老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

『蜻蛉日記』 道綱母の評判

 本日は、昭和99年2月29日。閏年閏日ですが、「安和の変」のあった安和2年(西暦969年)は、5月が二度あったことが『蜻蛉日記』読むとわかります。閏月です。旧暦も奥が深そうです。

 

1)芳しくない評判

 『蜻蛉日記』は、作者の「道綱母」さん(NHK大河ドラマ『光る君へ』で財前直見さんが演じた)のことを含め、たいへん興味深い「日記作品」だと、読書感想文派の机上空論城城主は、まだ、中巻の15段辺りをうろうろしながらそういう読書感想を抱いていおります。

 道綱母さんは、一般的には、粘着質とか、嫉妬深いとか、怒りっぽいとか、一人っ子道綱への精神的な圧迫もしくは依存過多とか、評判は芳しくありません。

 でも、古代的な母系制に由来する?一夫多妻が貴族社会の定めであった時代に、中古三十六歌仙と謳われ、旦那の藤原兼家NHK大河『光る君へ』で段田安則さんが演じている)が、円融天皇への歎願長歌を奉じた際に、その詠作を助けたかもしれないと推定されているらしい(Wiki)ほどのインテリが、その一夫多妻制度の不条理に苦しんで記したんじゃないかとも思われ、ただ突き放して面白がっているだけでいい人なんだろうかという気がしています。

 

2)道綱母さんの深慮

 2月8日に書いた「うつろひたる菊」の最後に書いた、ネットに上っている斎藤菜穂子さんの「『蜻蛉日記』兼家の御嶽詣 —安和の変後に求められた加護—」のpdfを読むと、たぶん道綱母さんへの印象は少し変わると思います。空論城城主もそうでした。

 その内訳はネットでアクセスできますので、ぜひご一読願いたいのですが、例のごとく、ドンブリ勘定圧縮要約すると・・・。

 表面的には、なかなか、自分の所へ訪れてくれない兼家(だんな)への愚痴ばかり垂れているような『蜻蛉日記』なんですが、冷泉天皇の即位がらみの東宮問題で、皇室権威のイニシアチブを握られかねない左大臣源高明(みなもとのたかあきら)を、藤原一門が排斥した事件とみられているのが「安和の変」なわけですが、この変の前後の時期に、道綱母さんは、当時、世相の新たな関心事であった、「御嶽詣(みたけもうで)」に臨む兼家の姿と、「安和の変」の後、大宰府へ配流になった高明の後妻・愛宮(あいのいみや=兼家の異母姉妹)の出家に際し、自らが書き送った手紙のことなどを、巧みにつなぎ合わせて、高明排斥の犯人捜しの視線が兼家に向かうことを逸らそうとしていたらしく読めるらしいのです。

 愛宮への長たらしい手紙の内容(長歌?)を読んだ時には、そのおためごかしの同情ぶりに、以前にも書いた、この方の硬質な無神経さのようなものも感じたのですが、なるほど、それはそういう裏面の意図がにじみ出ていた生硬さだったのかとも思えました。

 この道綱母さんの深謀は、突き詰めて言えば、兼家、道綱、そして自分たちを守ろうとしたものだったのかもしれません。ただ、一般的に言われているような嫉妬深いだけの女みたいな人では、なかったってことだけは言えるように思われました。

 しかし、そういう才気煥発さのゆえなのか、自らの繁栄のためにあらゆる手段を尽くし一家一門の長となっていく兼家のノリが、結局は肌に合わなかったらしいこの方の苦悩の質というようなことを考えずにはいられません。