさらめいている。(態とがまし用例:源・絵合/わざわざし用例:蜻蛉・中)

●「わざとだつ【態とだつ】」自タ四 

  意味:ことさらにふるまう。晴れがましくする。(用例:枕・春曙抄300)

●「わざとめく【態とめく】」自カ四 

  意味:ことさらに改まって見える。心ありげに見える。(同:源・匂宮)

●「わざはひ【災ひ・禍】」名 

  意味:①凶事。災難。(平家5) 

  意味:②不快の念を表したり、相手を呪ったりするときにいう語。いや。いやだいやだ。(用例:大鏡道長

●「わざをぎ【俳優】」名 

  意味:物まねや歌舞をして神を慰め、人を楽しませること。また、その人。役者。(用例:神代紀

 

★下段で「わびし」をとりあげ「わ」のつく「上代ことば」を追っかけた中では、上代語の「わざうた」「わざをぎ」は、「わび」「わぶ」に直接関係なさそうでしたので列挙していません。

 でも、この「わざうた」「わざをぎ」という「わざ」つきことばが上代にあったということと、そして、この二語を見ると、上代から「わざ」には、忌まわしい意味も、晴れがましい意味もあったということの確認はできるかと思います。

 それ以上、現時点では、残念ながら「わざ」がどういう淵源のことばなのか、関連語などが少なすぎてよくわかりません

 「わび」の語源では、「わ」が「動きの開始点」で「わたし」の地点であり、そこから伸びるベクトルの様態によって、様々な「わ」つきことばが生まれたと妄想しています。「わざ」もその仲間だろうと思うのですが、手がかりがありません。

 「わざ」の「わ」が「動き」を感じさせる「わ」なら、「ざ」は、「障る」系の「さ」か? などと妄想してみるのですが、じゃあ「晴れがましさ」はどうなるのか? 埒が明かない次第です。

 

〇のどやか

●「のどやか」形動ナリ 

  意味:「のどか」に同じ(用例:徒然43) 

●「のどか」

  意味:①静かなさま。ゆったりしたさま。落ち着いたさま。(用例:拾遺・恋) 

  意味:②天気が温和なさま(同:枕3) 

  意味:③のんきなさま。のんびりしたさま。(同:徒然170)

★「のどやか」「のどか」とも、中古以後のことばです。「のど・か」「のど・やか」の「のど」ってなんだろうと気になります。

「のど【長閑】」形動ナリ のどかだ。静かだ。平安だ。(用例:万197)

 という上代語があり、そうか、こっから派生していったかと拝察しますが、でもその「のど」って何? です。

★ここから、読書感想文派、机上空論城城主の妄想試論深まります。

●「のどようふ」自ハ四 

  意味:細い声を出す。力のない声を出す。(用例:万892)、

●「のむ【祈む】」他マ四 

  意味:①神仏に祈る(同:万2662) 

  意味:②懇願する。哀願する。(同:記・上

●「のらす【宣(告)らす】」

  意味:《「告る」の未然形+尊敬の助動詞「す」四型》おっしゃる(同:万237

 などの上代の「の」付きことばは「声をだして何かを言う」ことだと理解します。そうすると次に「ど」は何か。

★「ど」は

●「とどこほる」(同:万4398)、

●「とどまる」(同:万1453)、

●「とどむ」(同:万1780)、

●「よど(淀)」(同:万1366)、

●「よどむ」(同:万31

 などのことばからすると、この「ど」は「止める」の語感を持っており、そすると「のど」は「声を大きくせず、静かに、穏かに語る」さまを言っているのではないか、と妄想するわけです。

 知り合いであれ、他人であれ、第2段で見た、何事か声を上げていい募る人の不穏さ「うたて」ということばで表した上古人は、人の語り口の穏かなことに、何よりの安寧を感じ、「のどか」と表現した。どうでせう。定かではありませんが。

 

〇たより

●「たより【便り】」名 角川古語辞典説明、

  意味:①たより所。よるべ。(用例:伊勢) 

  意味:②ついで。機械。便宜。(拾遺・別) 

  意味:③おとずれ。連絡。消息。(同:狂・鏡男) 

  意味:④ゆかり。縁。(同:新古今・恋) 

  意味:配置。配合。(同:徒然10)

 本段の「たより」が「配置」という意味での用法は、まさに本段がその用法の出処(出どころ)ということのようです。

★古事類苑データベースで「たより」検索してみましたが、ざっと見に、「たより」を「配置」の意味で使っていそうなものは見当たらず、「道のたより(道案内?)」とか、「さるたより(縁?)」とか、「返すべきたより(機会?)なく」とか、どれも「配置。配合。」以外の意味で納まりそうな内容です。もちろん、もっと探索するとどこかに同じ用法があるかもしれませんが。

 これも、兼好のまた傾いた(かぶいた)使い方なんでせうか。それにしても、「縁(えん・ゆかり)」とか「縁からのチャンス(機会)」とか「か細い縁の有無の(消息)」とか、そういった「縁」がらみの意味合いと「配置」「配合」がなぜ結びつくのか?

★「たより」から遡れる上代語はやはり「因る」とか「寄る」「寄る辺」などでせう(例証割愛)。こういったことばの意味の内側を眺めても、「配置」「配合」へと流れ降りそうなものは見当たりません。

 「配置」や「配合」というのは、「縁にたよって」ではなく、自らの意思で「寄る」「寄せる」位置や「案配」を決めることでせう。ベクトルが逆向きだと思うのです。

 ですが、兼好さんは、配置の「位置決め」作業を、右に寄せたり、左に寄せたりして、一番いい場所との縁探し、縁結びという風な角度から、それも「たより」だろうと思って、使ったってことなんでせうか? 

 机上空論城の屋(憶)に屋(憶)を架しておりますが。

 

〇てぅど(調度)
 「てぅど」ってなんなんでせう。

●「てぅど【調度】」名 角川古語辞典の説明。

  意味:①手回りの道具。(用例:徒然72) 

  意味:②弓矢の称。武具の第一としたのでいう。(同:更級)

★『新漢和辞典〈改〉』(大修館)の「調」の熟語として「調度」があります。

 意味:①整え定める。処置する。②租税を取り立てる。③指揮してつかわす。④[国字]㋑日常使う手回りの道具・家具など。㋺武家では特に弓矢をいう。

★古語辞典のほうは、④の国字部分を掲示しているわけです。

 いままでの、やまとことばに漢字を被せるの例えからすると、「てぅど」という和語がありその意味に相応しい漢字「調度」が当て漢字として当てられた、ということになるわけですが、にしては、音が合致し過ぎのような気がします。

◆ネットをググっていたら、J-STAGEに「家政学雑誌」掲載の浅見雅子先生(山梨大学?)の平安時代の調度 調度の意味について」というPDFがありました。

 平安時代に整った「調度」認識の具体的な内容かを明らかにするのが主目的で、語源を探るものではありませんが、中国の辞書で中国語の語義を確認し、続いて日本側の辞書でも当時の語義を確認、中国語の本義が「配置」のほうにあったのに、日本では、配置される「道具」も含めて「調度」というようになったと推定されています。

 なので「調度」は、「外来語」のようです。音が合致して当然でした。 

 「てぅど」の「て」が「手」を意味するとかそういうことではないようです。

 

〇わびし

 「わびし」は、日本文化の美意識のキーワード「わび・さび」にかかわることばですが、その「わび・さび」は Wikipedia でもひとつの項目として立てられています。

 《 わび・さび(侘《び》・寂《び》)は、慎ましく、質素なものの中に、奥深さや豊かさなど「趣」を感じる心、日本の美意識。美学の領域では、狭義に用いられて「美的性格」を規定する概念とみる場合と、広義に用いられて「理想概念」とみる場合とに大別されることもあるが、一般的に、陰性、質素で静かなものを基調とする。本来は侘(わび)と寂(さび)は別の意味だが、現代ではひとまとめにして語られることが多い。・・・ 》(Wikipedia

 《 本来、侘とは厭う(いとう)べき心身の状態を表すことばだったが、中世に近づくにつれて、いとうべき不十分なあり方に美が見出されるようになり、不足の美を表現する新しい美意識へと変化していった室町時代後期には茶の湯と結び付いて侘の理解は急速に発達し、江戸時代の松尾芭蕉が侘の美を徹底したというのが従来の説である。しかし、歴史に記載されてこなかった庶民、特に百姓の美意識の中にこそ侘が見出されるとする説が発表されている。 》(Wikipedia

「不足」を「美」と感じる意識の発生 っていうのは、やっぱ、出家遁世、隠遁生活への願望・憧憬感の深まりなどと軌を一にするものなんでせうか。

★この「出家遁世」観の淵源っていうのが、何なのか、ということがけっこう中古・中世の思潮を解くカギじゃないかと、この『徒然草』読解を始めて思い出しております。

★突然ですけど「道教」のWikipedia 等々の説明を読むと、ざっくり言うと、「儒教」「仏教」が国家統制、国家優先、支配に従う社会美というような根本動機を持っているのに対し、道教」は人間優先の根本動機を有していたようなんですよ。

 平安時代の、藤原氏一族に牛耳られた「雅(みやび)」な時代閉塞状況の中で、「個人」という意識がまだなかった時代に、でも感じられた「自分」というものの存在の意義の発現の難しさ。そこに感じる苦しさ「わび」こそが「隠者」「遁世者」への憧憬の根本動機だったんじゃないか???

 第8段で見た、道教的世界観中の「神仙思想」と「脱俗」との誤認識のような親近性など思うと、そうなんじゃないかと妄想するわけです。

 兼好という「王朝文学」憧憬者は、当然ながら近代に発見された「体制と個人」っていうような形での(社会)認識はまったく有していなかったってことでせう。ただただ、兼好は「王朝文学」へのノスタルジーに突き動かされつつ「出家遁世」の時代思潮もせっせと語る人だっただけであります。

 「王朝文学」と「出家遁世」、「流麗・典雅」と「不足の美意識」? 兼好の中では、全然対立概念じゃなかったってことでせうが、もし、「出家遁世」の熱の底に、それとわからぬ「体制と個人」というような社会意識のようなものがあったとすれば、それはどういうことになるんだろうと、妄想し始めたのですが、まだ、まったく、何もよくわかってはおりません。

★角川古語辞典で「わびし」および「わび【侘び】」近縁語を確認します。

●「わびし【佗びし】」形シク 

  意味:①寂しい。たよりない。心細い。(用例:万714) 

  意味:②苦しい。辛い。(同:源・玉鬘) 

  意味:③満たされない。物足りない。つまらない。(同:古今・旅・詞書) 

  意味:④みすぼらしい。貧弱だ。(同:宇治拾遺9) 

  意味:⑤やりきれない。閉口だ。困る。(同:徒然56) 

  意味:⑥閑寂だ。

 上代(万葉時代)の ①寂しい。心細い。頼りない の意味から

 平安時代の     ②苦しい ③物足りない、

 鎌倉時代の     ④貧弱、 ⑤困惑、そして

 その後の      ⑥の「閑寂」への紆余曲折は、

  図らずも、社会意識の辺りをなぞりながら伸展してきたように見えます。

 「閑寂」は「侘び・寂び」のことと思いますが、「侘び・寂び」の枯淡な印象の奥底に、千利休とか芭蕉とかの、それと気づかぬ体制に立ち向かう意識のようなものがあった、ってことなんでせうか? 妄想ながら面白い気がします。

●「わび【侘(佗)び】」名 

  意味:①思い煩うこと。悲しむこと。寂しがること。(用例:万644)  

  意味:②茶道、俳諧などで渋み、閑寂、閑静。(用例:醒酔笑)←江戸初期

★「わび」自体は、上代(万葉時代)に、一人で思い悩んだり、悲しんでいたりする孤独な「寂寥感」だったようです。

◆『万葉集』644の 紀郎女(きのいらつめ)の歌

 (奈良県立万葉文化館さんの「万葉百科」から引用)

《 漢字本文「今者吾羽和備曽四二結類氣乃緒尒念師君乎縦左久思者」
  読み下し「今は我はわびそしにける息の緒に思ひし君をゆるさく思へば」
  現代語訳「今や私は辛い思いに沈むことだ。わが命とも思っていたあなたを、遠ざかるにまかせようと思うと。」 》

★第三段で「いろごのみ」のことばを追っかけた時に、万葉集の恋の歌の中には、待つ辛さを歌うものは多くても、やってこない男をなじる歌は少ないように思えると、ちらっと書いたのですが、この歌でもそうじゃないかと思います。遠ざかっていく相手を責めるのではなく、それは許して、自分の心の辛さを持て余しています。

 ネットの他のサイトで、若干なじり気味の現代語訳をつけていられるものもありますが、それは、現代的な解釈なんではないでせうか。
 一人思い悩む寂しさ、それこそが「侘び」だった、かと。

●「わぶ【侘(佗)ぶ】」[1]自バ上二 
  意味:①思い悩む。悲観する。嘆く。(同:万618
  意味:②たよりなく思う。 はかなむ。(同:古今・雑)←平安時代
  意味:③心細く暮らす。寂しい思いでいる。(同:古今・旅・詞書)←平安時代
  意味:④つらく思う。困る。(同:増鏡・畑の末々)←南北朝時代
  意味:⑤落ちぶれる(同:拾遺・雑)←平安時代
  意味:⑥閑寂の境地を楽しむ。(同:謡・松風)←室町時代
 (※角川古語辞典の①~⑥は時代順でなく、そのことばの用例の多寡順(頻度順)かと思います)

◆『万葉集』618 大神女郎(おほみわのいらつめ)の歌を

 同じく「奈良県立万葉文化館」の「万葉百科」から引用します。 
《 漢字本文「狭夜中尒 友喚千鳥 物念跡 和備居時二 鳴乍本名」
  読み下し「さ夜中に 友呼ぶ千鳥 物思ふと わびをる時に 鳴きつつもとな」
  現代語訳「さ夜ふけに 妻をよぶ千鳥が、物思いに沈んで 寂しい時に 鳴きつづけて、空しいことです。」 》

 ※「もとな」は角川古語辞典では「せつに」「やたらに」などの意味のようで、「つつ」も「反復」の接続助詞かと思われるので、「悲嘆にくれながら居て、やたらと鳴き続けている」のような意味合いなのかと思います。なので「空しいことです」の訳がいまいちよくわかりませんが。

 とまれ、「わぶ」の一人で悲嘆んにくれる感じよく伝わります。

★まあ、ここまでは、「わび」系の普通の解釈ですが、机上空論城城主は、「わび」「わぶ」がどうして、「一人思い悩む」になるのかという、さらなる古層に足を踏み入れないと気が済すみません。

 「わ」の上代語を見ると、

 (イ)「私・・」系 「わが大王(おおきみ)」(記・下)、「わぎへ=わが家」(万4048) 「わけ=自称」(万1462)

 (ロ)「若い」系 「わかかへ=若い時」(万3874)

 (ハ)「分ける」系 「わきわきし=際立っている」(持統紀) 「分き=けじめ、区別」(万716) 「わづき(別)=区別、差別、わかち。一説に手段、方法。」(万5)

 (二)「走る/早い」系 「わせ(早稲)」(万217)

 (ホ)「走る/渡す」系 「わしす(走す)=はしらせる。渡す。」(記・下) 「わたつみ=水渡り・海」(万1740)

 (へ)「走る/巡る」系 「わ(回・曲)=曲がっている所」(天武紀) 「わた(腸)」(万804) 「わだかまる」(万229)

 (ト)「走る/支障」系 「わづらふ=悩む、苦しむ」(万897) 「わぶ」

 (チ)「走る/声」系  「わわく=わめく。騒ぐ」(万892)

「わ」は「始動の開始点」で、それが「わたし」でもあるようなのですが、「わ」が動くのが「わしす」で、「真っすぐ」動くのが「わたす」で、「水面」を動くところが「わたつみ」で、「わ」の動きを「切る」のが「わき・わけ」で区別に通じ、「わ」が居付くのが「わづき」(区別)だったり「わづらふ」(苦しむ)だったり「わぶ」(嘆く)だったりするんではないかと。

「家居」の「ゐ」は、また動く予定で一旦動きを止める、その動きそのものを言っているようなニュアンスでしたが、「わぶ」の場合は、なにか問題あり、支障ありの、そこから動きたくても動けないで困っている ニュアンス感じます。

 じゃあ、「若い」ってどういうニュアンスか? わかりません。「か」が「葦牙(あしかび)」の若芽の「か」かなとか、「飼ふ」(動物を養う、食べ物を与える)の「か」かなとか、いろいろ妄想しますが、全然見えてこず、一人嘆くしかありません。

 

『徒然草』第9段(読み納めシリーズ)

1)第9段 要旨

 前段で、久米仙人の「通(神通力=脱俗性)」を奪い、久米仙人をただの凡俗に貶めた、「色欲」中の「性欲」の恐ろしさを兼好はあらためて述べ、諸賢の注意喚起を促します。

 

 中で、兼好が観察している「睡眠不足もお構いなしに、色恋に熱を上げる女」のしどけなさは、第3段で描かれた、夜露に打たれながら、やはり寝不足がちに夜を彷徨う「色好み」の男を思い出させます。

 実はこの描写は『源氏物語』「空蝉」の中にある「恋に溺れた女」の描写とほぼ同じだと、安良岡先生が脚注で指摘されています。

 てことは、兼好さんにとっての「色好み」の男女の姿は、ある意味ステレオタイプであり、兼好さんがホントにそういう風俗目撃して書いたの?って疑念が若干湧きます。

 

0)前置き

 以下の4点を参照しつつ『徒然草』を下手の横好き読解しています。

旺文社文庫『現代語訳対照 徒然草』(安良岡康作訳注/1971初版の1980重版版) 

②ネット検索 

③『角川古語辞典』(昭和46年改定153版)

中公新書兼好法師』(小川剛生著・2017初版の2018第3版)

 

2)第9段 本文 

 女は 髮の めでたからむ こそ 人の目 たつべかめれ。人のほど、心ばへ などは 物うち いひたる けはひ に こそ 物ごしにも 知らるれ。

 事にふれて、うちある さまにも、人の心をまどはし、すべて 女の うちとけたる いもねず、身を をしとも 思ひたらず、堪ふべくも あらぬ わざ にもよく 堪へ忍ぶは、たゞ 色を 思ふがゆゑ なり。

 まことに 愛着の道 その根深く 源とほし。六塵の樂欲 おほし といへども、 皆 厭離 しつべし。その中に たゞ かの まどひ の ひとつ やめがたき のみぞ、老いたる も 若き も、智ある も 愚なる も、かはる 所 なし とぞ 見ゆ。

 されば 女の髮筋にて よれる綱には、大象(だいぞう)もよくつながれ、女の はける あしだ にて 作れる 笛には、秋の 鹿 必ず よる とぞ いひ 傅へ侍る。

 みづから いましめて、恐る べく つゝしむ べき は この まどひなり。

 

3)第9段 訳 

 女性の髪が美しいのこそ人の注目を集めるようだが。

  【女の髪には魅力がある】

 人の身分や、こころの表れぐあいなどは何気なく喋るその喋り方で、(几帳などの)物で隔てられててもわかるものだ。

  【人は喋り方で分る】 

 何につけ、普通にしている様子にも、男の心迷わせ、総じて、女性がくつろいだ睡眠も取らず、そんなわが身を残念にも思わず、耐えがたきことの次第にも耐え忍ぶのは、ただ色事を思う心からなのだ。

 本当に色恋(愛情への執着)の道筋の根は深くその淵源はさらに奥深い。

  【色恋の根源は奥深い】 

 人が追い求める欲望は多いが、皆捨てて遠ざかるべきだ。 その中で、ただ、あの(色欲の)妄念の中の一つ(性欲)が終りにできないのは、老いも若きも、悧巧も馬鹿も、なんら変わりがないようだ。

  【人は色欲に勝てない】 

 だから、女の髪で撚った綱は、大きな象すら繋ぎ、女の履いた下駄で作った笛(の音)には、秋の鹿が必ず寄ってくると云い伝えている。 

 自分をとどめ、恐れるように謙虚に畏まらなければならないのは、この(色恋の)惑いなのだ。

  【色恋に陥らぬよう身を慎め】

 

4)ことば とか あれこれ

 以下、本段で、読みにくかったり、気になったりしたことばを追います。「色欲」関連のことばの世界や、そういうことばを用いた兼好の心もちが、どんなもんだったのかが気になるわけです。

〇すべて女のうちとけたるいもねず 

 「すべて」+「女の」+「うちとけ+たる」+「いもね+ず」らしいです。 
 ●「すべて【総て】」副 

  意味:①全部合せて。合計。(用例:古今・序) 

  意味:②総じて。だいたい。(同:紫式部) 

  意味:③(下に打消の語を伴い)全然。まるで。(同:方丈)

 ●「うちとく【打ち解く】」

 [1]自カ下二 

  意味:①心を打ち明けて親しむ(同:源・末摘花) 

  意味:②くつろぐ。気をゆったりと持つ。(源・明石) 

  意味:③気を許す。油断する。(同:源・夕顔) 

 [2]他カ四 

  意味:解く(同:枕141)  

 ●「い【寝】」名 

  意味:ねること。睡眠。(用例:万3665)→やすい

 ●「いをぬ【寝を寝】」(※「い【寝】」の子見出し)

  意味:ねる(同:万4400)→いぬ

★上の「すべて【総て】」は、そのあとに「うちとけたるいもねず、~、~」と女の様態を並記することへの表現のようなので、③の、「打消を伴う表現」の方ではなく、②の「総じて」の意味ととりました。。

 「いもねず」は、「い(寝)」も「ね(寝)」も同じ漢字をあてるので紛らわしいのですが、「い(寝)」は名詞で「睡眠」のこと、「ね(寝)」は、自動詞ナ行下二段「ぬ(寝)」の打消助動詞「ず」に繋がる未然形なんだ、ということが了解出来ると、「睡眠を(が)とれない」という現代の言い方と同じことだとわかり、だから「いをねず【眠を寝ず】」も同じことなんだと了解できます。

 「そうじて女がくつろいだ睡眠もしないでいたり、~、~」という意味になるわけです。

★因みに、『源氏物語』「空蝉」の当該部分を「『源氏物語』の現代語訳」さんから引用させて頂きますと

<原文>

 女は、さこそ忘れ給ふをうれしきに思ひなせど、あやしく夢のやうなることを、心に離るる折なきころにて、心とけたる寝だに寝られずなむ、昼はながめ、夜は寝覚めがちなれば、春ならぬ木の芽も、いとなく嘆かしきに、碁打ちつる君、『今宵は、こなたに』と、今めかしくうち語らひて、寝にけり。

<訳文>

 女は、あれ以来、源氏の君からお手紙がない事を嬉しいと思おうとしていたが、不思議な夢のような出来事を心から忘れる事もできず、ぐっすりと眠ることができない頃であった昼間は物思いに耽り、夜は寝覚めがちで春ではないのに『木の芽』ならぬ『この目』も、休まる時がなく物思いに沈みがちである碁を打っていた娘は『今夜は、こちらに』などと言って、今風の女の子らしくおしゃべりをして、寝てしまうのだった

★この部分読むと、兼好が描こうとした「色好み」の男や女は、ああこれなんだと思いますね。

 また、9段文中の「人の喋り方でその人物がわかる」っていうのは、紛れもない兼好自身の考えなんだろうと思いますが、「物で隔てられてても」わかるっていうのは、源氏「空蝉」のこの文章のすぐあとにも、喋り方の話ではないですが、「几帳」の向こうとこちらでの「源氏の君」と「若い女」の駆け引きのような記述があります。なるほど、この世界ねとまた首肯します。

★安良岡耕作先生からは、「だから言ってんじゃないの」って言われそうですが、兼好の王朝文学崇拝・憧憬が一枚挟まれているらしい、兼好のもの言いは用心しないとですね。

 

〇うちいふ うちあり うちとく

 「うち・・」ことばが続き、気になり見てみました。

 「うち【打ち】」は接頭語で、動詞について種々の意味を添えると、角川古語辞典にあります。

   イ)ふと・・ 

   ロ)一面に・・ 

   ハ)すっかり、全く・・ 

 などが主な意味のようです。

 動詞との間に「も」がつく場合もあるようです。

   (用例:「打ちも笑ひぬ」徒然30)

★「打ち」のつく見出し語は沢山あります。ここに上がった三つのことばは、たまたま中古中世からのことばですが、「うちあぐ【打ち上ぐ】」(顕宗紀)や「うちかひ【打ち交ひ】」(万3482・別伝)、「うちきたむ【打ち罰む】」(皇極紀)、「うちきらす【打ち霧らす】」(万1441)などなど、上代からのことばもたくさんあります。

 接頭語「打ち・・」の言い方は、上代からあった言い回しです。

 ●「うちいふ【打ち言ふ】」他ハ四 

  意味:ふと言う。何気なく言う。(用例:源・蜻蛉)

 ●「うちあり【打ち有り】」自ラ変 

  意味:①ある。いる。(同:紫式部) 

  意味:②さりげなくいる。さりげなくある。さりげなくしている。(同:徒然9・10) 

  意味:③ありふれている(同:今鏡・すべらぎ・下)

 ●「うちとく【打ち解く】」上述。

★「うちいふ」と「うちあり」は、「打ち・・」の イ)の「ふと」「さりげなく」の使い方で、「うちとく」は、「打ち・・」のハ)の「すっかり」の使い方ですね。

 次の10段でも「うちあり」が登場。最近はやりの「なにげに」みたいな口調が兼好のマイブームだったんでせうか。

 

〇愛着(あいぢゃく)

 ●「あいぢゃく【愛着】」名 〘仏教用語

  意味:愛情に執着すること。(用例:徒然9 本段です

 

〇六塵の樂欲(ろくじんのぎょうよく)

★まず「六塵(ろくじん)」については、

 「六識(ろくしき)の知覚の対象となる六つの境界(きょうがい)。 色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法(ほう)の六境(ろっきょう)をいう」とある (浄土真宗系の知識に基づくらしい「WikiArk」の説明)。

★前の第8段で、「眼、耳、鼻、舌、身」という人の五つの感覚器官「五根」から引き起こされる五つの刺激、もしくは感覚対象が「色、声、香、味、触」でありこれを「五境」といってました。

 その刺激への執着が「五欲」または「五塵」でした。

 その感覚器官が引き起こす刺激(または感覚対象)に「法」が追加になるということらしく、そしてその刺激を引き起こす器官を「意根」というらしいです。

★つまり「意識」が「感覚器官」の扱いを受けているらしい。「第六感」ということばもここに由来するらしいです(「Wikipediaのia の「六根」他の説明)。

★「樂欲」は仏教用語で「ぎょうよく」と読み、願い求めることらしいです(コトバンク「精選版 日本語大辞典」)。

 「樂」「楽」を「ぎょう」と読むのかと思って大修館「新漢和辞典」みたら「字音」の違いは4種あって、その中の3種めに、「ゴウ(漢音?)」「ギョウ・ゲウ(呉音?)」の違いがちゃんと書いてありました。

 仏教世界の特殊な言い回しかと思ったのですが、そうではありませんでした。

★でも、この音が「呉音」で間違いないとすると、仏教(仏典?)伝来は、やっぱ相当、古い段階だったってことになるんでせうか? 

 すでに調べ尽されている世界でアホなこと言っている気がしますので、ここらにしときます。

 因みに、熟語見出しの中に「樂欲」はありませんでした。特殊な仏教用語だからでせうか。

 とまれ、「六塵の樂欲」は、「すべての欲を追い求めること」でいいかと。

 

〇厭離(えんり/おんり)

 ●「えんり/おんり【厭離】」〘仏教用語〙 角川古語辞典の説明 

  意味:〔厭離穢土(えんりえど/おんりえど)〕と同じ(用例:徒然9 また本段

 ●「厭離穢土」

  意味:汚れているこの世を嫌い離れること。(用例:浄・大原問答)

  〈対語〉欣求浄土(ごんぐじょうど)

 

〇まどひ

 ●「まどひ【惑ひ】」=(まとひ室町期) 名 

  意味:迷うこと。迷い。妄念。(用例:徒然9 ※またまた本段です

★こういう仏教世界の周辺にありそうなことばや、あるいは仏教用語そのものの用例が『徒然草』を典拠とすることが多いってことは、『徒然草』が知られているからもあるでせうが、やっぱ、『徒然草』がそれだけ多くそれ系のことばを使っていなければ、そうはならないので、そのあたりに、それらのことばを多用する、兼好のペダンチシズムみたいなものもきっとあったんじゃないすかね。

 兼好の仏心や、ストイシズムを肯定される方面からはお叱り受けそうです。

★兼好の仏心やストイシズムは決して否定しません。むしろ、間違いなくあったと思っているほうだと思います。だから、こういう方面の知識もある程度深かったとも思っているのですが、その一方で、兼好は知性の人であることは間違いありませんから、現代人的な「知を楽しむ」姿勢っていうんですかね、それを兼好が持っていたのも間違いないと、どう見ても思われるわけです。

 ペダンチシズムという言い方は誤解を招くかもしれませんが、「知の人」兼好の一面にはそれが感じられるわけです。 

 定かではありませんが。

 

〇女の髪筋にてよれる綱には大象もつながれ

 これは、『五苦章句経』の句が出典もとになっていると安良岡先生の脚注にあります。

★ググったらコトバンクの説明がありました。   

 <「女の髪の毛には大象もつながる」 女の、男をひきつける力の強いことのたとえ。

 [解説] 中国東晋の「五苦章句経」で、足を女の髪の毛でしばられて動けなくなった象を、煩悩(妻子などに対する愛情)にとらわれて悟りに至れない人にたとえていった一節によることば。

 これが転化して、女の魅力(魔力)そのものをさして言うようになったと思われます。英語では、「One hair of a woman draws more than a hundred yoke of oxen.(女の髪の毛一本は二百頭の牛より引く力がある)」といい、洋の東西を問わず、似たような発想がみられます。 >(コトバンク 出典 ことわざを知る辞典)

★ことわざだけかと思ったら、実際女性の髪で綱を縒ることあるらしいです。

 同じくコトバンクの「毛綱(けづな)」ということばでヒットしたのですが、「紐」信仰の話のようです。

 <「け‐づな【毛綱】〘名〙 毛髪をよってつくった綱。女性の毛髪で編んだ綱。〔和英語林集成(再版)(1872)〕 >

 <…紐を信仰と結びつけて用いる例はいくつもあり,神道では拝殿前の垂(たれ)紐を引いて神鈴を鳴らすことにより,また山車(だし)の綱を引っ張ることによって,神の声をきき,神の加護をうけることができるとしており,これは神と人を結ぶ役目を果たすものである。

 諏訪大社御柱曳綱(おんばしらひきづな)をはじめ東大寺の開眼縷(かいげんる)(筆に結びつけた紐を各僧侶が握る行事)や、延暦寺東本願寺の毛綱(けづな)なども同じ思想にもとづく紐である。

 仏教の世界では人間をこの世(俗界)から仏の世界(浄界)に救い上げるためには浄界から降ろされた綱につかまれといい,《栄華物語》によれば,藤原道長は臨終の折に,阿弥陀如来の手を通した五色の糸を握っている。… >                                                       (コトバンク 出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版)  

★久米仙人の落下が、古代日本の「神婚神話」の残照を留めていたかもしれなかったように、女の髪を綱に縒ることは、わが国古層の民俗にあったのかもしれない、という話かと思います。

 そこに、仏教的な想念の絡まりが密であった感じもしますし、読書感想文派の手に負える問題ではないので、これ以上深追いしません。

★因みに、左大臣どっとこむ」さんは、《『語句(五苦の誤記かと)章句経』に大象の足を髪の毛でつないだところ動けなくなった記事があるが、「女の」髪の毛とは言っておらず、これが出展かどうかは不明。》と書いておられます。

★ネットに上っている奈良国立博物館の「五苦章句経」の写真撮影したらしいものを見ましたが、「象」とか「女」とかの文字見当たらず、これでいいのかどうかさえさっぱりわかりません。とりあえず、その点も含めて時間解決トレー入れにするしかありません。

 

〇大象(だいぞう)

 2023年11月11日のNHKブラタモリ」は「鯖街道福井県小浜市)」でした。

 その中で、1408年(室町時代初め)、東南アジアから若狭湾に着いて「鯖街道」を京都まで歩いた「象」の話も出ていました。

 ネットググると、一般的にこの象が日本にやってきた最初の象と言われているようです。

★1408年は、兼好が没したと推定されている時期から約半世紀後のころです。

 ですから、兼好は、この象をみていないわけですが、「象」のことを書いているのは、Wikipediaの「ゾウ」によると、日本人が上代から「象」の認識を持っていたから、らしいです。

 <「ゾウ」は漢字「象」の音読み(呉音《 ⇦漢字到来の古い段階の音です》)。「象」の字は、古代中国にも生息していたゾウの姿にかたどった象形文字であるとされる。 

 これとは別に、日本にはゾウがいないにもかかわらず、日本語には「きさ」という古称があり、『日本書紀』では象牙を「きさのき」と呼んでいる。

 『和名抄』《=『和妙類聚抄』⇦平安中期》には、「象、岐佐、獣名。似水牛、大耳、長鼻、眼細、牙長者也。」などの記述がある。ほか、『うつほ物語』、『宇治拾遺物語』、『徒然草』、江戸時代の『椿説弓張月』などにも「象」の記述がある。>(Wikipedia

★『源氏物語』より前に成立した『うつほ物語』のほうは未確認ですが、鎌倉前期、兼好が生まれる半世紀以上前頃にできた『宇治拾遺物語』の方は、◆左大臣どっとこむ」さんのサイトで現代語訳が読め、「 8-6 猟師、仏を射る事」普賢菩薩の乗る象が出てきます。

 また、ネットをググると、花祭りの白象は釈迦生誕の時に釈迦を運んだ象の表象というような話が溢れており、仏教説話などを通じ「象」は「麒麟」や「竜」のようにポピュラーな生き物だったようなのです。

★先日のNHK「フロンティア 日本人とは何者なのか」の古墳人(ってことは3世紀~6世紀人)のことなんか考えあわせたりすると、「象」知識があっても全然不思議じゃないようにも思えるわけですが・・。

 でも、たしか『古事記』とか『万葉集』にアシカやワニは登場してたのに、真っ先に登場しそうなゾウさんが登場しないのはなぜでせう。

 こういうところを、「古墳人説」は一つ一つ解決していかねばならないのでせう。

★とまれ、仏教的知識とともに、大きなゾウの認識はスタートしたってことは結構確度が高そうですが、定かではありません。

★「象」を「キサ」と呼ぶ件については、国学院デジタルミュージアムさんの新沢典子先生(?)の以下の説明をパクらせて頂きます。

< 動物の象の古名。象をキサというのは、象牙の横断面に橒(きさ)(木目の文)があるためである(『萬葉動物考』)。『和名抄』《⇦平安中期》に「和名 伎左」とある。天智紀《⇦7C奈良時代》に「象牙(きさのき)」とあり、当時すでに象牙の輸入されていたことが知られる。『拾遺集』《⇦鎌倉前期》にも「きさのき」(巻7-390、物名)を詠んだ歌がある。
 その一方で、『名義抄』《⇦平安中期終り頃》に「キサ キザ サウ」、『色葉字類抄』《⇦平安末期》に「象 セウ 平声 俗キサ」とあり、平安期には「キサ」「キザ」の他に、「サウ」や「セウ」ともいったらしい
 万葉集には、「象山(きさやま)」「象(きさ)の小川」「象(きさ)の中山」と見えるが、いずれも、現在の奈良県吉野郡吉野町にある喜佐谷周辺の地を指したもので、動物の象とは無関係。象山は、弓削皇子の歌(3-242)にも詠まれている三船山と向かい合っており、これらの山の間に象谷(喜佐谷)がある。
 「象(きさ)」の地名は、橒(きさ)(木目文)の如き、ギザギザと蛇行した谷に由来するという(『角川日本地名大辞典』)。象谷に沿って吉野川の支流である象川が流れている。象川が吉野川にそそぐところを「夢のわだ」といい、この地もまた万葉歌に詠まれている(3-335、7-1132)。 >

★整理すると、
 動物の「象」を「キサ」という云い方は、奈良時代から、平安時代を経て、鎌倉前期頃まで続いていた。

 一方で、「サウ、セウ」と言い方が平安中期ころから記録されるようにもなっていた。
 「キサ」は、ギザギザ蛇行がおおもとの意味で、「象山」「象川」なども動物の「象」由来でなく「ギザギザ」由来の地名、ということになるかと思います。

★ネットで、象牙の写真を見ると、たしかに象牙を輪切りした部分にある年輪のようなものの線が、波形が乱れるみたいにギザついているところがあります。

 こんな微視的なところから「キサ」の第一印象がスタートしたってことは、あのでかい体よりさきに、象牙の輸入が先行したってことの証左かなとか、妄想を逞しうするわけであります。

★「キサ」と言った段階では「大象」の想念なしに「象」の字を使っていたんじゃないか? 奈良時代日本書紀編纂者たちが記した「キサ」「象」はその名残?

 『和妙類聚抄』(平安中期)に「象」「大耳」「長鼻」と記したころには、すでに「大象」認識が広まっていた? てな妄想です。

 

★さて、だいぶ話飛んでの「象」(形の意味の方)の字がらみの余談です。

 日本人は古代「水の神」を、「みづはのめのかみ【弥都波能売神】」(古事記)、「みつはのめのかみ【罔象女神】」(日本書紀)といっていたようです。

 「みつは/みづは」の意味は、「みつ/みづ」のおそらく「み」が「水」で、「は」は

 ●「みづはな【水端】」

   意味:①水嵩の一番上。水の出始め。出端。(用例:万4217)

 という万葉語があることからすると、

 「みづは」は「一番最初の水」というようなニュアンスだったんじゃないかと妄想します。
★一方、「罔象」という漢字はなんなのか。

 「罔」を「漢字ペディア」で見てみたら「あみ【網】」の意味のほかに、「(道理に)くらい」「おろか」「あざむく」「ない。なし。(否定の語)」というような説明があり、慌てて、新漢和大辞典みたら、「もうしょう【罔象】」という漢字がちゃんとありました

 国字ではなくれっきとした漢語でした。

 意味は、①ただよう ②虚無 なにもないこと ③水中の妖怪 一説に水神の名。とありました。単なる無知でした。

 しかし、漢語で「水神」という「水神」を表すことばもあるのに、なぜこんなマイナーそうな漢字のほうが選択されたのか?

 「水神」とか「河伯」「水伯」は男神なんでせうか? 「罔象」は女神もしくはジェンダーレスだったのでせうか? 

 

 

〇女のはけるあしだにて作れる笛には、秋の鹿必ず寄るとぞいひ傳へ侍る

 安良岡先生の脚注に「秋に雄鹿が雌鹿を恋い慕って鳴くので、猟人は鹿笛で、鹿を誘い出す。当時行われた諺の類。」とあります。

 この「当時行われた諺」が、どこか他にも痕跡ないかと探しましたが、見当たりませんでした。どこかにあるかとは思いますが。

◆一方、「科学基礎論研究(J-STAGE)」さんのサイトにあるお茶女子大学生活科学部小池 三枝先生(?)が書かれた「服飾を読む 服飾美学研究の方法」によると、

 江戸初期の着物の柄の中に、鹿の角と足駄片方の組合せを秋草の中に描いているものが有るそうなんですが、それは当時(1688刊)の文様図案集『友禅ひいながた』のなかで、

 「女のはけるあしだにてつくれる笛には秋の鹿かならずよるとか」

 という説明書きが添えられており、また扇絵の図案には、女の髪と象を描いたものがあるなど、『徒然草』第9段を題材にしたものと確認できるとともに、江戸期における『徒然草』人気ぶりがうかがえるようです。

 なので『徒然草』以後、この諺が『徒然草』といっしょに人口に膾炙していったのは間違いなさそうですが、『徒然草』以前の痕跡は掴めずにいるという次第です。

 

 

〇秋の鹿

 「たのしい万葉集さんが「鹿」の歌を68首集めておられます。

 それを見渡すと、「鹿・さを鹿」「妻恋ひ・よぶ声」「萩・秋萩」などのことばの組合せは溢れてますが、「笛」は一つも見当たりません。

 万葉の時代には、まだ、「鹿」と「笛」の発想はなかったようです。『源氏物語』や『枕草子』などでも「笛」は優美な楽器の発想のみで描かれているようです。

コトバンクの「ししぶえ【鹿笛】」の用例は「源平盛衰記」(鎌倉時代前期頃)が上ってます。古事類苑データベースで検索しても、『源平盛衰記』の他は、『尺素往来(せきそおうらい)』(室町時代中頃)など中世以降で、上代・中古の用例はヒットしません。

 定かではありませんが、「鹿と笛」の想念は中世以降に醸成されたもののようです。

★安良岡先生が言われる「当時」というのもまさにこの頃ということになるのでせうか。むちゃくちゃ定かではありませんが。

 

〇いましむ

 ●「いましむ【戒む・警む】」他マ下二 角川古語辞典の説明、

  意味:①教えさとす。注意する。(用例:枕262)
  意味:②とどめる。禁止する。(栄花・花山)
  意味:③いやがる。嫌う。(宇津保・藤原君)
  意味:④縛る。監禁する。(平家・2)
  意味:⑤とがめる。罰する。(宇治拾遺9)

 ★「いましむ」は、第7段で追っかけた「いみじ」(恐ろしい。並々でない。等の意味)から遡った「忌む」(慎む。憚る。)を源流にすることばと同系統かと思います。

 「いまいましい」という形容詞は、現代では「憎たらしい」の意味で使いますが、平安時代は「忌み慎むべきだ」「憚るべき」などの意味合いだったようです。

★そして慎むこと憚ることを他者に強いることが「いましむ【戒む】」だったかとのではないかと。

 

〇つつしむ

 ●「つつしむ【慎む・謹む】」他マ四 

  意味:①物忌をする。斎戒する。(源・帚木)

  意味:②謙虚な気持ちで畏まっている(枕115)

 「つつしむ」の②の「謙虚な気持ちで畏まっている」は、上述の「いましめ」を受けた側の姿勢をいうことばのようです。

 でも、「つつしむ」のおおももとの意味は、①の「物忌をする」のほうにあるんじゃないかと思うんです。

 「つつしむ」の「つ」は、「ひとつ、ふたつ」の「つ」(万276)で、「点」を意味するのではないかと思っています。

★以下、また、ダラダラと「つ」のつくことば見ていきます。

 ●港の「津」(万1780)は、船を着ける「箇所」(地点)か「水」か悩み中。

 ●「つかさ【長・首】」意味:主だった人等(万4122)は、

 ●「つかさ【阜】」意味:小高い所(万529) からしても、一人だけ、一所だけ高い意味かと。

 ●「つかはす」(推古紀)や

 ●「つかひ」(万2529)は、

 ●「つかふ【仕ふ】」(万457) などのことば、ある点に「付着」するために行かせることや行かされる人のことかと。

 ●「つがふ【継ふ】」(万3329) は端の点と端の点を結節させることのようですし、

 ●「つがりあふ【鎖りあふ】」(万4106) も、点と点とがいくつも結節していることを云いたいようです。

 ●「つなぐ【繋ぐ】」(斉明紀) は、点を結節させるのでなく絡ませるのかどうか

 ●「月」は空に浮かぶ点というよりは、「月変ふ」(万313)などからすると、区切りの意味合いなのかもしれませんが微妙です。

 ●「付く」意味:付着(万1376)、

 ●「着く」(万3688)意味:到着。  などは一点付着そのもの。

 ●「突く」意味:刺す(万4218)も、 ある一点が主眼か。

 ●「つく【漬く】」意味:浸る。水に濡れる(万1381)は、

 ●「つばく【唾吐く】」(記・上)、

 ●「つゆ【露】」(万3933) などと同系で、ここの「つ」は、点というより「水」そのものかもしれません。「津」とともに悩んでいるところです。

 ●「つく【吐く】」意味:呼吸する(記・中)は、吸って吐いての、息に折返し点を打つ意味でいいんじゃないかと。

 ●「つく【盡く】」(万99)は、最後の一点、一端の事でせう。そこに至ったことが「つひに【終に】」(万2591)なんでせう。

 ●「つづしろふ【嘰ふ】」(万892)は少しづつ食べること。

 ●「つどふ【集ふ】」(万4329)もある一点に皆が訪ふことで、

 ●「つとむ【勤む】」(4466)も一所で懸命になること?

 ●「つむ【積む】」(万3848)や 

 ●「つもる【積る】」(万2303)は、ある点で「つ」を重ね上げることで、

 ●「つむ【抓む】」(万4408)は指先(爪先)の一点でつまみ

 ●「つむ【摘む】」(万3973)は、一点でつまみ"取る"ことでは。

 ●「つら【蔓】」(記・中)や

 ●「つらなむ」意味:連ね並べる(万4187)、や

 ●「つらら」(万3627)や

 ●「つららく」(記・下)などは、点をいっぱい並べ繋ぐ感じかと。

 ●「つれなし」意味:縁がない(万2247)も、横に並ぶ点がない感じのようです。

★で、「つつしむ」は、ある一点にじっとしていることではないか!と思うのですが、「つつみ【恙み】」病気。悪いこと。(万894)、「つつむ【障む・恙む】」差し支える。故障を起こす。(万4514)という障害系の上代語がすぐそばにあって、意味的にも近く、この辺の整理でまだなんとなく合点がいきません。

 「つつむ」「つつみ」も、ある点でつっかってすんなり行かなくなることかなという気もするのですが。

 

フロンティア 日本人とは何者なのか これから期待

 

 

1)12月11日(月曜日)夕方

 

   夕飯の支度をしていたら、母の見ているテレビに

   古代人のDNA分析で有名な篠田謙一さんが出ていた。

 

   おおっと思って

   夕食後、ネットググる

 

   『フロンティア 日本人とは何者なのか』

   12月6日(水)に放送されたものの

   再放送だったらしい。

 

   NHKプラスで探したが、無かったので、

   やむなく、NHKオンデマンド申し込んでしまった。

 

   受信料払ってて、その上に

   サブスク月料990円って正直納得できないが

   

   コンテンツに負けてしまった。

 

 

2)古墳人ってそういうことか

 

   1年か2年くらい前に

   日経新聞(今は定期購読していないが)に

   覚張先生の「古墳人」記事が出ていた。

 

   その記事は、小さなものだったので

   「古墳人」の意味合いがいまいちわからなかったが

 

   今回の番組でやっと

   (この番組の意図を正しく理解したかどうかはともかく)

   わかったような気がした。

 

 

3)コスモポリタンな古墳人

 

   日本列島に縄文海進で閉じ込められたガラパゴス的な

   縄文人

 

   そこに大陸北東部の文化を携えてやってきた

   弥生人

 

   そして、中央アジア辺りで(?)の

   さかんな文化交流、人種混淆を経たのちに訪れた

   古墳人

 

   というような見立てのように理解しました。

 

   日本人の顔が

   西洋人っぽかったり

   中央アジア的だったり

   東南アジア的だったり

   中国人ぽかったり

   朝鮮人ぽかったりと

   多様だったのもなんとなく合点がいったし

 

   あるいは、地域の祭りがバラエティなのも

   いままでは、和人というくくりの中の多様性と

   むりやり思い込んでいたのだけど

   そんなに無理する必要はなかったのかもしれない

   とか思った。

 

 

4)和人(やまとびと)、日本人とは何者なのか

 

   今後は、あらためて

   柳田國男をはじめとする

   従来の民俗学が考究してきたものが

   洗い直しされるんでせうか?

 

   ただ、

   読書感想文派のような人間が

   柳田國男の本の中に感じる

   日本の古層のひとまとまりの文化あるいは

   その担い手たちというようなものも

   たしかに居て、あったような気もするので

   

   そういうコスモポリタンな渡来人たちも

   それぞれの個性を担いつつ

   やがて日本に住まう人々全体を覆っていった

   政治や社会的なシステムの発展の中で

   やがて日本人・和人としての

   一体性を獲得していった

   というようなことなんでせうか?

 

   いやあ、たしかに知のフロンティア

   また一つ見えてきましたね

   日本人とは何者なのか

   今後、楽しみですね。

 

 

  ※2023/12/25追記

    NHKオンデマンドで、その後の「フロンティア・・」を観て、わかりまし

   た。このシリーズは、今現在のいろいろな研究とか学識の最前線にいる人た

   ちを取材することで、今現在の知の最前線を知ろうというものなんですね。

 

    てっきり、昔の「はるかなる旅 日本人」のような、「日本人とは何か」

   をずっとやるのかと、勘違いしておりました。

 

    だから、本来ならば、タイトル表記の「フロンティア」は、「フロンティ

   アーズ」が正しいというか、実はこっちがタイトルそのものなので、「フロ

   ンティアーズ」であってこそタイトルとして成立するはずなのに、英語慣れ

   しているとはいえ、単数、複数の違いはまだまだ日本人にカチッとした印象

   与え憎いし、字数多くてダラダラするし、「フロンティア」のほうがタイト

   ルとしてバチっと決まる! というご判断だったんでせうが、でも、読書感

   想文派は、誤った判断だったと思いますね。

 

    「AI」の番組で、外国人の学者が英語で喋っている映像時に、以前だった

   ら、全部日本語音声が被せられていたのに、今回は、字幕だけだった。なん

   か新しかった。もう、日本語音声被せる時代じゃないだろうという感性感じ

   た。

 

    そういう試み行いながら、タイトルが「フロンティア」はどんくさくない

   すかね。正々堂々と『フロンティアーズ』と銘打って、日本人の単数、複数

   感性をおおいに刺激するところにこそ、意義があったんじゃないすかね。

 

 

『徒然草』第8段(読み納めシリーズ)

 

1)第8段 要旨  

 兼好は、色欲は人の心を惑わすもすものの中でも一番のもの。という率直な性欲認識を、久米仙人の話を引き合いに述べています。

 その「色欲」とか「仙人」など、兼好が使ったことばの背景とか、昔からのことばの中に潜む日本人の感性などを追っかけてみたら、もう一つ「脱俗」ということばにも行き当たりました。

 

0)前置き

 以下の4点を参照しつつ『徒然草』を下手の横好き読解しています。

旺文社文庫『現代語訳対照 徒然草』(安良岡康作訳注/1971初版の1980重版版) 

②ネット検索 

③『角川古語辞典』(昭和46年改定153版)

中公新書兼好法師』(小川剛生著・2017初版の2018第3版)

 

2)第8段 本文

 世の人の 心 まどはす こと 色欲には しかず。人の心は おろかなる もの かな。

 にほひ などは かり の もの なるに、しばらく 衣裳に たきものす と 知りながら、えならぬ にほひ には 心ときめき するもの なり。

 久米の 仙人の、物洗ふ 女の はぎの 白きを 見て 通を 失ひけむは、まことに 手あし はだへ などの きよらに 肥え  あぶらつきたらむ は、外の 色ならねば さも あらむ かし。

 

3)第8段 訳

 世の中の人の心を惑わす事で色欲に及ぶものはない。人の心というものは愚かなものだ。

 においなどは、かりそめのものなのに、少しの間衣装に焚き込めるものだと知りながら、なんともいえない匂いに胸がわくわくするものだ。

 久米の仙人が、洗濯する女のふくらはぎが白いのを見て、神通力を失ったのは、ほんとうに手足の肌などが美しくふくよかに色っぽいのは、色欲の中でもまさに性欲を刺激するものだから(俗人に戻ってしまって仙人の神通力を失ってしまった)さもありなんと思われる。

   【人は色欲に勝てない】

 

4)ことば とか いろいろ探索

〇久米の仙人 

 《 久米仙人(くめのせんにん)は、久米寺奈良県橿原市久米町くめちょう)の開祖と言われる伝説上の人物。

 和州久米寺流記』には毛堅仙、『本朝神仙伝』には毛堅仙人と名が記されている。

 久米仙人に関する話は、『七大寺巡礼私記』『和州久米寺流記』『元亨釈書』『扶桑略記』などの仏教関係の文献はもとより、『今昔物語集』『徒然草』『発心集』その他の説話・随筆などにも記述がある。 》(Wikipedia

Wikipedia や コトバンク などの「久米仙人」解説は、どれも似たようなものです。 
 大体、欽明期ころ(6C中後半)葛城山の麓一体(奈良盆地の西側)のどこかで生まれ、竜門岳(Googleマップで見ると、奈良盆地の南東側の奥山)で修行し、神通飛翔術を体得。

 竜門岳から葛城山(同南西の山)へと、奈良盆地南部上空を跨ぐように飛行することを得意としていた、らしい。

★さらに、Wikipediaを下敷きにしますと、

 天平年間(8C前半=てことは200歳くらいの頃?)吉野町(竜門岳の南側の吉野川沿い)の龍門寺の堀に住まいながら、いつものように竜門岳から葛城山目指して飛翔していた時に、久米川(現・曾我川。大和川支流で奈良盆地の南側での真ん中辺り)の川べりで、洗濯する若い女白い脹脛(太腿とする文献あり)を見て神通力を失い、墜落。その女性を妻として普通の人間として暮らした。

 聖武天皇(在位:724 - 749)の命により東大寺に大仏殿を建立(竣工758年)する際、久米仙人は俗人として夫役につき、材木の運搬に従事していた。

 周囲の者が彼を仙人と呼んでいるのを知った担当の役人は、(どこまで本気か不明であるが)「仙人ならば神通力で材木を運べないか」と持ち掛けた。

 七日七夜の修行ののち、ついに神通力を回復した彼は8日目の朝、吉野山から切り出した材木を空中に浮揚させて運搬、建設予定地に着地させた。

 その甲斐あって大仏殿の建立は速やかに成就したと伝えられている。

 聖武天皇は、免田(税の一部が免除される田)30町(1町の定義は時代により異なる。ここではメートル法に換算は行わない)をたまわり、久米仙人はそこに寺を建立した。これが久米寺であるという。すなわち久米寺の縁起である。

 その後、弘法大師久米寺を訪れ大日経を感得する。これがもとになって大師は唐に渡り真言を学ぶことになる。

 藤原京高市郡明日香村。遷都:694)または平城京(遷都:710)造営のときの話だとする資料もある。

 その後百数十年、久米寺に住んだ。『和州久米寺流記』は、久米仙人と妻はどこかへ飛び去ったという後日談を記す。仙人は十一面観音、妻は大勢至菩薩であるという。

★「久米寺」は、Googleマップで見ると、

 橿原神宮のある畝傍山(うねびやま=標高200m弱=台地?)の南東端。この畝傍山辺りがまあ、奈良盆地 南部の東西真ん中辺りで、曾我川は畝傍山の少し北側のすぐそばです。

 ここら辺りに土地勘のある人たちに伝わる伝承らしいのですが、「久米寺」のWikipediaの説明に、

 《 創建の正確な事情は不明だが、ヤマト政権で軍事部門を担当していた部民の久米部の氏寺として創建されたとする説が提唱されていた。しかし、境内で出土した瓦と同じ木型で作られた瓦が藤原宮と興福寺から出土していることなどから、興福寺前身寺院の厩坂寺(うまやさかでら)に比定する学説が現在では有力である 》 

 とあります。

★「厩坂寺」(うまやさかでら)のコトバンク説明。

 《 興福寺の前身。山城国京都府)山科(やましな)にあった山階(やましな)寺天武天皇元年(六七二)大和国奈良県)飛鳥(あすか)の厩坂(橿原市石川町)に移したもの。さらに平城京遷都で奈良に移り、興福寺と改名。法光寺。(出典 精選版 日本国語大辞典)》

★672年は「壬申の乱」ですね。

 山階寺は、天智天皇治下(近江大津宮)、藤原鎌足の病気平癒を願って妻の鏡王女が創建したのでしたね。壬申の乱で、天武天皇が天下を取って、皇都が、飛鳥浄御原宮藤原京)に移ったので、山科寺も引っ越したのですね。

 《…厩坂の近くには,応神天皇の軽島豊明宮が伝承され,また,舒明朝には厩坂宮が営まれている。興福寺の前身である厩坂寺もこの付近にあった。橿原市久米町と石川町の境に所在する小字丈六(じようろく)は、あるいは厩坂寺と関連を有するかもしれない。…※「厩坂寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。(出典:『社平凡社世界大百科事典』 第2版)》(コトバンク

★現在の「久米寺」は橿原市久米町にあり、Googleマップで見るとその東隣の石川町に、「厩坂寺跡」があります。

 そうすると、Wikiの説明の「境内」が「久米寺」の境内なら、話がいまいちよくわかりません。久米寺から厩坂寺跡一帯が、昔は厩坂寺だったということなのか? もうそこらへんは時間解決トレー入れするしかありません。

 現在の久米寺久米寺と呼ばれるようになったのには、また別のさまざまな歴史があったってことかと拝察します。 

 とまれ、久米町あたりに久米部がいて、久米仙人の伝承を携えていたということが、否定されたわけではないと思います。

★ところで「久米の仙人」を我々は「くめのせんにん」と読むわけですが、「仙人」の字は、実は「ひじり」と読んできた時間のほうがずっと長かったようです(平安以前〈ひじり〉と呼んだか〈ひしり〉と呼んだか不明らしいですのですが)。

 角川古語辞典で「仙人」は、

●「せんにん【仙人】」名 

  意味:人間界を離れて山中に住み、不老・不死・神変自在の法を心得ているという想像上の人。(用例:源。若菜・上)。

  ➡平安時代からの用例です。 

 角川古語辞典で「ひじり」は、

●「ひじり【聖】」名〘「日知り」の意という〙

  意味:①特の高い人。聖人。(用例:垂仁紀) 

  意味:②天皇をいう尊敬語 (同:万29) 

  意味:③一芸にぬきんでた人物 (同:古今・序) 

  意味:④徳の高い僧。高僧。(同:源・薄雲) 

  意味:⑤僧。法師。念仏僧。(同:源・橋姫) 

  意味:⑥仙人。神仙。(同:垂仁紀) 

  意味:⑦清酒の別名 (同:万339

 「ひじり」という呼び方が、上代から行われていたのがわかります。

◆「清酒」を上代「ひじり」と呼んだのは、

 《 万339 <酒の名を聖(ひじり)と負(おお)せし古(いにしえ)の大(おお)き聖の言(こと)の宜しさ>

  ※「酒の名を聖と負せし」 禁酒令の行なわれた魏の時代に、濁り酒を賢者と呼び、清酒を聖人と呼んだ故事による。》

 という、「讃岐屋一蔵の古典翻訳ブログ」さんの解説をまんまパクらせて頂きます。すいません。

★手元の『日本書紀』(日本の名著①)で見ると、雄略紀二十二年秋七月の「浦嶋子」の話のところで、「仙衆」ということばに「ひじり」というルビが振ってありました(底本によってはここが「仙境」になっていたりもするみたいですけど)。

 なるほど、「せんしゅう」ではなく「ひじり」と読むべきところという意味合いのルビかと思います。

◆この「仙人」を「ひじり」と読む問題については、同志社大学の先生だったらしい松下貞三先生『「聖(ひじり)」という語の受け入れとその後 : 言葉と思想と事実と』という論考で「ひじり」問題、実に詳しく学べます。(同志社大学学術リポジトリ https://doshisha.repo.nii.ac.jp/records/9958

 例のごとく、ドンブリ勘定凝縮要約していうと・・

 中国大陸から「儒教」「神仙思想」などの先進文化がもたらされる以前、わが国では、「日(太陽)を知る」「ひしり」が、霊力を持つもの、高い能力を持つものなど、高さを持つものの呼称で、天皇も「ひしり(ひじり)」と呼ばれていた。

 そこに、大陸の文化が流入儒教的な「知徳」に優れたものとしての「聖」や、俗を遠ざけ山に棲み、不老不死の術を求めて修行する神仙思想の理想的な道士「仙」などの字ももたらされたが、日本人は、しばらくは尊い者の呼び方はどれも「ひじり」と訓じて読んだ。

 やがて、儒教、仏教、道教的神仙思想の知識が、日本の習俗と交じり合いながら浸透していくなかで、平安期頃から、それぞれの違いへの理解も進み、神仙思想の「仙人(ひじり)」は「仙人(せんにん)」と呼ばれるようになっていった、らしいです。

★それぞれの文化受容の進展具合を、日本の古書の記述で具体的にトレースされているので、今まで、漠然と耳にしていた名称などがそういった背景もつものだったんだと、ことばがエンジン持ちだしていく感じがあり大変面白いです。

 たとえば、雄略天皇4年春、葛城山での狩のとき、容貌が雄略天皇とそっくりの「長人(たきたかきひと)」と出会い、誰何すると「一事主(ひとことぬし)」だと答えたという話。

 旧来は、「太占(ふとまに)」などでしか神の声を聞くことができなかったわが国で、一事主という日本の神が自身の姿を顕現(エピファニー)させ自身でことばを語る不思議。

 神仙思想と日本の習俗との融合・折衷がここにあるそうです。そういえば、葛城山といえば、久米仙人の生まれた辺りでもあるなあとか、いろいろとシナプスつながります。

◆そもそも、久米仙人っておおもとのモチーフは何?っていう疑問をお持ちの向きには、甲南女子大のサイトらしい守屋俊彦先生「久米仙人」のPDFがお勧めです。

 暴風雨や雷鳴の中で訪れる神とその神を迎え祭る巫女という日本古来の「神婚神話」こそが「久米仙人」の本来のモチーフと説かれています。

 もちろん、大陸の神仙思想そのものの淵源ではなく、流入した大陸文化と融合した、我が国の古層側の神の姿ですね。                        ( https://konan-wu.repo.nii.ac.jp/record/389/files/011-35.pdf )

 ですから、久米仙人がエッチだったから「落下」したのではなく、日本の神婚神話がおおらかだったから、久米仙人はエッチな役回りにならざるをえなかったらしいのです。久米仙人の汚名は晴らしておかないとですね。

◆また、「道教」とか「神仙思想」って何?と疑問をお持ちの向きには麗澤大学学術リポジトリにある中島慧先生「日中における仙人像の差異について」が、分りやすく参考になります。

 ドンブリ勘定(かなり飛躍)圧縮でいうと、

 まず、太古の「死者」が身近にあった時代があり(このあたり『チベット死者の書』なんか想起します)、「死者」「屍」を風葬所などに「遷す(うつす)」ことと「「魂」が「僊(うつる)」ことの相似意識がはじまり、さらには、その「魂」の「永生」観念が発生し「僊(せん)」が「不老不死」の「仙」へと結びつていくのが「神仙思想」。

 そいった中国の民間信仰と「老子」の思想などさまざまな思念が統合されたものが「道教」らしいです。

 「仏教」も「道教」も日本へ伝わりながらも、国教として「道教」を唐から受け入れながらその唐に滅ぼされた高句麗の例から、唐への警戒心を持っていた奈良時代の我が国は「道教」の公伝を抑えた(諸説あるようですが)ため、日本で神仙思想を広めたのは道教的な「道士」ではなく、密教(仏教)僧や日本古来の山岳信仰の修験者らだった。というようなことらしいです(かなり平板な図式にしましたので、ぜひ元の資料で委細ご確認ください。

 ただ、後半、推論が渦巻き、文章の途中が末尾に飛んだりもしてますが)。

★「久米仙人」のWikipedia説明で太文字にした、「毛堅仙」「毛堅仙人」という久米仙人の異称については、ネットをググり続けても何にもヒットしません。読み方すらわかりません。「けかたせん」?「もうけんせん」? 

 小説投稿サイトの「カクヨム」の『仙術の書』という話の中では「けたち」と読まれていました。竪琴の「たて」と見れば、そう読めか、と思いますが、そう読まれる根拠とかは、ググり不足か、定かではありません。

★もう一人の仙人として名の上がる役小角(えんのおづぬ)」(「えん」が氏名で「おづぬ」が名前)は、また、「役の優婆塞(うばそく・仏教の男性在家信者)」「役の行者(ぎょうじゃ・修行者)」とも呼ばれ、修験道の開祖とも言われています。

 舒明朝(7C前半)頃の生まれということなので、欽明朝(6C後半)頃に生まれた久米仙人より一世紀くらいあとの世代ということになりそうですが、役行者が没した(701年)あとの、平城京の造営(710)や、東大寺の創建(758竣工)に久米仙人は活躍したことになっており、久米仙人がはるかに長生きだったということになります(あくまで伝承の話です)。

★「役行者」は複数の書に記載あるようですが、Wikipediaの説明をドンブリ勘定圧縮すると、

 続日本紀平安時代初期に編纂された7世紀末から8世紀半ばを扱う勅撰史書。797年完成)の中に記載された数行の「役小角配流」の記事(=葛城山に住み、鬼神を使役する呪術に長けた役小角。彼を妬むものが、699年、文武天皇に「妖惑」のかどで讒言し、配流になったこと)を、奈良・薬師寺の僧・景戒(きょうかい。8C頃の人)が話を膨らませて日本霊異記採録し、9世紀初頭に完成。「久米仙人」話の拡散に貢献多大であったらしいです。

★8世紀中頃の生まれかと思われる景戒は、『続日本紀』では誰と特定されていなかった役小角の讒訴者を「葛城山の神である一言主」と特定して書いたそうです。

 かつては仙人的な外来かぶれの振る舞いで雄略天皇と厚誼を交わした「一言主神」も、景戒にとっては、もはや善悪の判断を誤る蒙昧な神でしかなくなっていたようなのです。
 上述の中島慧先生は、役小角道教の道士的な修行者であったために、讒訴されたのだと書いておられます。

★兼好は中世の13世紀終盤から14世紀前半を生きた人ですから、景戒の『日本霊異記』からは450、60年以上の時間が流れています。                          

 兼好にとって久米仙人の話は、もはや中世インテリ及び世間一般の常識的な伝承の一つだったかと妄想しますが、兼好が「さもありなん」とこの話で久米仙人の失敗に同情したのは、色欲に抗えない思いの点もそうなんでせうが、それによって久米仙人が「神通力」を失ったこと、つまり、仙人としての"脱俗性"を失ったことへの同情も大きかったようなのです。

 11世紀後半の公卿・大江匡房が書いた『本朝神仙伝』の中に描かれた仙人像では、「脱俗」と「辟穀」(へきこく=穀類をさけること)が仙人であるための条件とみなされていると、松田智弘という先生が指摘されたと中島慧先生の論考の中にありました。

 本人は、本来の神仙思想に依拠しているつもりで、仙人を、隠遁・遁世の理想像とだぶらせて描いてしまった大江匡房は、中古、中世の日本のインテリ層の脱俗熱の強烈さを書き残したんだと思うのですが、そういう思潮の後継者であったらしい兼好がここで久米仙人の"人としての"失敗談を持ちだした動機の中に、仙人が身にまとっていた"脱俗性"、衆人を超える"高さ"を失ったことへの、大江匡房的残念さ加減も、十分あったんじゃないかと妄想する次第です。  

 

〇色欲(しきよく)

 第三段は「いろ」でしたが、ここは「しき」の方です。

 角川古語辞典では、

●「しきよく【色欲】」名詞 

  意味:男女間の情欲。色情。(用例:徒然草8)

 と、中高生も読む辞書ですからね。あっさりと書いて、用例は、まさに本段が例にあげられています。

 漢語、仏教用語ですから大陸では古くからある語だったでせうが、日本へは6世紀、7世紀に仏典、漢籍とともに輸入された多くの語の一つだったわけでせう。

★「色欲」はWikipediaになかったのでコトバンクを検索すると。

 《〘名〙① 「仏語。感覚的な欲望。四欲・五欲の一つで、欲界の衆生が男女の美しさなどにとらわれること。また、男女間の性的な欲情。色情。情欲。(用例省略します) ② 色情と利欲。色と欲。(出典 精選版 日本国語大辞典)》

 とあります。他のサイトの説明もほぼ同様で、Wikipediaでは、いきなり性欲へ導かれたりします。 

★「四欲」はヒットしなかったので「五欲」を検索したら、

 Wikipedia

 《 五欲(ごよく, pañcakāmaguṇa)とは仏教用語で、眼(げん)、耳(に)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)という五つの感官(五根)から得られる五つの刺激(五境)、すなわち 色(しき)、声(しょう)、香(こう)、味(み)、触(そく)に対して執著することによって生じる五つの欲望のこと。 

 pañca(パンチャ,五つ) + kāma(カーマ,欲) + guṇa (種類) からなる。

 異なる用法として、財欲、性欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲という五つの欲望のことを指す場合もある。》

 と説明。

コトバンクでは、

 《 〘名〙 仏語。

 ① 色・声・香・味・触の五境に対して起こす情欲。五塵。※霊異記(810‐824)下「涅槃経に云はく、五欲の法を知らば、歓楽有ること無し、暫くも停まること得じ」〔大智度論‐一七〕

 ② 財欲・色欲・飲食欲・名欲・睡眠欲の五つの欲望。※米沢本沙石集(1283)八「皆人の知りがほにしてしらぬは死する事也。誠にしるならば、五欲(ゴヨク)の財利もなににかせむ」〔大明三蔵法数‐二四〕(出典 精選版 日本国語大辞典)》

 と説明。

Wikipedia がいう「異なる用法」、コトバンクがいう②側の「欲望」を分析していったら、①側の感覚論にたどり着いたのか、①側から②側に論が展開されたのかは定かではありませんが、「色」は「見えるもの」「見て感じるもの」で、それによって生じる(発動される)執着や、さらにもっとっていう「欲」が「色欲」ということのようです。(分かり切ったことを書いているかと思いますが)

 「色欲」というのは「性欲」とイコールだったわけではなく、「性欲」は「色欲」の一部という意識のことは、押さえておいたほうがいいと思うのです。

 近代的な医科学のような理解のなかった時代に、「性欲」は「会い」「見る」ことによって生じると捉えられたようですが、まあ、順当な捉え方だったように思います。

 そして、この色欲(中の性欲)は、なかなか厄介なものだと、太古から思われていたんだと思います。

★「性欲」をWikipediaで見ると、

 《 性欲は煩悩の一つとされ」とあり、同じくWikiによれば、「煩悩」は、「仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働き(汚れ)を言う」そうです。 

 そして「仏教では、人の苦の原因を自らの煩悩ととらえ、その縁起を把握・克服する解脱・涅槃への道が求められた。釈迦は、まず煩悩の働きを止めるのは気づき(念)であり、そして根源から絶するものは般若(智慧)であると説いている。》 そうです。

Wikipediaで「仏教 色」で検索すると、

 《 インド哲学における色(しき、〈梵字割愛〉 rūpa)とは、一般に言う物質的存在のこと。原義では色彩(カラー)よりも、容姿、色艶、美貌をさしている。》

 という説明があります。カラーじゃなくてデータだよと言いたいんだと思います。 

★また、Wikipedia で「色即是空」を検索すると、

 《 色(ルーパ)は、宇宙に存在するすべての形ある物質や現象を意味し、空(シューニャ)は、恒常な実体がないという意味。すなわち、目に見えるもの、形づくられたもの(色)は、実体として存在せずに時々刻々と変化しているものであり、不変なる実体は存在しない(空)。仏教の根本的考えは因果性(縁起)であり、その原因(因果)が失われれば、たちまち現象(色)は消え去る。》

 と、よく聞く「色」と「空」との説明が書いてあります。

★何でこういうことを書くかというと、「にほひ」が仮のもので、そんな仮のものに心を動かされる愚かさというような兼好の書き方には、そういった「色(しき)」意識を、どの程度だったかはともかく、踏まえていたからの書き方だろうと思うからです。

★兼好は、後の段でもそうですが、人に性欲のあることは割と率直に書いている気がします。

 

〇しかず  

 角川古語辞典の記載。

●「しかず【如(若)かず】」

  意味:及ばない(用例:万960)。

★「しかず」は上代からのことばのようです。一語として見出し語の掲示はありますが、品詞は書かれていません。
 何に及ばないとかでなく、及ばない運動量とか差異とかを表す、いわば「ベクトルことば」のようなものです。

★「しかず」ということばをさらに品詞分解すいうると、

●「しく【及く/若く/如く】」自カ四

  意味:①追いつく。(同:記・下) 

  意味:②肩を並べる。およぶ。(同:枕37)

 の未然形「しか」に、未然形接続の否定の助動詞「ず」がついた形なんでせう。

★「しかず」の近くに

●「しか【然】」副詞 

  意味:そのように。そのとおり。(用例:万199)

 ということばがあります。

 これも具体的に何がどうということでなく、あるエネルギーの量とか状態の「ベクトル」ことばです。

★この「しか」(様態)に到るのが「しく」なんじゃないでせうか。水平でも、垂直でも、「ある」到達点もしくは、「ある」レベルが「しか」で、そのレベルに向かうのが「しく」で、ちゃんと達したり、ちゃんとそのレベルまで内容を充足させることを、

●「しかと【確と】」副 

  意味:①ちゃんと。きちんと。(万892)

 をつかって「確とやってる」とか言うんじゃないでせうか。

 その通りだったら

●「しかり【然り】」(同:万4111)

 と言ってもらいたいもんです。

★そして、さらに飛躍しますが、その「しか」の在り様を理解したり、そこに到るための方策を理解しようと努めることが「しる【知る】」なんじゃないでせうか。それを行うのが「す」? どうでせう。定かではありません。

 

〇にほひ     

 角川古語辞典 

●「にほひ【匂ひ】」名 

  意味:①色が美しく映えること。色つや。(用例:枕37、源・宿木) 

  意味:②かおり。香気。(用例:徒然32) 

  意味:③趣き。風情。(用例:琴後集) 

  意味:④光。威光。(同:源・椎本) 

  意味:⑤染め色。襲(かさね)の色目で濃淡の効果。(同:なし) 

  意味:⑥「匂ひ緘」の略。(同:なし) 

  意味:⑦和歌や俳諧で、気分・情調(去来抄)。

 用例で見ると①④が平安期で、あとは中世以降です。上代の用例ありません。なので、名詞「匂ひ」は上代にはまだなかった感覚のようです。

★これに対し、動詞の「にほふ」は上代からのようです。

●「にほふ【匂ふ】」

 [1]自ハ四 

  意味:①色が美しく染まる。照り映える。(用例:万328) 

  意味:②つやめく。艶麗である。(同:万21) 

  意味:③かおる。(同:源・花散里) 

  意味:④(影響が)及ぶ。(同:源・真木柱)

 [2]他ハ下二 

  意味:染付る(用例:万3801

 上代に、名詞がまだなくて、動詞があったということは、

 [1]①染まり、照り映え、②つやめき、艶麗になる現象の推移を、

 [2]染付る作業の中などで視覚的に感じながらも、

 その現象の推移とか、その現象を感じる自分とかに関心が向いて、感じている内容そのものを分析的に見るところまでは行っていなかった。ということになるのでせうか。

★とまれ、上代に気づかれた「匂ふ」動きは、染まっていく、それによって映えてくる(バエてくる)微かな現象を言っているように思います。   

 強い、明確な動きを言うのではなく、まず、視覚的な、かすかな動き・作用を言おうとしているのが、「匂ふ」の主眼なんだと感じます。

 その、微かな、作用を見ているうちに、やがて、微かな現象の細やかな美しさに気付き、そして、細やかさ、ほのかさ、つまり「匂ひ」への意識の集中は、「ほのかな」「香り」を嗅ぎわける気付きをももたらした。そんな感じでせうか。
 この8段での「にほひ」は、「炊き込める」ものとして記述されていますから、「香り」の「匂ひ」で間違いなさそうです。

★「匂ひ」の意味の⑥の「匂ひ縅」は、「にほひおどし」(においおどし)と読みます。

 戦国時代(近世)の鎧(よろい)の細かいパーツを繋ぎ合わせる縅毛(おどしげ=紐です)の横並びの色を、下の段に向かって少しずつ明るくしていくことで、濃淡のグラデーションを演出する紐使いのことらしいです。

 古代の色合いの微かな動き(変化)に反応した「匂ふ」という言葉の本義が、近世までちゃんと伝わっていたことに感動すら覚えます。

◆ところで、「匂ふ」の語源についてネットをググると、佐賀大の竹生政資さんと西晃央さんの『「にほふ」の語源と万葉集3791番歌の「丹穂之為」の訓釈について』というPDFがすぐにヒットします。

 これを読むと、

 ◇丹穂=抜きんでた赤さ ◇丹延ふ/負ふ=赤を帯びる、◇「に」は新しいの義 等々、9つほどの語源説が既にあるのだそうです。そして、竹生さん西さんは、新たに10番目の「荷負う」説を唱えておられます。

★角川古語辞典で、「に」のつく「にことば」、しかも上代の用例が紹介されている「にことば」を、ざっと眺め回し「に」の語感をさぐります。

 「に=土(記・中)【少】」

 「に=丹=赤(記・中)【多】」

 「に=瓊=赤い玉=赤くきらきらしたもの(神代紀)【少】」

 「にき・にこ=和やかさ(万1800・万2762)【多】」

 「にき・にこ=柔らかさ(万194・記上)【多】」

 「にしき=5色の煌びやかさ(万1807)【少】」

 「にた=柔らかすぎてどろどろ(出雲風土記)【少】」

 「に=似?(万771)【希】」

 「に=荷(万100)【希】」

 「には=土の面、海の面(万4059・万388)【多】」

 「にひ=新しい(万3543)【多】」

 「にほ=美しさ、色染め、色づき、照り映え(万3309)【多】」

 (※【多】【少】【希】は、ざっくりな見出し語の多寡です。付記してます)

★「に」の「丹(赤)」は、ただ赤いだけでなく「瓊」に通じて、キラキラした感じ、なんか映える(バエル)感があるのではないでせうか?

 「匂ふ」は、「丹・瓊延ふ」(にはふ、にほふ)または「丹・瓊負ふ」(にはふ、にほふ)=ほのかに照るような輝くような感じを帯びる? でいいんじゃないでせうか。

 そう見れば、竹生さん西さんが指摘されている、白や黒の花や木にも「にほふ」が使われているので、「丹(赤)」の説は相応しくないという点も、特段の問題はなくなるんではないかと思うのですが。

★しかし、読書感想文派は、自分の説が正しいなどと言いたくて書いているわけではありません。読んで感じたことをよく調べもせず口にしてしまう派であるというだけであります。

★竹生先生、西先生の「荷負う」説は、万葉集の歌に出て来る「にほふ」の宛て音字の一つ「丹覆ふ」ということばが、本来「に・おほふ」であり、「覆ふ」は本来「ほふ」とは読めず、「おほふ」が縮約して「ほふ」となって「丹覆ふ」(にほふ)になっているというものです。

 なるほどなあと思うのですが。

 にしては、角川古語辞典に「に=荷」の用例がとっても少ないのはなぜなんでせうか。そこがどおも気になるのです。

 「丹・延ふ」(にはふ・にほふ)=赤み、または艶やかさが、だんだん染み伸びていく感じでは、はだめなんでせうか? 

 万葉集に登場する多くの「にほふ」の宛て音字がそれを裏付ける字ではなく、「荷・負ふ」説を裏付けている字が使われているんだということなんでせうが、どうも今一、すんなりと首肯できずにおります(理解力不足だとは思っておりますが)。

 

〇えならぬ匂ひ  

 「えならぬ」は「えならず」の連体形「えならぬ」で、「えならず」はそれ自体で「言うに言われない。何ともいえない。すばらしい。」という意味をもった語で、形容詞的な働きで「匂ひ」とくっついている。

 「えならず」の用例は、源・帚木/明石となっており、このことばは平安時代(中古時代)以降のことばです。

★「えならず」は「えならず」で一語でせうが、「えならず」を、さらに品詞分解すれば、

●「え」は副詞。(角川古語辞典)

 〘下に打消の「ず」「じ」「まじ」「で」、反語の「や」などを伴って〙  

  意味:①・・することができない(用例:竹取、更級、万3152) 

  意味:②たいして・・しない(同:源・桐壺)(角川古語辞典)」

★これに

 「なる【成る】」自ラ四の未然形と、未然形接続の打消の助動詞「ず」が連なっている、と分解できるのではないでせうか?  

●「成る」自ラ四は、

  意味:①できあがる しあがる 成就する (用例:万174) 

  意味:②〈形・状態などが〉変わる 変化する(同:万864 / 源・明石) 

  意味:③望みどおりになる 成功する(同:源・須磨) 

  意味:④その時刻に達する(同:若紫) 

  意味:⑤おいでになる おでましになる(同:中務内侍) 

  意味:⑥できる(同:狂・節分) 

  意味:⑦及ぶ 匹敵する(同:狂・八句連歌

 「ならず」というのは、上代の意味の否定形で、成就できない、変われない、望みどおりにならない、達せない、できない、及ばないというような意味になると捉えていいかと思うのです。

★「しかず」の時のように「何が」できないのかの具体的な説明はありません。意言外にあるわけですが、それはつまり「しかず」と同じで「えならず」も「ベクトルことば」と言っていいのではないでせうか。

 しかし「えならず」は「しかず」と違っていると思うのです。

 「しかず」は、ある到達点に到達すること、達せないこと、その可否に意味があるように思いますが、

★「えならず」の「ならず」は、「到達点」に絶対「到達できない」という前提を立てることばのように聞こえます。それなのにそこ(到達できない到達点)を超える「匂ひ」だ、と強調することばのように思うのです。

 定かではありませんが。

  

〇肥え こえ

 角川古語辞典で「肥ゆ」を見ます。

●「こゆ【肥ゆ】」自ヤ下二 意味:肥える。太る。(用例:源・宿木)

 角川古語辞典の用例は『源氏物語』(平安期)からなんですが、

 『万葉集』1460番に、

  「戯奴(わけ)がため 我(あ)が手もすまに 春の野に 抜ける茅花(つばな)そ召(め)して肥(こ)えませ」

  (そなたのためにわたくしが 手も休めずに春の野で 抜いておいた茅花だよ 食べて太って下さいね)

 の歌があります(訳は「讃岐屋一蔵の古典翻訳ブログ」さんから引用)。

★「肥ゆ」は、上代からの用例がちゃんとあります。角川古語辞典が上代の用例を上げていないのがなぜかはよくわかりません。

★とまれ、「肥ゆ」の近辺だけでなく、「こ」にまつわる上代を列挙してみます。

 「こゆ【肥ゆ】」の「こ」が「凝る」「凝り固まる」が、基層のイメージではないかという妄想を持っているのですが、その妥当性を追っかけてみます。すいません、また、ダラダラ長いです。

●「こ【蚕/蠶】」名 意味:カイコ。(用例:2495)同:桑子              

  ➡「こ」=凝り固まり大きくなったものではないかと。

●「こいふす【こい伏す】」自サ四 意味:倒れ寝る。伏す。(用例:万3969)     

  ➡「こい」はあとで出る4「臥ゆ」だと思うのですが、「臥ゆ」は床や寝所で凝り固まった姿かと。「こい」も「ふす」も寝た(凝り固まった)状態。

●「こいまろぶ【こい転ぶ】」自バ泗 意味:転がり回る。倒れころげる。(同:万2274)                                     

  ➡おなじく「凝り固まったものが」倒れて転がる姿

●「こえへなる【超え隔る】」自ラ四 意味:越えて遠く隔たる(用例:万4006  

  ➡「こえ」は「越ゆ」るもの「こ」=「凝ったもの」を越えゆくのが「越ゆ」かと。

●「こきし」副 意味:たくさん。一説に「扱きし」。(用例:記・中)

●「こきしく【扱き敷く】」他カ四 意味:しごき取って敷きならべる(万4453)

●「こきだ」副 意味:たくさんの意か。(用例:記・中)

●「こきだく【許多】」副 ひどく。 たくさん。(用例:万942)

●「こきばく【幾多・幾許】」副 非常に。たくさん。(用例:万4360)      

  ➡以上の「こ」も「凝り固まった」実、粒のようなものの意識が下敷きかと思います。「許多」は「あまた」とも読み、「たくさん」を意味する漢語です(Weblio日中・中日辞典)。

★「こきだく」ってなんなんなんだろうと思いつつスルーしてきてましたが、漢語を和語の「こきだく」で読んでただけだったんだと氷解、納得です。

◆「こきばく」の「ばく」は、「捗(はか)がいく」の「はか」関連らしいことが 「gogen3000」 さんの「いくばく(幾許)の語源」に書かれてました。言語学系のかたの記述のようですので本稿などとはレベチで、恐縮ながらあやからせて頂きたいと思います。( https://ameblo.jp/gogen3000/entry-12545887637.html )

★「こきだく」の「だく」は、

●「たく/だく」他カ四 

  意味:①かき上げる。たばね上げる。(用例:万124) 

  意味:②力を入れて漕ぐ(万1266) 

  意味:③馬の手綱をあやつる。馬を駆けさせる。(万4154)          

  ➡ということばの①の意味ではないかと思うのです。山ほど腕に抱え込む感じでせうか。あるいは「高」。積み上げたものの高さの語感「だか」の副詞化による変形のようなものではないかと。   

●「ここば【幾許】」「ここだ【幾許】」という上代語も同じ意味では。     

  ➡「ここばく」「ここだく」の短縮形?

●「こくは【木鍬】」名 意味:木製のくわ(用例:仁徳紀)          

●「こくみ【瘜肉】」名 意味:こぶやいぼなどのような、余ってできた肉(祝詞・大祓)

  ➡祝詞(のりと)の個々のことばが上代ことばかどうか精査しなければならないのでせうが、この「こ」はまさに「凝り固まった」ものの意識のことばかと思うのですが、どうでせう。      

●「こけむしろ【苔筵】」名 「苔の筵」に同じ。

  意味:①苔を敷物に見立てていう。②山住みの人の筵。(苔筵の用例:万1120) 

  ➡「苔」一字の上代用例出てないんですが、「苔筵」が上代にあったなら、「苔」も上代からのことばでせう。で、「こけ」の「こ」も地面や岩や木の根のあたりに「凝り集まっている」「こ」のような「毛」のようなものが「こけ」なんじゃ」ないでせうか?

●「こごし」形シク 意味:凝り固まっている。 険しい。(用例:万3329)

  ➡この語に限っては「こ」が「凝り固まり」であることを疑う余地はありません。

●「こちたし【言痛(甚)し】」形ク 

  意味:①うるさい。 煩わしい。(用例:万2886) 

  意味:②ぎょうぎょうしい(同:枕35) 

  意味:③はなはだしい。たくさんだ。(同:源・若葉・下)           

  ➡「こち」を「ことば」と捉えた当て字がされていますが、「こち」は「凝った」「濃すぎてうるさい」みたいな意味じゃないんでせうか? そう主張するなら、この「こち」が「ことば」でない説明をしなければいけないのでせう。

 角川古語辞典では、隣に

●「こちづ【言出】」ということばがあります。自ダ下二で 

  意味:ことばにだして言う(用例「足柄の み坂かしこみ 曇り夜の あが下ばへを 言でつるかも」:万3371)

●「したばふ」は「したばふ【下延ふ】」自ハ下二 

  意味:人知れず心の中で思う(用例:万1809)と、密かに思う意味のことばでした。

 万葉集の4115でも

 「さ百合花 ゆりも逢はむと 下延ふる 心しなくは 今日も経めやも」

 (訳:さ百合花のように後には必ず逢おうと心の中に思いつづけずして、今日の一日とて、どうして過ごせよう)(奈良県立万葉館さんから引用)とあって、心の底で思うことで間違いなさそうです。  

 なので、「こちづ」の「こち」は「ことば」で間違いなく、そこからし「こちたし」の「こち」も「ことば」と見なされているのでせうが、

 例えば角川古語辞典の「こちたし」の用例万葉集2886は、

 「人言(ひとごと)は まことこちたく なりぬとも そこに障(さは)らむ 我にあらなくに」

 【人の噂がほんとうに うるさくなってしまっても そんなことでへこたれる ような私じゃないのにね】

 (「讃岐屋一蔵の古典翻訳ブログ」さんから引用)

 また、万葉集116は
 「人言(ひとごと)を 繁(しげ)み 言痛(こちた)み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川(あさかは)渡る」 

 【人の噂(うわさ)がひどくて辛くても、(あの人に会うために)生まれて初めて(冷たい水の流れる)朝川を渡るのです。】(「たのしい万葉集」さんから引用)。

 この2例の「こちたし」は、どちらも「人のことば(噂)」をまず言い、それが「募り、集まる」状況を言っていると思うのです。それは「うるさかったり」「辛くなったり」することになる状況とイコールなので、「うるさい」「つらい」が通用の意味になっているかと思うわけです。

 「こちたし」の「こ」も、本来は「凝り集まる」の「こ」でいいんじゃ無いかと思うんです。が、どうでせう。

★そして、さらにいえば「ことば」の「こ」も「凝り集まる」意味合いが基層にあるんじゃないか、それは「声」の「こ」とも通底しているんじゃないかという気がしているのですが、まだ、よくわかっておりません。

●「こつ【木屑】」名(用例:万3548) 

●「こづみ【木積み】」名(用例:2724)                   

  ➡これは単に状況描写?

●「こふ【恋ふ】」他ハ上二 

  意味:①思い慕う。(用例:万111) 

  意味:②異性を思い慕う(用例:万5                    

  ➡思う気持ちの凝縮のこと。

●「こもる【隠る/籠る】」自ラ四 

  意味:①中に入る。囲まれる。(用例:景行紀) 

  意味:②中に入って出ない。閉じこもる。(用例:万3326) 

  意味:③隠れる。潜む。(源・若紫) 

  意味:④社寺に泊まり込み祈願する。参籠する。(源・若紫)         

  ➡名詞「こもり【隠(籠)り】」のほうが、上代用例いっぱいあるんですが、いっぱいなんで割愛します。

  ➡広い家に閉じ籠ることもあるでせうが、こもるといえばやはり凝縮されたような狭い空間に居るイメジじゃないでせえうか?

●「こやす【臥やす】」自サ四〘上代語〙

  意味:「臥ゆ」の尊敬語。横におなりになる。(用例:万1800)

●「こやる【臥やる】」自ラ四〘上代語〙 意味:横になる(同:記・下)

●「こゆ【臥ゆ】」自ヤ下二〘上代語〙 意味:横になる(同:万3662)     

  ➡掛けるものを被って寝ている姿は、床の上に横たわる固まりに見えると言う意味だと思うのです。

●「こらる【嘖らる】」自ラ下二 意味:しかられる(用例:万3519)

●「ころひ【嘖ろひ】」名 意味:声を大きくして叱り責めること(同:神代紀)

●「ころふ【嘖ふ】=ころぶ」他ハ四 〘上、ころふ〙意味:声を上げてしかる(同:万2527)                                

  ➡この「こ」はもちろん「声」の「こ」ですね。「ことば」のこです ね。ガミガミ言うのは、声、ことばを畳かける、凝り固まらせる感じなんですが、どうでせう。「おこられる」と今でも使ってますね。

●「こる【凝る】」自ラ四 

  意味:①寄り集まる。固まる。(用例:源・葵)

  意味:②凍る(用例:万79)                        

  ➡「寄り集まる」という認識が追加明瞭になったのが平安時代ということでいいかと思います。「凍る」が万葉時代からあるように「凝り固まる」意識は、上代からのものですから。

●「こる【懲る】」自ラ上二 意味:こりる。こりごりする。(用例:万519)   

  ➡「懲りる」というのは、さんざん「嘖られ」たときの思いとみていいんじゃないでせうか。

●「こる【伐る・樵る】」他ラ四 意味:木を切る。伐採する。(用例:万3232)    

  ➡「こる(伐る)」が、硬い石や氷などには使われず、「木」を切るときにだけしか使われないことを考えると、「伐る」の「こ」は、「木」の「こ」なんでせう。

●「ころも【衣】」名 意味:①着物。衣服。(万1666)  

  意味:②僧が着る着物。法衣。僧服。(栄花・音楽)  

  意味:③蛾の羽、また、蚕の繭。(仁徳紀)
  ➡着物(布)も糸を織り重ねたものですから、「ころも」は、糸が凝縮している感じを言っているのかもしれません。

●「ころろく【嘶く】」自カ四 意味:ごろごろ鳴る。一説に、むぜぶ。(記・上)
  ➡これも「声」の「こ」かと思います。

●「こをろこをろに」副 

  意味:液体をかき回し、凝り固まらせるときの擬音語。用例:記・下〈雄略〉

  「水こをろこをろに、こしも、あやにかしこし、高光る日御子」

  《追記:記・上〈神代七代の顕現と神隠れのあと〉「鹽許袁呂許袁呂邇(塩こをろこをろに)」》

  ➡角川古語辞典では、上のように、雄略紀の例が上ってますが、追記した、上巻冒頭のイザナギイザナミが、天浮橋に立って、天沼矛を下界に指しおろして「海水」をかき回す「こをろこをろ」のほうが、古事記読者にはなじみ深く、より語意がストレートに使われている箇所ではないかと思います。

 雄略紀のほうは、歌謡化された馴れた「口調」の用い方のような気がします。

 「こをろ こをろ」(固まれ 固まれ)。イザナミイザナミはそう唱和していたのだと思います

★かき回すことで出来ていった淤能碁呂島(おのごろじま=自ら凝って成った島?)が、だんだん大きくなることを「肥ゆ」といったんじゃないでせうか?

 

〇あぶらつき  

 角川古語辞典で

●「あぶらづく【脂づく】」自カ四 

  意味:からだに脂肪が多くなって、皮膚につやがでる(用例:徒然8)

 と、角川古語辞典は、この8段の意味内容で「あぶらづく」の見出しを立てています。    

 角川古語辞典で「あぶら」は、

●「あぶら【油・脂】」名 

  意味:⦅火に油をかけるといっそう盛んに燃えることから⦆おせじ。へつらい。(用例:浄・鎌倉三代記)

 と、いきなり油から派生の語の意味説明で、まあ当然ながら「事典」じゃないから油の説明などありません。なので、連語なども、どれも上代以降のものばかりですが、中で「あぶらび【あぶら火】」は、意味:灯火用の油に灯心をひたして灯す火(用例:万4086)と上代から「あぶら」表現があったことを伝える内容です。

★何を言いたいのかと言うと、人肌の「つや」を保つものが「あぶら」「脂」であるという認識は、一般的だったのか? どれらい普及していたのかと思ったわけです。

★古事類苑データベースで「脂」を検索すると、『今昔物語』(第12巻19話 「盲女」の話があります。

 盲目のゆえに貧しく食物を得るのも難しい女が幼い娘に手をひかれ、死ぬ前に一度と薬師仏に拜する。女が薬師仏に目を治してほしいと懇願すると、薬師の御胸から桃の「脂」のようなものがしたたり出、それを食べた女の目が見えるようになる。

 桃の果肉を「脂」と捉える感覚は、『今昔物語』の中世に、皮膚(肉)内に「血」と別に「脂」があるという認識があったことを伝えているかと思ったのですが、

★『和妙類聚抄』巻第九「果蓏具百廿」の項に、「桃脂 神仙服餌方云桃脂一名桃膠〈毛々乃夜迩〉」(桃脂:神仙のダイエット法にいうところの桃脂ー名称「桃膠」<もものやに>」 という記載があり、桃の脂(汁?)自体が、神仙思想の妙薬的な「もものやに(脂)」という捉え方もされていたらしく、薬師の御胸から「桃の脂」が流れ出て来るのには、即物的な脂が流れ出てきたという意味だけじゃない意味もあったたようなのです。

★「桃」は、日本の神話でも、伊邪那岐伊邪那美に投げて邪気を払う話がありますから、要注意物で、神話の「桃」が神仙的な食べ物の「桃」だったとしたら、きっとそれについて考察したPDFとかがどっかにあるんじゃないかと思うのですが、ここでは、深追いしません。

★『古事記』上巻の「天地開闢」冒頭にある、「次國稚如浮脂而。久羅下那州多陀用幣琉之時。」(次に国若く漂える脂のごとくして、クラゲなす漂えるの時)は、体の脂ではないでせうが、水に浮かぶ油の認識を示しています。

★このほか、古事類苑データベースで「脂」は、「魚脂」とか「松脂」とかいろいろあり、我々とそう違わない「脂(油)」感覚は古い時代からあったようにも思えるんですが、人肌についての、兼好の「艶」っぽい見方と通じそうなものはなかなか引っかかってきません。

 万葉集でも既述の「油火」以外とくに引っかかりません。「脂」が人肌に「つや」を生じさせるというはっきりした意識で記述されたものは、兼好のやはりエッセイストとしての並々ならぬ眼差しのおかげなのかなと思うのですが、全く定かでありません。渉猟不足だとも思います。