老齢雑感

ーあのとき僕はこう思ってたんだー

Wiki との付き合い方 『妹の力』余談

 

 相変わらず『妹の力』読んでます

 相変わらず、ネット検索しつつ

 読んでます。 

 

1)検索していて気になったこと

 

 第3稿「玉依姫考」の第5段  山形県

 の羽黒山の「伊氐波神社」(いではじん

 じゃ)の伝承の創建者・蜂子皇子(はち

 このみこ)について、柳田國男は、次の

 ように、伝承を紹介しています。

 

 『・ ・蜂子は崇峻天皇の皇子にして聖徳

    太子とは従兄弟の間柄であったと

    云ふ。

 

    容貌醜陋なるに由って邊土に棄て

    られたまひしも、

 

    機縁あって此地に佛法を興隆し仙

    道に入って靈山の開祖と仰がれた

    まふこと、・・ 』

 

 蜂子皇子が羽黒山へ来たのは、その容貌

 の醜陋さ(醜さ)ゆえに、父・崇峻から

 疎まれたため、というわけです。 

 

 今からするとひどい話かもしれませんが

 伝承とは、そういうもので、"蛭子(ひ

 るこ)伝説"などと似た系統かもしれな

 いし、「蛭子」と「蜂子」と字が似てい

 るのにも、何か意味がありそうな気もし

 ます。

 

 

2)ネット上の99%は、異なる伝承

 

 しかし、Wiki をはじめとする、ネット上

 のサイトはもちろん、当の関連神社さん

 のHPも、ほぼ、以下の筋の伝承で埋め

 尽くされています。

 

   ●蘇我馬子が、崇峻天皇を暗殺した

    歴史的に有名な事件、

   ●蜂子皇子の従兄弟だった聖徳太子

    は、馬子の魔手が、崇峻の子・蜂

    子皇子に及ぶのを怖れ、蜂子皇子

    を逃がした。

   ●蜂子皇子は、羽黒山に辿りつき、

    苦難ののちに開山した。

   ●蜂子皇子は、人々の災難を一身に

    受け止め、これを能く除いた。

   ●蜂子皇子の異形は、人々の苦しみ

    を受け止めた苦難の深さの表わ

    れ。

 

 いやな表現、怖い話、ひどい話満載の昔

 ばなしが、明るく楽しく塗り替えられる

 というのも、まあ、よくある話かもしれ

 ませんが・・。

 

  

3)柳田國男の勘違いなのか

 

 柳田國男が伝えた筋のサイトが、どこか

 にあるんじゃないかと思って、関連する

 サイトを、しらみ潰しに当って探したの

 ですが、見当たらず、ひょっとして、柳

 田先生の勘違いかなとか、

 

 いやいや、膨大な資料の博覧が真骨頂の

 柳田先生に、そんなことはあり得ない、

 などと、自問自答している時に、

 

 とよだ時(豊田時男)さんの

 『天狗のはなし』というサイトの中の

 ▼山形県の山 ・羽黒山:蜂子皇子

 

 で、やっとみつけました。ありました!

 柳田先生を、一瞬でも疑った自分を大い

 に恥じました。

 

 以下、同サイトから当該部分引用です。

 例のごとく、読みやすさ等のために文を

 短く分けております。 

 

 

4)『天狗のはなし』さんからの引用

 

  『 羽黒の名は、

   三山を開山したといわれる

   蜂子皇子(はちこのみこ)を誘導し

   た3本足のカラスの黒い羽の色

   (羽が黒)に由来しているという。

 

   山頂には

   出羽神社羽黒神社)があり、

   伊氐波(いでは)神をまつっています。

 

   伊氐波(いでは)の神は、

   倉稲魂(うがのみたま)命のことだ

   ともされる穀物の神。

 

   羽黒山はそもそも、

   飛鳥時代第32代崇峻(すしゅん)

   天皇の時代(在位587~592)、

   聖徳太子が甲斐の黒駒に乗って

   仏教繁盛の霊地を求めて

   全国を回っていました。

 

   たまたま出羽国にかかったとき、

   紫雲たなびく山が

   そびえているのを見て、

   「こここそ仏・菩薩の霊地なり」

   と訪ね

   確かめたところ、

   大杉の根本に正観音の霊像が

   おわすのを見出しました。

 

   一方、そのころ

   崇峻(すしゅん)天皇

   第3皇子に

   参弗梨(さんふつり・参払理とも)

   の大臣という皇子がいました。

 

    「この人は御顔醜く、

     眦(まなじり)長く

     髪の中に入り、

     口は脇深く耳の根をとおり、

     鼻は下がること一寸、

     面の長さ一尺もの

     異相の持ち主で、

 

     このためか春日(とうぐう)

     にも立たなかった…」

    (「出羽国羽黒山建立の次第」)

  

   という。

 

   その

     「余りにも暴荒なる相なるに

      よって、

      北海の浜辺に捨てられた」と

  

   書く本もあります。

 

   捨てられた太子は仏門に入り、

   聖徳太子を師として修行に励み、

   法名を弘海(こうかい)と

   いっていました。

 

   やがて聖徳太子の教えに従い

   観音さまがあらわれた

   霊地に向ったのでした。

 

   そして三本足のカラスの導きで、

   羽黒山の阿久谷というところに入り

   そこで聖観音の霊像を

   感得したとされています。

 

   阿久谷で修行した皇子は

   国司の腰痛を治したり、

   村人のさまざまな苦しみを

   取り除きました。

 

   人々は喜び

   皇子を能除(のうじょ)太子

   (または能除仙)と呼んで

   感謝したという。

 

   そのころ、

   毎夜のように光る不思議な流木が

   酒田の港に浮いていたという。

 

   能除太子はその流木で、

   妙見大菩薩軍荼利明王

   仏像を彫って、

   聖観音像とあわせて

   羽黒三所権現として

   お寺にまつりました。

 

   それから能除太子は

   月山を開き、

   また湯殿山を開いたと伝えます

   (ただ、真言宗系の湯殿山

   4ヶ寺では、能除太子ではなく

   弘法大師が開山したとしている

   という)。・・・』

  

 

5)伝承の典拠

 

 ここで指摘している伝承の筋が、

 「出羽国羽黒山建立の次第」という資料

 に拠っていることが、文中に示されてい

 ます。

 

 そのほか、多くの資料を、『天狗のはな

 し』さんは、考文献として揚げておられ

 ます。(下の方に記載させて頂きました)

  

 Wikipedia民俗学的な項目では、いろ

 んな異説を多く併記しているものも少な

 くありません。

 

 『蜂子皇子』でも、ぜひ、「異説」の追

 記をお願いしたいです。

 

 

6)どっちが正しいとかではありません

 

 ほっこりは、

 羽黒山の伊氐波神社の創建伝承として

 どっちが正しいとか、言いたいわけで

 はありません。それは、ご理解頂ける

 かと思いますが。

 

 蜂子皇子の伝承には、太古の地場信仰、

 山岳信仰修験道、仏教・神道界、時々

 の行政等の時代変遷の影響等々、さまざ

 まな要素が、重層的に絡まり合う複雑な

 構造をなしているようです。

 

 どれか一つが正し話、というようなこと

 では、ないわけです。

    

 一方で、ネット上での Wikipedia の影響

 力、半端ないわけです。

 

 実際、今回の検索で、多くのサイトが

 Wiki を下敷きにしている、あるいは、

 そのまんま引用しているなと思われるの

 がほとんどでしたし・・・。

 

 『蜂子皇子』伝承の異説を、ぜひ、記し

 て頂き、民俗学的項目の、民俗学的多様

 性を担保しておいて頂きたいなと思う次

 第です。

 

 

 『天狗のはなし』さんの 

 ▼【参考文献】

・『角川日本地名大辞典6・山形県

  誉田慶恩ほか編(角川書店

  1981年(昭和56)

・『古代山岳信仰遺跡の研究』

  大和久震平(しんぺい)著

  (名著出版)1990年(平成2)

・『山岳宗教史研究叢書5・出羽三山

  東北修験の研究』

  戸川安章編(名著出版

  1975年(昭和50)

・『山岳宗教史研究叢書16』「修験道

  の伝承文化」五記重編

  (名著出版)1981年(昭和56)

・『修験道の本』

  (学研)1993年(平成5)

・『修験の山々』柞(たら)

  木田龍善(法蔵館)1980年

  (昭和55)

・『図聚天狗列伝・東日本』

  知切光歳著(三樹書房

  1977年(昭和52)

・『仙人の研究』

  知切光歳著(大陸書房

  1989年(昭和64・平成1)

・『天狗の研究』

  知切光歳(大陸書房

  1975年(昭和50)

・『東北の山岳信仰

  岩崎敏夫(岩崎美術社)

  1996年(平成8)

・『日本山名事典』

  徳久球雄ほか(三省堂

  2004年(平成16)

・『名山の日本史』

  高橋千劔破(ちはや)

  (河出書房新社)2004年(平成16)

 

 

 ・・・・・・PS・・・・・・・

 

 全く別件ですが、

 

 同じ 第3稿「玉依姫考」の第4段内

 熊本県の「玉名大明神」に触れた辺り

 

   俗俚の説で、玉名はもともと

   "土車の里"と言っていたのが、

   玉名姫の住所として、

   玉名郡に改められた、

 

 というように柳田國男は書いている

 のですが、

 

 この"土車の里"というのが、また、

 なかなか、ヒットしません。

 

 能で「土車」という、最近はほとんど

 演じられなくなった演目があるみたい

 ですが、内容的には、ぜ~ん然、関係

 なさそうです。

 

 「時間解決のトレー」入れ案件です。

 

 

・・・・20221030 追記・・・・

 

 玉名市のHPを見てたら

 大宰府から玉名の港、石津までの官道が

 「車路」と呼ばれていたとありました。

 

 何か手繰り寄せられるかと

 手繰ってみたのですが、

 だめでした。

 

 いましばらくトレー置きです。

 

 

・・・20230408 追記・・・

 わかりました。

 

 肥後國誌 玉名郡 

 の中の記載でした。

 

 ざっくり

 

 「この郡(こおり)は、

  三郷六庄あって、

  六庄の中に玉名の庄が

  あったので玉名郡

  なったか。

 

  里俗説では、

  嵯峨帝の御宇に玉世姫が、

  ゆえあって当國へ下向の時

  この郡を化粧田として賜ら

  れた。

  それまでは土車の庄と

  言っていたのだが、

  玉世姫が住まわれて

  玉名郡に改められた。

 

  玉世姫はその後

  菊池郡に移住された。

 

  また別の里俗説では

  玉杵名郡たまきなのこおり

  と言った。<日本書紀

  玉杵名とある>」

 

    云々

 

 最近、システム改変盛んな

 国文学資料館さんの

 「古事類苑データベース」で

 「土車」で検索したら

 ありました。