老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

21世紀は倫理の危機の時代なのか?

 

  爽やかな秋の訪れのような立冬の朝に

  倫理の危機の話です。

 

 

1)パレスチナ系女性議員のことば

 

  米議会唯一のパレスチナ系女性議員に問責決議案、イスラエル批判理由に

  2023/11/8(水) 11:13配信 (CNN) 

 

  以下CNNの記事ほぼ全部引用・・・

 

      米下院で7日、

      パレスチナ系の

      ラシダ・タリーブ議員(民主党)が

 

      イスラエルを批判した発言をめぐる

      問責決議案が提出され、

      8日に採決が行われる見通しとなった。

 

      タリーブ氏は

      米議会初のパレスチナ系女性議員。

 

      決議案をめぐる審議の中で

      改めてパレスチナ支持を訴え、

 

      「こんなことを言わなければならないとは信じ難いのですが、

       パレスチナの人々は消耗品ではありません」

     

        と発言して言葉を詰まらせた。

 

      同僚議員が立ち上がってタリーブ議員の肩に手を置き、

      長い沈黙を経て落ち着きを取り戻したタリーブ議員は

 

      「私たちは人間です。皆さんと同じように」

      

        と続けた。

 

      「(自身の祖母も)ほかの全てのパレスチナ人と同じように、

       ただ当たり前の自由と尊厳を持って生きたいだけなのです」

 

      「私にとっては、パレスチナの子どもが泣き叫ぶ声も

       イスラエルの子どもが泣き叫ぶ声も同じように聞こえます。

       なぜパレスチナの子どもの泣き叫ぶ声が、

       皆さんには違って聞こえるのか分かりません。

       私たちは共通する人間性を失ってはなりません

 

        そう語ったタリーブ議員は

 

      「私は沈黙しません。自分の言葉をゆがめさせません」

      「私に嫌がらせしようとしたり、

       検閲しようとしたりしても無駄です」

  

        と力を込めた。

 

      その上で、

      イスラエル政府に対する批判を

      反ユダヤ主義と混同してはならないと論じ、

 

      「どんな政府も批判を免れることはできません。

       イスラエル政府批判を反ユダヤ主義とする考え方は

       非常に危険な前例になります

       それは我が国の全土で人権を訴える多様な声を

       黙らせるために利用されてきました

 

        と指摘した。

 

      これに対し、

      米下院共和党ユダヤ系の

      マックス・ミラー議員は

 

      「反ユダヤ発言や憎悪に満ちた言動を

       繰り返してきたご婦人には、

       問責決議がふさわしい」

 

        とタリーブ議員を攻撃した。 

                             ・・・引用以上

 

2)政権批判と反ユダヤ主義

 

  反ユダヤ主義は、

  ヒットラーが犯したような

  やみくもなユダヤ人排斥の感情のことでせう。

 

  パレスチナ系のラシダ・タリーブさんは

  現在のイスラエル政権への批判と

  反ユダヤ主義は別物で、

  現政権の冒している愚は

  批判されなければならないと訴えている

  と、解釈できます。

 

  それに対する、

  ユダヤ系マックス・ミラー議員のことばは

  

  タリーブ議員のことばを

  反ユダヤ主義そのものと決めつけ切り捨てる

  非人間的なことばに聞こえます。

 

 

3)抗戦派同士の「キレ合い」の不幸

 

   20231018のBBC NewsJapanの

   【解説】 イスラエル・ガザ戦争 対立の歴史をさかのぼる

   を読むと、

   

   1993年の和平に向けたオスロ合意を

   イスラエルの極右勢力(当時野党)のネタニヤフがまず否定し

      

   呼応するようにパレスチナ側でも和平路線のPLOに替わり

   徹底抗戦派のハマスが勢力を拡大した。

 

   いわば、武力による徹底勝利を目指し合う

   キレる人たちが前面にでてしまった不幸・悲劇です。

 

 

4)なぜ「キレる人たち」が支持されるのか?

 

  おそらくイスラエルの中にも

  ネタニヤフの方法論では平和は訪れないと

  思っている人はいるでせう。

 

  同じように、パレスチナ側でも

  ハマスのやり方でうまくいくはずがない

  と思っている人は少なからずいると

  思われるのですが

 

  しかし、残念ながら、それぞれの側で

  ネタニヤフの党を、ハマス勢力を

  支持する人たちがそれを上回っていたからこそ

  今の悲劇があるわけです

 

 

5)「和平」より「全面勝利」を好む心理

 

  ウクライナ侵攻が終わらないのも

  同じような心理作用の働きが

  為政者に利用されているからだろうと思います。

 

  これまでにも何度も書いてきたことですが

 

  「負けを認めること」だけでなく

  「多少の譲歩すら負け」だと思う人たちが

  現実に居て

 

  そういう人たちの思いが

  事態の鎮静化、和平化、問題の解決の

  障害になってきていることのあることは

  歴史的事実なんじゃないでせうか?

 

  それは、営利的・商売的な下心

  地位肩書の毀損を厭い、上昇を願う下心とか

  わりと解釈しやすいものもあるのですが

  

   (もちろんこういった「戦争の親玉」たちの

    暴走を阻止する方法論の確立も必要では

    あるのですが)

 

 

6)我々自身の奥底にある感情

 

  多少なりとも「損をすること」、ましてや

  どんな条件下にあっても「負け」は忌避したがる、

  (意識の下で機械的に働いてしまう心理作用が)

  我々自身の心の奥底で働らく心理作用のほうが

  より問題の根は深い気がします。

 

    (「戦争の親玉」たちについ利用されてしまう

     心理作用です)

 

  「差別意識」は、突き詰めて言うと

  「生命」の「防衛本能」に根ざし、

  異質なモノを排除しようとする「自己防衛」心理だと思うのですが、

 

  「負けること」はもちろん、

  「損」すること、「損」させられることへの忌避感情も

  全く同じ心理作用だと思うのです。

 

  「領土問題」が、「喪失」か「歓喜」かに

  深くかかわっていることを考えるとわかると思うのです。

    

  だから、おそらくだれの心の奥底にもそれはあるのですが

  「本能」の発現形態が「自己愛」なら、

 

  「本能」の「自己統御」は「他者への愛」に根ざし、

  「自己愛」だけでは「他者」と共存する「社会」の存立は危うい

  「他者への愛」が社会にはなくてはならないということもまた、

  人類は「本能」的に知っているのではないか、と思うのです。

 

  しかし、それが「本能」的なものであるがゆへに

 

  「他国民」「異民族」「異なる宗教」「異なる生活様式」といった、

  自己および自己の社会と「異なるもの」だという認識・決めつけは、

 

  「自己統御」を及ぼす必要のある境界・限界と本能に認識させ、

  「本能」の自己統御はその境界内で働くようになり、

  外形的には、「自己統御」の放擲と見えてしまうのではないでせうか?

 

    プーチンを支持するロシア国民

    トランプを支持する支持者たちが

   

  そうでない人々には、不可解にしか思えないのは、この外形視によるもの

  なんじゃないでせうか?

  

    「そんなの当たり前だろう、

     なぜ、「敵」を愛さねばならないのか?」

 

  この前近代的な「愛国的」な言説に、

  力強く論破することばを、

  我々は、まだ見いだせていません。

 

 

7)倫理的とは

 

  「倫理」のくわしいことは何もしらないんですが

  突き詰めると、「自己愛」のコントロール

  「他者への愛」の在り方について

  学ぶ学問なんじゃないでせうか?

 

  人類は、ずっと、それぞれの時点での

  境界を乗り越える愛を模索し続けてきたんじゃ

  ないでせうか?

 

  21世紀に入ってから

 

  人類が長い年月をかけて取り組んできた

  「倫理」に悖る現象が目につきます。

  

  「トランプ現象」とか「ウクライナ侵攻」とか

  今回の「ガザ侵攻」とか、

  「自己愛」「本能」むき出しのほうが

  大衆の支持を集める状況を

 

  21世紀人としてきちんと整理しないと

  いけないんじゃないでせうか?

 

 

8)敵は敵なのか?

 

  最近「外国人ユーチューバー」や

  海外在住の「日本人ユーチューバー」による

  外国人による日本の旅とか外国人の自国の旅とか

  日本人による外国の旅とか外国観察とかよく見て、

 

  (特に、日本人の場合、何かと過剰反応する

   韓国系とか中国系とかがそうですが)

 

  その国の人が、ただその国名で一括りにするような対象などでなく

  その国に住む人たちのそれぞれにそれぞれの考え方がある

  というような当たり前なことががわかるようになってきました。

 

  そういう人たちもやはり「敵」なのかどうか?

 

  こういった、「民間外交」の急速な拡大と深化のなりゆきが

  今後、我々の「他者」「敵」意識にどう作用していくのか。

  

  自分はあと、20年くらいは生きるだろうか?

  その間に、「進展」をみることができるのだろうか?

 

                昭和98年11月8日 立冬の朝

        The Police の Driven To Tears を思い出しながら