そもそもが危うい
1)女の顔が忘れられない男の歌
また「万葉百科」さんのデータ・ベースから引用させて頂きます。
●番号
巻11-2580
●漢字本文
面形之 忘戸在者 小豆鳴 男士物屋 恋乍将居
●読み下し文
面形の 忘るさあらば あづきなく 男じものや 恋ひつつ居らむ
●訓(よ)み
おもかたの わすれへ あらば あづきなく をとこじものや こひつつをらむ
●現代語訳
あの顔かたちが 忘れられる器(かたち)でもあるのなら、いたずらに 男たるものが 恋いつづけていようか。
●歌人
作者未詳
(おもな古語)Weblio古語辞典さんから引用したりです。
■おもかた【面形】 顔かたち。面ざし。 「—の忘れむしだは大野ろにたなびく雲を見つつ偲(しの)はむ」〈万・三五二〇〉
■あづきなし 形容詞ク活用 活用{(く)・から/く・かり/し/き・かる/けれ/かれ}
①「あぢきなし①」に同じ。 出典:万葉集 二五八二 「あづきなく何の狂言(たはごと)」 [訳] 思うようにならず何というたわごと。
②「あぢきなし③」に同じ。 出典:日本書紀 神代上 「汝(いまし)、はなはだあづきなし」 [訳] あなたは、たいそう手がつけられないほどひどい。
◆上代語。中古以降「あぢきなし」となる。
■男じもの・・・「男であるのに」「男らしくもなく」などの意味。
■をり 【居り】
[一]自動詞 ラ行変格活用 {語幹〈を〉}
①座っている。腰をおろしている。 出典:万葉集 九〇四 「立てれどもをれどもともに戯(たはぶ)れ」 [訳] (わが子は)立っていても座っていても(親と)一緒に遊び興じ。
②いる。存在する。出典:万葉集 三三八〇 「埼玉(さきたま)の津(つ)にをる舟の」 [訳] 埼玉の船着き場にある舟が。
[二]補助動詞 ラ行変格活用 活用{ら/り/り/る/れ/れ}
〔動詞の連用形に付いて〕…し続ける。…している。出典:伊勢物語 四五 「つれづれとこもりをりけり」 [訳] (喪中のため)しみじみとものさびしく引きこもっていた。をらむ
▶「をらむ」は、「をり」の②番(いる。存在する)の未然形「をら」+未然形接続の推量助動詞「む」
◆私試訳
あなたの顔が忘れられれば。(忘れられないから)どうしようもなく 女々しいかな 恋々としているんだろう
美人だったんでせうね。一目惚れというやつなんでせう。
2)「へ」と「さ」が気になる
この歌の歌意も興味深いのですが、その前に「万葉百科」さんの原文「忘戸」が『訓(よ)み』で「わすれへ」とされながら、『読み下し文』では特段の説明もなく「わするさ」になっているのが何故なのか。気になります。
ネットの読解サイトでも「忘るさ」で話を進めている例が少なくありません(『讃岐屋一蔵の古典翻訳ブログ』さん等)。
《 面形の 忘るさあらば あづきなく 男じものや 恋ひつつ居らむ
顔形を 忘れる時がもしあるなら、情けないことに、男なのに 男らしくもなく、恋していようか。
▷第二句の「忘るさ」の原文は、諸本「忘戸」。「戸」を「さ」の誤字と見る。その「さ」は「行くさ来さ」(二八一・四五一四)に見える。時の意を表す接尾語。 》
▶「戸」が「さ」の誤字だとする見方があるらしいのです。しかも有力説のようです。
一方で「万葉集読解」さんのように「戸」を「と」訓まれている例もあります。
《 2580 面形の 忘ると あらば あづきなく 男じものや 恋ひつつ居らむ
(面形之 忘戸在者 小豆鳴 男士物屋 戀乍将居)
「あづきなく」は「味気なく」という意味だが、ここは「不甲斐なく」という意味。「男じものや」は「男たるものか」という意味。「彼女の面影が忘れられるものなら、不甲斐なく男子たるものがこのようにも恋いつつおらむや」という歌である。 》
▶それぞれの訳に大きな違いはないようなんで、「戸」は「と」訓んでもようさそうな気がするのですが、なぜ「戸」が「さ」の誤字とする説があって、しかも有力な説なのでせうか?
もちろん、ちゃんとした理由や根拠があるのだとうと思うのですが、残念ながらそういう確かな資料とかPDF文書とかに、まだ辿り着けていません。
なので、その点についての、目下の机上空論城城主の推測というか、いつもの妄想です。
3)上代特殊仮名遣
岩波文庫『万葉集』第三巻の[解説3]の「万葉集のことば」のなかに、「上代特殊仮名遣」についての説明があり、その中で「戸」は「ト甲類」の「ト」だという記述があって、それに触発されての推論・妄想です。
《 面形の 忘ると あらば あづきなく 男じものや 恋ひつつ居らむ 》
こう読んだ場合の「忘るとあらば」の「と」は助詞だと思うのですが、助詞の「と」には「跡」(「等」「常」「登」)などの「ト乙類」の「と」が使われ「ト甲類」の字(戸など)は使われないのだそうです。
▶因みに「万葉百科」さんで、助詞の「と」を検索すると膨大な数がヒットするので、例えば「とあら」検索してみたのが以下の状況です。
№0199(万葉歌番号。以下同)「打蝉等安良蘇布(うつせみとあらそふ)」
№0343「跡不有(とあらず)」
№0442「空物跡将有登曽(むなしきものとあらむとそ)」
№0892「志可登阿良農(しかとあらぬ)」
№0948「湯〻敷有跡(ゆゆしくあらむと)」
№1031「好住跡其念(さきくとそおもふ)」
№3086「人跡不在者(ひととあらずは)」
限定的に検索した結果ですが、確かに、「戸」はひとつもありません。
▶念のため漢字の「戸」から検索かけてみます。
検索の趣旨とは直接関係のないものも含め190件ほどヒットするので、若番からいくつか当たる程度にさせて頂きます。
№0001「押奈戸手(おしなべて)」
№0031「将曽跡母戸八(あわむとおもへや)」
№0050「神長柄所念奈戸二(かむながらおもほすなへに)」
№0094「玉匣三室戸山乃(たまくしげみむろとやまの)」⇦
№0126「屋戸不借(やどかさず)」⇦
№0309「石室戸尒(いわやどに)」⇦
№0379「木綿取付而斎戸乎(ゆふとりつけていはひべを)」
№0384「吾屋戸尒(わがやどに)」⇦
№0418「鏡山之石戸立(かがみのやまのいはとたて)」⇦
№2950「吾妹子之夜戸出乃(わぎもこがよとでの)」⇦
少ない用例で恐縮ですが、ざっと見て、音字としての「へ(べ)」よみ(乙類だそうです)が結構多い中、「と」とよむ(⇦を付した)ものは、「門戸」の類の「戸」(「ト甲類」の「と」=名詞)にほぼ限定されているようです。
《 「ト乙類」の「と」は、甲乙類の混同が早く進行した 》というようなことも「岩波文庫」解説に書いてあるので、時代的流動性も含んでいるらしいので、もしかしたらその1例だとすると、「わすると」読みで構わないって話になってしまうかもしれない? のですが、《 「ト乙類」の「ト」の甲乙類混同 》の検証の内訳を知ると、また軽々にものの言えない世界が広がっていそうな気がするので、読書感想文派としては、ひとまず、「戸」を助詞の「と」よみすることはその当時一般的ではなかったらしい、という理解をしておきます。
4)「へ」が退けられるのはなぜ?
空論城城主は、ただの読書感想文家なので、古文文法もよくわかってないんですが、「わすれへ」を品詞解釈してみます。
▶「忘れへ」の「忘る」は、『角川古語辞典』によれば、次のような説明です。
[一]他動詞ラ行四段活用=(ら/り/る/る/れ/れ)
①意図的に忘れる。 思い出さないようにする。思い切る。(用例:万4344)
②(主として「わすらゆ」「わすらる」の形で)失念する。忘れる(用例:拾遺・恋)
[二]自動詞ラ行下二段活用=(れ/れ/る/るる/るれ/れよ)
〇(対象が)自然に記憶から消失する
[三]他動詞ラ行下二段活用=(れ/れ/る/るる/るれ/れよ)
〇記憶を失う。失念する。 (用例:万892、3604)
この説明からすると、「忘れ」は、[一]四段活用の已然形か命令形、[二][三]の未然形か連用形ということになるかと思います。これはいいのですが、
▶「へ」の方ですが、実はこれが厄介です。相当させられそうな辞書的「語」が見当たらないのです。
動詞の未然形に接続して反復や継続を表す助動詞「ふ」(四段型)のというものがあるのですが、残念ながらこの「ふ」は四段型動詞の未然形(「忘ら」の形)にしか接続しないらしいので却下。
ならば、方向を示す格助詞「へ」だと強引に考えてみた場合、「忘れ」を名詞と見て「忘れることへあるとしたら」とでも解釈するような、不自然な言い回しになってしまいます。まあ、そんな言い回しはしなかったでせう。
なので、「わするへ」は、何を言っているのか、言い間違いか、書き写し間違いか、そのままでは語義不明のことば、というような判断になったのかと妄想するわけであります。
そこで、「わするへ」は「わするさ」の誤字、写し間違いというような推定にも立ち至っている、というような推定・妄想でいいのでせうか。
5)「わするさ」の用例も見当たらない
しかしながら「万葉百科」データベースで「わするさ」を検索してみるのですが、1件のヒットもありません。「忘るさ」でこの2580の歌のみがヒットします。それは後代の「わするさ」解釈に立つこれまで述べて来たような一派のせいのものです。
なので、「わするさ」の誤字という有力説も結構危うい気がします。
動詞の終止形について「~の時・~の場合」など表す接尾語「さ」の用例はたくさんあります。
№0281「徃左来左(ゆくさくさ)」 訳:行きにも帰りにも
№1784「往方毛来方(ゆくさもくさも)」 訳:行きも帰りも
№4514「由久左久佐(ゆくさくさ)」 訳:行きも帰りも
№0449「還左尒(かへるさに)」 訳:帰りがけ
№3614「可敝流散尒(かへるさに)」 訳:帰る時に
№3706「可反流左尒(かへるさに)」 訳:帰りに
№3330「投左乃(なぐるさの)」 遠ざかるの枕詞
№2677「還者胡粉歎(かえるさしらに)」 訳:引き返す潮時もわからず
こんなに「時」の「さ」用法が賑やかであるのに、「忘るさ」表現がないということは、覚えていたり、忘れたりしたことを言う時に「忘るさ」というような言い方はしなかったということになるんじゃないでせうか。
もちろん、「岩波文庫」の解説を読めば、『万葉集』の原文は今のところひとつも伝わっておらず、平安時代の写本などが歴史的には古いものなのだそうです。
平安時代以降の先人の営々たる『万葉集』の写本と読解の積み重ねを、今日の我々は「万葉集」として味わっているということです。真偽は深い深い歴史の奥底です。
「蜻蛉日記」でもそういうこと書きましたが、突き詰めていうと結構危ういようなのです。
ま、もちろん、この妄想自体が危ういのではありますが。